反応してくれなくてもいい、となれたら

反応してくれなくてもいい、と思える日がいつか来るのかな。コミュニケーションなんて正しいキャッチボールの上だけで成り立っているわけではないと私はいつになったら理解できるんだろう。

 

正しいキャッチボールというのは、相手からボールが届いたときにはそれを受け止めて、そのあとで次は自分がボールを投げる、というやりとりのことで、自分ばかりが投げすぎるのも、投げなさすぎるのもダメということ。交互に投げ合うことでキャッチボールが成立する。

 

でも、コミュニケーションなんてそんな正しさの上だけで成り立っているものではなくてもっとグラデーションであって、例えば、ふたりが同じタイミングでボールを投げてしまうときもあれば、ボールを投げたのに相手が受け取ってくれないこともあり、私だって相手からのボールを受け止められないときもある。相手のボールがこちらに向かってきていて私は受け止める体勢に入らなければならないのに言いたいことが浮かんで思わず投げる体勢に入ってしまうことだってある。

 

そのように頭では分かっているのに、私に対する反応がないことに過敏になっている自分がいる。

自分の言葉にリアクションがなかったり無視されると悲しい。私はそれを取り締まる無視警察になってしまう、いつも、常に、ずっと。

 

リアクションがないこと、相槌がないことによって、私は「大事にされていないような感じがする」。大事にされていないように感じるのは悲しいことだと思う、好きな相手だったら尚更のこと。

相手はどんなに私のことを大事にしたいと心で思っていたとしても、リアクションがないことによって大事にされていない感じがする、と私の心が感じてしまう。だから無視警察になってしまう。

 

切り離したい。

でもできない。

 

 

前回のブログでも書いたかもしれないけど、無視した側っていうのは大抵無視したことに無自覚で、反応したつもりになっているんだよね。だから、「今リアクションがなかったよ」と私が言っても、「リアクションしたよ、リアクションしたつもりだよ」と私の指摘を受け止めてもらえなかったり否定されたり、「今ちゃんと会話してたじゃん、ひとつの話題の中で会話をしていたよね」みたいな謎の自己弁護をされたりする。

 

リアクションをしてもらえなくて「大事にしてもらえていない感じがする」という悲しみを抱えている最中に、「今リアクションがなかったよ」と言うのもつらいのに、それを否定されたり真っ先に自己弁護に走られるとつらさが増える。

悲しい中それを言語化して伝える私の工数や負荷のこと、あなたはちゃんと分かってる?

 

たびたび録音して聞かせてやろうか?と思う。なんというか、根底には絶対に私は間違ってない、私は聞き逃してなんかいない、っていう思いがあるんだろうな。でも、相手が口にしたことや私が口にしたこと、音声データという事実は私の中で間違っていなかったとしても、相手の心の中までは全く考慮されていない。相手がどういうふうに考えていようが音声データという事実が正だろ、と思ってる。

 

ともすれば音声データをエビデンスに相手を殴ろうとしている自分の暴力性に気づいて本当にゾッとする。正しさでバトルするためにコミュニケーションをしてるんじゃないのに。コミュニケーションを通じて感情や意見を交換するためにやっているのに。優しさが足りないと自分でも思う。優しくない。私は全く優しくない。

 

「熱心に考えながら話していたら聞くのが疎かになってしまった」とパートナーはよく言う。「共感してもらいたくて一生懸命考えていたらあなたの言葉にリアクションをしなかった、聞こえてはいるけど、反応できなかった」というようなことも言う。

 

また、パートナーと私がふたり同時に喋ったときに、私は「パートナーと私ふたり同時に喋ったな」って認識してるんだけど、パートナーはふたり同時に喋ったことを認識してない。シングルタスク人間だから喋ることに集中していて、聞くというタスクが疎かになっている。そして、リアクションを取らなかったことにパートナーは私の指摘なしに自分で気づくことはない。だから私はいちいち言葉にして言っているわけだが、そのときに否定や自己弁護の攻撃に遭う。攻撃だと、被害だと私は感じているんだな。

 

このように、仮に相手の心や考えがが分かったとしても、音声データという事実は事実なんだから、どういう思いがあったとしてもそれは情状酌量の余地はあれど事実に変わりはないんだよと思ってしまう。

 

コミュニケーションというのは音声データだけじゃなくて、呼吸や頷き、目線や表情、そういうったものが必ずあるはずなのに、それを見落としているのは私の方かもしれないのに、とにかく口にした言葉、音声のことを気にしている。

 

人はそんなに正しく生きてないし、うまくコミュニケーションできる日ばかりじゃないのに、私だってそうなのに、なんでリアクションをしてもらえないとこんなにつらいんだろう。

 

***

 

今思い出したけど、LINEでもスタンプで済まされるのがすんごい嫌いなの。スタンプじゃないか、スタンプは全然いい、あのステッカーみたいなリアクション機能が本当に嫌いなの。あれって通知が来ないから。こっちが見にいかないと分からないの。返信を待っているときに返信がこなくなって「あれ?相手からの反応がなくなったな、まだ未読なのかな?それとも既読無視かな?」って思って能動的に見にいくと、リアクション機能で「リアクションはしましたよ」みたいなのを知るのが本当に嫌い。なんかね、「リアクションはしましたよ」って感じが雰囲気から漂ってるの、既読無視する罪悪感を抱える覚悟がないヤツがいい人ヅラするための免罪符として使ってるみたいな感じがする。免罪符じゃないから、あの機能は。

 

あとなんかね、ときどきLINEをしているときに「この会話もうクソつまんないからいい加減やめませんか?」って思うときがあるの。本当は言いたくてたまらないのに言えないの。こんなクソつまんない会話の意味ってある?ないだろ?終わりなら終わりだって言おうよ、言いたいよ私は、いちいち返信のたびに苦しくてたまらなくて、なんなんだよこのコミュニケーション、確かにキャッチボールは成立してるけどクソつまんないよ、やめたいよって思うときがある。

パートナーには「"この会話もうクソつまんないからいい加減やめませんか?"って言っていいと思う?」と相談したことがあるけど、「やめておいたほうがいいんじゃない?」と言われて、やめた。そうやってわざわざ波風立てるやり方は争いを生むから、やめておいたほうが無難だってことだと思う。

 

リアクション機能というものは、波風を立てない無難な方法なんだろう、多分。でもなんかすごいモヤモヤするんだよな。「こっちは返事を待ってたんだけど?」って思うんだよ、どんなにクソつまんない会話でも。「今リアクションがなかったよ」と言うのを封じられてる感じがするんだよ。

 

で、話を戻すとリアクション機能を使ってくる人には私も同じように対応をしている。やり返してもどうせ相手はきっと何も感じてないと思う。何も感じない人だから元々そういう機能を平然と使ってるんだと思う。「こっちは返事を待ってたんだけど?」と相手が思うことを想像できない人か、想像できても別に何とも思わない人というか。

 

で、こういうことを読んで言いなりになる人間のことがもっと嫌いなの。大嫌いなの。自分の意思がない感じがする。浅はかなところや考えなしなところがある自分というのをきちんと受け入れて、そのままのあなたでいなさいよって思う。こういうのを読んで早々に態度を変えてもあなたの根底は何も変わらない、そのことをちゃんと自分の奥歯で噛み締めて生きていてほしい。外側を取り繕っても過去は変わらない。別に変化するなと言ってるわけじゃない、ただその変化のトリガーが自分自身がよくよく考えた結果ではなくて、他人の発言であるということ、分かっていてほしい。忘れないでほしい、トリガーになった他人の存在を。自分自身で気づいた成果じゃない、私はそういうふうに思ってしまう。

 

なんというか、こういう文章を読んでも何の影響も受けないでほしい。

でも人は影響を受けてしまう。

 

多分私は自分の発言や文章が他人に影響を及ぼすことにかなり無自覚で、相手の行動に制限をかけていることに本当に無自覚なんだと思う。誰かを怖がらせている、恐怖によって従わせている、そういうやり方を自ら選択している、そしてそのことに無自覚である。

他人からなんか言われると私はすぐ傷つくから、傷つかないためにも誰も何も影響を受けてほしくなくて、そんなのムリなのに、結局ビビってんのは私じゃん、みたいな。自己弁護や自己保身にまみれてるのは私じゃん、みたいなことを思う。ああイヤだ。