近藤聡乃『A子さんの恋人』を再読した

 

きっかけは ゆとたわ YUTOTAWA podcast にて『A子さんの恋人』感想回を聞いたからで、初めて読んだのは2021年6月だから、1年以上ぶりの再読だった。

 

 

‎ゆとりっ娘たちのたわごと:Apple Podcast内の第7回「モブは身軽だけど 〜『A子さんの恋人』より」

↑ぜひ聞いて

 

最初に読んだときと全然感じ方が違って驚いたし恐ろしかった。私の周りにはA太郎くんやA君のような人間がいるなと思い当たる節があり、それは 懐に入るのが上手な人間と、懐が大きな人間という二種類の人間いるよねみたいな簡単な話ではなかった。

 

私だったら間違いなくA太郎くんを選ぶ、と心では思いながら、現実では(どちらかというと)A君のような人間と結婚をしたのだった。

 

答えは出ているくせに迷っている(そして何に迷っているか自分でも分かっていない)私のような人間を正確に刺しに来る漫画で本当に恐ろしかった。

 

 

初読時に好きだったシーンのこと

 

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『A子さんの恋人』4巻より抜粋

違うでしょ!
そんな ひと言で言えるほど
簡単な気持ちの人なんていないでしょ!
身軽なところも好きだけど
もっと好きになってもらいたいっていうのも
どっちも本当のことなのよ!

 

2021年に読んだときはこのシーンが一番のお気に入りだった。A太郎くんにずっと片思いをし続けてきたあいこちゃんが、A太郎くんの恋人であるA子ちゃんを叱るこのシーンが一番好きだった。私もこのように誰かの人生に踏み込んでいきたいと最近考えていて、なんか、このシーンは女同士の愛のシーンだなと思ったのでした。

 

人の気持ちというのは、矛盾していることもあるし、理にかなっていないこともある、複雑な気持ちがあって当然で、どの気持ちも本当なのだと、大声で叱ってもらえる人生がよかった。

 

先日、実家に帰る道中で、私は父親から「笑うな」「泣くな」と感情の発露を制限されていたことを思い出していた。多感な学生時代に何かを見て何かを感じていたにもかかわらず、気持ちを表すという出力は制限されていたのであった。だから表情には出さず、指先から感情を出力して文字を書いてきたしその名残が今もある。今の私はよく笑うしよく泣く。誰にも出力を制限されることなく気持ちを出力することができて嬉しい。でも書くのはやめられない。

 

A太郎くんのこと

A太郎くんは、いろんな人に好かれるけど、いろんな人に怖がられている人という印象で、あれは本人は不本意だし孤独なんじゃないのかなと思う。いるよね、A太郎くんみたいな人。何でも器用にこなして人から好かれる人間が私は本当に恐ろしいです。

 

「君は僕のことそんなに好きじゃないから(僕は君のことを好きになったんだ)」みたいなことを言ってしまうA太郎くんの性格が本当に怖くて興奮する。破壊衝動に駆られるというか、そういうことを言って他人を巻き込んだ自傷行為をするなーーッ!!!って肩をつかんで揺さぶりたいです。

 

多分A太郎くんのことをズブズブに信頼しきって大好きになってしまったら、A太郎くんに飽きられるんだろうなと思う。ずっと怪訝な目でA太郎くんの目を見る余地を残しておいた方が、関係性は長続きするんだろうと思う。でもふとした瞬間にズブズブに好きになってなんか溺れる瞬間がスッと過ぎるのがまた怖い、いつの間にか抜け出せなくなっている感覚がなんとなく分かります。

 

 

A太郎くんに無理やり貸し付けられたコートを、A子ちゃんがもう知らね〜って捨てられたら『A子さんの恋人』の物語はすぐ終わってしまう。

片付けの際には要るものと要らないものに仕分けするのではなく、大切なものだけを残しておくというのがA子ちゃんのスタイルなのに、それでも捨てられないA太郎くんのコート、あれは呪いですよ。ずっと脳のメモリ食ってるんだもん、怖すぎます。

 

また、いかに相手に好きになってもらうかというのは、いかに相手に自分のことを考えさせる時間を増やすかにかかっているという話も、ちょっと個人的にタイムリーな話でウッッッとなるのでした。

 

一緒にいるときは当然相手のことを考える。一緒にいないときも相手のことを考えるように仕向けるにはどうしたらいいか、お願いをする、贈り物をするなど 相手に少し寄りかかったり 相手に自分のことを思い出すよう細工をすることが大事だと書いてあって、ウワーーーッとなりました。人からいただいた贈り物を使う瞬間に相手のことを思い出している、恐ろしい……。

 

阿佐ヶ谷や谷根千のこと

阿佐ヶ谷や谷根千周辺の街に対する憧れがあります。あまり行ったことがないから憧れているのだと思います。パートナーが育った街でもあり、パートナーの友人が商いをやっている街でもあり、友人たちが住んでいる・住んでいた街でもあります。おいしいご飯屋さんもたくさんあることでしょう。

 

憧れはあるのに、うまく入り込むことができない街です。結局、住んでいる人にしか見えない景色がたくさんあるのだろうと思います。どの街であろうとそういう住んでみないと見えない景色というのはあるのでしょうが、阿佐ヶ谷や谷根千は特にそう感じます。歴史というか、街の積み重ねをすごく感じます。その街に住んでいる友人はやわらかく馴染んでいるのに、横で歩く私はものすごい異物感で、見えない何かで線引きをされているような気がしてなりません。

 

商店街など、ふらっと立ち寄った観光客にはビジネス臭が漂ううわべのところだけを見せて楽しませ、そこに住まう人たちにはビジネスではない人間関係が色濃く見えるところもあるのでしょう(勝手なイメージです)。私はそれを見たかったのかもしれないです。

 

以前パートナーにGoogle Mapで学生時代の通学路を案内してもらったことがあります。本郷三丁目駅根津神社の案内などをしてもらいました。学校は人口芝生の校庭だったり、プールが屋上にあったりして驚いた記憶があります。

東京生まれ・東京育ちコンプレックスをひどく刺激されました。しかし東京生まれ・東京育ちは「帰省」という概念がないのだとジェーン・スーさんが話していたこともまた思い出すのでした。

 

 

東京というのは上京した人間が作った街である。上京組には帰省先があるけれど、東京生まれ・東京育ちにはそれが無い。私が東京生まれ・東京育ちの人たちにひどくコンプレックスを感じるように、東京生まれ・東京育ちの人たちも何らかコンプレックスに感じていることもあるのかもしれないと気づいた文章です。

 

ちょっと何が言いたいのかよく分からなくなってきたけれど、人が生きてきた街をGoogle Mapで案内してもらうのはすごく楽しいのでおすすめです。

 

 

そして『A子さんの恋人』を読んで東京への憧れも強く感じたのでした。

イナムラショウゾウのモンブラン食べたい。

シンチェリータのアイスも食べたい。

愛玉子にも行ってみたい。

 

誰と生きていくか選ぶこと

 

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『A子さんの恋人』7巻より抜粋

あなたと一緒にいると
私は私でいられない
君と一緒にいても
僕は変われない
このままではいけない
それでも手が放せない。
……もう少し
もう少しだけ 一緒にいたい

 

読んでて死んじゃうかと思った。

 

先日最終回を迎えたドラマ『silent』では、女の子をキラキラさせる男と、女の子をぽわぽわさせる男の話がありましたね、あったんです。で、何でもかんでも二元的に物事を考えるのではなくあらゆるものがグレーゾーンだというのがドラマ『カルテット』の話だったわけですが、まあここでは二元的に考えると、A子ちゃん以外の女の子をキラキラさせる男はA太郎くん、A子ちゃんをぽわぽわさせる男はA君みたいな印象を私は持っています。そして、私はぽわぽわさせる男を選んで結婚をしたのでした。『silent』は、多分高校時代には女の子をキラキラさせる男だった佐倉想くんが、少しずつぽわぽわ側に変容していき、青羽紬ちゃんはその佐倉くんを選んだんだと思います。湊斗くんは一貫してぽわぽわ側の男だった。

 

先にも書いた通り、私だったら間違いなくA太郎くんを選ぶ、と心では思いながら、現実では逆の選択をしました。今も、喧嘩中ではありながらも、パートナーと共に生活することを毎日選び続けています。

 

 

私は、パートナーといられるときの自分は自然体だなと思います。が、そういう自分が好きかというとまた別だなと最近は思います。甘えたり怒ったり泣いたりと自由に感情を出しても咎められない居場所というのはとても居心地がいいです。

でも、パートナー以外の人と一緒にいるときの、まさにA子ちゃんがA太郎くんといるときに見せる少し意地悪で性格がひん曲がってケケケと笑う そういうときの自分が楽しく好きなときもあるのです。ふざけあいながら、じゃれあいながら自分を見つめ直し、人の価値観を知り、そうしていくことで自然とアウトプットが増えるのです。

 

どちらも本当の私です。

誰と生きていくか選ぶというのは、人によって見せる顔が変わる自分を受け入れ その顔を選ぶということでもあります。

自然体でいられるから好きというわけではないのだと『A子さんの恋人』を読んで感じた。それが分かっただけで良かった。

 

軌道修正のこと

物事に行き詰まったときは 軌道修正しようとしてもどうにもならないから一度白紙に戻してやり直すんだという話が作中で何度も出てきた。

 

私でいう白紙に戻すとは、一体何なのだろうと考えている。2か月まともに話していないパートナーとそろそろ向き合わねばならない気がする。

直近の喧嘩のことだけではなく、最初のことから話さないと軌道は修正できない気がする。例えば、冷蔵庫や電子レンジや炊飯器などあらゆるものが2つずつある状況から直せないのか、もしくは離婚することで白紙に戻すか。

 

家電を始めとした何もかもが2つずつある状況というのは、いつでも別れてもいいようにと、始まってもいないのに終わりを見据えて怖がっていた結果でしかないような気がしている。

パートナーには1つにまとめようと提案したのにパートナーのこだわりで断られた。それでも私の物を捨てるという選択だってできたはずなのに、私はそれをしなかった。私のほうがスペックが高い家電を使ってるからとかそういう理由で捨てられていなかった。人に踏み込んでいきたいと先日のブログでは書きながら、踏み込む勇気がなかったのは私なのではないかと思い始めている。