人の不幸を願ってしまう自分がいる。
不幸、というか、自分の幸せの代わりに犠牲になってほしいと願うものが明確にある。自分のあまりの醜さにびっくりする。自分の欲望、自分の幸せ、その輪郭はぼんやりとしているくせに、人の不幸は具体的にコレというのがある。人が幸せのゴールに辿り着きませんようにと日々祈っている。
struggleという単語 もがくとかあがくとかそういう意味だけど、私にぴったりだなといつも思う。私はもがいて生きている感じがする。本当に幸せになりたいだなんて思っているのだろうか?思っていないような気がする。
不安よりも不幸を選んでいる。選び続けている。不安に耐えるくらいならいっそ不幸に身を置いた方が楽。2022年学んだ言葉のひとつ。会社の会議で「あの人らは幸せになる勇気がないんですよ」と誰かが言っていた。石橋を叩きまくって壊して、幸せになれたはずの橋を渡らずにその場に留まり続ける人たちのこと。停滞。
幸せになるにも勇気がいる。覚悟がいる。
来年はこれについてもう少し考えていきたい。
以下、言葉の供養
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・2022/12/27
3年ぶりに実家に帰ったときのメモ
東海道線に乗ったあたりから着実に具合が悪くなっている。『A子さんの恋人』を読みながら、坂本真綾の音楽を聴きながら、たまに車窓の眺めを見ている。よく晴れていた。ボックス席、向かいに座る人も車窓の眺めを見ている人でよかった。
正直懐かしいとは思わなかった。初めて見る景色だとも思わなかった。私が意図的に消した記憶たち。何とも思わない。色褪せたショッピングモールの看板を見て、色褪せたままでいいの?とは思った。
最寄駅で降りて、キャリーケースを持った同年代くらいの女の子を見かけた。帰る家があっていいなと思った。
バスに乗った際には涙ぐんだ。どういうふうに感じているのか名前はわからないけど涙ぐんでいた。感情の名前はおそらく後から追いついてくる。
祖母に「身体だけは気をつけて」と1万円を握らされた。金。
「一人じゃなくて二人で帰ってきて、家建ててもいいんだから、あなたは長女なんでしょう」
「緑内障の手術したの、でも背中だけは曲げないようにしてるの、毎日土いじりをしているの」
もうすぐ死ぬんだろうなと思った。
これが最後になる気がしてiPhoneで祖母の写真を撮った。
もう当分帰らなくていい。
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人は別に誰の所有物でもないというか、自分のものなのに、それを分かっていても ふとした瞬間に自分の傲慢さがヒュッと首のあたりを過ぎ去っていくのがちょっと怖い。もう少しでこの傲慢さを人に振りかざすところだったと怖くなる。
イライラする。
本当は振りかざしたい、もっと乱暴に人に当たりたい。大事な人を傷つけて、どんな反応をするのか見てみたい。
色んなものが邪魔すぎる 引越しも年末年始も人間も全員邪魔だな イライラしてきた
— 赤埜よなか (@_ynk) 2022年12月30日
ムカついてきたから散歩行く
— 赤埜よなか (@_ynk) 2022年12月30日
今日は自分が何にもできなくて悔しくてイライラした。私にできることはたくさんあったはずなのに行動しなかった 悔しい 悔しすぎて散歩しながら声あげて泣いた 何に縛られてるんだおまえはと思った
— 赤埜よなか (@_ynk) 2022年12月30日
昨日はイライラして夜中に散歩した。
なんて自分は傲慢なんだと理解しつつ、否定はしない、辻褄の合わない感情が自分の中にはあるのだと認めて、それでクソ!と口にして、歩いて、泣いて、歩いたら、妙に心が静かになった。
年末年始の雰囲気に飲まれたくなくて、部屋に引きこもってインターネットをしている。今の所飲まれずに済んでいる気がする。年末年始、自分の意思に関わらず、自分の感覚の上辺のところだけを掴まれるというか、自分の中の少量のメモリが消費される感じがイヤなのだ、消費するなら一思いにガッツリ奪っていってほしいのに、上辺のところだけをさーっと撫でられていくのが気持ち悪い。
今日はお湯の温度や時間をキッチリと計測してコーヒーを淹れた。ちゃんとおいしいものができあがった。冷めても酸味が出てこない。
心とかの問題ではないのだ、科学の問題なのだから、最初から全て計測し尽くせばいいのにそれをしないで雑に生きている。その選択肢を選び続けているのは他ならぬ自分。
もっと自分の幸せのために生きたい、そして、それと同じくらい人に尽くすこととか、人に与えることで得られる幸せについても身をもって知っていきたい。もっと人のために生きたい