寂しさの責任

2/22(月)

『問題のあるレストラン』を観終わった。

裁判の帰りにはおいしいものを食べようと風間俊介が言うシーンでパートナーが泣いていたのが印象的だった。我々にとってのご飯。ときどき喧嘩をするけれど、おいしいご飯を食べて、温泉に入って、旅行に行って、一緒に寝る生活。これが私たちの愛の形です。おいしいご飯を食べたいという執着が、少なからず私たち夫婦の縁を繋げています。

 

承認欲求が高まってインスタのストーリーに投稿をしましたが、他人からコメントが来て怖くなってしまった。踏み付けにされている と思ったが、それは認知の歪みだった。私の幸せを踏み付けにして、そのコメントをしてきたひとの幸せのほうが勝っていると言われているような感覚になり、そういう自分の歪みが怖かった。「私はあなたの幸せを真似してもっと幸せになります」と言われているように思えた。そっとインスタの「親しい友達」リストから外した。最初から別に親しいわけでもなかった。承認欲求のためにリストに入れていただけだった。おしまい。

 

先週私が感情をおさえられなくなった際のツイートを、リツイートした全く見知らぬひと、言及したひとたちの一週間分のツイートを読んだあと、改めて私に対する言及を読み、やはり戻れないなと思った。全然怖くて全然ムリ、ツイッター、ムリです。一通り連携を外して、はい、という感じ。普通にフォロワーにリツイートされる時点で怖かったのに、見知らぬ他人にツイートが呪いっぽい(要約)と言われたことが呪いになって刺さったまま抜けない。感情の赴くまま書いてるんだからその整理されていない様子、校正されてなさについて指摘されてもンなもん知らねーよ、自分の中で整理をつけられないバカは書いちゃダメですか?、整理のために書いてるんですけど、は?って感じでした。それならオープンのアカウントで書くなって話でした、はい。ということをオープンのブログで書いてる時点でダメなのですが、大して読者もいない(謎に執着されてアクセス数が爆増するときはある)ので、暫定的にはここに書いていく。

 

賞味期限が12日過ぎた牛乳は変な味がした。バレンタインも終わったのにクッキーの大量生産をする祝日の前の夜。坂元裕二の『またここか』を読んで救われる気持ちになる。

 

 

またここか

またここか

  • 作者:坂元 裕二
  • 発売日: 2018/10/11
  • メディア: 単行本
 

 

 

今日、会社の後輩に「確認してほしい」と14時に言われたことをあえて18時に確認して返信するという意地悪をしてしまった。仕事が忙しかったのは確かだけど、もっと優しくすること、もっと早くに返信することもできたけど、あえて後回しにした。後輩に対して、もっと自分の意思で動け、と思ってしまった。後輩育成が苦手である。業務は教えられるけど、その立ち居振る舞いまで育てられない、そこまでは私の対応範囲じゃなくて本人の素質のような気もしているから尚更かったるい。

 

たとえば、ディズニーランドに行ったとき。「何のアトラクションに乗りたい?」と聞いた相手が「なんでもいい」と返してきたときに、「えー私もなんでもいい〜」とあえて返事するような、そういう類の意地悪の感情だった。なんでもいいってなんだよ、どんなアトラクションがあるのか分からないならそう言えばいいし、分からないなりに激しいやつ、かわいいやつ、ジェットコースター、メリーゴーラウンド、何か言えばいいのに何にも考えずに、考えるコストをケチって、他人任せにして「なんでもいい」と言ってくるやつにムカつく感情。

些細な判断さえ委ねてこられると、疲れる。

 

 

『あちこちオードリー』のCreepy Nutsゲスト回がよかった。DJ松永の顔つきが一年前と変わったね、とパートナーと話した。Creepy Nutsが初めて武道館に立ったとき、松永がずっと泣き倒しだったエピソードがよくて、ひとつひとつ、「俺らが出会った時に作った曲」「2人で同居した時に初めて聴いたデモ」「初めて飯食えるようになったときの曲」、そういうのを思い出して泣いてしまったという松永の話を聞いて泣きそうになってしまった。はあ、オードリーとCreepy Nutsの関係性が好きだよ。

 

あと、驚愕映像100連発みたいなYoutube動画を3時間見て少しだけ話すようなテレビ、誰が見たくて放送されてるんだろうとずっと思ってたし、そういう仕事をさせられる芸能人もかわいそうだと思っていたけれど、スタッフもスタッフでみんながみんなやりたくてやってるわけじゃない、と若林が言っていてよかった。「今回こんなでごめんね」と話すスタッフがいる現場だと、そんなこと言わせちゃいけないと思って頑張るんだと。動画を見るだけでも面白い切り口で言えることはあるはずなのに、スタッフにそんなこと言わせちゃいけないって思って頑張るんだって。よい話だったなー。

 

オードリーといえば、先日のオールナイトニッポンで、春日がビデオカメラをゲットして娘や妻、愛犬を撮ってはその動画を見てグチグチ言いながら酒を飲んでいるという話をしていてよかった。娘が予防接種でギャン泣きしてる様子を撮影している際、あまりに胸が痛くてかわいそうで医者が敵に見えたと。春日は、娘が誕生する前から姪っ子の授業参観や運動会で泣いたりしていて、私はそのエピソードがとても好きだった。ちいさな子どもが頑張っている様子に胸がいっぱいになって泣いてしまう春日がとても好きです。あちこちオードリーも好きだけど、日向坂でにこにこしながらアイドルを見守る様子も大好きです。

 

 

2/23(火)

私が気持ちよくなるような言葉をかけてくれる他人が、私が嫌っているひとの悪口を言い始めたのを聞いたとき、「ああ、私も同じように悪口を言われているのだろうな」と思う。いとも簡単に手のひら返して、あっという間に仲良くしなくても構わない関係性になれる。ということをお風呂に入りながら考えていた。

 

仲が良いふりをしながら、相手が気持ちよくなるような言葉をかけながら、別の人にはすぐさま悪口を言えるようにしていること、すごく気持ち悪いと思う。私が落ち込んだとき、その落ち込んだ原因を聞いた彼女は「それはあなたは悪くない、<任意の理由(私が話した内容の復唱)>で<任意の行動(私が話した内容の復唱)>を取ったんでしょう、それはあなたは悪くなくて、"あっち"のほうが悪いよ」と私を肯定して、"あっち"を否定する、否定するというか下げる。私としては"あっち"とも仲良くしていたわけだから、それを否定されるのはイヤなのだけれど、そのときばかりは落ち込んでいることもあって肯定されると心強く思ってしまう。そうだよね、私間違ってないよねと思ってしまう。慰めてくれるのは分かるけど、何も知らないあなたがなぜ私を肯定する?何もえらくない、むしろ私に落ち度があったかもしれないのに、なぜ?自己肯定感が低いとか、そういう話だけじゃないと思う。

 

なんだろう、ずっと居心地悪くて気持ちが悪いと思っていた。なんで彼女は目の前の相手を肯定するために、周りの人間のことを貶すのだろうか。このまえ一緒に食事とか行ってたし、オンライン飲み会とかもやってた仲なのに、なぜそんな簡単にその相手のことを悪く言えてしまうんだろう?と不思議に思う。それが社会でのコミュニケーションというのならば、私はまったくもってそういうことはやりたくないし、できないです。

仲良くしたくないと内心思っている相手と仲良くすることも、本当は仲良しなのに別のところでその相手のことを悪く言うことも、どっちもできない。気持ち悪い。

 

燃え殻さんの『相談の森』という本を読んでいる。「大学の卒業式で仲良く話せる友人がいなかったんだけど、無理してでも友達は作ったほうがよかったのか?」という相談に対して、「いつもは友達欲しいと思ってなかったでしょう、それなのに卒業式で話せる友人がいなくて寂しかったんでしょう、卒業式で仲良く思い出を振り返って涙したり笑いあうひとたちは、都合のいい関係性だけじゃなくて相手に合わせたり面倒を背負って成り立った関係性で繋がっているんですよ、都合良いときに仲良くする関係はインターネットだけにしたら?」みたいなことが書かれていて刺さった。

 

 

相談の森

相談の森

 

 

 

 卒業式の時に周りの楽しそうに名残惜しそうにするグループを目の当たりにして、ふと淋しくなったんだと思います。でもきっとあなたは、日常ではそれほど友だちがいなくても大丈夫だったんじゃないですか? 自分の好きなように時間が使えて、好きな時に好きなことをするのは誰からも邪魔されることがなくてラクだったんじゃないですか? 

 

 卒業式の時に楽しそうにしていた人たちは、相手に合わせることだったり、相手に合わせてもらえるように先回りすることだったりの面倒をちゃんと引き受けて、それを当たり前の日常にした人たちです。お互いがちょっとずつちゃんと人生を共有したからこそ晴れて卒業式、その関係性が一旦幕を下ろすことに涙したり、笑って振り返ったりの時間が持てたんだと思います。

 

 都合のいい相手と都合のいい時だけ話すなんていうのはSNSだけにした方が人生のためです。都合のいい相手と都合のいいまま付き合ったり別れても、ぼんやり何だか親に申し訳無い気持ちになるだけです。ボクがそれです。ほぼため息で身体が構成されています。まだ20代のあなたならボクと違って引き返せます。こっちにこないでください。

 

正直、インターネットの都合の良さが楽で、ひとりでいたい気持ちも強く、相手に合わせるとか面倒だな……というのが本当のところ。いま仲良くしている数少ない友人たちに対しては、特段気を遣ったり遣われることもなく、面倒がないから友人を続けられている。

ディズニーランドに一緒に行っても時間を決めてひとり行動をするという関係性がベストだった。ひとり行動ができる、というのはある種の能力でもあるし、そういう能力と強度がある他人が一緒にいて楽だと私は思う。

社会でうまくやっていく気もないくせに友人が少ないことを嘆いては寂しがる。友人ができたらできたで面倒くさがるのに。寂しさの責任は自分にある。ひとりが好きなんだから仕方ない。そこは受け入れていくしかない気がする。