ディズニーランドに行けたのはよかった。
10月に行く予定だったのに夫婦喧嘩が勃発して泣く泣く延期していたので、とにかく無事行けたのはよかった。楽しかった。「はじめてのデートのつもりで行くのはどうかな?」とパートナーに誘われて私がまんまと落ちてしまった。
でも、我慢することや気になることがなかったわけじゃない。夫婦喧嘩で傷つけられた言葉の数々も、無かったことにはならない。
ディズニーランドに行けて楽しかったけれど、現状は何も改善していない。
気になったこと。
例えば、パートナーは喫煙者なので、度々喫煙所に行く。ディズニーランドの喫煙所は3か所しかないので、わざわざ喫煙所の近くに私も向かう。パートナーは5回くらい喫煙所に行った。ディズニーランドは、喫煙所に入るにも並んで待たなければいけない。大変な場所である。当然時間もかかる。別に、煙草を吸うな!なんて思ってない。でも、パートナーに合わせて喫煙所の近くまでわざわざ向かったり、一人で待っている時間が、無駄だなあと思う。チュロスの一本でも奢ってくれてもいいんじゃないか?とは思ったが特に何も言わなかった。
以前、南紀白浜のアドベンチャーワールドという、パンダが大量にいる広大な動物園兼遊園地に行ったときも同じようなことを思った。アドベンチャーワールド内には喫煙所がなく、入り口を出て喫煙所まで行き、再入場する必要があった。広大な土地にもかかわらず、何回か入り口まで戻ってパートナーが煙草から帰ってくるのを待つ。この時間、一体なんなの?と思った。
喫煙者を待つ側の人たちはどうしているんだろう。
アドベンチャーワールドのときは、待っている間にひとりレッサーパンダを見ていた。かわいかった。
↓そのときに撮った写真です。
しかしディズニーランドはどのアトラクションも並ぶ必要があるし、パートナーが煙草から帰ってくる時間を有効活用するというのが結構難しかった。派手に転んで泣く子どもとか、ベビーカー争いで姉妹喧嘩をする子どもとか、ご飯を食べずにギャン泣きしている結構大きめの子どもとぶちギレる母親とかを見ていた。なんなんだこの時間は?
まあいい、ディズニー自体は行けてよかった。楽しかった。
しかし帰ってきてから思い出すのは先日の喧嘩のことで、やっぱり無かったことにはなっていないし、私の傷も十分には癒えていなかった。
にも拘わらず、パートナーは「来年はシーに行こうね」とか、「紅葉を見にドライブに行こう」とか「年末年始は新潟においしいご飯を食べに行こう」とか言う。
現状は何も改善されていないのに、これまでのことには向き合わずに、楽しいことにばかり目を向けている。それはそれでいい。でも、私はまだ傷が痛くてたまらないし、今回一度延期したディズニーをよくもまあ「来年も行こう」だなんて簡単に言えるよな。私はまだ傷が痛くてそれどころではなく、今はそこまで紅葉を見にいきたいわけでも、新潟に行きたいわけでもないのにな。
置いてきぼりにされている感じがする。
私の意思は?私の意思や気持ちはどこへ行くのだろうか?と思う。
*
ディズニーランドでスーベニアメダルを買った。2006年からチマチマ集めているもので、すごい好きというわけでも行ったら毎回買うわけでもないんだけど、なんとなく気になるものがあったときに買っている。今回買ったものをコレクションブックに入れてパートナーに見せたら「こんなに集めてたんだね、知らなかった~!」と言われて嬉しい気持ちになった。まだパートナーが知らない私の一面があること、また、それを知ってもらえたのが嬉しい気持ちだった。続けて、「今度一緒に行ったらおれの分と合わせて二枚買おう」と言われた。ん?と思ったが、そのときはそのままスルーした。
自分の中の引っかかるものがあったのに目を背けてしたツイートがこちら↓
ディズニーのスーベニアメダルを2006年からチマチマ集めているのだけど、昨日もディズニー行ったときに一枚買って、コレクションをパートナーに見せたら「こんなに集めてたんだね🥰知らなかった〜!」と言われて嬉しかった、知られてないことがまだたくさんあって それを知ってもらえるのが嬉しい
— 赤埜よなか (@_ynk) 2022年11月4日
で、今日になって、「私の""好き""にフリーライドされている感じがしてイヤだ」という自分の気持ちに気づいた。私が昔から大事に積み上げてきたものを、一瞬にして奪われたり浚っていかれる感じがしてイヤだった。そんな簡単に私の好きを奪わないでほしい、私が感じている良さも大事さもこの短時間じゃ分からないくせに、なんなんだよと思った。それがモヤモヤの始まりだった。
なんとなく元気が出ないな、なんとなくつらいなと思っていて、何が原因だろう?と考えていた。以下いろいろ。
- パートナーが「諸刃の剣」を「もろはのけん」と言っていたのが気になった。そういう読み方があるのかも、と後で調べたらそういう読み方はなかった。「間違ってるな~」と脳のメモリを食うことも、指摘をする負荷も、指摘したら指摘したで気を悪くして「そんな些細なことで!?」といつものように言われるかもしれないとつらく思うことも、全部イヤだ。
- キンプリの3人が脱退するという話をしたときに、「ジャニーズって他のアイドルみたいにメンバーを補充したりしないよね」という話をする中で、「ももクロの有安杏果さんは二期生だ、だからいじめられてたんだ」という話をされたことも気になっていた。もしかしたら私が知らないだけで二期生だったのかもしれない、と思って調べたら有安杏果さんは最初からメンバーだったし、早見あかりさんが抜けるタイミングでZになっただけだった。
- 上記二点の間違いをパートナー自身が気づかないこと。自分が間違っているかも?と自ら調べて訂正するようなことはしないこと。私が調べて指摘するのがしんどい(指摘しなきゃいいだけ、だけど気になってしまう、スルーすればいい、それはそう……正しさで殴ればいいってもんじゃない、分かっているけどできない……これは私自身の問題……)
- モスバーガーのきれいな食い方スレが私は大好きで、パートナーに紹介したところ、パートナーは「読んでみるね」と言ったけれど多分読んでくれないだろうなと思ったこと。以前ハマっていたNetflixの『ウ・ヨンウ弁護士は天才肌』も紹介して「今日見ようかな~」とパートナーは言ったくせに見てくれなかったし、期待を持たせるようなことを言いながら行動に移さないだろうなと思ったこと。好きなものを知ってくれないのがそもそも悲しいんだけど、「見ようかな」「読んでみるね」と期待させたくせに行動しないということでさらにつらくなる、というのがたびたびある。
- 駅のホームで電車を待つ間、人が多くて日差しが眩しいところがイヤだったので、パートナーにその旨を伝えて移動した。が、移動した先も日差しが強く眩しいところだったので「眩しい」と言った。しかし二人で椅子に座っていたのでさらなる移動は叶わなかった。パートナーは帽子をかぶっているからいいだろうけど、私は眩しくてムリなのよ……
- 「はじめてのデートのつもりで」というのはディズニーだけの話で、これからはまたこれまでと同じようなことが繰り返されるんだろうなということ。謝罪も寄り添いも改善も何も求めてはいけない、何も変わらないと諦めなくてはいけないであろうこと
- 仕事や習い事など人と関わる中で気になったことやおもしろかった話など雑談としてパートナーに共有しても、その場では聞いてくれたとしても、喧嘩のときには「なぜそこまで人に執着するのか分からない、なぜそこまで人が気になるのか分からない」と言われたり、私が嵐や松たか子のことが好きなのを知っていながら大野智のことを「大麻くん」と言ったり、「松たか子が歌下手なのはもとから」と言ったりするから、私の大事なものや好きなものの話は極力しないように気を付けている。傷つけられたくないから。だから傷つけられてもいいどうでもいい話題を話すんだけど、そんな傷つけられてもいいどうでもいい話題ってなかなか無いなあということ。話すことがない。
- 私がバレエに行くときは、パートナーは温泉施設に行っていて、一緒に帰るときがたびたびある。いつも私のほうからパートナーが電車の何号車に乗っているのか探したり声をかけているが、今日はこんな状況でつらい気持ちであるというのをパートナーも知っていたはずなのに、パートナーはホームで待つ私をついぞ探しにきてくれなかった。
ホームの椅子に座り、一歩も動かないまま「駅のホームにいるね」と連絡をしてきた。私の認知は「駅のホームにいるね(だからおまえがおれのところに来い)」だった。私は一緒に帰れたらラッキーくらいにしか思っていない一方で、パートナーは「一緒に帰りたい」と思っているらしい。そのくせに自分からは行動しない。そういうところが気になる。つらい状況においても、パートナーから私に駆け寄ってくれることはなく、私からパートナーを探し出さなければいけない。
この、探しにきてくれないという悲しみを言葉にしたところで、今度からパートナーの行動は「私を悲しませないよう、怒らせないように、探しにいく」というふうに変容するだけで、パートナーの意思として、早く会いたい、早く見つけたい、なんて一ミリも思ってないことがさらに悲しいのである。
好きなものを知ってほしいと思うけれど、たびたび傷つけられてきた。傷つけられるくらいなら、いっそ興味など持たないで、近寄らないでくれと思う。「見ようかな」とか「読んでみようかな」とか期待を持たせないでくれと思う。私が好きなものを一緒に好きになってほしいだなんて思ってない、興味を持ってほしいだなんて思ってない。ただ知ってくれているだけでいい。私の好きという思いを尊重してくれればそれでいい。傷つけられたくない。私の性格や行動に対してひどい言葉をかけてくるのはまだ我慢できるけれど(それでもつらいけど)、私の自殺を救ってくれたアイドルのことや、その他の好きなもの大事なものを傷つけられるのがたまらなくイヤだ。
あと、私はパートナーの添え物だと、たびたび感じている。添え物、付き添い、オプションみたいな気持ちになる。たとえば、パートナーが旅行の計画や予約を全部してくれるから、パートナーの旅行に私がついでについていっている感じがすること。パートナーが湯舟を張ってお風呂に入るから、私もついでに入ること。私が結んだゴミ袋をパートナーが全部持ってゴミ捨てに行ってしまうから、私も手ぶらでついていくこと。パートナーが電車に乗って帰るから、私もその時間に合わせてパートナーを探し出してついでに一緒に帰るように感じること。
「旅行の予約は私だってできるのに!」「ゴミ捨ても私ひとりでもできるのに!」そうやって主張してきたけど、なんでも全部パートナーが主体で、私が添え物みたいな感じがしてイヤだったんだと気づいた。
だから、私がチマチマ集めているディズニーのスーベニアメダルを「今度一緒に行ったらおれの分と合わせて二枚買おう」と言われたとき、私が大事に積み上げてきたものを横取りされて、一瞬にしてパートナーが主体になるような感じがして、脅かされた気がしてイヤだった。
旅行の予約を全部パートナーがやってくれるときや、ゴミ捨てのとき 私が袋を結んだあと パートナーがゴミ捨て場に捨てに行くとき、私だってできるのに と今は思う。結婚前は なんでもやってくれる優しいひと、と見えていた。今は私でもできる仕事を奪われている気持ちになり 自尊心が削られる
— 赤埜よなか (@_ynk) 2022年10月25日
甘やかしたり優しくすることと、何でも一人でやること(自己完結型であること)は全然違うのに、それを混同して パートナーが何でも一人で行動することを 私のためにしてくれている優しさだと勘違いして 嬉しい と思ってた。今私の認知が「私にできることを任せてくれない」になってる 歪んでる
— 赤埜よなか (@_ynk) 2022年10月25日
パートナーの自己完結型の行動を矯正するより、「私だってできるのに!任せてもらえない、頼ってもらえない、私ができる仕事を奪わないで!全部一人でやるなら私と一緒に生活する意味ある?」みたいな私の認知を直したい……相手は全部勝手に一人でやってくれるひとなんだから便利に扱えば楽なのに
— 赤埜よなか (@_ynk) 2022年10月25日
私を戦力外として扱わないでほしい。頼ってほしいし任せてほしい。私にもやらせてほしい。いないものとして扱わないでほしい。一声かけてほしい。
「蔑ろにされたり軽視されている感じがしてつらいから、私のことを無視しないで、目の前に私がいるのに一言かけずに自分の判断で勝手に行動しないで」と言っているのに、寝ている私を叩き起こして「湯船張るけど何時に張る?」と聞いてくるパートナー、違う違うそうじゃない、目の前で私寝てるだろ……
— 赤埜よなか (@_ynk) 2022年10月29日
えーーん いろいろつらいよーー