軸と真似のはなし

 

かろうじて繋ぎとめてもらっている感じがする。

いっそひと思いに死んでしまいたいと思うときもあるけど、これまで私によくしてくれた友人たちやバレエの先生、同僚、そしてパートナーが泣くであろうことを、おこがましくも思う瞬間に、シミのような涙がじわっとにじみ出てきて、思いとどまっている。正直なところ、やり方が分かれば、いけるとおもう。やり方が分かっていないから、行動に移せないだけであって、なんというか、大好きだった俳優さんに、あなたはどのようにして死ねたんですか?と手順を教えてもらいたいと思うときがある。

 

いつかラジオでジェーン・スーさんが『「死にたい」じゃなくて「生きるのを一旦お休みしたい」ときってあるよね』という話をしていたことがあり分かる~~~と共感100%になったことがある。

 

そもそも死んだことがないので死にたいという欲望ってなんなんだ?ご飯を食べた経験があるからこそ食べたいと思うし、あたたかい湯舟につかる気持ちよさを知っているからお風呂に入りたいと思う、清潔な布団につつまれて眠るすこやかさを知っているから眠りたいと思う、そういう経験ありきの欲望なのであって、経験したことがないくせに死にたいと口にして、それで何をごまかしているんだろう、何をショートカットしてるんだろう、何から目を背けているんだろう、その言葉の裏に隠された自分でさえ気づかない感情ってなんなんだろうと考えている。

 

楽になりたい、早く、もうどうでもいいよ、という気持ちが最近増えてきている、特にパートナーとの関わりにおいて顕著で、なんか、もう結婚して2年でこの進捗の無さならもう期待することを諦めよう、という気持ちにシフトしている。

 

今まで、パートナーがどんなに私を傷つけるような言動や行動をしてきても、それでも言葉を尽くしてきたつもりだった。それは、友人でも同僚でもなく紛れもなくパートナー あなただからこそ分かってほしいことがあって、知ってほしいことがあったから、だから必死に伝えてきたつもりだった。だけどもうそれがいよいよ涸れてきた感じがある。涸れて、乾燥して、なんかカピカピになっている……。

 

これまで自分の不幸を燃料に駆動してきていたけれど、あるとき、私って普通に自力で幸せを掴めるな……みたいな実感があって、そして別に一人でも全然生きていけるな……みたいな自信もついてきて、なぜそこまで他人に労力をかけなければいけないんだっけ?ということを改めて考えてしまうと、口を閉ざし目をそらし、もうこのひとに時間を割くのは無駄だな、やめよう、という感じになってくる。

 

私がカウンセリングに行き始めるとパートナーもカウンセリングに行き始める。心療内科もコロナのワクチンも私の真似をするようにパートナーが行動を始める。その、私に依存されている感じが結構負担になっている。今更遅いんだよ。

そして、おまえの行動は私の真似をしているだけであって、肝心なおまえの軸の部分には全く届いていない。付け焼刃で行動をしたところで、おまえの軸におまえなりの信念や感情が絡みついて両掌で離すまいと爪を立てて掴んでる感じなんて全然ないから、そんなの小さな揺れで簡単につり革から手を離してしまうのと同じで、全然意味ないんだよ、と思うときがある。私がいつどこでどういう思いでなぜカウンセリングに行こうと思ったのか、そういう文脈が生きていく中での選択すべてにあるはずなのに、誰かの行動や選択にフリーライドしたところで感情が震えるのはどうせ上澄みだけ、クソが。そういう思いで生きています。

 

何の話?

 

私が高校生のとき、センスの良いすてきなサブカル趣味を持つクラスメイトに憧れて、私もその人の真似してセンスの良いすてきなサブカル趣味を持とうと頑張ったことがあるんだけど、当然クラスメイトと私は他人だから良さなんて全然分かんなかったし、分からないからこそ余計にクラスメイトに憧れと嫉妬と憎悪みたいなものがどんどん積み重なっていって、今思えば精神的に不健康だったな~という経験がある。

同じように私も他人から勝手に憧れだかなんだか何らかの感情を持たれて真似されたり依存されたり期待されることがたびたびあり、そういう人はあるとき突然嫌いになったと勝手に離れていく。竜巻みたいな、こう、バーッと色んなものをかき乱したわりに後片付けもせずに去っていく、は???いったい何に付き合わされたんだ私は?と思う。

 

そういうことが今後もたびたび起きるんだろうか。よくわからない…よくわからないブログだしなんなんだこれは……。おわり。