他人の感情を舐めたい

 

 

痴漢に遭った話

先週久しぶりに痴漢に遭った。

触られたくないタイミングで見知らぬ男性に身体を触られた。

なんでもTwitter に書く私が、痴漢の詳細はTwitter には書けなかった。

知り合いが少ないMastodon に書いた。

書くことでやっと悲しいという感情が出てきて、そこで初めて泣いた。

悲しいと感じていたんだと、そのとき初めて気がついた。

 

誰にも助けを求められなかった話

悲しいと感じていた。同時に恥ずかしいとも感じていた。

痴漢に遭ってしまうような私の弱そうで抵抗しなさそうな態度や雰囲気が恥ずかしい。

そこそこの容姿、そこそこの身体、手が届きやすいスペック。

高嶺の花ほどレベルが高いわけでもない。

そういうちょうどよさが私にはあると自覚している。だから痴漢に遭うんだろ???

 

パートナーや友人たち、誰にも助けてほしいだなんて本気では言えなかった。

悲しいとか、つらいとか、指先ひとつで簡単に打って、大変だったよねと簡単な慰めをもらった。

でも本当は悲しくて気が狂いそうだった。

痴漢に遭った日はずっと触られた感触や見せられたものの生々しさが何度も何度もフラッシュバックしておかしくなりそうだった。

ベッドでうずくまって一人で泣くしかできなかった。

 

人間関係の冷たさの話

なんで本気で助けを求められなかったのか。

助けを求めた結果、関係性が崩れることを何より恐れているからだと思う。

そんなことで崩れる関係性なんて最初からいらないのに、相手が抱えきれないほどの強い話や重い話をして相手を壊してしまったらどうしよう、と思ってしまう。

 

私は脳内で「この人はこれくらいなら助けてくれるだろう、これくらいの重さなら話を聞いてくれるだろう」と塩梅を考えながら弱みを見せている気がする。

スマホを指先でタップしながらどれくらいの文章量にしようかとか、感情と事実のバランスはこれくらいにしておこうとか、そういうことを無意識レベルで考えている気がする。

 

相手が抱えられる重さでしか渡さないようにしている理由は、抱えられない重さを渡すと途端に相手が潰れるから。その結果関係性がおかしくなるのなら、最初から助けなど求めなくていい。私は一人で勝手に助かるから。

私の重さで相手を壊したくない。

相手が抱えられる重さで適度にもたれかかることで、相手には頼られている感を感じてもらい、気持ちよくなってもらえる。本当はそんなことするのイヤなのにな。

 

心の中では「甘えてほしいとか頼ってほしいとかよくも簡単に言ってくれたな、本気で助けてほしいときは助けてくれないくせに」と思っている。

忍野メメの「人は一人で勝手に助かるだけ」という言葉もいつも思い出している。

 

人間関係は結局頼れる範囲でしか頼れないような気がする。

本気では頼れないような気がする。

相手の良いところだけを都合よく利用して仲良くしてきたような関係性の人とは特に、利害が一致しているから仲良くしてくれているだけのような気がしてしまう。

 

本気で手を差し伸べ合ったりはしない、

そういう冷たさが人間関係には普通にある。

だからこそ私はぐずぐずの膿んだ弱いところは見せずに、平気で笑って楽しいところだけを見せているような気がする。

孤独だし、しんどいことだな。

 

誰も私の中に踏み込んで手を差し伸べてくれるわけじゃないと本当は頭では分かっている。そんな面倒ごとに自ら首突っ込むなんて誰もしてくれない。

私だって他人に対してそういった行動を取っていない。

だからTwitter を始めとしたインターネットに全部書いて、私だけは覚えておかなければならないと思って書いている。

 

悲しいことがあったとき、誰かから傷つけられたときに、「今私は痛みを感じているな」って 冷静に感じられるような、そんな皮膚に爪を立てたくらいじゃ全然ぬるくて、もっと、指が身体にめりこむくらい 冷静でいられないくらいの痛みを感じて叫んでいるときの、生の感情をちゃんと書き残しておきたいと思う。

あとから見返したときに追体験できるのはいい。感情の味を舐めて思い出せるからいい。

 

東京事変の『群青日和』、「教育して叱ってくれ」という歌詞は、相手の中に一歩踏み込むことを意味しているんだと思う。これを私はずっと求めている気がする。

 

相手のことは好きだけど、その人の前では自分らしくいられないという話

自分らしくいられない。

頑張って元気な自分を演じているときが、特にそう思う。

仲良くしている人だけど、その人の前では猫をかぶっているなと思うときがある。

それは先に書いた、本気で手を差し伸べあうような関係性ではないからだと思う。

頼れる範囲でしか頼らない関係性だからだと思う。

 

相手と私の間に明確に境界線がある。

境界線を越えてはならないと、いつのまにか暗黙の了解になっている。

お互いに踏み越えないように慎重にやりとりをしている。

 

たとえば私が悲しんでいるとき、相手も私が悲しんでいることを分かっていて、言葉では慰め寄り添ってくれながら、決してその境界線を踏み越えたりはしない。

私も相手がつらいときに、心配するような、寄り添うような言葉をかけながら、心では何とも思っていない。

相手のことは大好きなのに、相手の前では泣き崩れられない。ヒステリックにはなれない。理性をずっと保っている。

それでいいんだっけ。

 

パートナーに対しては、自分らしくいられていると思う。

 

 

私の中には何だか激しい感情が明確にあって、

パートナーの前では激しい感情の自分のままでいられる。

他の人には見せられないグチャグチャで理性的ではない自分の姿を見せられる。

他の人には見せたいとも思わないし、見せ方が分からない。

 

パートナーの前では自分らしくいられるのはなぜか。

パートナーはちゃんと降りてきてくれているからだと思った。

 

 

パートナーは、ちゃんと私の悲しみの穴を覗き込んでくれているような気がする。

不器用なりに、全然言葉が通じないなりに、何度も同じ加害を繰り返すわりに、パートナーも私と同じくらい傷ついているような気がする。

傷つくのなら改善すればいいのに改善はされない、それでも痛みを抱えていて、私以上に泣いているときがある。

「なんであなたがが泣くんだよ、あなたが私を傷つけなければこんなことになってないのに、なんであなたが泣くんだ、おかしいだろ」というようなことを言うと、

「おかしいよね、でも涙が出てきてしまう、自分がひどい言葉を言ってきたこと、痛みや悲しみを我慢するよう言われて育ってきて、それを相手にも押し付けていたことが悲しいんだ」と言う。

なんなんだろうと思う。でもこれが私の本心で、パートナーの本心。

 

そもそも寄り添いとは何なのか

 

職場の寄り添い営業をしている先輩を見て感じて書いたツイート↓

 

 

ヨシヨシしながら相手が疲弊するのを待っている。泣き止むのを待っている。

そういうことが結構ある。

 

そして、相手のことをずっと赤ちゃんのように扱って、成長を妨げているような気がする。もちろん、相手が傷つき涙しているときに絆創膏を貼ってやるような寄り添いは必要だと思う。けど、それを延々と続けて何になるんだろう。寄り添う側だってサンドバッグになって擦り減ってしまう。人間は壁打ちの壁じゃない。

 

パートナーから傷つけられたとき、散々寄り添ってくれない!話を聞いてくれない!と何度も怒って泣いたけど、今はもう寄り添いや話を聞いてもらうことを諦めていて、なんだかそれはそれで身軽になった思いでいる。

私はパートナーのことが好きだからこそ、パートナーに傷つけられたとしても、パートナーに寄り添ってもらいたかったし話をきいてもらいたかったはずなのに。

 

これまでも何度も書いてきたけれど、絆創膏を貼って相手が泣き止んだあと(復旧対応後)には、暫定対処と恒久対処を一緒に考えたいと思う。そうしないと同じことが何度でも起こるから。同じことを繰り返さないためにも暫定対処と恒久対処を考えたいのだ。

 

赤ちゃん扱いを続けてはいけない。

赤ちゃんのままでいてはいけない。

命が続く限りは、お互いに成長していかなければならない。

成長のために互いに対処を考えていければいい。

背中をさすり 相槌を打ち 共感をしながら 宥め続けて むやみに時間を流してはいけない。

本当に愛する相手であるならば、相手が二本足で立って歩けるような支援をするべきだし、それをサボってはいけない。

自立できた暁には背中を押して送り出すことが、私が望む関係性である。

 

私はどうしたいのか、どうしてほしいのか

 

以前このようなツイートをした。

 

 

たとえ「おまえなんか大嫌いだ」と叫ばれて暴れられても、何度も何度も手を伸ばして落ち着くまでずっと一緒にいるみたいな、抱きしめて離さないみたいな、お互いがグチャグチャのボロボロになって境界線がなくなるようなことを求めている、気がする。

腕を振り払われても力ずくで止めてほしい。

 

もっと、踏み込んできてくれと思う。

もっと、踏み込んでいきたいと思う。

 

私は相手のことを本気で引きずり込みたいと思っているし、それくらいつらいんだって本当は叫び出したい。けど、そこまで面倒を見てくれるほど優しい人間なんていない。隣の家が火事になっても、「ああ、燃えてるな」「でもまあ自分の家に関係ないならまあいいか」って窓を閉める。煙が入ってこないようにさっさと窓を閉めて、いなくなってしまう。そのときに私はきっと膝をついて声にならない叫び声をあげているだろう。

 

相手が傷つき悲しんでいるとき、傷つけてでも相手の中に入り込んで痛みを取り除いてやれるものなら取り除いてやりたい。でもそんなことは到底できない、なぜなら他人同士だから。だから、傷ついている相手の胸ぐらを掴んで、馬乗りになって、悲しみから目を逸らすなよと、言いたい。目を逸らさずに味わった結果出てきた言葉を、私も味わいたいから教えてくれよ、そういう思いでいる気がする。

なんか、そうやって相手が感じた苦しい味の飴を一緒に舐めることが、私が求めていることで、私がやりたいことのような気がする。

 

そういうことが、こう、相手の心に降りて悲しみの穴を覗き込んでやるようなことに繋がっている気がする。

 

これは復旧対応中の話。

赤ちゃん扱いしてヨシヨシして疲弊するのを待つだけじゃなくて、自ら相手の中に踏み込んで自分も何かを感じたい。復旧したら先に書いた通り一緒に対処を考えられたらいいなと思う。