今年の目標のひとつに、「高橋一生さんを一方的に生で目撃する」というものがあったのですが、その目標(夢)が叶いました。
ライブや舞台に行くことを「会いにいく」と表現するのはあまりに烏滸がましいので「一方的に生で目撃する」と表現しています。お金を払って一方的に見させていただいた、という感じ。
とにかくすごかった。テレビの枠に収まらない、私が好きなように見ていい時間があったこと、それがたったの1万円、安すぎるのでは?
もう死んでもいいとさえ思う………。
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私は『カルテット』というドラマがとても好きです。2017年の作品。高橋一生さんのことを初めて意識したのは、この『カルテット』のときで、彼が演じる家森諭高という人間も好きだった。
演技のことは全くの素人だけど、このひとの演技が好きだなと思った。
最初は『耳をすませば』の聖司くんの声のひとね、くらいにしか認識していなかった。
『カルテット』以降、なんというか高橋一生ブーム的なものが起きていて、ドラマや映画に出ている姿をたくさん見た。
彼が出演している作品について、好きなものとそうでないものがあり、全部を追いかけて見るということはしていない。
(全部を追いかけて見なくても好きでいて良いのだということは、昔から応援しているアイドルで学んだ)
私は『カルテット』以外だと『凪のお暇』と『岸辺露伴は動かない』が特に好き。そりゃみんな好きだろうという感じだが……。
かなり複雑な家庭で育ったことも、たびたび思い出す。私には到底理解できない、というのが私の高橋一生さんへの印象。
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2022/07/23、PARCO劇場にて、『2020』を観た話。
客席から歩いて登場した彼は白い不織布マスクをしていた。歩くときの足音を聞いた。ああ、高橋一生ってマスクするんだ、足音するんだ、と些細なことにいちいち胸がいっぱいになった。
人間だから当然なんだけど、体重があり、身長があり、靴を履いているから歩くと音が出る。"体重を感じる"とか書くとキモいけど、ドラマや映画で観るのとは違い、重さとか質感を直に感じる。すごい。高橋一生さんって人間なんだ、みたいなことを改めて認識する。
幸運にもB列の席だったので、すぐそこに高橋一生という人間が立っていて、1m〜3m、本気を出せば触れられる距離に存在していた。生物(なまもの)だった。
白い肌、眉毛の一本一本、顔の筋肉、首もと、日焼けした腕、腕に生えた毛、太い血管、切り揃えられた爪、パーマがかかった茶色い髪と黒い髪の二色、ひたいの汗、シャツについた汗、目の動きが、よく見えた。肉眼ではっきりと見た。
首を傾けてわざとらしくクシャッと笑うときの顔、周りをやんわりとゆっくりと睨め付けながら台詞を言うときの声、まっすぐに客席に差し出された手(私に手を差し出されているように感じた)、手をだらんとさせて肩を揺らしながら笑う横顔。
舞台が終わって一番に思ったことは、「あなたは、こういうことがやりたかったんだね」ということと、「あなたは誰にも自分のことを分かられたくないのね」ということだった。
作品自体が難解なこともあるけど、こういうことがやりたかったんだ、そうだったのか〜と思った。
「自分で体験し感じたことなのに、すでに他の誰かが体験し感じている。他の誰かが見た景色がすでに存在している。誰の目にも触れていないものなど何もない」
「自分の中のモヤモヤが言葉として出たらそれはもうモヤモヤとは違うものになってしまう」
「色んなひとがいていい、おんなじひとがいたっていい、よく似ているけど少し劣るひとがいていい」
「人間はお直し(作品内では、悪いところやダメなところを良いものに交換するみたいな意味)をするのが今じゃ普通。でもおれはお直しを選ばなかった。生まれたままの、不完全なままでいい、不完全なままがいい」
自分の中の一部を切り出してくれて、教えてくれてありがとうという気持ちになった。
『カルテット』のときも、ダメダメなままでいい、不完全だから良いんだという話をしていたような気がする、
人間同士、他人だから完全に理解し合うことはできない、あなたが完璧を求めたとしても不完全なほうをおれは選ぶ。自分の内面をどんなに忠実に言葉にしても、内面と言葉にギャップがあり、さらにはあなたの言葉とおれの言葉は、おんなじ言葉でも定義が違うからギャップがうまれる。どんなひとがいたっていい、分かってもらわなくていい、ただ不完全な人同士が共に生きる、その状態がただ在るだけ。
舞台上で激しく動いたあとに「くたびれちゃうんだよコレ」と彼が言ったとき、ブームのときの怒涛の生活のことを思い浮かべずにはいられなかった。しんどかったのかな、とか、色々。
「他人の許されざる行為を容認する」「唐揚げにレモンかけて怒ってたくせに?」「あれはドラマの話、おれ自身はどっちでもいい、レモンかける派だし」
唐揚げにレモンかける派の高橋一生さん情報、ありがとうございました……。
自分の舞台を観にくるひとがおそらく『カルテット』も観ているだろうことを見越してのメタ台詞。客席でも結構笑いが起きていた。カルテットはみんな好きだし、それに、5年経った今でもお客さんや高橋一生の中で家森さんが生きてることがなんだか嬉しくてたまらなかった。
舞台上では、白い立方体のブロックがたくさん使われていて、暴れたり動き回ったりする過程でその白いブロックが客席にまで落ちてきていた。「うわーすごい落ちてる」と言いながら、客席に降りて拾ってくれるのも素っぽくてよかった。
ボルダリング的なことをしていたり、ボールを上手から下手に投げている様子を見ると、ウワーーーこのひとってやっぱり男性なんだなー!と思わずにはいられなかった。
私は男性を前にすると、このひとには力では敵わない、頑張ればこのひとは私のことを殺せるんだとたびたび思う。そういう物理的な力では敵わない感じを目の当たりにして、少し興奮した。
カーテンコールのとき、共に舞台に立っていた橋本ロマンスさんと向き合って、肩を揺らして笑っていたのがすごく良かった。肩を揺らして笑う仕草、好きです。
橋本ロマンスさんのモダンな踊りもしなやかで美しかった。鉄筋?に座っておちゃめに笑う姿もキュートでした。
とにかくそこに高橋一生さんが生きていて、動いていた。様々な声で滑舌よく言葉を発したり、歌ったり踊ったり高いところに登ったり走ったり転んだり……。よかったな………すごかったな………。
間の使い方が上手い、滑舌が良く聞き取れない言葉がない、自分の身体をコントロールして動かしているのがよく分かる。よかった、高橋一生さんが生きているのを肉眼で見られてよかつた。