シュウ ウエムラのメイクレッスンに行ってきた

行ってきたぜ、シュウウエムラのトウキョウ メイクアップ ボックス…!

トウキョウ メイクアップ ボックスというのは、シュウ ウエムラ初のグローバル フラッグシップ ビューティブティックだそうです。分かるようで分からない。おしゃれタウン表参道と原宿の間にあるお店で、店内にはメイクレッスン以外で来たタッチアップ目的のお客様がたくさんいました。

 

私は今回「3D スタイリング アトリエ レッスン 3Dアイ&ブロー」というコースを受けてきました。

 

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この資生堂の記事から4年経ち、20代後半になってきたところでそろそろ20代後半らしいメイクの仕方とか、マンネリしてきたメイクの仕方を変えたい、最近の流行はどういうものなのかを知りたいという気持ちで予約をしました。

 

 

なぜシュウ ウエムラのメイクレッスンを選んだのか

現在コロナ禍のため、店舗でのタッチアップでさえ結構制限されている印象です。

コロナ前は顔に直接ファンデーションやアイシャドウやリップなどをタッチアップしていただいていましたが、現状マスクを外せない状況のため、手のひらでのタッチアップになったり、マスクはつけたまま おでこにのみファンデーションを塗っていただくこともありました。

 

タッチアップをしていただけるだけでありがたいです。コロナが始まって何が何やら分からないときや緊急事態制限下は、タッチアップそのものができなかったように記憶しています。今はそれが少しずつ緩和されて、BAさんも感染する可能性がある中で怖いだろうに丁寧に対応していただけて本当に感謝しています。もっとBAさんに給与を支払ってくれ、そういう思いでいます。

 

というわけで、今回のメイクレッスンは、感染対策に配慮した上で、先生に教わるだけではなくちゃんと自分の手を動かしてメイクの練習をしたい、という思いで色々探していました。

 

選択肢としては、以下の4つがありました

  • 資生堂(4年前に行ったことがある)
  • M·A·C(M·A·Cの化粧品を使ったことがない)
  • シュウウエムラ(クレンジングやアイブロウペンシル等を使っている)
  • アンプリチュード(私が予約を試みていた当時はコロナ禍のため休止中)

 

必然的にシュウを選ぶことになりました。

 

サービス内容

シュウのメイクレッスンは様々な種類があります。

まず、以下の二つに分かれます

  • シュウ トウキョウ メイクアップ ボックスで行われる「レッスン形式」のサービス
  • その他店舗で行われる「アドバイス形式」のサービス

 

現在提供されているサービスは以下の通りです。

  • 「レッスン形式」のサービス@シュウ トウキョウ メイクアップ ボックス
    • ポイント メイクアップ レッスン アイ
    • ポイント メイクアップ レッスン ブロー
    • ピグメントアトリエ
    • 3D スタイリング アトリエ レッスン 3Dアイ&ブロー
    • 3D スタイリング アトリエ レッスン 3D フェイス
    • ポイント メイクアップ レッスン フェイス
    • メンズ グルーミング レッスン
  • 「アドバイス形式」のサービス@その他店舗
    • 3D スタイリング アトリエ レッスン 3Dアイ&ブロー
    • 3D スタイリング アトリエ レッスン 3D フェイス

 

両者に「3D スタイリング アトリエ レッスン」というものがありますが、内容や時間、費用は異なります。シュウ トウキョウ メイクアップ ボックスで実施される「レッスン形式」のサービスは教えてくれる先生も受講者もどちらも手を動かす実地の訓練で、「アドバイス形式」のサービスはあくまでアドバイスに留まるという認識です。

 

レッスンの際には教材をいくつかいただくことができます(教材費込みでの価格設定になっている)。詳細は公式サイトを見てください

 

店舗限定サービス|シュウ ウエムラ公式オンラインショップ

 

予約方法

シュウ トウキョウ メイクアップ ボックスで行われる「レッスン形式」のサービスは、 オンライン予約システムでの予約、その他店舗で行われる「アドバイス形式」のサービスは、店頭・電話・公式ウェブアプリでの予約となります。

 

私は今回シュウ トウキョウ メイクアップ ボックスでの「3D スタイリング アトリエ レッスン 3Dアイ&ブロー」コースを予約したので、オンライン予約システムで予約をしました。

 

予約難易度は易しいほうだと思います。

予約は、30 日先まで予約が可能です。多分0時から販売スタートしていると思います。自分が行きたい候補日をまずは決めて、その30日前の0時にスタンバイしてアクセスすれば余裕で予約はできると思います。サイトにアクセスが集中しすぎてエラーになったりとか、ディズニーランドのサイトのように何人待ちですみたいな表示が出ることはありません。

 

資生堂の予約のほうがよっぽど難しかった記憶があります。あれはもう販売スタートと同時にアクセスをしても厳しい、それだけライバルがいるということです。難しいですね。シュウのメイクレッスンにも当然ライバルがいます。開催回数もそんなにたくさんあるわけじゃないと思います。とにかくいつ行きたいのか、日にちを決めてそこから逆算して予約を取りましょう。

 

今回の目的

  • 20代後半らしい大人っぽいメイクの仕方を知りたい
  • マンネリしてきたメイクを変えるためのヒントがほしい
  • メイクの仕方がワンパターンなので服に合わせたメイクなどバリエーションがほしい
  • 今まで使ったことがない色を使ってみたい
  • 最近の流行を知りたい
  • 誰かに何かを教えてもらいたい(教えてもらうのが好きなので)
  • 実際に自分の手を動かしてメイクの仕方を習得したい

「3D スタイリング アトリエ レッスン 3Dアイ&ブロー」の内容

概要

  • 概要(公式サイトより): アイエリアのメイクアップにフォーカスした特別なレッスン。 理想のアイメイクだけでなく、骨格やフェイスバランスなど個性美をベースに左右バランスなどのお悩みにもお応えします。 自信を持って自由に自己表現​するためのあなただけのメソッドを手に入れるお手伝いをいたします。 レッスンに使用した教材(商品)はお持ち帰りいただけます。
  • 教材:
    • ブロー スウォードナギナタ(ブラシ、シャープナー付眉ペンシル)
    • プレスド アイシャドー(レフィル)
    • カスタムケース II
  • 場所: シュウ トウキョウ メイクアップ ボックス
  • 時間: 60分
  • 価格: 9,240円

 

資生堂は90分 1万5000円だったので、時間が60分と短い代わりに価格も1万円を切っていました。60分、結構短くて、あっという間に終わってしまいました。

 

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↑シュウ トウキョウ メイクアップ ボックス。表参道と原宿の間にある、小道一本入ったところにある場所。その名の通り、メイクアップ ボックスの外観をしている。

 

シュウ ウエムラの考え方について教わる

簡単にレッスンの流れを説明していただいたあと、アイメイクをクレンジングで落としていただきながら、今のアイメイクを先生に把握してもらったり、今回の目的や要望をヒアリングしていただきました。

 

そのあと、メイクは、「濃淡」「色」「形」の3つがポイントになるから、これをシュウは大事にしていますと教わりました。なりたい雰囲気からこの3つのポイントを調整していくらしい。

 

今回私は大人っぽくなりたい、今まで使ったことがない色を使ってみたいという要望をお伝えしていたので、今のアイメイクの濃さは維持したままで、グレーのアイシャドウを使ってみましょう、今はラメを使っているのでマットなアイシャドウを試してみましょう、今は目の周りに丸くやわらかく塗っているようなので、その形を変えることによって大人っぽく見えますよ、ということを教えていただきました。

 

現状を把握し、現状をどういう風に変えるか、それにより なりたい雰囲気を目指すといった理論的な話し方をしてくださって、すごく分かりやすかったです。全部理論で教えてほしい、私は雰囲気では何も理解できないタイプなので……。

 

顔の半分をメイクしてもらう/残りの半分を自分でメイクする

早速メイクをしていただきながら、色々教わります。

 

アイライン(の下書き)

私はタレ目で、いつも地面と平行になるような感じで目尻からまっすぐアイラインを描いていたのですが、これを跳ね上げることでキリッとした印象にします。

この跳ね上げた線からはみ出さないようにアイシャドウを塗っていきます。

また、普段はリキッドのアイライナーを使っているのですが、今回はペンシルアイライナ―を使いました。ペンシルでも意外と滲まずに細い線が描ける…!

アイライナー、これまでリキッドで目尻を起点として伸ばすように塗っていたけどペンシルだと塗りづらい瞬間があり、そういうときは、伸ばした先から目尻に向かっておろしていくように塗ると良いですよと教えてもらった。なるほどね…シンプルだけどスゴイ…

 

アイシャドウ

ローズコッパー、グレーのラメ、茶色みのあるマットな赤、下瞼用のサンドグローのラメの4色使いました。

まずローズコッパーを上瞼全体に塗る、このときに目頭側は丸みを意識して塗るよう言われました。どうしても骨があって凹みやすい、凹んだ印象になりやすいから、意識的に丸く塗る。これにより強くなりすぎない優しい印象が出るんだと思う。また、塗る面積が広いので、筆先だけではなく筆の腹を使って筆全体で塗るように言われました。

次にグレーのラメ、これは二重幅に塗る。これは筆先を使って塗る。

マットな赤は、目尻のアイライナーからはみ出ないように三角になるように塗る、これが難しい。

下瞼にはマットな赤を四角い平筆で細く入れる、下瞼全体に入れるとかわいい印象になってしまうとのこと。下瞼の目頭周辺にはちゅんちゅんとサンドグローのラメをくの字に入れる。

 

今までアイシャドウはアイホールと二重幅を目印に塗っていて、なんというか、ボーダーのように色を分けて塗っていたんだけれど、今回マットな赤を目の外側に入れることによってストライプ型に分ける感じになって印象がだいぶ変わった。

 

以前資生堂のレッスンを受けたときに、私の目は離れているから目頭に切開ラインを入れたりして目のバランスを整えるよう言われ意識していたんだけど、今回目の外側に差し色を入れてたので、「目が離れてるように見えないかな!?」と心配になったけど大丈夫だった。切開ラインも今回は入れなかった。多分、目頭にサンドグローの白っぽいラメを入れたからそこで目が離れているように見えないようなバランスを取っているんだと思う。あと私は一生苦手なこと、とにかく「ぼかす」。ぼかすって何ですか?といつも思う、色をブレンドしてとにかく馴染ませる。テクニックがすごい

 

アイライン

アイシャドウを塗ったあとに改めてアイライナーを塗りました

 

マスカラ

普段マスカラはしません、なぜかというとビューラーで上げた睫毛がすぐに落ちてくるからです。超レアケースでやるときは、コテで温めたビューラーで睫毛をあげる、マスカラ下地を塗る、マスカラを塗る、デジャヴュの下睫毛用の細いマスカラを塗るという工程。直近でマスカラを塗ったのは9月末においしいフレンチを食べに行ったとき、それが最後。マジで睫毛が維持されない。先生に「睫毛ががんこちゃんですね」と言われてウケた。睫毛パーマをおすすめしてもらいました。今度行く。

 

今回は軽くビューラーをしてマスカラを塗っていただきました。人にビューラーしてもらうのが好き…。伏目にして、人が私の睫毛をあげるために手首を使ってくれている、と分かるのが、好き…。

 

アイブロウ

普段私はアイブロウペンシルで全体を塗り、眉頭をブラシでぼかし、細いセザンヌのアイブロウペンシルで眉の内側の縁を取り、眉尻を描き、眉頭も一本ずつ描き、ザ・セムのコンシーラーで眉周りを綿棒で塗り眉毛の印象を作り、眉マスカラで色をつけるという工程を取っていました。アイブロウのメイクが私は一番大事で、一番時間をかけています。

 

今回は、パウダーで全体を塗り、アイブロウペンシルで一本ずつ描き、赤みのある眉マスカラを塗るという工程を取りました。

 

「眉毛は団体なので、一本ずつ描きます」

 

これね~分かる!分かってはいるけどついバーッと全体にまとめて描いてしまうときもある。眉毛は団体、言葉として分かりやすすぎる。個人が集まっての団体という意味。分かる。眉毛の上の部分であれば上から下に下げていく、目頭の部分であれば下から上に上げていく、眉毛が生えている方向に沿って一本ずつ描く。分かる。

パウダーだけだと印象がぼんやりするからペンシルで一本ずつ描いてピシッとした印象にする。

 

また、私は左のほうが眉山が高いので、右に合わせて、左は地眉の高さをあげすぎないことが大事。左右の高さを合わせる。

眉毛に沿って描くとすぐ眉尻が下りてしまう(眉毛の長さが短くなってしまう)ので、そうではなく、細く長い眉になるよう、眉毛を超えて伸ばして描く、眉尻の中央から伸ばして降りる、全然言葉じゃ伝わらないんだけどとにかくそういうことです。(?)

 

最近はまた細みの眉が流行になってきているらしい。知らなかった。平行太眉の流行りは終わったのか…?

 

写真を撮ってくれる

資生堂のときは、顔が描かれたイラストに、ここはこう塗るんですよ~みたいなコメントを書いてもらったんだけど、今回そういったアドバイスシートのような紙のお渡しというのはなくて、代わりに写真を色んな角度から撮ってもらった。参考になる。

感想

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↑教材に加えてアイシャドウ一色をお買い上げ。かわいすぎる。

無料刻印サービスで椿の柄を刻印していただいた。かわいーーーーー!

 

やっぱり資生堂のときも思ったけれど、目標設定が大事だと改めて思った。

現状となりたい姿のFIT&GAPを考えて溝を埋めていく。

 

あとメイク用の筆は色々持っておいたほうがいいなと思った。今は韓国で買ったアンシブラシを数本使い分けているだけなので、もう少しバリエーションがあったら、塗り方を楽しめそう。四角い平筆が下瞼に使いやすくてよかった。

 

先生のメイクがうますぎていちいち感動してしまった。感動して「え!?うますぎる…!!!」と声に出てしまう。特に眉毛が、もう、憧れの美眉になって、私の眉でも実現可能なんですね…と嬉しかった。

 

また、実際に自分の手を動かしてその場でコメントをもらえるのが嬉しい。自分の癖が分かるし、どういうふうに直せばいいかも具体的に分かる。今回の目的も果たせた。しいて言うなら60分ではなく90分くらい時間があるともっと色々聞けただろうなと思う。

 

こういう、誰かに何かを教えてもらうというのはケアの一つになると思う。お金を払って人に大事に扱ってもらう、私のために時間を使ってもらうというのがすごく大事で、自己肯定感を取り戻せる。最高。またコロナが落ち着いたら、ベースメイクなどの顔全体のメイクレッスンにも行ってみたい。

 

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軸と真似のはなし

 

かろうじて繋ぎとめてもらっている感じがする。

いっそひと思いに死んでしまいたいと思うときもあるけど、これまで私によくしてくれた友人たちやバレエの先生、同僚、そしてパートナーが泣くであろうことを、おこがましくも思う瞬間に、シミのような涙がじわっとにじみ出てきて、思いとどまっている。正直なところ、やり方が分かれば、いけるとおもう。やり方が分かっていないから、行動に移せないだけであって、なんというか、大好きだった俳優さんに、あなたはどのようにして死ねたんですか?と手順を教えてもらいたいと思うときがある。

 

いつかラジオでジェーン・スーさんが『「死にたい」じゃなくて「生きるのを一旦お休みしたい」ときってあるよね』という話をしていたことがあり分かる~~~と共感100%になったことがある。

 

そもそも死んだことがないので死にたいという欲望ってなんなんだ?ご飯を食べた経験があるからこそ食べたいと思うし、あたたかい湯舟につかる気持ちよさを知っているからお風呂に入りたいと思う、清潔な布団につつまれて眠るすこやかさを知っているから眠りたいと思う、そういう経験ありきの欲望なのであって、経験したことがないくせに死にたいと口にして、それで何をごまかしているんだろう、何をショートカットしてるんだろう、何から目を背けているんだろう、その言葉の裏に隠された自分でさえ気づかない感情ってなんなんだろうと考えている。

 

楽になりたい、早く、もうどうでもいいよ、という気持ちが最近増えてきている、特にパートナーとの関わりにおいて顕著で、なんか、もう結婚して2年でこの進捗の無さならもう期待することを諦めよう、という気持ちにシフトしている。

 

今まで、パートナーがどんなに私を傷つけるような言動や行動をしてきても、それでも言葉を尽くしてきたつもりだった。それは、友人でも同僚でもなく紛れもなくパートナー あなただからこそ分かってほしいことがあって、知ってほしいことがあったから、だから必死に伝えてきたつもりだった。だけどもうそれがいよいよ涸れてきた感じがある。涸れて、乾燥して、なんかカピカピになっている……。

 

これまで自分の不幸を燃料に駆動してきていたけれど、あるとき、私って普通に自力で幸せを掴めるな……みたいな実感があって、そして別に一人でも全然生きていけるな……みたいな自信もついてきて、なぜそこまで他人に労力をかけなければいけないんだっけ?ということを改めて考えてしまうと、口を閉ざし目をそらし、もうこのひとに時間を割くのは無駄だな、やめよう、という感じになってくる。

 

私がカウンセリングに行き始めるとパートナーもカウンセリングに行き始める。心療内科もコロナのワクチンも私の真似をするようにパートナーが行動を始める。その、私に依存されている感じが結構負担になっている。今更遅いんだよ。

そして、おまえの行動は私の真似をしているだけであって、肝心なおまえの軸の部分には全く届いていない。付け焼刃で行動をしたところで、おまえの軸におまえなりの信念や感情が絡みついて両掌で離すまいと爪を立てて掴んでる感じなんて全然ないから、そんなの小さな揺れで簡単につり革から手を離してしまうのと同じで、全然意味ないんだよ、と思うときがある。私がいつどこでどういう思いでなぜカウンセリングに行こうと思ったのか、そういう文脈が生きていく中での選択すべてにあるはずなのに、誰かの行動や選択にフリーライドしたところで感情が震えるのはどうせ上澄みだけ、クソが。そういう思いで生きています。

 

何の話?

 

私が高校生のとき、センスの良いすてきなサブカル趣味を持つクラスメイトに憧れて、私もその人の真似してセンスの良いすてきなサブカル趣味を持とうと頑張ったことがあるんだけど、当然クラスメイトと私は他人だから良さなんて全然分かんなかったし、分からないからこそ余計にクラスメイトに憧れと嫉妬と憎悪みたいなものがどんどん積み重なっていって、今思えば精神的に不健康だったな~という経験がある。

同じように私も他人から勝手に憧れだかなんだか何らかの感情を持たれて真似されたり依存されたり期待されることがたびたびあり、そういう人はあるとき突然嫌いになったと勝手に離れていく。竜巻みたいな、こう、バーッと色んなものをかき乱したわりに後片付けもせずに去っていく、は???いったい何に付き合わされたんだ私は?と思う。

 

そういうことが今後もたびたび起きるんだろうか。よくわからない…よくわからないブログだしなんなんだこれは……。おわり。

 

心にうつりゆくよしなしごと

 

ディズニーランドに行けたのはよかった。

10月に行く予定だったのに夫婦喧嘩が勃発して泣く泣く延期していたので、とにかく無事行けたのはよかった。楽しかった。「はじめてのデートのつもりで行くのはどうかな?」とパートナーに誘われて私がまんまと落ちてしまった。

でも、我慢することや気になることがなかったわけじゃない。夫婦喧嘩で傷つけられた言葉の数々も、無かったことにはならない。

ディズニーランドに行けて楽しかったけれど、現状は何も改善していない。

 

気になったこと。

例えば、パートナーは喫煙者なので、度々喫煙所に行く。ディズニーランドの喫煙所は3か所しかないので、わざわざ喫煙所の近くに私も向かう。パートナーは5回くらい喫煙所に行った。ディズニーランドは、喫煙所に入るにも並んで待たなければいけない。大変な場所である。当然時間もかかる。別に、煙草を吸うな!なんて思ってない。でも、パートナーに合わせて喫煙所の近くまでわざわざ向かったり、一人で待っている時間が、無駄だなあと思う。チュロスの一本でも奢ってくれてもいいんじゃないか?とは思ったが特に何も言わなかった。

 

以前、南紀白浜アドベンチャーワールドという、パンダが大量にいる広大な動物園兼遊園地に行ったときも同じようなことを思った。アドベンチャーワールド内には喫煙所がなく、入り口を出て喫煙所まで行き、再入場する必要があった。広大な土地にもかかわらず、何回か入り口まで戻ってパートナーが煙草から帰ってくるのを待つ。この時間、一体なんなの?と思った。

 

喫煙者を待つ側の人たちはどうしているんだろう。

アドベンチャーワールドのときは、待っている間にひとりレッサーパンダを見ていた。かわいかった。

 

↓そのときに撮った写真です。

 

しかしディズニーランドはどのアトラクションも並ぶ必要があるし、パートナーが煙草から帰ってくる時間を有効活用するというのが結構難しかった。派手に転んで泣く子どもとか、ベビーカー争いで姉妹喧嘩をする子どもとか、ご飯を食べずにギャン泣きしている結構大きめの子どもとぶちギレる母親とかを見ていた。なんなんだこの時間は?

 

まあいい、ディズニー自体は行けてよかった。楽しかった。

しかし帰ってきてから思い出すのは先日の喧嘩のことで、やっぱり無かったことにはなっていないし、私の傷も十分には癒えていなかった。

にも拘わらず、パートナーは「来年はシーに行こうね」とか、「紅葉を見にドライブに行こう」とか「年末年始は新潟においしいご飯を食べに行こう」とか言う。

現状は何も改善されていないのに、これまでのことには向き合わずに、楽しいことにばかり目を向けている。それはそれでいい。でも、私はまだ傷が痛くてたまらないし、今回一度延期したディズニーをよくもまあ「来年も行こう」だなんて簡単に言えるよな。私はまだ傷が痛くてそれどころではなく、今はそこまで紅葉を見にいきたいわけでも、新潟に行きたいわけでもないのにな。

置いてきぼりにされている感じがする。

私の意思は?私の意思や気持ちはどこへ行くのだろうか?と思う。

 

 

ディズニーランドでスーベニアメダルを買った。2006年からチマチマ集めているもので、すごい好きというわけでも行ったら毎回買うわけでもないんだけど、なんとなく気になるものがあったときに買っている。今回買ったものをコレクションブックに入れてパートナーに見せたら「こんなに集めてたんだね、知らなかった~!」と言われて嬉しい気持ちになった。まだパートナーが知らない私の一面があること、また、それを知ってもらえたのが嬉しい気持ちだった。続けて、「今度一緒に行ったらおれの分と合わせて二枚買おう」と言われた。ん?と思ったが、そのときはそのままスルーした。

 

自分の中の引っかかるものがあったのに目を背けてしたツイートがこちら↓

 

 

で、今日になって、「私の""好き""にフリーライドされている感じがしてイヤだ」という自分の気持ちに気づいた。私が昔から大事に積み上げてきたものを、一瞬にして奪われたり浚っていかれる感じがしてイヤだった。そんな簡単に私の好きを奪わないでほしい、私が感じている良さも大事さもこの短時間じゃ分からないくせに、なんなんだよと思った。それがモヤモヤの始まりだった。

 

なんとなく元気が出ないな、なんとなくつらいなと思っていて、何が原因だろう?と考えていた。以下いろいろ。

  • パートナーが「諸刃の剣」を「もろはのけん」と言っていたのが気になった。そういう読み方があるのかも、と後で調べたらそういう読み方はなかった。「間違ってるな~」と脳のメモリを食うことも、指摘をする負荷も、指摘したら指摘したで気を悪くして「そんな些細なことで!?」といつものように言われるかもしれないとつらく思うことも、全部イヤだ。
  • キンプリの3人が脱退するという話をしたときに、「ジャニーズって他のアイドルみたいにメンバーを補充したりしないよね」という話をする中で、「ももクロ有安杏果さんは二期生だ、だからいじめられてたんだ」という話をされたことも気になっていた。もしかしたら私が知らないだけで二期生だったのかもしれない、と思って調べたら有安杏果さんは最初からメンバーだったし、早見あかりさんが抜けるタイミングでZになっただけだった。
  • 上記二点の間違いをパートナー自身が気づかないこと。自分が間違っているかも?と自ら調べて訂正するようなことはしないこと。私が調べて指摘するのがしんどい(指摘しなきゃいいだけ、だけど気になってしまう、スルーすればいい、それはそう……正しさで殴ればいいってもんじゃない、分かっているけどできない……これは私自身の問題……)
  • モスバーガーのきれいな食い方スレが私は大好きで、パートナーに紹介したところ、パートナーは「読んでみるね」と言ったけれど多分読んでくれないだろうなと思ったこと。以前ハマっていたNetflixの『ウ・ヨンウ弁護士は天才肌』も紹介して「今日見ようかな~」とパートナーは言ったくせに見てくれなかったし、期待を持たせるようなことを言いながら行動に移さないだろうなと思ったこと。好きなものを知ってくれないのがそもそも悲しいんだけど、「見ようかな」「読んでみるね」と期待させたくせに行動しないということでさらにつらくなる、というのがたびたびある。
  • 駅のホームで電車を待つ間、人が多くて日差しが眩しいところがイヤだったので、パートナーにその旨を伝えて移動した。が、移動した先も日差しが強く眩しいところだったので「眩しい」と言った。しかし二人で椅子に座っていたのでさらなる移動は叶わなかった。パートナーは帽子をかぶっているからいいだろうけど、私は眩しくてムリなのよ……
  • 「はじめてのデートのつもりで」というのはディズニーだけの話で、これからはまたこれまでと同じようなことが繰り返されるんだろうなということ。謝罪も寄り添いも改善も何も求めてはいけない、何も変わらないと諦めなくてはいけないであろうこと
  • 仕事や習い事など人と関わる中で気になったことやおもしろかった話など雑談としてパートナーに共有しても、その場では聞いてくれたとしても、喧嘩のときには「なぜそこまで人に執着するのか分からない、なぜそこまで人が気になるのか分からない」と言われたり、私が嵐や松たか子のことが好きなのを知っていながら大野智のことを「大麻くん」と言ったり、「松たか子が歌下手なのはもとから」と言ったりするから、私の大事なものや好きなものの話は極力しないように気を付けている。傷つけられたくないから。だから傷つけられてもいいどうでもいい話題を話すんだけど、そんな傷つけられてもいいどうでもいい話題ってなかなか無いなあということ。話すことがない。
  • 私がバレエに行くときは、パートナーは温泉施設に行っていて、一緒に帰るときがたびたびある。いつも私のほうからパートナーが電車の何号車に乗っているのか探したり声をかけているが、今日はこんな状況でつらい気持ちであるというのをパートナーも知っていたはずなのに、パートナーはホームで待つ私をついぞ探しにきてくれなかった。
    ホームの椅子に座り、一歩も動かないまま「駅のホームにいるね」と連絡をしてきた。私の認知は「駅のホームにいるね(だからおまえがおれのところに来い)」だった。私は一緒に帰れたらラッキーくらいにしか思っていない一方で、パートナーは「一緒に帰りたい」と思っているらしい。そのくせに自分からは行動しない。そういうところが気になる。つらい状況においても、パートナーから私に駆け寄ってくれることはなく、私からパートナーを探し出さなければいけない。
    この、探しにきてくれないという悲しみを言葉にしたところで、今度からパートナーの行動は「私を悲しませないよう、怒らせないように、探しにいく」というふうに変容するだけで、パートナーの意思として、早く会いたい、早く見つけたい、なんて一ミリも思ってないことがさらに悲しいのである。

 

好きなものを知ってほしいと思うけれど、たびたび傷つけられてきた。傷つけられるくらいなら、いっそ興味など持たないで、近寄らないでくれと思う。「見ようかな」とか「読んでみようかな」とか期待を持たせないでくれと思う。私が好きなものを一緒に好きになってほしいだなんて思ってない、興味を持ってほしいだなんて思ってない。ただ知ってくれているだけでいい。私の好きという思いを尊重してくれればそれでいい。傷つけられたくない。私の性格や行動に対してひどい言葉をかけてくるのはまだ我慢できるけれど(それでもつらいけど)、私の自殺を救ってくれたアイドルのことや、その他の好きなもの大事なものを傷つけられるのがたまらなくイヤだ。

 

あと、私はパートナーの添え物だと、たびたび感じている。添え物、付き添い、オプションみたいな気持ちになる。たとえば、パートナーが旅行の計画や予約を全部してくれるから、パートナーの旅行に私がついでについていっている感じがすること。パートナーが湯舟を張ってお風呂に入るから、私もついでに入ること。私が結んだゴミ袋をパートナーが全部持ってゴミ捨てに行ってしまうから、私も手ぶらでついていくこと。パートナーが電車に乗って帰るから、私もその時間に合わせてパートナーを探し出してついでに一緒に帰るように感じること。

「旅行の予約は私だってできるのに!」「ゴミ捨ても私ひとりでもできるのに!」そうやって主張してきたけど、なんでも全部パートナーが主体で、私が添え物みたいな感じがしてイヤだったんだと気づいた。

だから、私がチマチマ集めているディズニーのスーベニアメダルを「今度一緒に行ったらおれの分と合わせて二枚買おう」と言われたとき、私が大事に積み上げてきたものを横取りされて、一瞬にしてパートナーが主体になるような感じがして、脅かされた気がしてイヤだった。

 

 

私を戦力外として扱わないでほしい。頼ってほしいし任せてほしい。私にもやらせてほしい。いないものとして扱わないでほしい。一声かけてほしい。

 

 

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えーーん いろいろつらいよーー

 

パートナーに送ったLINEメッセージ

改善策について、同じ話になりますが、話をさせてください。返信は不要です。

 

まず、今できないことを将来できるようにするには大変な努力と時間がかかります。
できるようにしようと努力するのは素晴らしいことです。
でも、今できる範囲内で工夫してやっていくほうが、時間もかからずに済むし、精神的にも楽なはずです。

 

そういう意味で、お互いが無理のない、楽なやり方でやっていこう。できないものはできないという前提で、うまくやっていこう。そういう話をずっとしてきました。7/25にもLINEでそういう話をしました。

 

「楽な方法なんかないと思う!」と昨日言われましたが、あなたが懸命に努力して長い道のりを歩んでいる間、私は何度でも傷つけられても仕方がないのでしょうか?あなたが努力しようがしまいがそれとは関係なく、私は傷つけられたくないです。

 

今できないことを将来できるようにするという最終的なゴールがあってもいいと思います。
でも、そのゴールにたどり着くまでに、何度も何度も何度も何度も同じことを繰り返さないように、今できる範囲でできることがないのか、考えてほしかったです。

 

たとえば、私は、イヤなときに反射的に「今のイヤだった」と言うのが苦手です。でも、LINEや文章で後から伝えることはできます。
将来的に、反射的に言葉で伝えられるようになったらいいなと思います。ディズニーに着ていくお気に入りの服の返品の話をされたときは「今の言い方イヤだった」と頑張って言えました。でも、一回言えたからといってこれからいつでも反射的に言えるわけじゃありません。だから暫定対処策はLINEやノートで文章で伝えることです(最近ずっとノートがリビングに置かれていないから書けなくなりましたが)。恒久対処策は反射的に言えるようになることです。そういう考え方ができませんか?

 

あなたは、機嫌が良くなったり調子に乗っていると、簡単に人のことを無視する人間です。全部自分一人でやってしまう人間です。忘れないように気をつけても忘れてしまう人間なのです。言っちゃダメだと分かっていても、口を挟まずにはいられない人間なのです。簡単にこれまでの改善策が全てすっぽ抜けてしまうような人間です。
それがダメだとは言っていません。そういう人間なんだということを受け入れて、その前提で、できる範囲で行動をしてよって言っています。

 

どうせこれも伝わらないでしょう。諦めています。何も伝わらない。何も伝わらない前提で、それでも私は文章で伝えようとしてしまいます。どうせ何も伝わらないだろうけど、もしかしたら1/1000くらいは、1/10000くらいは伝わるかもしれないと、微かに期待をしてしまっています。
しかしもうこの期待も薄れています。何も伝わらないのでしょう。
こういった長文LINEもサンドバッグと感じられることでしょう。ごめんなさい。
いつものように無視してくださいね。

『ウ・ヨンウ弁護士は天才肌』を見た/好きなひとの好きなものを知るということ

 

https://news.kstyle.com/article.ksn?articleNo=2195104&categoryCode=PU

 

 

好きなひとの好きなものを知るということ

好きなひとの好きなものを知るという行為は、好きなひとを知ることに直結している。

好きなひとを好きなひとたらしてめている、「好きなもの」。

好きなひとがどのようなもので構成されているのかを知るということ。

 

私は、パートナーであれ友人であれ好きなひとの好きなものを知ることが好きだ。

映画や本や音楽など何かをおすすめしてもらったとき、何かが好きだと聞いたときはなるべく触れるようにしている。

好きなひとがどうしてそれを好きになったのか理由を探り、理由が分かると嬉しくなる。あなたはこういうものに心が動かされ、目が輝き、胸が躍るのね、と、感覚で分かる。

好きなひとの好きなものに触れるということは、好きなひとの目線に立つというか、好きなひとの脳で世界を見るような気持ちになる。思考をお裾分けしてもらってる気持ちになる。好きなひとが好きなものを好きな理由を知る糸口になるから、好きなのだ。

 

Netflixで『ウ・ヨンウ弁護士は天才肌』を見た。

 

ウ・ヨンウはASDの弁護士でクジラが好きである。

ウ・ヨンウのそばにはヨンウを気にかけてくれるイ・ジュノという人間がいる。

 

ヨンウによるクジラの話をジュノは興味を持って聞いてくれる。一緒に海まで行ってくれるし、水族館で窮屈に暮らすクジラを開放するようデモ活動まで一緒にしてくれる。

だけど、逆に、ジュノが(ヨンウ以外の)好きなひとやものについてヨンウに話すシーンは描かれていなかった。ジュノが仮に何かのオタクでその話をヨンウに聞いてもらいたい、知ってもらいたい、一緒に現場に行ってもらいたいと思っても、おそらくそれは叶わない、叶ったとしてもヨンウにとってはすごくストレスがかかるものなのだろう、ジュノは自分の好きなものを知ってもらえない孤独を抱えることになるのだろうと容易に想像できる。

 

なぜ孤独になるのか。

好きなひとが自分の好きなものを知ってくれないから。

自分は好きなひとの好きなものをたくさん知っているのに、好きなひとは自分のことを知ってくれないから。

だから孤独になる、寂しいと感じる。

別に、好きなひとは自分に興味がないわけじゃないのに、自分の好きなものを知ってくれないのは寂しいと思う。好きなひとに悪意がないことは頭では分かっている。

「あなたの好きなものを知りたい、教えて」という気持ちをお互いが持ち、好きなひとのことを知り、自分のことを知ってもらう、そういった双方向のやりとりが愛を育んでいく。

 

私の話をすると、私はパートナーが好きな海外ドラマをSeason5までひとりで見たことが2回ある。段々と作品を好きになっていくとしても、あまり気乗りしないものを長時間見続けるのは結構大変なことだと思う。おすすめされた映画や音楽だって触れたことがある。

でも、パートナーは私の好きな海外ドラマをSeason5とかまで見てくれたことなどない。映画は見てくれたことがあるけれど、大抵私と一緒に見ている。パートナーが能動的に、ひとりで、私の好きなものに触れてくれたことなんてほとんど無い。

私ばかりがパートナーの好きなものに触れ、パートナーは私の好きなものには触れてくれないことが、たまに悲しい。

 

さて、ウ・ヨンウの話。

好きなポイントをいくつかあげていく。(ネタバレがあるのでご注意を)

 

『ウ・ヨンウ弁護士は天才肌』の好きなところ

法律への愛

ウ・ヨンウは弁護士であり、法律を愛している。

 

私は法学部卒で、法律と法律を学ぶことが好きである。

社会人になるまでは実家に住んでいた。

父はたびたび大声で怒鳴り、母も私も土下座をするしかなかった頃があった。

何がおかしいのか、どうすればこの父を裁けるのか、法律を知ることが自分の武器になるであろうと思い法学部へ行くことを選択した。

 

法は気持ちを重視します、気持ちによって罪名が変わります

 

ウ・ヨンウの一話の台詞である。この台詞で一気にこの作品のことが好きになった。

法律を愛している人間全員に見てほしいと思った。

 

また、ヨンウではない別の登場人物が、自分を救ってくれた法律をタトゥーとして身体に残すシーンがあり、最高だった。かっこいい。自分を救ってくれた法律をいつも手元に置いておき、気が向けば何度でも見返せるような近いところに肌身離さず抱えておくこと。愛じゃん……。

 

おうむ返し

ヨンウは相手の言葉をおうむ返し癖がある。おうむ返しのシーンを初めて見たとき、うちのパートナーもやってる!おうむ返しをしたときの周りの反応もすごく共感する、分かる…と思った。

 

私のパートナーは会話をしている中で「スズキ???」「ミスド???」みたいなはてなマークがたくさん付く単語の聞き返しをよくやっていた。パートナーは、言葉は聞こえているのに内容を理解していないときに単語聞き返しをよくやっていた。この単語聞き返しをされると、私はパートナー自身が考えることを放棄して私に丸投げして安易に聞き返しているような気持ちになりつらくなってしまう。そういった丸投げの聞き返しは寄り添い感がないよねとパートナーも気づいてくれたので、最近はそのような聞き返しをしたときは気づいて「ごめんねえ」「ミスド…?って思ったんだねえ」など単語のあとに言葉を付け足して話してくれている、ありがたい。

 

周りの人々の優しさ

上司であるミョンソクと同僚スヨンが好きだ。

ミョンソク役のカン・ギヨンさんは、かつて私が好きで付き合ってると思ったけど確認したら付き合ってなかったひとに酷似していて具合が悪くなる、好きになってしまう。ヨンウの突飛な行動も広い心で受け入れる鷹揚さと笑顔が好きすぎる。私が中学生だったら、ミョンソクのことが好きすぎて、ミョンソクの闇落ちSSを書いていたと思う、好きすぎて……。

 

仕事中に意見が合わず問題が生じたら 話して解決すべきでしょう

いちいち賞や罰を与えるのは 私のやり方じゃない

 

そして、こういう仕事に対してひたむきな姿勢が胸を打つ。

仕事に熱心だからこそ元妻を孤独にさせたこと。

そしておそらく元妻も仕事に熱心なところが少なからず好きで彼と結婚したのであろうということ。仕事に注がれる熱い眼差しを自分にも向けてほしかったこと。

 

 

そしてスヨン

 

あなたは 春の日差し見たい

ロースクール時代から思ってた

講義室の場所や休講情報 試験範囲を教えてくれて

私がからかわれないようにしてくれた

今も(ペットボトルの)フタを開けてくれて

のり巻きの日は教えると言ってくれる

あなたは明るくて温かくて

思いやりにあふれた人なの

春の日差し チェ・スヨン

 

愛の詩か!?

スヨンは、ヨンウに法律の知識では全く勝てないことを分かりながら、ヨンウに張り合ったり蹴落としたりせず、むしろヨンウに寄り添って声をかけてくれる。

ヨンウの発想や記憶力の強さに太刀打ちできない自分自身が歯がゆいときもあっただろうに、ロースクール時代から優しく、正義感にあふれ、障害者差別はダメなんだと怒り声をあげられる強くて優しい春の日差し。

正義感が強すぎると法律を振りかざしたり濫用したり武器として使うおそれだってあるのに、スヨンはそんなことはしない。いつもクライアントのために、自分の正義を貫いて闘っている。

 

ヨンウが「私は障害者だから…」と弱気になるシーンでもちゃんとヨンウを「こら!」と叱ってくれる。障害者差別はいけない、あなたは差別されず一人の人間として尊重される、と力強く背中を押してくれる。

「教育して叱ってくれ」

東京事変の『群青日和』の歌詞である。

誰かのために叱ってくれるひとを見るといつもこの曲を思い出す。

春の日差し、チェ・スヨン

 

 

ジュノとの恋愛

先に書いた通り、ジュノはヨンウのクジラの話に日々付き合ってくれている。

ヨンウの好きなものを知ろうとしてくれている。

 

それに加えて、

自閉症の人は…感覚過負荷の時 体を圧迫すると 落ち着くんですよね

と、ASDについて学んで行動に移してくれている。

やはり、自分のことを知っておいてくれるというのは、ほかならぬ愛だなと思う。

 

そしてヨンウもジュノのために道路側を歩いたり、椅子を引いてあげたりと精一杯の愛を手渡している。ヨンウには自分の世界があり、あっという間に自分の世界のことで頭がいっぱいになるので、意識的に行動しよう、行動しようと思い続けていないといけないのだと思う。それはヨンウにとってはすごく難しいことだと思う。

 

"他者と自分がいる世界"ではなく

"自分だけの世界"に慣れているからです

他者は自分と考えが異なりうること

ウソをつく可能性もあることを

頭では分かっていてもすぐ忘れます

だまされないためには常に意識しないと

 

私と一緒にいて 孤独を感じたことは?

私の頭の中は自分のことでいっぱいで

そばにいる人を孤独にさせます

いつ なぜそうさせたかも気づかず

どうすべきかも分かりません

 

意識していないとすぐそばにいる人を孤独にさせてしまう、そのことに自覚的であるだけで十分すばらしいことだと思う。ジュノは、「一緒にいるだけで幸せです、僕の幸せに必要不可欠な人なんです」と言うけれど、本当に?と思う。ヨンウは好きなひとを孤独にさせることを理解し、ジュノもヨンウと一緒にいるのに孤独を感じることを覚悟する。それって正直すごいしんどいことだと思う。

 

ヨンウの言語化してもらわないといけない察することが苦手で自分のことで頭がいっぱいになる特性と、周りの人たちがわざわざ言語化しないといけない手間や、言語化しないと伝わらない寂しさ、悲しさがすごく分かるので、ついつい のめりこんで見ていました。

 

ジュノは意識してるときは言語化して何でも伝えようとしているけれど、「ヨンウのことが好きだな、ヨンウもおれのことを好きでいてくれるんだろう」というときに 「あなたは私のことが好きですか?」と今更な質問をされるとウッてなる、おれの思いは伝わってなかったのかという悲しい表情をしていて、分かるーーーーッ!てなりました。

 

ただ、ジュノは「おれを孤独にさせないで」だなんて言わないし、孤独でシュンとする表情を見せることはあっても、私のように感情的に怒ったり泣いたりメンヘラみたいに長文LINEを送ることもない。ヨンウの特性を理解し受け入れ、その特性を変えようとしない、立派な大人なひとだ。私もそうなりたい。

 

 

上記のツイートの通り、パートナーに自分の真意が伝わらないときにも、私は孤独感を感じる。一緒にいるだけで幸せ、それはそう、そうなんだけど、一緒にいるために何かを諦めたり仕方がないことだと我慢することってきっとゼロじゃない。それは他人と生活していく中で当たり前のことだけれど、それでいちいち悲しむな、傷つくなっていうのもおかしい。

孤独を感じないようにできればいいかもしれないけれど、私は、孤独も寂しさもつらさも悲しさも全部鮮やかに感じていたい。積み重なった孤独と、それでも一緒にいたいんだという思いを天秤にかけて、生きていくほかないのだろうか。

 

自分の人生を自分で選び、肯定すること

どんな人生でも等しく価値があること

ヨンウは障害者だからといつも誰かに守られて生きてきた。父親がヨンウが失敗しないようにと先回りして足元の石を取り除くような、そういう生き方をしてきた。

 

ちゃんと挫折したいです

挫折すべきなら私1人で ちゃんと挫折したいです

大人だから

お父さんが毎回私の人生に立ち入って 挫折まで防ぐのは イヤです

 

失敗でもなんでも自分の人生なのだから経験したい。

それが痛みを伴うものでも、大人だから、経験をしたい。

そのようにヨンウが実の父に言うの、すごいなと思う。

先回りして足元の石を拾うような親って、そんなこと言われてもきっと手出しすることをやめられないんだと思う。でも、ヨンウの父はちゃんとできうる限りの力でやめられる。それもまたすごい。

 

私は みんなと違うからなかなか溶け込めないし

嫌われることも多いです

それでも平気です

これが私の人生だから

私の人生は

おかしくて風変りだけど

価値があって美しいです

 

自分の人生をこんなにも爽やかに肯定できるの、すてきだなと思う。

自分の人生、酸いも甘いも存分に味わい尽くして、命の炎を燃やして生きていく。

人に嫌われようと、挫折をしようと、どんな人生でも等しく価値があることを示してくれる作品で、見て良かったなあと改めて思う。

 

自分の感情を自分で決める

先に書いた「法は気持ちを重視します、気持ちによって罪名が変わります」という台詞は、つまり、原告/被告の両者が自身の気持ちを言語化し決定する必要があるということだとも思う。「嫌だった、つらかった」「殺すつもりはなかった」「被告を愛している」などなど……。それは、障害者でも同様に適用される。

 

でも障害者でも 悪い男に恋する自由はあります

シンさんの経験が愛なのか 性的暴行なのか

判断するのはシンさんです

お母さんと裁判所に決めさせては――

いけません

 

他人に否定されれても 自分が愛だと言えば――

愛です

 

自分の感情は誰に縛られるでもなく自分で決めていい。

シンプルなようで案外難しいことだと思う。

自分の心が感じたものを、そのまま言葉という枠組みにぴったり当てはまることなんてないだろう。感じたものをすぐ言葉にすることも難しいだろう。

言葉という枠組みに当てはめることは暴力性を孕むと私は思う。

でも、人間には言葉があるからこそ伝えられるものがある。

だから必死に言葉を駆使して相手に自分の思いを伝えようとする、それが人間という生きものだと思う。

 

最後に

このように、私とパートナーの生活と重ね合わせながらヨンウたちの生活を見ていました。ジュノが抱えているつらさをもっと醜くグチャグチャにしたのが私の感情なのだと思います。それでもフィクションであれ私の心に寄り添うものがあって救われる気持ちになったのは確かでした。

 

パートナーに『ウ・ヨンウ弁護士は天才肌』を見てほしいと何度か言ったけれど、結局未だ見てくれていない。

私はパートナーにも見てほしいと思うけど、そんなのおまえもウ・ヨンウと同じASDだって言って聞かせるようなもので、つらい思いするかもしれない。私を慰めるドラマとして見る分にはいいのかもしれないけれど、これをパートナーに見せるのはだめなのかもしれないと思っていた。

そうやって自分の言葉を使わずにこのドラマを見て私の気持ちを分かってほしいなんていうのは烏滸がましいのだと思う。それでも伝えたいのであれば、ドラマを見て私が日頃から感じている孤独感やつらさを自分の言葉で伝える方が良いのだろうと思った。

自分の好きなものを知ってもらえないのは少し寂しいけれど。

 

作品内で出てきた안 도현 (アン・ドヒョン)の『練炭一枚』という詩が刺さった。

愛する人を温めるために、愛する人に温かいご飯を食べてもらえるように、身を粉にして燃え続けるという詩が すごく好きですごく刺さった。

 

考えてみれば 人生とは 自分を粉々に砕くことなのだ

雪が降り滑りやすくなったある日の早朝

私ではない誰かが安心して歩けるよう

道を作ってあげることも知らなかった

 

今、私はパートナーに何をしてあげられるのだろう。

「好きな人がいるなら離しちゃダメだ、たとえ離してももう一度つかみにいくんだよ」というミョンソクの言葉を胸に、パートナーとの生活をこれからも続けていきたいと思う。

パートナーがご飯を作ってくれた

 

今日は、パートナーがご飯を作ってくれた。

パートナーは昨日料理教室に行って魚の捌き方を習ってきたらしく、その復習として魚料理を作ってくれた。

 

嬉しかった。美味しかった。

何のためらいもなく料理を振る舞えるのが羨ましかった。

悔しかった。美味しかった。作ってくれてありがとう。

私もそのような言葉をかけてもらいたかったと思った。

 

以前、私がパートナーに料理を作ってあげたところ、「今はいらない」と言われた。

「頼んでないのに勝手に世話を焼いてそれで感謝してほしい、おいしいと言ってほしいなんていうのはおまえのエゴだよ」と言われた。

今はその通りだと思うが、言われたときはショックでわんわん泣いた。

それでも作ってあげたいという欲望は残っていた。

 

しかし、その後「今まで作ってくれたご飯はおいしくなかった」と言われた。

そこで作ってあげたいという欲望はぷつんと切れ、むしろ、パートナーにご飯など作りたくないという気持ちに変わった。

 

 

 

別に私はパートナーに好かれるために料理はしなくていい。

そのままの私でも、パートナーは私のことを嫌いになんかならない。

作ってあげたい、あわよくばおいしいといってもらいたいなんてただのエゴ。

 

ほかにも、パートナーからはパスタのゆで方がおかしいと言われたり、おまえの米には虫が湧いているなどと言われてきたし、皿洗いに関しては雑だと言われ、食洗器導入を本気で検討していたところ「食洗機を買ってもおれは手洗いを続ける」と言われた。

 

それから、私は私のためだけに料理している。

一人暮らしをしていたときと同じように、作るのは私一人分のご飯。

最近はコウケンテツさんや鳥羽周作さんや渡辺康啓さんのYoutubeを見ながら料理を作る。

パン作りも好きなので、手ごねで作ったり、ホームベーカリーで作ったりする。

 

ただ、パートナーからの言葉の棘は未だ刺さったまま抜けない状態で、料理をするたび、食べるたびに 「これは私にとって美味しいものでも、パートナーにとっては不味いもの」と一瞬呪いに支配されてしまうようになった。パートナーの前で明るく料理したり食べていても、そういう思いに駆られてしまう。

 

これまでもこれからも 料理をするときに、そういう悲しい思いとか また同じようなことを言われるかもという恐怖なんか感じたくなかった。

 

そういうこともあり、料理の写真あげるのが怖くなった。

前まではインスタとかにあげてたのにね。

 

今は料理をしているときに「いい匂い!」ってパートナーから言われることがあるけど、それが本心からの言葉だとしても 「おまえの料理はまずかった」と言われたこともまた事実で、その板挟みで気がおかしくなりそうなときがある。

 

それでも料理をするのは、第一に料理をしたいからだし、パートナーの言葉に引きずられて 私ができることが一つ奪われるのもイヤだから、奪われてたまるかみたいな気持ちで、悲しみとか恐怖を毎回思い出しながら料理してる。でも、こんなこと感じたくなかった。

 

パートナーを黙らせるくらい料理の腕をあげたいとは思わない。もう食べてもらいたい気持ちがない。私しか食べない料理に対して散々酷い言葉を言われてきたので、食べてもらわなくて結構、私しか食べない料理には口出ししないでと祈りながら毎回料理をしてる。

 

そして今日、パートナーは料理を作ってくれた。

何のためらいもなく料理を振る舞えるのが羨ましかった。

悔しかった。美味しかった。作ってくれてありがとう。

私もそのような言葉をかけてもらいたかったと思った。

 

私は私一人分の料理を作るのさえ怖いのに、パートナーは料理を振る舞えていいな。

私もそれがしたかったな。

 

「ご飯作ったんだけど、一緒にどう?」

 

と声をかけられたとき、「頼んでないのに勝手に世話を焼いてそれで感謝してほしい、おいしいと言ってほしいなんていうのはおまえのエゴだよ」と言う選択肢が私にはあった。

 

「おいしい、ありがとう」

 

と言いながら食べた。「まずかった」と言う選択肢だってあった。

 

 

でも、私は過去の私が言ってもらいたかった言葉をパートナーに伝えた。

やられたことをやり返しても何の意味もない。

何の意味もないけど、悔しかった。

 

悔しくて悔しくて涙が出た。

 

私だって、あなたのようにいきなり料理を作って「一緒にどう?」とか言いたかった。「おいしい」と言って食べてもらいたかった。料理をするときに恐怖なんか感じたくなかった。

今日の食卓は、私がまさに喉から手が出るほど望んでいた光景だった。

 

 

ご飯を食べてるときに、「以前ご飯作ってくれたのにひどい言葉を言ってしまってごめんね」とは言われた。言われたけど、それだけじゃ全然足りなくて、今あなたの手料理を食べて感じているこの悔しさが分かるか、分かってたまるかって、思った。

 

 

前に進まねば、と思う。

これは私の問題で、私が過去のことを記憶しすぎ、引きずりすぎ、怖くても、それでも前に進めたらいいのになと思う。

パートナーに料理を作ってあげ、食べてもらって、そのときは「おいしい」と言ってくれても、またいつ「まずかった」と言われるか分からない恐怖。「これは私にとって美味しいものでも、パートナーにとっては不味いもの」という呪い。また同じことを言われるかもと思うと怖くてたまらない。

 

また「まずかった」と言われるくらいならいっそ食べてもらわなくて結構。

そう思っているけれど、今日みたいに料理を作ってもらうとまた思い出して泣いてしまう。料理を作ってない日も思い出してTwitterでグチグチ書いてしまう。

 

つらかったろう、悲しかったろうと過去の自分を抱きしめながら、このつらさや悲しみをどうにか癒してあげられるのは私だけ。私の問題だから。

パートナーには、ひどい言葉の数々を言った代償として、私の克服のために最大限サポートしてもらえたらいいなと思う。恐怖が弱まるような優しい声かけとか。それすらもエゴなのかもしれないけど

 

自分の人生を自分でよくしていくこと

今日は、一週間仕事を頑張ったご褒美に、初めてロイヤルホストに行こうと思っていた。

何せ初めてのことなので、昨日はメニューを1時間眺めて何をどのような順番で頼むか綿密な作戦を練っていた。

 

しかし、結局ロイヤルホストには行けなかった。

 

いま私は家出をしている。

28歳にもなってロイヤルホストに行けなくて大号泣したのは事実だけれど、ロイヤルホストに行けなかったから家出をしているわけじゃない。

 

またパートナーと言い合いになって、もうどうしようもなくなって、家出をしている。

 

先週末に喧嘩があり、ここ1週間ほとんど会話もしなかったし一緒に眠らなかったし一緒にご飯を食べなかったけれど、それでも、LINEで話し合いはしていたから仲直りの兆しはあったのに。それがいとも容易く崩れてしまった。

 

パートナーは、失敗や誰かを傷つけるようなことをしたときに「なんて自分はダメな人間なんだ」と考え続け、自分を責め続け、塞ぎ込むような人間である。

先ほどは「おれみたいな人と一緒じゃなかったら、おまえはこんな苦しまなくて済んだのに」というようなことを言われた。

 

私はというと、そんなたらればの話をしても仕方がないし、「なんて自分はダメな人間なんだ」と責め続けても何も生み出さないし何の意味もないと思っているような人間である。

 

夫婦と言えど他人同士なのだから、意図せず相手を傷つけることはある。他人同士なのだから、分かり合えないことはある。

 

それでも次同じような喧嘩や諍いをしないように、相手を傷つけたときは、どうして相手が傷ついたのか、どうして自分は相手を傷つけるような行動を取ってしまったのか、原因を探る、いま目の前で傷ついている相手に寄り添ったり慰めたりして心のケアをする、そして今後どうすれば同じことが起こらなくなるか再発防止策を考え、それでも再発した場合の暫定対処や恒久対処をそれぞれ考える。

原因追求、復旧対応、暫定対処、恒久対処、と私がインフラの運用SEだったからそのように思うのかもしれないが、人間関係もそのような感じで将来のこと(また同じことが起きないように、また起きたとしても被害を減らせるように)を考えながら対応していきたいタイプである。

 

別にパートナーの「なんて自分はダメな人間なんだ」と責め続ける態度をやめろとか、パートナーにも私のように対応をしてほしいと求めているわけじゃない。あくまで私個人の生き方としては、障害(喧嘩)が起きる前提で、仕組みを作り、対処をしていきたいと、考えている。

 

パートナーにこの話をしたら、パートナーは、正論で殴られて打ちのめされているようだった。「そうあるべきなんだと思う」とパートナーは言った。そんなことはない。私は自分の考えを強制したいわけでも正義を振りかざしたいわけでもなんでもない。

 

続けて、このように話していた。

 

パートナー「自分を責めて塞ぎ込んでても何も変わらない、意味はないのは、確かかもしれないけど、そういうふうに思って、自分を責めて塞ぎ込んでるときは、ただ話を聞いてもらいたかったり、聞いて寄り添ってもらえたら、嬉しいかな。」

 

パートナー「(自分を責めて塞ぎ込むということは)前向きな考えではないというのはよく分かるし、でもそういうふうに考え込んでしまうことは自分ではしょうがないと思っていて、それが『ダメだ!やめろ!』と言われても困るし、それを分かってもらおうとも思わないけど、そういう愚痴とか言葉にできない訳わかんない話でも聞いてもらえれば、嬉しい。嬉しいってだけで、批判されてもしょうがないなって思う」

 

言いたいことは分かる、分かるが……。 

 

私「自分を責めるときに寄り添ってほしいというのはすごく分かるし、今度からそうしようって思うけど、あくまで私が傷つけられてないときに限った話だなと。私が傷つけられたのに、それなのに、『自分はダメだ…』ってなってる人には寄り添えないです。なんで、傷つけてきた人に対して、そうだよねって寄り添わなきゃいけないのか分からない。それはイヤ。傷つけてきたくせに、寄り添ってほしいとか、それはムリ。そうじゃない場合だったら、できる」

 

どうしても、なんというか、うーん……。今回の喧嘩の発端は、

 

・過去にパートナーから言われた、料理に関するひどい言葉や行動の話をしたところ、パートナーにシカトされる(私はその言葉や行動が今もトラウマで苦しんでいる)(シカトされて悲しい)

・パートナー自身がその過去のこと忘れている(忘れられて悲しい)

・忘れていることに関して、自分で思い出そうとせず気軽に私に質問してくる(トラウマを私の口から話さなければいけないという負荷に関して無自覚)(トラウマを話すのはつらいししんどい)

・赤ちゃんをなぐさめるみたいに「悲しかったんだねえ〜つらかったんだねえ〜」とあやされる(パートナーの言動や行動によって傷ついたのだから、謝ってほしいときもあるし、もっと真面目に反省をしてほしいときもある)(つらいつらいと大声で叫んで訴えているのに、その声が全然届かなくて言葉も通じないという絶望感と悲しさ)

 

という感じである。

 

 

 

 

 

 

正直、こういう喧嘩というか話の流れがあって、それなのに、「相手を傷つけてしまった、なんて自分はダメなんだ」と塞ぎ込む自分に寄り添ってほしい?話を聞いてほしい?どういうこと?なんで私が?と思ってしまった。

そりゃあ仕事の愚痴とか、毎日のうまくいかなかったことや失敗の話は聞くし寄り添うよ、でも、なんで、今回のような、あなたが私を傷つけたというシチュエーションで、寄り添ってほしいとか甘えたこと言うんだよ、と思ってしまった。まず傷ついた私のケアをしてよ、と。

 

こういう、被害者ムーブはよくないんだろうなと思う。今日も被害者ムーブをかます人間は危険だから、注意してる、といったツイートも見た。でも、私は上記のようなことを思ってしまった。

 

「そんな些細なことで泣くの?」「おれはそんなことで傷つかない」「おれそんな悪いことした?」と散々言ってくるような人間に、思った本音をすぐ口に出して相手を傷つけては、それが本音なんだから仕方がないだろと言うような人間に、とにかく謝ってほしいと泣く私に対して「納得してないのに謝って何の意味があるんだよ」と言い 泣きながら私が彼を納得させられる言葉を出さない限り頑なに謝らない人間に、なんで私が……と。

 

全然ケアが足りてない。もっと真剣に謝ってほしい。私の傷は全然癒えてない。つらい。これは全部私のわがままなのかもしれない、モラハラなのかもしれない、求めすぎなのかもしれない。

 

***

 

他人同士分からないなりに分かろうとしたい。分かろうとしてほしい。これが私の欲であり執着である。

 

私には離婚するという選択肢もありながら、いま日々選択をし続けている「パートナーと一緒に生きていく」という選択肢を正解にしていくしかないと思っている。何事も、選択をしたときにはその道が正解かどうか分からないのだから、選択したあとでその道が自分にとって正解だったと、自分で正解にしていくしかない。

 

他人同士なのだから傷つけることもあるでしょう。自分を責めて塞ぎ込みたいときもあるでしょう。

相手を傷つけたときは、自分の気持ち(傷つけるつもりなんかなかったのに!そんな些細なことで?)や納得(なぜこの人は傷ついているんだろうという理解)は二の次で、とにかく傷つけてごめんねと謝る。その流れで、つらかったよね、傷つけたよねと相手に寄り添いながら、相手がなぜ傷ついているのか探っていく。そういうもんじゃないのかなあ。これは私の押し付けがましい考え方なのかもしれない。

 

例えば、不意に人と人とがぶつかり一人が膝から血を流して泣いている。そういうときはもう一人がまず謝り、血を止めて絆創膏を貼る。そういったケアをしてから次どうしようかと改善策を考えていきたい。

 

でも、パートナーと私の場合、私が血を流して泣いているとき、まず血を流している私がパートナーに謝ったり パートナーが納得するような言葉をかけるところから始めないといけない。私が「ごめん、不注意でぶつかってしまった」と。そうすると彼は納得して、謝ってくれたり、血を止めてくれたりする。

 

なんでだよ

 

まず血を止めるのが先だろ、といつも思っている。なぜ、血が出て痛くて痛くてたまらなくてつらくて泣いている私が、彼に必死に言葉を尽くして話さなければいけないのか、全然分からない。私にとってはものすごくつらい。つらくて泣いてるのに、さらに言葉を尽くしてパートナーが理解できるよう、事細かく状況を説明し、なぜ私がつらいのか言語化する、パートナーは同じ目に遭ってもつらくならないと言ったりもするので、いやそれでも私はつらいんだよと繰り返し何度も何度も何度も何度も言う。そうしないとケアをしてもらえない。

 

結局のところ、人に血を止めて絆創膏を貼ってもらうのではなく、私がひとりでに泣き止み、ひとりでに血を洗い絆創膏を貼るしかないのかもしれない。

別に、パートナーに理解してもらおうと言葉を尽くす必要などないのかもしれない。

ひとりで生きていけるし。

 

「一人でも大丈夫だけど、誰かに大事にされたい」

 

というのはドラマ『大豆田とわ子と三人の元夫』のセリフですが、うーん、一人で生きていけるけど、誰かに大事にされたい、そうなんだよなあと、思う。

 

以前友人から「あなたは自分の人生を自分でよくしていけるから大丈夫だよ」というようなことを言われたことがある。

そうなのかなあ、分からない、でもまずは自分で自分をケアしなければいけないと思う。自分を大事にできないひとは、誰かを大事にすることもできないと、Podcastジェーン・スー堀井美香の「OVER THE SUN」』でも言ってたはず。

 

ロイヤルホストのコスモドリア食べたかったなあ