感情いろいろ


そばにいたいと思えば思うほど、相手から何かを奪ってしまう。おれは相手のありのままが好きなのに、おれは相手からありのままを奪ってしまう。それでもおれは一緒にいたいと思ってしまう。おれと一緒にいる限り相手のありのままは死んでいくのに、おれは相手のありのままを殺してまで、一緒にいたいというエゴが全身から湧き出てきて相手を貫きそうになる。


あと……嫌われたくない。好かれたいだなんて思わない。ただ嫌わないでいてほしい。そういう気持ち、分かんないかな。

 

これはヤマシタトモコ『違国日記』9巻の感想。

今日はいろいろコンテンツ系の感想と感情のこと。

 

 

ヤマシタトモコ『違国日記』9巻

 

 

スランプで苦しむ槙生。

ヤシの木が生えた小さな小さな南の国(のようなところ)にいる槙生。

周りは砂漠(のようなところ)である。


私のこのツイートと同じだ、と思った。

 

このまま這い上がれなかったら死ぬんだみたいな絶望的な気持ち。どこにも行けないという槙生の気持ち。


スランプのときの槙生のことを、笠松さんは「正直そこは怖くて避けて通ってたので」と言った。怖くて近寄れないという意味だと思う。腫れ物に触れてはいけない、地雷を踏んではいけないと言いながら、自分の恐怖がゆえに槙生のことを一人にした。寂しい思いをさせた。でも、笠松さんは、遠くから槙生のことを見ている。見てはいる。ただ、声はかけない。一人苦しむ槙生のことを双眼鏡で覗き込んで見ている。きっと、助けを求めてたら、助けてくれる、優しい人なんだと思う。でもね、助けを求められないから困ってるんだよね。

 

笠松さんのいう「怖い」って何。本当かな。

触れてみたいよ、私は。

一方で遠くから見るんじゃなくて触れようとする朝ちゃんの愛よ。朝ちゃんはスランプの槙生の世界に踏み込まずともバリアを破っていたよ。あれが愛だよ。私が欲しい愛のかたち。

小さな南の国で声をあげるほど元気のない槙生に向けて、朝ちゃんは砂漠から叫んでいたよ。

「大丈夫?」って遠いところから、安全なところから聞いて、「大丈夫だよーーーッ!」て叫ばせるようなことはしない。そうじゃなかった。遠くにいる朝ちゃんがひとりでに叫ぶ、槙生のことをもちろん意識はしているけれど槙生に返事を強要するものではない。返事ができないくらい元気がないことを分かっているから。ただ、私はここにいるからね、と相手に知らせるだけ、そうすれば槙生に声が届くから。遠くにいながらでも近くに感じられる、そういうやり方があった。灯台があると分かればそのあたたかさを想像することができる、それくらいで十分なのかもしれない。眩しい優しさは疲れる。

 

***

 

胸を掻きむしりたくなるほどの感情に叫び出したくなる。孤独と強すぎる感情、槙生の、誰かが誰かのために勇気をふりしぼって戦うのが大好きだという気持ち、誰かが誰かのために何かを懸ける姿が胸をつよく撃ち抜くこと、揺さぶられること、分かる、全部分かる。でも、そんな理想論を掲げながら、掲げたくせに、誰かを助けることができなかった過去、懸命に伸ばした手をすり抜けたわけではなくて、私は手すら伸ばさなかった、罪悪感を感じることすらおこがましい。そういう矛盾した自分がいることをそのまま受け止めること。誰に軽視されようと、矮小化されようと、私はそれがおかしくなりそうなほどつらかったのだ。

 

***

 

わたしにとっての「才能」は「やめられないこと」

 

やめられない、やめられないことが才能。私はバレエを子どもの頃から今まで続けてきて「子どもの頃から続けてすごいね」と言われてきた。そうかな、私はただやめなかっただけだよ、やめられなかっただけだよ、呪われたように、踊ることを手段として、続けるしかなかった、踊るしかなかった、他にも、書くしかなかった。Twitterに一週間書かなくなってもそれでも書くことはやめられなかった。

 

ヤマシタトモコ『違国日記』8巻

カウンセリングを受けている時に大嫌いな父親の気持ちが分かるというか、「私が子どものときに冷たい態度を取られたのはもしかして父親なりにこういう意図があったのかもしれない」って思いを馳せることがあるんだけども、その子どもの時に冷たくされて悲しく感じた自分の気持ちっていうのはそれはそれとして別にあって、父親が考えていたこととか父親の意図とかそういうのが分かったところで、分かったからといって許せるようになるわけではないんだよね。ただ、父親に聞いたわけじゃないけど、自分なりにこうなのかもしれないって思うことも、相手のことを知るということの一貫だとは思う。

 

父親のことを知って、父親の意図を知っても、「それなら仕方ない」って思えるほど私は優しくないし許せるわけではないし水に流せるわけではないし、父親のことを可哀想って思ったりつらかったねって思ったりそういうことはないんだけど、ただ知ってるっていう、思いを馳せたっていう、そういうことが良いのか悪いのか分からないしそういう問題じゃないと思うんだけど、ただ知ってるっていうことが、今の私にとっては大事なことなのかもしれないなって『違国日記』の8巻を読んでて思った。

 

朝ちゃんが「父親ってどんな人ですか?」と色んな人に聞いてまわることで、何か、思いを馳せるヒントが増えたらいい。そうやって輪郭が掴めることってあるからね。

 

反響で周囲が見えるっておもしろいよね

 

周りに見てもらうことで輪郭を帯びることってあるよね。それが朝ちゃんにとっては"エコー"という言葉で表現されていた。

 

 

岡田惠和『日曜の夜ぐらいは…』第9話

わぶちゃんとおだいりさまがケンタに対して「今日は配管工事の立ち会いお願いしますね」と言ったあと、みねくんが家に来て「今日は配管工事の立ち会いお願いしますね」と同じことを言っていた。これは、みねくんが配管工事のことを覚えていて、さらにわぶちゃんとおだいりさまが「お願いしますね」という言葉を言ったことを知らずとも、みねくん自身が言葉にしたいと思って言葉にしたということで、なんというか、そういうコミュニケーションが大事だよねと思った。


前に一回言ったからもう言わなくていいとか、他の誰かが言ったからもう言わなくていいとか、そういうことじゃない。
そういうことじゃなくて、みんなが「お願いしますね」と言葉にすることが大事。みんながあなたのことを大事に思っていますよ、みんながあなたのことを忘れずにいますよ、という そういう言葉はいくらあってもいい。


別のシーンでも、みんながちゃんとリアクションを取っていた。3人に向けられた言葉なら、「うん」「うん」「うん」と3人がリアクションを取る。これが大事だと思った。

 

ハルノ晴/市川貴幸, おかざきさとこ, 黒田狭『あなたがしてくれなくても』最終話

最終話は賛否両論だったらしい。主人公のみちが「一人で生きていく」と言って夫と離婚したのにその夫と復縁するんかい!という視聴者のツッコミがあったとのこと。
私は、結婚していても一人で生きていくことは可能だと思う。だから、「一人で生きていく」と言ったのに復縁するんかい!というツッコミは、物事を表面上でしか見ていないのではないかと思った。
みちが言っていた「一人で生きていく」「一人で生きていきたい」という言葉は、「自立して生きたい」「自分の足で歩んでいきたい」ということ。この「自立して生きていく」ということを、結婚しているとつい忘れてしまう。独身のときは家事も仕事も趣味も何もかも一人でできたのに、パートナーがいると、ついつい何かを共有したつもりになって、共有できないと不満に感じることが増えていく。家事を手伝ってくれない、仕事の大変さを分かってくれない、自分が大切にしているものについて話を聞いてくれないetc. 今までは一人でできていたのに、いつの間にかそれができなくなっていく。
そういうところを、みちは昇進試験の勉強をがんばったり、転んで助けられるのを待つ陽ちゃんを助けないでそのままにしておくとか、そういうことをしていくことで、ひとつひとつが自立に繋がっていくんだと思った。

 

その他

オードリーの若林さんがおれのことを分かってもらいたいと思っていた時期は書けたけど、分かってもらいたいと思わなくなったら書くことがなくなった、というような話を以前していた。

Twitterに書くことを一週間ほどやめてみて、もう書くことなんてないような気がした。今はよく分からない気持ち。私は誰かに分かってもらいたくて書いていたんだろうか。私は私のために書いているつもりだった。でも今はなんか他人の妙な眼差しがあるような気がして、その脳のメモリを一瞬食う感じが邪魔で仕方がない。うるさい。

 

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今日電車を降りて駅のホームを歩いていたら後ろから思い切りぶつかられた。え?と思ったのも束の間 ぶつかってきた人は私の前を通り過ぎて階段を降りていった。私はその人に釘づけになって、その人のことを走って追いかけてしまった。私に気づいたその人が、私のことを一瞬見たあと歩みを早くしたのが分かった。それでも私はその人の顔がもっともっと見たくてたまらなくなって、その人から少しの間目を逸らすことができなかった。追いかけるのをやめられなかった。


こういうことがよくある。


駅で折れた傘を自販機横のペットボトルのゴミ箱に捨てる人、階段で危ない傘の持ち方をして他人を失明させるリスクを無自覚に背負っている人、そういう人を見ると、怒りはなく、ただただ知りたいという欲望がとても強くなる。もちろん常識と言いつつ自分の基準で判断して、こいつはヤバいと思っているのは確かだけど、それでも自分が被害に遭ったとかは全く思わず、ただ、私の常識とは別の世界に生きて生きる人のことがとにかく知りたくなる。どういう顔をして、どういう目つきをして、どういう歩き方をして、何を身につけて、どのように生きてきたのか、猛烈に知りたくなる。
誰もがご飯を食べてお風呂に入っていつかは眠る。私の常識とは別の世界にいる人でも家族や友人や好きな人や尊敬する人や嫌いな人がいて、生活が存在している。知りたい。とにかく知りたくなる。凝視をやめられない、追いかける足を止められなかった。