今日は、一週間仕事を頑張ったご褒美に、初めてロイヤルホストに行こうと思っていた。
何せ初めてのことなので、昨日はメニューを1時間眺めて何をどのような順番で頼むか綿密な作戦を練っていた。
しかし、結局ロイヤルホストには行けなかった。
いま私は家出をしている。
28歳にもなってロイヤルホストに行けなくて大号泣したのは事実だけれど、ロイヤルホストに行けなかったから家出をしているわけじゃない。
またパートナーと言い合いになって、もうどうしようもなくなって、家出をしている。
先週末に喧嘩があり、ここ1週間ほとんど会話もしなかったし一緒に眠らなかったし一緒にご飯を食べなかったけれど、それでも、LINEで話し合いはしていたから仲直りの兆しはあったのに。それがいとも容易く崩れてしまった。
パートナーは、失敗や誰かを傷つけるようなことをしたときに「なんて自分はダメな人間なんだ」と考え続け、自分を責め続け、塞ぎ込むような人間である。
先ほどは「おれみたいな人と一緒じゃなかったら、おまえはこんな苦しまなくて済んだのに」というようなことを言われた。
私はというと、そんなたらればの話をしても仕方がないし、「なんて自分はダメな人間なんだ」と責め続けても何も生み出さないし何の意味もないと思っているような人間である。
夫婦と言えど他人同士なのだから、意図せず相手を傷つけることはある。他人同士なのだから、分かり合えないことはある。
それでも次同じような喧嘩や諍いをしないように、相手を傷つけたときは、どうして相手が傷ついたのか、どうして自分は相手を傷つけるような行動を取ってしまったのか、原因を探る、いま目の前で傷ついている相手に寄り添ったり慰めたりして心のケアをする、そして今後どうすれば同じことが起こらなくなるか再発防止策を考え、それでも再発した場合の暫定対処や恒久対処をそれぞれ考える。
原因追求、復旧対応、暫定対処、恒久対処、と私がインフラの運用SEだったからそのように思うのかもしれないが、人間関係もそのような感じで将来のこと(また同じことが起きないように、また起きたとしても被害を減らせるように)を考えながら対応していきたいタイプである。
別にパートナーの「なんて自分はダメな人間なんだ」と責め続ける態度をやめろとか、パートナーにも私のように対応をしてほしいと求めているわけじゃない。あくまで私個人の生き方としては、障害(喧嘩)が起きる前提で、仕組みを作り、対処をしていきたいと、考えている。
パートナーにこの話をしたら、パートナーは、正論で殴られて打ちのめされているようだった。「そうあるべきなんだと思う」とパートナーは言った。そんなことはない。私は自分の考えを強制したいわけでも正義を振りかざしたいわけでもなんでもない。
続けて、このように話していた。
パートナー「自分を責めて塞ぎ込んでても何も変わらない、意味はないのは、確かかもしれないけど、そういうふうに思って、自分を責めて塞ぎ込んでるときは、ただ話を聞いてもらいたかったり、聞いて寄り添ってもらえたら、嬉しいかな。」
パートナー「(自分を責めて塞ぎ込むということは)前向きな考えではないというのはよく分かるし、でもそういうふうに考え込んでしまうことは自分ではしょうがないと思っていて、それが『ダメだ!やめろ!』と言われても困るし、それを分かってもらおうとも思わないけど、そういう愚痴とか言葉にできない訳わかんない話でも聞いてもらえれば、嬉しい。嬉しいってだけで、批判されてもしょうがないなって思う」
言いたいことは分かる、分かるが……。
私「自分を責めるときに寄り添ってほしいというのはすごく分かるし、今度からそうしようって思うけど、あくまで私が傷つけられてないときに限った話だなと。私が傷つけられたのに、それなのに、『自分はダメだ…』ってなってる人には寄り添えないです。なんで、傷つけてきた人に対して、そうだよねって寄り添わなきゃいけないのか分からない。それはイヤ。傷つけてきたくせに、寄り添ってほしいとか、それはムリ。そうじゃない場合だったら、できる」
どうしても、なんというか、うーん……。今回の喧嘩の発端は、
・過去にパートナーから言われた、料理に関するひどい言葉や行動の話をしたところ、パートナーにシカトされる(私はその言葉や行動が今もトラウマで苦しんでいる)(シカトされて悲しい)
・パートナー自身がその過去のこと忘れている(忘れられて悲しい)
・忘れていることに関して、自分で思い出そうとせず気軽に私に質問してくる(トラウマを私の口から話さなければいけないという負荷に関して無自覚)(トラウマを話すのはつらいししんどい)
・赤ちゃんをなぐさめるみたいに「悲しかったんだねえ〜つらかったんだねえ〜」とあやされる(パートナーの言動や行動によって傷ついたのだから、謝ってほしいときもあるし、もっと真面目に反省をしてほしいときもある)(つらいつらいと大声で叫んで訴えているのに、その声が全然届かなくて言葉も通じないという絶望感と悲しさ)
という感じである。
パートナー、何もかも記憶から抜け落ちて忘れてしまうけれど、その対策として 自分は忘れてしまう人間だからと文章や写真で記録するわけでもなく、安易に私に聞こうとするところがイヤだ、がんばって思い出そうと自分の脳を使わないくせに、私には話す負荷をかけさせる それに無自覚
— 赤埜よなか (@_ynk) 2022年9月1日
泣いてるときに涙をとんとん拭っておふとんかけて頭を撫でて…と目一杯 赤ちゃんのように甘やかしてほしいときと同じくらい、自立した女として扱ってほしいときが私にはあって、自分でもなんて面倒な人間なんだ…と思う
— 赤埜よなか (@_ynk) 2022年9月1日
私だって旅行の予約や計画はできるし、料理もできるのに、甘やかして全部パートナーがやってくれたりする、その延長線で、私が本当に傷ついていて それを強く訴えているのに 赤ちゃんをなだめるようにヨシヨシして「ごめんね」と言えばご機嫌でいてくれる赤ちゃんみたいに扱う
— 赤埜よなか (@_ynk) 2022年9月1日
甘やかして赤ちゃんのように扱って、私ができることをどんどん減らしていって 彼がいないと私は歩けないみたいにして、無意識にこの場に縛り付けようとしてる気がする、私がしたいのは、そうじゃくて、自立した大人がお互いと共に一緒に居続けることを選択している、そういう状態がいいのにな
— 赤埜よなか (@_ynk) 2022年9月1日
たぶん年齢差があるから余計に甘やかしてくるんだよな、自立したひとりの人間というよりも、娘のように甘やかしてくるというか、年齢差があろうとなかろうとお互いは対等なんだが………
— 赤埜よなか (@_ynk) 2022年9月1日
彼が忘れちゃうのは仕方がない、最近は彼も忘れないように自主的に記録をするようになって素晴らしいことだと思う、それでも忘れてしまうことがあるのは仕方がないので、あなたが忘れた代わりに私が頑張って口に出したときは「言ってくれてありがとう」と言ってほしいと伝えた 運用回避
— 赤埜よなか (@_ynk) 2022年9月1日
システムでもなんでもそうだが、障害が起きるのは仕方がないので、障害が起きる前提で仕組みを作っていきたい……私だって無自覚に他人を傷つけるのでそのときにどう行動するかでしかない……
— 赤埜よなか (@_ynk) 2022年9月1日
最近は悲しみや傷つきを細分化するのがうまくなってきて、例えば、「(自分にとって大事なことを)彼に忘れられたことが悲しい」と、「彼が忘れたことによって、自分がわざわざ口に出さないといけないのがしんどい」とちゃんと分けられるようになってきました えらいね
— 赤埜よなか (@_ynk) 2022年9月1日
自立した人間として見られたい欲について考えると、自立してないと周りから見られたくない気持ちの裏返しだし、なんでというと 母親が専業主婦で稼ぎがなかったから 父親の暴力に屈するしかなかったときの状況を思い出すからですね、金があれば一人暮らしすることも裁判を起こすこともできる
— 赤埜よなか (@_ynk) 2022年9月1日
女でも働いて稼がないと…みたいなプレッシャーが人より強いみたい。とにかく金がないと、金がある人間に生殺与奪の権利を握られるという恐怖がすごい強い。男に物理で勝てないからとにかく金を持っておくしかできない
— 赤埜よなか (@_ynk) 2022年9月1日
稼がないといけないというプレッシャーを他人にも振り翳すリスクがあるのが最悪で、たとえば私が在宅無しの転勤になったとしたら 「私のほうが稼いでるんだから、おまえは仕事を辞めて私の転勤についてこい」とかそういう金があるマウントをしかねないのが最悪 だめ アダルトチルドレンの私やめなさい
— 赤埜よなか (@_ynk) 2022年9月1日
本気で言ってるのに、本気で訴えてるのに、赤ちゃんをなだめるみたいに あやすみたいな対応を取られると、この羽川の映像を思い出す。声が届かなくて 言葉も通じなくて 膝から崩れ落ちる感じ pic.twitter.com/wVZjUvOYpV
— 赤埜よなか (@_ynk) 2022年9月1日
今パートナーは理解したいという気持ち無しにひたすらに「悲しかったんだねえ〜つらかったんだね〜」と言ってきていて、そういう行動を取られると、今必死に声をあげているのに、その声が全く相手に届かず、相手はただ私を泣き止まそう 静かにさせようと抱っこして宥めてるみたいだなって感じる。
— 赤埜よなか (@_ynk) 2022年9月2日
うるさいから黙らせよう、とりあえず共感するポーズを取って静かにさせよう、テクニックばっかり使って「おれは全然理解できないけど、悲しいんだね」と言ってるような感じがすごいする
— 赤埜よなか (@_ynk) 2022年9月2日
美味いか不味いかは別として 私はわりと料理が好きなんだけど、パートナーからパスタの茹で方がおかしいと言われたり、米に虫が湧いてると言われたり、おまえの料理はまずかったと言われたことがあって
— 赤埜よなか (@_ynk) 2022年9月4日
そのせいで料理をするたび 食べるたびに 「これは私にとって美味しいものでも、パートナーにとっては不味いもの」と一瞬呪いに支配されてしまうようになった。パートナーの前で明るく料理して食べてても、そういう思いに駆られてしまう
— 赤埜よなか (@_ynk) 2022年9月4日
これまでもこれからも 料理をするときに、そういう悲しい思いとか また同じようなことを言われるかもという恐怖なんか感じたくなかった 感じたくなかったなあ
— 赤埜よなか (@_ynk) 2022年9月4日
そういう呪いもあって、料理の写真あげるのが怖くなった、前まではインスタとかにあげてたのにね
— 赤埜よなか (@_ynk) 2022年9月4日
料理してるときに「いい匂い!」ってパートナーから言われることがあるけど、それが本心からの言葉だとしても 「おまえの料理はまずかった」と言われたこともまた事実で、その板挟みで気がおかしくなりそうなときもあるよ
— 赤埜よなか (@_ynk) 2022年9月4日
それでも料理をするのは、第一に料理をしたいからだし、パートナーの言葉に引きずられて 私ができることが一つ奪われるのもイヤだから、奪われてたまるかみたいな気持ちで、悲しみとか恐怖を毎回思い出しながら料理してる こんなこと感じたくなかった
— 赤埜よなか (@_ynk) 2022年9月4日
パートナーを黙らせるくらい料理の腕をあげたいとは思わないんだよね、もう食べてもらいたいみたいな気持ちがなくなってしまったので……。私しか食べない料理に対して散々酷い言葉を言われてきたので、食べてもらわなくて結構、私しか食べない料理には口出ししないでと祈りながら料理してる
— 赤埜よなか (@_ynk) 2022年9月4日
「そんな些細なことで傷つくのかよ」「今更そんなこと言うのかよ」と散々言われてきたけど、最近は「悲しかったんだねえ〜つらかったんだねえ〜」と気持ちが伴ってなくてもそのような言葉をかけてくれるようになった すごい変化だと思う
— 赤埜よなか (@_ynk) 2022年9月4日
「悲しかったんだねえ〜つらかったんだね〜」と言葉が あまりにふざけているので、気持ちが伴わないのは仕方がないことなのかもしれないけれど、分からないなりに分ろうとしてほしいんだということを私は言ってしまう、分からなくても分かりたいと思ってほしいと、そういうのは求めすぎなのかなあ
— 赤埜よなか (@_ynk) 2022年9月4日
パートナー、私と一緒にいなければ 向き合わずに済んだであろう物事にひとつひとつ向き合って言葉をかけてくれるの、ありがたいなと思う。いつもどこか私が無理やり解像度をあげさせているというか、インプットを与えているような気がしていて、それがモラハラな気がして怖いけど、彼は向き合ってる
— 赤埜よなか (@_ynk) 2022年9月5日
彼にとって私は些細なことで傷つく人間で、彼は傷つかないけど私は傷つくというものが大量にあり、自分がされて嫌なことはしない というのが全く通用しない(同じことをされてもおれは傷つかないという)中で、それでも私が些細な出来事を細かく言うから 頑張って分かろうとしてくれているように見える
— 赤埜よなか (@_ynk) 2022年9月5日
見なくてよかったものを、気づかなくてよかったものを 見させているんじゃないか 気づかせているんじゃないか、と思う。解像度をあげさせて 細やかな機微が分かるようになったことで苦しむ結果になるんじゃないかという気がして、怖い 鈍感なままのほうが楽だったのかもしれない
— 赤埜よなか (@_ynk) 2022年9月5日
正直、こういう喧嘩というか話の流れがあって、それなのに、「相手を傷つけてしまった、なんて自分はダメなんだ」と塞ぎ込む自分に寄り添ってほしい?話を聞いてほしい?どういうこと?なんで私が?と思ってしまった。
そりゃあ仕事の愚痴とか、毎日のうまくいかなかったことや失敗の話は聞くし寄り添うよ、でも、なんで、今回のような、あなたが私を傷つけたというシチュエーションで、寄り添ってほしいとか甘えたこと言うんだよ、と思ってしまった。まず傷ついた私のケアをしてよ、と。
こういう、被害者ムーブはよくないんだろうなと思う。今日も被害者ムーブをかます人間は危険だから、注意してる、といったツイートも見た。でも、私は上記のようなことを思ってしまった。
「そんな些細なことで泣くの?」「おれはそんなことで傷つかない」「おれそんな悪いことした?」と散々言ってくるような人間に、思った本音をすぐ口に出して相手を傷つけては、それが本音なんだから仕方がないだろと言うような人間に、とにかく謝ってほしいと泣く私に対して「納得してないのに謝って何の意味があるんだよ」と言い 泣きながら私が彼を納得させられる言葉を出さない限り頑なに謝らない人間に、なんで私が……と。
全然ケアが足りてない。もっと真剣に謝ってほしい。私の傷は全然癒えてない。つらい。これは全部私のわがままなのかもしれない、モラハラなのかもしれない、求めすぎなのかもしれない。
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他人同士分からないなりに分かろうとしたい。分かろうとしてほしい。これが私の欲であり執着である。
私には離婚するという選択肢もありながら、いま日々選択をし続けている「パートナーと一緒に生きていく」という選択肢を正解にしていくしかないと思っている。何事も、選択をしたときにはその道が正解かどうか分からないのだから、選択したあとでその道が自分にとって正解だったと、自分で正解にしていくしかない。
他人同士なのだから傷つけることもあるでしょう。自分を責めて塞ぎ込みたいときもあるでしょう。
相手を傷つけたときは、自分の気持ち(傷つけるつもりなんかなかったのに!そんな些細なことで?)や納得(なぜこの人は傷ついているんだろうという理解)は二の次で、とにかく傷つけてごめんねと謝る。その流れで、つらかったよね、傷つけたよねと相手に寄り添いながら、相手がなぜ傷ついているのか探っていく。そういうもんじゃないのかなあ。これは私の押し付けがましい考え方なのかもしれない。
例えば、不意に人と人とがぶつかり一人が膝から血を流して泣いている。そういうときはもう一人がまず謝り、血を止めて絆創膏を貼る。そういったケアをしてから次どうしようかと改善策を考えていきたい。
でも、パートナーと私の場合、私が血を流して泣いているとき、まず血を流している私がパートナーに謝ったり パートナーが納得するような言葉をかけるところから始めないといけない。私が「ごめん、不注意でぶつかってしまった」と。そうすると彼は納得して、謝ってくれたり、血を止めてくれたりする。
なんでだよ
まず血を止めるのが先だろ、といつも思っている。なぜ、血が出て痛くて痛くてたまらなくてつらくて泣いている私が、彼に必死に言葉を尽くして話さなければいけないのか、全然分からない。私にとってはものすごくつらい。つらくて泣いてるのに、さらに言葉を尽くしてパートナーが理解できるよう、事細かく状況を説明し、なぜ私がつらいのか言語化する、パートナーは同じ目に遭ってもつらくならないと言ったりもするので、いやそれでも私はつらいんだよと繰り返し何度も何度も何度も何度も言う。そうしないとケアをしてもらえない。
結局のところ、人に血を止めて絆創膏を貼ってもらうのではなく、私がひとりでに泣き止み、ひとりでに血を洗い絆創膏を貼るしかないのかもしれない。
別に、パートナーに理解してもらおうと言葉を尽くす必要などないのかもしれない。
ひとりで生きていけるし。
「一人でも大丈夫だけど、誰かに大事にされたい」
というのはドラマ『大豆田とわ子と三人の元夫』のセリフですが、うーん、一人で生きていけるけど、誰かに大事にされたい、そうなんだよなあと、思う。
以前友人から「あなたは自分の人生を自分でよくしていけるから大丈夫だよ」というようなことを言われたことがある。
そうなのかなあ、分からない、でもまずは自分で自分をケアしなければいけないと思う。自分を大事にできないひとは、誰かを大事にすることもできないと、Podcast『ジェーン・スーと堀井美香の「OVER THE SUN」』でも言ってたはず。
ロイヤルホストのコスモドリア食べたかったなあ