『コーダ あいのうた』を観た

『コーダ あいのうた』を観た。

 

今年『パワー・オブ・ザ・ドッグ』に勝つ形でアカデミー賞作品賞を受賞した映画。Apple 配給の、初めての配信業者が作品賞を受賞した映画。

 

簡単に(乱暴に)言ってしまえば、主人公ルビーは、自分以外の家族が全員ろうあ者のヤングケアラー。ルビーは歌うことが好きで、才能もある。歌うために大学へ進学するか、家族のために大学進学を諦めるか、という物語。

 

一昨日映画館で観たらあまりにも自分の過去と重なるものがあり、嗚咽し、目を真っ赤にして帰ってきた。別に私の家族にはろうあ者がいるわけではない。彼女が大好きな歌も、仕事である漁も私はやっていない。要素的には何も重なる部分がないのに、私が地元に置いてきたあらゆる地獄が、主人公の生きる町には確かに存在していて、結局何も解決しないまま生きていく様子をまざまざと見せられて息をするのが本当に苦しかった。

 

ルビーは夜中の3時に起きて漁に行き、そのあと学校へ行く。学校ではクラスメートから、ろうあ者の家族であることを笑われる。学校が終わると港へ行き、家族と家族以外のひとを繋ぐ通訳者として働きながら、歌のレッスンに通い、眠る。

 

本当に何も解決していない映画だと思う。

 

学校でクラスメートから笑われることも、自分以外の家族だけで漁に出た場合、無線を受け取っても耳が聞こえないため気づけないこと。ろうあ者であること、障害があることから獲った魚を安く買いたたかれること、それに伴いお金がなく貧しいこと。大学進学しても奨学金で生活が賄えるか分からないこと。主人公が大学進学すると家族の通訳者としてヤングケアラーや搾取されるひとが再生産される可能性があること(お金がないから通訳を雇うようなお金がない)。

 

本当に、何も解決していない。

それに、誰も家族のために理解を示したり変わってくれやしない。

クラスメートがろうあ者とその家族に理解を示すこともなければ、漁師仲間が気を遣って手話で話してくれることなんかない。夜中3時に起きて学校へ行き仕事をしながら歌のレッスンに行くためにはどうしても遅刻してしまうときがあることを、歌の先生は理解してくれないし、慰めてくれるひとなんて誰もいない。

唯一マイルズの存在が救いになっていたけれど、彼は無邪気に「きみの家族は仲が良くて羨ましい」と言葉をかけてくる。ルビーの事情なんて何も知らないくせに。彼には彼の地獄がある。けれどマイルズの言葉すら鈍い痛みとなって残る。

 

現実ってそういうもの。何も解決しないまま進んでいく。時が経てば自然と解決することなんか何もない。過去の悲しみで痛みや傷がまだ治っていないのに次々と地獄が押し寄せてくる。いま目の前に広がる地獄があってもそれでも生きていくしかない。

 

加えて、母親からは「私たちが耳が聞こえないからあなたは歌をやるのね。もし私たちが目が見えなかったらあなたは絵を描いていたわ」と言われるような生活。主人公はただただ歌うこと、音楽が心の支えなのに、それすら家族に理解してもらえない。家族は耳が聞こえないから理解できなくて仕方がない……本当にそうだろうか?仕方がないと諦めるしかないのか?そんなことない、そんなことないはずと自分の意思を絶えず言葉にして伝え続けるルビーの強さがたまらなく愛しかった。

 


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終盤に主人公が歌う『Both Sides Now』という曲。

日本語では『青春の光と影』と訳される。

 

この、風景が目に浮かぶ歌詞とまっすぐな歌声を前に泣かずにいられない。

彼女の青春に影を落としていたもの。

誰が悪いというわけでもない、もちろん彼女が悪いわけでもない。

仕組みで解決できることもたくさんあるだろうけれど、それ以上に彼女が知らずのうちに背負った、背負わされた家族の重さ。愛の重さでも、負担の重さとも違う、10代の少女が背負うには厳しすぎる現実の重さ。

彼女には彼女の人生があり、家族にだってそれぞれ人生があるはずなのに、共に生きるうちにその境界線がどんどん薄まって、いつの間にか同化してしまいそうになる。

どんどん腕をつかまれて引き込まれてしまう。自分の道を進みたいのに進めない、「助けて」とも叫べない。叫んでも声が届かない。

 

立ち止まって一瞬、自分の人生、本当にやりたいことは何かを考える。

歌いたい。言葉で表せられないほど、歌うことが自分の一部になっている。

誰のために歌うというわけではない、自分のために、ただ自分のために歌いたい。

そういうことをこのシーンを見ながら感じた。

 

何も解決してなくても、そばにだれか一人いるだけで救われることがある。

現実から目を背けているわけではなく、逃げているわけでもなく、自分が二本足でかろうじて立てるくらいの、ほんの些細なことでも本人にとっては大きな救いになることがあるよなあと思う。

 

私は学校でいじめられたことがあるし、ゴミ屋敷の実家では両親が怒鳴り合っているのが日常茶飯事だった。4畳もないであろう自室は普通に虫が湧くような部屋で、身体は常にかゆくアトピーは悪化し肌はボロボロだった。それによりいじめも悪化した。バレエに行けば親の代わりに私が謝り、親にだけ話したことが一瞬で他人に広まるような息苦しい田舎。

お小遣い制度も無いに等しく、自分で何かを選び取る、そういう自由が本当になかった。「これが欲しい」と親にねだれば買ってくれるけれど、私が欲しかったのはそういうものではなかった。自分で選びたい、自分の意思で決めたい、と切望していた。間違ったもの、不必要なものを選んだとしてもそれすら経験にしたかった。でも、できなかった。

大学生になり、マッチングアプリと出会い系サイトで不特定多数の男性に若さを消費されながらも、若い女というだけで優しくしてくれるひとがいること。大事にしてくれるひとがいること。家に帰らないためにそういうことをやっていた。あのときの私に会ってくれたひと全員に感謝している。私の人生に関わってくれて本当にありがとうと思っている。

別にそれで何かが解決したわけじゃないけれどやり過ごすことはできた。

やり過ごして、蓋をして、家を出て、就職して自分の金で生きていくんだと思い続けた。

そういう過去を映画を観て全部思い出した。いきなり胸ぐら掴まれて、捨てた記憶と大嫌いな地元の人たちを無理やり思い出させられた。

 

正直観る前はありきたりな青春群像劇だろうとナメていて、パートナーと週末に銀座でご飯を食べて映画デートしようくらいの軽い気持ちだったのに、映画観ている間中ずっと歯食いしばってないと倒れそうだった。

 

一見ハッピーエンドでライトな青春群像劇に見えるけれども全然違っていて、「おちこんだりもしたけれど、私はげんきです」(魔女宅のキャッチコピー)みたいな感じでもなくて、さわやかな潮の香る海沿いの青春の話でもなく、もうただの地獄、ああ私はこれが嫌で嫌で仕方がなくて地元を出たんだった、私は私の二本足で生きていくことを決めたんだったと思い出させる映画だった。

 

終盤に、着たくなかったら着なくていいわよとコンサート用のドレスを母親が持ってくるシーンがある。そのときに母親が言う。

「あなたを産んだとき、耳が聞こえなければいいなと願った。けれどあなたは耳が聞こえると知り、理解し合えないような気がした。子育てに失敗するかもと思った」

つらい。「耳が聞こえる聞こえないの問題じゃない」と返すルビー。そのあと母親に膝枕で頭を撫でてもらうあのシーンが、仲睦まじいように見えるけれども私としては物凄くしんどくて、狂いそうだった。

 

映画を観ていて、今すぐそこから逃げなさいとルビーに叫びたい気持ちになったり、家族に甘えたり縋りったりわがままを言って通したい気持ちになったり、でもなんかこのつらさやしんどさを分かるひとと分からないひとがいるのだろうという絶望を感じたり、色々だった。

 

ストーリーとしてはありきたりで、驚くような展開はない。手話をしながら歌うシーンがあるだろうな、耳が聞こえない側の家族目線のシーンもあるだろうな、と容易に予測できる。それでも刺さるものがあったし観てよかった。

 

自分の過去があるからこそ嗚咽するほど泣いたんだろうし、こういうひとつひとつの経験が糧になっていくんだと思う。観てよかった。過去の自分は頑張っていたよねと褒めてあげたい、認めてあげたい、あのとき死ななくてよかったねと抱きしめてあげたい。今このタイミングで観られてよかった。