PMPに一発合格した話

Project Management Professional (PMP®)に一発合格しました

 

 

Project Management Professional (PMP®)とは

PMP® とは、PMI 本部が認定しているプロジェクトマネジメントに関する国際資格です。

PMP® 試験は、受験者のプロジェクトマネジメントに関する経験、教育、知識を測り、プロフェッショナルとしての確認を目的として実施されます。

専門知識を有していることを証明するために、米国PMI本部が資格認定を行うものであり、法的な資格、免許ではありません。

PMP® 資格は、プロジェクトマネジメントに関する資格のデファクト・スタンダードとして広く認知されており、プロジェクトマネジメント・スキルの評価基準として、IT・建設をはじめとする多くの業界から注目されています。

PMP®資格について | 一般社団法人 PMI日本支部

とのこと。

 

受験には

・35時間の研修の受講

・プロジェクトマネジメントの実務経験

が必要です

 

また、合格には150~250時間の勉強が必要だと聞いた。

 

受験のきっかけ

受験したきっかけは、「おもしろい勉強がしたい」という動機から。

世の中にはたくさんの資格・試験があるけど、噛み応えがなかったりおもしろくない資格・試験が多い印象で、次受けるなら勉強の過程も楽しめる試験がいいなと思っていた。

 

もともとCISSPを受けようかなと思っていたのだがちょっといきなりハードルが高い気がして、一旦PMPにした。

また、会社に補助を出してもらうにあたり、「なぜこの資格が必要なのか」「業務でこの資格はどのように活きるのか」など色々と英語で書いて申請を出さなければならないのだが、CISSPの申請は落ちたのにPMPは承認をもらえた。

承認が出たらもう動き始めるしかない。「やっぱやめます」は通らない。

というわけで受験することにした。

 

結果

合格

 

人、プロセス、ビジネス環境と3つのドメインすべてAbove Targetだった

 

 

試験前の知識レベルについて

前職がISO 9001とかISO 20000とかISO 27001とかを持っている会社・事業部で、プロジェクト計画~終結までのおおよそのプロセスは認識しているつもり。ITILは持っている程度のレベル。

現職でもプロジェクトリーダー的なことはやっている気がするが、プロジェクトマネージャーとして働いたことがあるかというと微妙な感じ。曖昧に仕事をやっています。

 

勉強方法

  • 勉強期間:2023年9月~2024年1月(約4か月)
  • 勉強時間:
    • 目標:200時間
    • 実績:176時間
  • ルール
    • 平日は2時間勉強する
    • 基本的に土日祝は勉強しない(してもよい)
    • 旅行・飲み会・食事のなどの予定がある日は勉強しなくてもよい(できれば1時間勉強する)
    • 夫と喧嘩したときや精神的につらいときは勉強しなくてもよい
    • なるべくお金はかけたくない(その代わりに手持ちの教材でたくさん勉強する)
  •  使用したアプリ
    • Studyplus:勉強時間の記録用
      • PCで勉強するくせに、スマホでStudyplusのストップウォッチ機能を使っており、当然スマホの通知が目に入ったりSNSが気になったりしてしまうので注意力が切れることに勉強後半になってようやく気がついた。最終的にはブラウザで使えるストップウォッチやToggl Trackを使って勉強時間を記録した。(Studyplusのブラウザ版があることは知っていたのだがなんとなく使わなかった)
    • Notion:ノートとして使用
      • 間違えた問題の解説等をノートに記録していく。再度間違えた問題の解説は太字にする。また間違えたら文頭に★マークを付けていく。というような感じで自分の苦手の傾向を掴めるようにした。振り返りにも便利である(太字のところが自分にとっては大事で、太字になってないところは間違いを克服しているのでたいして真面目に読まなくていい、とすぐ分かる)
    • Excel
      • 勉強時間の目標と実績を記録して、予実が一目で分かるようグラフ化
        →計画通りに物事が進むと嬉しい
      • 問題集の得点を記録
        →モチベーション維持のため
      • プロセスマップ暗記用に表を作成
        →大して使わなかった
  • コツ
    • 心がけ
      • 2時間の勉強は「1時間×2セット」ではなく、「40分×3セット」と考えると気持ち的に楽になった
      • 「60問×3セット」を1日で解くようにした(試験当日と同じ問題量を1日で解く)
      • つまり60問を40分で解けることを目指した(色んなところで「1問1分以内で解けるようにしましょう」と言われているが、私はそれよりもっと早く解けるように心がけた。何度も解いてると問題も答えも覚えてきてしまうので、そういった解き方が可能になる。PMPにとって暗記は意味ないけど……)
      • PMPに合格したらやりたいことをメモしてモチベーションを高めた
      • 当然2時間勉強できない日があり、2時間以上勉強できる日もある。2時間以上勉強できた日はその差分を貯金(記録)しておいて、勉強できなかった日にその差分を割り当てるとなんか得した気分になるので良い
        • 結局私は目標200時間、実績176時間と、24時間マイナスのまま合格を迎えた(勉強時間の項目を参照)
    • PMPマインドセット(個人の感想です)
      • コンフリクトが起きているときは原因を探る
      • すぐにスポンサーにエスカレーションするのではなく自主的に動く
      • なるべくコストやスケジュールに変更を加えない範囲で、今できることを考える
        • 変更をする場合は影響を正しく精査する
      • スケジュールの遅れをメンバーの残業でカバーするのはダメ
        • スクラムマスターちゃんと仕事しろ
        • こういうコンフリクトは「強制」で対処する。協力とか問題解決の余地はない
      • コンプライアンスやガバナンスが絶対
      • 金メッキはダメ(「お客様のために」という善意の理由で勝手にスコープ外の機能追加をしようとしてはいけない)
      • チームメンバーひとりの進捗が芳しくないときや良くない噂を聞いたときなどはチーム会議で議題にあげるのではなく、そのメンバーと非公式に内密にコミュニケーションを取る
        • つらいこと、プレッシャーに感じていることは、人に相談しづらいし、知られたくないこともあるかもしれない
      • アジャイルはとにかくプロダクトバックログに入れる
      • 何事もログに記録しておき、記録を残しておくことが大事(記録を残さないまま活動を始めないこと)
      • プロジェクト憲章には主要なステークホルダーの記載がある(ステークホルダー登録簿まで見なくてよいときもある)
      • ビジネス ケースには、費用対効果分析が含まれている
      • タイム・アンド・マテリアル契約は、緊急性でスコープに曖昧なときに用いる

使用した教材

  • JPSビジネスカレッジ『PMP®オンデマンド試験対策コース(35時間)セット5』
    今見るとセット5は販売されていないようだが、私が購入したときは確かにあった。このセットはJPSビジネスカレッジが用意していた中で一番上位のコースだったはず。
    35時間研修もついてくるし、『プロジェクトマネジメント知識体系ガイド(PMBOKガイド)第7版+プロジェクトマネジメント標準』のテキストが郵送されてくるし、問題集も充実していた。この問題集を繰り返し解いて、間違っているところを解説やテキストなどを読み、Notionに記録しながら理解を深めた。

www.jpsol.co.jp

 

  • Udemy/Tridib Roy『PMP Practice Test Exam 2024- As per latest ECO』
    英語の問題集だが翻訳機能を使えば問題なく解ける。
    JPSビジネスカレッジの問題集は60問が1セットだったので60問解き終えれば結果が分かったのだが、このコースのTest 1とTest 2 は180問が1セットなので、一生解き終わらなくてつらい。そのつらさへの対処として、Udemyをブラウザで2タブ開いて、1つを問題を解く用、1つは解説を読む用として使うことで、1問解いたらすぐに答え合わせと復習ができるようにした。

www.udemy.com

 

  • Project Management Institute『プロジェクトマネジメント知識体系ガイド(PMBOKガイド)第7版+プロジェクトマネジメント標準』
    JPSビジネスカレッジの『PMP®オンデマンド試験対策コース(35時間)セット5』にセットでついてきた。参考書的に読んだ。

 

  • Project Management Institute『アジャイル実務ガイド』
    参考書的に読んだ。ただ、正直なところ図とか表の部分しか見てない。PMI会員になって初めて『アジャイル実務ガイド』を読んだのが1/7、受験日が2/1のため、これに触れていた時間はとても短い。色んなところで「アジャイル実務ガイドは必読!」と言われていたが、個人的には別に読まなくてもいいなじゃないかと思う。

 

  • Project Management Institute『PMI倫理・職務規定(Code of Ethics & Professional Conduct)』
    まあ読んだ。当たり前のことしか書いてない。PMPのマインドを知るために読む感じ。

www.pmi-japan.org

 

  • Project Management Institute『PMP試験内容の概要(PMP Examination Content Outline)』
    Examination Content Outline、略してECO。これも必読!と色んなところで言われている。これは常に開いておいて、ふと思い立ったときに立ち返るようにしていた。この指針に則って問題を解けばよい。
    PMP Examination Content Outline - June 2019

 

  • 飯田 剛弘『童話でわかるプロジェクトマネジメント』
    図書館で借りた。プロジェクトマネジメントの基本のキを学ぶために読んだ。分厚いわりに文字数は多くないのでわりとサクッと読んだ。毎日2時間勉強するという重いルールを自分に課していたため、この本を読む時間も勉強時間として計上し、少しでも問題集を解く時間を減らしたかったというのが本音ではある。

 

  • Jonathan Rasmusson/西村 直人, 角谷 信太郎, 近藤 修平, 角掛 拓未『アジャイルサムライ−達人開発者への道−』
    図書館で借りた。アジャイルプロジェクトの経験がないため、この本を通してスクラムやプロダクトバックログ、ビジネスケースを学んだ。

    仕事は思うようには進まない。でもやること、やるべきことはいたってシンプル。人と関わりながら働いていく。予定が狂うと怒る客もいるだろうが、普段から信頼を勝ち取っていれば理解を示してくれるだろう。怖いとか、面倒くさいとか、マイナスな思考をもって「やらない理由」をどうしても探してしまうけれど、そうじゃなくて普段から自信を持って仕事ができるよう、怖がらずに仕事ができるよう、ステークホルダーマネジメントとかリファクタリングテスト駆動開発という仕組みがあるんだなと思った。

    以下に引用した文章が心に残っている。

君自身がしっかりと仕事をこなしている姿を毎週ちゃんと見せていれば、寛容な態度でいてくれると思う。時どきへまをやらかしたとし ても、大目に見てくれるはずだ。だから挑戦することを恐れないでほしい。挑戦して、失敗する。それでも主導権を手放さないようにすること。それも仕事のうちなんだ。

 

ユニットテストがあればコードがきちんと、動くことに自信を持てる。リファクタングをすれば、コードをシンプルに保てる。そして、テスト駆動で開発すれば、複雑さに立ち向かえる設計を実現できる

 

 

www.ipa.go.jp

 

  • 『I LOVE PM / プロジェクトマネジメント専門チャンネル / イトーダ』
    なんでもYouTubeで学ぶ時代である。
    イトーダさんのYouTubeチャンネルは本当によく見ていた。PMPに関する情報や合格者インタビュー、プロジェクトマネジメント/ビギナーシリーズを見た。
    先に挙げたIPAアジャイル開発の進め方』と併せて、スクラムの動画は何回も見た。


www.youtube.com

www.youtube.com

使用しなかった教材

  • 豆検
    • 買い切り型ではなく、サブスク型のため、勉強してもしなくても月額でお金がかかる仕組みが個人的に苦手なため
  • その他英語教材
    • 英語が読めないため。Google翻訳やDeepLがあれば翻訳して読むことができるけれど、そこに時間を使いたくなかった(怠惰)。PMIの公式問題集もあったはずだが、わざわざ使う気にはならなかった。

金額

合計:¥225,972

(自費で払ったのは ¥85,016)

  • PMP®オンデマンド試験対策コース(35時間)セット5:¥140,956
  • PMP Practice Test Exam 2024- As per latest ECO:¥1,900
  • PMI® Membership+Tax:$152.90($139.00+$13.90)→¥22,779
  •  Project Management Professional (PMP)® Exam:$405.00→¥60,337

 

PMP®オンデマンド試験対策コース(35時間)セット5は会社が負担してくれた。

自費でかかったのは¥85,016だった。高いねえ……。

 

以下、PMI会員費用と受験費用を気合で払ったときのツイート。

普段ここまで高い買い物ってなかなかしないから、ツイートして自分を鼓舞するほかない。

 

受験方法

受験申請・会員登録・試験予約

JPSビジネスカレッジ『PMP®オンデマンド試験対策コース(35時間)セット5』には『受験申請サポート』サービスがあり、マニュアルに沿って受験申請や会員登録、試験予約を行った。特に難しいところはなかった。

 

受験申請については、これまでのプロジェクト経験を記載する必要がある。まずは日本語でプロジェクト経験のドラフトを書き、それをそのままDeepLで翻訳し、申請をしたら無事承認された。監査に引っかからなくて本当によかった。

どのプロジェクトに何か月携わったかなんて普段意識していないので、職務経歴書等を見返した。

受験申請の結果が届くまで1週間くらいかかった気がする。メールで申請結果の連絡が来るわけではなく、能動的にPMIのサイトを見にいく必要があった。

 

受験

試験は西新宿のピアソン・プロフェッショナル・センター 新宿で受験した。

事前に以下URLの「入館方法はこちら」という案内を読んだ。

PPCのご案内 // ピアソンVUE

 

12:30開始で試験の予約をしていたが、私は極度の方向音痴のため道に迷っておしまいになる可能性を恐れ、11:30には試験会場付近に到着してウロウロしていた。

移動中は最近ハマっている『トム・ブラウンのニッポン放送圧縮計画』にて布川さんとみちおさんの大ゲンカを聞きながら精神統一をしていた(?)

 

試験の受付手続きのためテストセンターには予約した試験時間の30分前に到着するよう案内があったので、まあ12:00に到着していればいいわけだが、緊張でお腹が痛くなってきたのと、意味もなくウロウロしていたら足が痛くなってきたのと、受付が激混みで試験開始に間に合わなかったらどうしよう!という不安で11:45くらいにテストセンターに入った。5分で手続きが終わり、遅くとも12:00には問題を解き始めていたように思う。

別に道に迷うこともなかったし、テストセンターが激混みでもなかった。ただの杞憂である。

 

受付のとき、「食料は持ってきていますか?」と聞かれた。私はランチパックとアップルパイのパンと大量のチョコレートとクリスタルガイザーを持って行っていたので「Yes」と答えた。すると「ロッカーに荷物を入れる際には、かばんはロッカーの奥に入れ、食料は手前に置いておくように」と言われた。なので、食料を持っていくときは、かばんとは別のビニール袋に入れておくとよいと思った。

 

予定時刻は、12:30~17:00(270分)

試験自体は230分。試験開始前にチュートリアルがあるのと、試験終了後にはアンケートがあるためその時間も含んでいる。

 

実績は、12:00~15:15(195分)

75分巻いて終わった。15:15は試験を終えた時刻ではなく、試験を終えて手続きを済ませてテストセンターから出た時刻。

 

わざわざ有休をとって平日に受験しに来たわけだが、12:30開始で終わるのが17:00となると絶望しかなかったが、実際には15:15に終わったのでいくらか気が楽だった。まだ夜じゃない。まだギリ昼だからこれからなんでもできる!と思えて嬉しかった。

 

タイムマネジメントについては、

180問を230分で解くため、60問は76分で解く必要がある。

見直しの時間も考えると1問1分で解くとよいという情報を色んなところで目にした。

となると、大体以下のようなペースで解けばいい。

60問目終了後:残り152分

120問目終了後:残り76分

180問目終了後:残り0分

 

実績は以下のような感じだった。時間が結構余っている……。

60問目終了後:残り175分(55分で60問解いた。予定より23分早い)

120問目終了後:残り115分(60分で60問解いた。予定より39分早い)

180問目終了後:残り70分(45分で60問解いた。予定より70分早い)

 

 

試験開始前のチュートリアルがなにげに便利だった。ショートカットキーやハイライト、打消し線、電卓の使い方などを教えてくれる。PMPの試験は消去法で答えを絞り込んで選び取る問題が多いため、打消し線を多用した。

 

試験室に入る際には都度、身分証と名前を確認された。腕時計をつけていないか、衣服のポケットやフードに何も入っていないか確認された。私は長髪で髪をおろしていたため、髪を持ち上げて何も隠していないかも確認された。必要なだけティッシュを持っていくよう言われたり、「耳栓は使うか?」とも確認された。

 

試験を受け始めてから気づいたことがひとつある。

試験の残り時間は画面右上に表示されているのだが、私の想定ではhh:mm:ss形式で表示されると思っていた。そのため、タイムマネジメントとしては「60問目終了後は2時間32分残そう、120問目終了後は1時間16分残そう」と覚えていったのだが、まさかのmmm:ss形式(例:残り152分)で表示されていて、出鼻をくじかれた。手渡されたホワイトノートに一番最初に書いたのは、mmm:ss形式で計算し直した残り時間だった。

 

60問解き終わったあとに「見直しは大丈夫か?」「本当の本当に大丈夫か?」と2回確認が入る。その後「休憩は取るか?そのまま続行するか?」と聞かれ、「休憩を取る」を選ぶと10分休憩のタイマーが開始する。受験する前は、休憩時は手を挙げてスタッフを呼んでスタッフの誘導のもと退出させてもらえばいいのかな?と思っていたのだが、実際は、おもむろに席を立ち、振り返ってみるとスタッフが「こっちへ来い」とでも言うように扉付近で手招きをして案内をしてくれた。

 

休憩時間中は時計を凝視しながら、ランチパックやらアップルパイのパンやらチョコをばくばく食べてトイレに行きしっかりめに休んだ。2回の休憩どちらも1分30秒くらい余った状態で自席に戻った。スタッフの方に誘導され再度試験室に入り、「再開」のボタンを押し、スタッフにIDとパスワードを入力してもらわないと、試験のロックが解除できない仕組みとなっていた。

 

試験終了後、紙を一枚もらう。よく見ると「you have successfully passed the examination.」と書かれている。「一旦合格だと思うけどこれから48時間以内に情報を精査して本結果をお伝えするね~!」みたいなことが書いてあった。まあよかった、でもこれは仮の合格であって本当の合格ではないので、ぬか喜びはしてはいけない……と受験直後はなんだか喜びづらい感じだった。

 

翌日深夜2時頃に合格メールが届いた。試験から11時間後に結果が届いたことになる。

これでようやく一安心。高い受験料が無駄にならずに済んで本当に良かった、と思った。

 

 

↑テスト開始前にこういうツイートをすればいいものを、もし不合格だったら目も当てられないしあまりにダサすぎるという自意識が働いて、テストが終わって一応合格っぽいなという手ごたえが分かってからツイートするチキンっぷり。

 

結果・さいごに

PMPマインドセットを自分なりに掴むことが大事だと思った。暗記ではなく、テクニックではなく、このように行動することが求められているんだな、と抵抗なく飲み込めるレベルに持っていくのが大事だと思った。

 

私は3つのドメインのうちプロセスが苦手分野だったのだが、試験としてプロセスに関する問題はほとんど出題されなかった。そのため、プロセスマップやITTOは暗記しなくてもよいと思った。(暗記を試みたけどムリだった。ざっくりとは覚えたが……)

インターネットの情報を見ていると「プロセスマップって暗記しなきゃダメなのかな?」と焦ったりもするけれど、よくよく見てみるとそういった発言をしている人たちはPMBOK 6版時代以前に受験した人の言葉だったりする。日本語での情報は少ないかもしれないが、最新の情報を摂取すること(古い情報に振り回されないこと)が大事だとも思った。

 

そしてアジャイルの問題がたくさん出題されますよ、という情報もそこまで気にしなくてよいと思った。現に『アジャイル実務ガイド』を真面目に読まなくても合格はしている。Disciplined Agile (DA)、Large Scale Scrum (LeSS)、SAFe、DSDMを問われる問題は1問もなかった。

なんというか、ウォーターフォールでもアジャイルでも、結局問われているのは「お客様に価値を提供すること」の一点のみで、その過程に違いはあれど、価値提供のためにはどのような行動を取るのが望ましいのかというマインドを問われる試験だと感じた。素直に解けば何も難しいことはない。

 

あと、問題文は意外と短いので1問1分以内に解けると思う。

問題はすべて「適切なものを選びなさい」という問題で、「誤っているものを選びなさい」という問題は1問もなかった。

 

とにかく合格してよかった~~~!!!

他人に心を砕くこと

子どもの頃、母親に「ついてこないで!」と言ったことがある。

母親と並んで歩きたくなかったからだ。

母親はいつも申し訳なさそうにへこへこしていて、娘の私と歩くときでさえ、まるで召使いのように腰を低くして狭い歩幅でコソコソと歩くような人間だった。母親がそのような行動を取るから、普通に歩いているだけの私が母親の主人のように偉そうに周りに見られそうな気がしてイヤだった。だから「ついてこないで!」と言った。私が偉そうに見られるのがイヤだから一緒に歩きたくない、そういう意味で出た言葉だった。

当時の私は自分のことしか考えていなかった。母親がなぜそんな召使いのような行動を取るに至ったのか、その背景を子どものときの私は想像すらしなかった。

 


母親は二世帯住宅に住まう専業主婦で、家庭内での地位が一番低く、片付けが全くできず家をゴミ屋敷にすることから、常に罵られ虐げられる存在だった。母親は、生存戦略として、積極的に下手(したて)にでることで、積極的にひれ伏すことで、自分の居場所を確保していた。そうするしか生き残る術がなかったんだと思う。

 


娘である私も母親に「頼むから片付けをしてくれ」だとか「あなたに大事な物があるのは分かっているが、あなたが死んでからその大事さが分からない私のような他人が遺品整理をするくらいなら、生きている今のうちに自分の大事なものは自分で片付けをしてほしい」だとか「あなたの物が多すぎて、妹の部屋が無いのはかわいそう」だとか散々言ってきた。私も罵っては虐げる側の人間だった。

母親が私と歩くときに召使いのようにコソコソと申し訳なさそうに歩くのも無理はなかった。

 


私が「ついてこないで!」と言ったとき、母親はその言葉に従い、私から数メートル離れたところを歩いた。それからというもの、母親は私から数メートル離れたところを歩くようになった。「いやがらせか?」と当時は思った。数メートル離れたところでもなお、申し訳なさそうに腰を低くしてコソコソと歩く様が、子どもながらに恥ずかしくてたまらなかった。

 


何より嫌だったのは、母親が私の言葉に従って行動したところだった。

「自分の意思はないのか?」と心底思った。

 


このエピソードの他にも、バレエの発表会のとき、終演後、周りの友人たちは親に「きれいだったよ」「すごくよかったよ」と声をかけられ花束などを渡されている中、私の親だけ楽屋に来てくれなかったことがある。発表会が終わったという解放感と達成感で周囲が騒々しい中、淡々と衣装を脱ぎ、メイクを落とし、発表会を見にはきてくれていた親と車で帰った記憶がある。「なんで楽屋に来てくれなかったの?」という言葉が喉元から出そうになった。悲しみのあまり言葉にして言ったかもしれない。ぶちギレながら、「なんで楽屋に来てくれなかったの!?!?!?」と絶叫したかもしれない。

 


また別の話で、とある家族旅行のときに私が「行きたくない」と行ったことがあり、それ以降、家族旅行には二度と誘ってもらえなくなったこともある。両親は、私抜きの妹との三人での旅行を楽しんでいた。そもそも私は旅行好きではなかったけれど、実の親に誘ってもらえすらしないことが悲しかった。私のためにお金も時間も言葉をかけるコストも、何もかもを費やしてくれないことが腹立たしかった。実の両親ですら、私と本気でコミュニケーションを取ろうとしない、そういうところが本当に嫌だった。

 


怒りと悲しみのあまりぶちギレると、母親は決まって「あなたが悲しむと思って」と言ってのけた。

 


「あなたが悲しむと思って」 魔法の言葉だと思う。

 


私の気持ちなんか関係なく、私がどんなに拒否したとしても、どんなに嫌がったとしても、母親がどのように行動したいか、娘と一緒に歩きたい、楽屋に行って声をかけたい、今回こそは旅行に一緒に行きたい、お前の意思はどこに行ったんだよ、なんでお前は私の言葉に従うんだよ!とずっと思っていた。

 


私の言葉に従う、私のことを尊重するという体裁をとりながら、母親が保身をしているのが透けて見えて、そのことにたまらなくズルさを感じていた。卑怯だと思った。そうした体裁をとりながら、私の心を無視したり、私の気持ちに気づいてもらえないことがただただ悲しかった。母親自身の意思で行動をしてほしいと強く思っていた。「私を尊重する体裁をとりながら、コミュニケーションをサボるんじゃねえよ」と思っていた。

 


人間は、言葉や字面だけでコミュニケーションを取るのではなくて、表情や息遣い、態度からもコミュニケーションを取るのであって、「ついてこないで!」と言ったときの私の態度、旅行に行きたくないと言ったときの私の態度、その心意にちゃんと耳を傾けてとことん話を聞いてほしかった。母親が召使いのような行動を取る理由を、私は想像すらしなかったくせに、私は母親に私の心の内を想像することを強く求めていた。なんで分かってくれないの?と思っていた。傲慢だった。

 


ただ、娘の私の言葉に従うというのも母親自身の意思で選択したことで、そこには「これ以上娘を怒らせてはいけない」とか「悲しませてはいけない」とか 「怒っている娘を見るのが怖い」とか「娘を怒らせてキツイことを言われたくない」とかそういう思いがあったのではないかと今なら想像できるし、何より生存戦略として積極的にひれ伏すことで自分を保つ生き方をしてきた母親にとって、母親自身は自分の意思など価値がないもので、相手の言葉に従ったほうが得策だと思っていたのかもしれない。従わなかったとき何をされるか分からなくて怖いから、従うほかなかったんだと思う。

 


大人になると分かるが、いちいちタイマン張ってとことん話し合うことは物凄く疲れるものである。子どもの頃の私は、今もそう変わらないけど、いちいちぶつかり稽古をしてちゃんと話し合って落としどころをきっちり決めたいと思っていた。流れに身を任せるのではなく、嫌なことは嫌と言ってちゃんと闘いたかった。でもそんなことしてたらキリがない。分かる、頭では分かるけどね……。

 


***

 


先日『テレフォン人生相談』の過去回で、自分の娘が実の子(相談者から見たら孫)にDVをしているというおばあちゃんからの相談を聞いた。回答は幼児教育研究家の大原敬子さんで、「お嬢さんの感情はあなたに向かってるんですよ」「今まで積もり積もった苛立ちをお母さんにはぶつけられないんですよ」「だから自分より弱い子どもに向けているんですよ」というような回答をしていた。

 

本当にこのお嬢さんが求めているものは、あなたが動かないことなんですよ。「どいて」って言ったら「ここお母さんこの椅子好きだから動けない」って。「でも、どいてよ」「なぜなの?」ってことです。言い訳も一切しないで。そして「お母さんこれ食べなよ」って言ったときに、「お母さんこれ食べたくない」って、ちゃんと自分の意思を言うことがまず第一条件なんです。

 


自分の意思を示す、という話だった。

 

「あなたはいつもこうして私を無視して」って幼児期の話が出ます。彼女は幼児期の話がしたいんです、実は。因縁をつけて、「私をこういう子どもにしたのはあなたなんだ」って、怖くて言えなかったチャンスを狙ってるんです。でもあなたはその幼児期の話を聞くチャンスを作るんです。繰り返し、繰り返しなんです。

そしてね、一番言ってはいけないことは、「そう、あなたそんなに苦しかったの、ごめんなさいね」がダメなんです。
たった一言ね、「ごめんなさいね」で私のこの37年間返すなんて、それだけ苦しかったことをお母さんは気づかなかったことなんですよ。
つらいんです。一言で終わってしまうことは。そういうことではないんだって、優しい子ですから根は。「ごめんなさいね」をやってしまうと振り上げた私の怒りが出ていかないんです。

それだけ苦しんだことを気が付かなかったお母さん、つらかったんでしょうね、って。つらいとか、どれだけ我慢したんだろうかとか、「こんなに気づかなかったお母さん、どうしたらいい?」って聞いてほしいんです。「どうしたらいい?」って言うとね、「どうしたらいいってね、ただ聞いてくれればいいんだ」って収まってきます。「私はこれだけ我慢したという娘の気持ちを理解して」って言ってるんです。

 


この相談を聞いたとき、DVをする娘の気持ちに共感して涙が止まらなくなった。気づいてほしかったけど、気づいてくれなかった悲しみが怒りとなって蓄積していること、分かりすぎるほどよく分かる。

私も、私の言葉に母親が意思を持って行動してくれるのをずっと待ってた。でもそういうことをしてくれなかった。私の言葉に従った、それが死ぬほど嫌だった。

 


テレフォン人生相談を始め、色々なラジオの相談コーナーを聞いていると、結局他人とはよく話すしかない、というシンプルな結論に行きつく。ただ、他人とよく話すというのはとても骨が折れるので、ついつい見て見ぬふりをしたり、適当にやり過ごしたりしてしまう。でもそれだといずれ辻褄が合わなくなって、しわ寄せがどこかで来てしまう。「よく話すしかないよなあ~……」ということを、最近はよく考えている。

 


***

 

『違国日記』の最終巻、11巻を読んだ。大事に読んだ。

 

 

…何かを美しいとか 愛らしい 大切だ 大切にしたい 何か伝えたい そういうことを感じるたびに とんでもなく疲弊する いやになる 今いちばん後悔してるんだ こんな気持ちになるはずじゃなかったって

 

…そのしんどい努力をしなきゃいけないんじゃないの …それがさ それが 心を砕くっていう言葉のとおりなんじゃないの

 

『違国日記』は、なんていうか、大人が若い世代の人間に何をしてやれるか、何を残してやれるか、餞(はなむけ)みたいな、そういう作品でもあって、でも、一対一の人間として見返りのない愛情を向ける傲慢さとか暴力性とかの話でもあって、で、最終巻で上述の引用の言葉でズドンと撃ち抜かれて私は死んでしまいました。

 


ああ、今日はこんな楽しいことがあったよ、つらいことがあったよ、そういう一喜一憂を誰かに伝えたくなればなるほど、本当にうんざりして、疲弊して、もういい加減やめたいって思うけど、懲りずにそれでも伝えたい、話したい、会いたい、と思う人間がいて、苦しいな、と思う。面倒くさいからいっそ死ねたら楽なんだろうかと思う。

 


私がおいしそうにご飯を食べるとき、涙を流しながら何かを話すとき、黙って相手の目を見つめるとき、相手は一体何を考えているんだろう。誰かが私に弱くて温かい部分を見せてくれたとき、好きなものの話をして笑っているとき、私はちゃんと受け取ることができているんだろうか。

 


心を砕くって一体なんなんだろうと思った。

 


いちいちタイマン張って闘いたがるけど、それとは別にもっと優しくて穏やかな方法があるのではないか、と思う。

落ち着いて素直に心を開くのが、とても怖い。

心を開いて剥き出しにすると、風に晒された心が熱を孕んで、痛くなって涙が出る。

 


こう、心を開かずに心の内と脳を直結させて思いをうまく言語化して伝えられたらいいのかもしれないけど、きっと多分そういうことではなくて、言語化がへたくそでも、懸命に心を開けば伝わることがあって、そういうことがきっと大事なんだろうな。それがすごくしんどいことなんだよな。

 

きっと、開いた心が誰かに届くように、歌にしたり詩にしたり絵にしたり、あとは手を握ったり抱きしめたりセックスしたり、そうして弾を込めて撃つんだろうな、撃つというか、遠海に向かってボールを投げるみたいな、届くといいなっていう祈り、だと、私は思う。

分かってもらえたらいいな、届いたらいいな、の連続に、打ちのめされて挫けながら、それでも、それでもやっていくしかないんだろう

 

2023年、『アナと雪の女王』を見返した

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ディズニー創立100周年を記念して『ディズニー 100 フィルム・フェスティバル』というものが開催されている。ディズニーの過去作品を映画館で上映するイベントで、私は『アナと雪の女王』を見にいった。

 

アナと雪の女王』が日本で上映されたのは2014年のことで、「ありのままで」ブームから約10年も経つのかと思うと結構驚く。私は当時19歳の大学生だったが、もうすぐ30歳になる。

 

放映当時、吹替版を映画館で観て、感動のあまり一週間ほど一言目には「アナ雪めちゃくちゃよかった」と言いまくっていた。映画館で音に圧倒されて自動で涙がドバドバ出てくる体験というのをアナ雪で初めて知った。爆音で素晴らしい音楽が脳に直接"刺さる"ような感覚で、感情を介さない反応として私は映画館で泣きっぱなしだった。

 

あまりに良かったので2回目を字幕版で見た。場所は横浜のムービルだったと思う。ムービルのスクリーンは学校の視聴覚室じみていて、音に圧倒される体験は若干薄れるものの、それでも泣きまくっていた気がする。

 

2014年当時の感想ツイート↓

 

当時の私は異様にハンス王子が好きで、彼には彼の事情と苦しみがあり、それは同情するし、自分の欠落を他人で埋めるようなことをする人間に育つのも致し方が無いよねという気持ちを抱いていた。アナには、エルサばかり気にかける親のもとで育ったから、出会った初日に結婚を決めるほど愛に飢えてしまうのも致し方ないよねとも思っていた。

 

2023年、私も十分に大人になり、結婚し、今改めて『アナと雪の女王』を見たところ、随分と自分の考え方・感じ方が変わったことが分かった。製作陣の意図もようやく少し分かった気がして、改めて感想を記しておきたいと思う。

 

***

 

エルサの愛着が健やかに育たなかった生育環境について

 

エルサの能力って別にエルサが望んで得たものではないのに、人を傷つけないよう能力を隠せと親からメチャクチャ言われてて、それによって健やかな愛着が育たなくて、自分の家・家族が全く安全基地ではなかったんだと思う。本当につらい。

 

親は何の悪意もなく、むしろエルサのためを思って、人を傷つけないように部屋のドアを閉め、アナからも遠ざけ、人との関わりを断絶し、結果エルサは一人ぼっちになってしまう。

 

しかし、エルサが置かれている立場上、アレンデールの民を守るためには、いつか手袋をはめずに自力で能力を抑えられるようにならないといけないというプレッシャーが常についてまわり、それもエルサの首を絞める材料になっている。

 

一人孤独に部屋の中に閉じこもっているときのエルサは、人に迷惑をかけてはいけない、人を頼ってはいけない、人を傷つけてはいけないという思いが強烈に育っているのが目に見えて分かって、それもまた苦しかった。

そばにいてほしかった親も船に乗って死に、戴冠式といった助けてほしいときに「助けて」とすら言えない状況があまりに苦しい。

アナはエルサの能力のことを何も知らないから、そばにいるのに一人ぼっちだという感覚に陥る。

 

後述するけど、こういった生育環境によって、「私がなんとかしなければならない」と全部を背負って、自閉傾向に拍車をかけたのかなと思った。

 

映画のオープニングから戴冠式のシーンは歯を食いしばっていないと倒れそうなくらい私はずっと泣いていた。つらい。

 

アナとエルサの発達特性について

エルサについて

結婚して発達障害カサンドラや愛着のことを学んだ結果、アナ雪の見方が少し変わった。改めてアナ雪を見ると、ASDADHDの物語に見えてしまい、「ありのまま生きるために、社会から離れて一人でいたい」というエルサの思考ってメチャクチャ自閉なのでは……?と思わずにはいられなかった。

 

医学的なことを理解していない私がこういうことを書くのはあまりよくないとは思いつつ、普段私がパートナーのASDっぽい行動にひどく傷つき、私がカサンドラっぽい行動(医学用語ではないことは重々承知しています)に陥った状況を重ね合わせて見てしまい、19歳のときには分からなかった新しい見方を発見した。

 

放映当時「ありのままで」という言葉が「世界に一つだけの花」みたいなきれいな言葉として大流行していたが、よくよくあの歌が歌われているシーンや歌詞に意識を向けてみると、「ありのまま生きるために、社会から離れて一人でいたい」という歌っぽいんですよね。

 

 

人を傷つけるし、自分はずっと苦しいままだし、それなら人と共生することを諦めて、ありのままで生きたい、一人でいれば自由になれる、能力のせいで人を傷つけるくらいなら一人でいたい、もう疲れたから放っておいてくれ、もう決めたんだよ、と言わんばかりにドアを自ら力強く閉めている。

 

今まで親や周囲の人間が彼女の心のドアを閉じてきて、ついにエルサは自分のドアを積極的に閉じるような人間になっちゃった。

親から言われてきた言葉が呪いになって、自分自身に魔法をかけて、自分で変身していく姿はとても美しいが、あまりに独りよがりで、閉じこもって「ありのままで」を高らかに歌ったところで、そこに残るのは巨大な虚しさでしかなかった。

 

私のパートナーもたびたび言う。「もう疲れた、もう一人でいきていきたい」「あなたのことが嫌いになったわけじゃないんだ、でも共に生活するのが難しい」「人と生きるのが難しい」と離婚を切り出してくる。

 

もちろん私とパートナー間の関係性については私にも十分に問題があることは分かっていて、でも、エルサもパートナーも、人と関わることを避けて積極的に一人になることを選択することで誰も傷つけないようにするという、そういう思考回路をしている。

 

自分の思い通りに、能力を開放して何も我慢せずに生きるには、一人になるしかない、そう思い込んでいる。自分のことは全部自分でどうにかしなければならない、自分の能力や特性のことで絶対に他人を巻き込んではいけないと、どこか完璧主義めいていて、他人を頼るといった選択肢は全く浮かばない。周りには助けてくれる人がたくさんいるのにね。

 

不完全である自分、ときには人を傷つけることもある自分というのを受け入れて生きることこそが、ありのまま生きるという言葉の正体なんだと思うんだけど、そうではなくて人を傷つけないために一人になることを選ぶところが、うーん、なんとも……。

 

パートナーも似たようなところがあり、私はパートナーのことを助けたいのに、頼ってくれないという悲しさがある。ただ、エルサやパートナーが「人を頼る」という選択肢が思い浮かばないほど追い込まれた人生を送ってきたことを思うと、安易に「私のことを頼ってね」とも言えず、ただただ心が痛む。彼らは誰かを頼りたくても頼れなかった時間があまりに長すぎるんだろう。

 

エルサは終始「私が、私が」って感じで、アナがなぜ出会ったばかりの人と結婚しようと思ったのか、それほどまでに愛情に飢えていたという背景まで想像することはできてなくて、自分のことで精いっぱいで、誰も頼らず一人閉じこもってるから結果的に大事な人まで傷つけちゃうんだよな~~ということも思った。

 

アナについて

一方アナについては、終始落ち着きがなくバタバタ走り回ったり暴れ回ったりしていてADHDのように見えた。たまたまハンス王子にぶつかったところを優しくしてくれたくらいで「運命の人かも?」と思考が飛躍し、すぐあとに戴冠式があることを思い出し走り去っていく。

 

アナはエルサがこれまで抱えてきた苦しみや孤独のことを全く理解しないまま、「アレンデールの氷を早く溶かしてほしい、夏に戻してほしい」「行かないで、私から離れないで」と自分のニーズの押し付けばっかりしていて、そういう関係性ってマジで離婚するしかないから地獄なんだよね……という目で見ていた。そんなこと言われたら私だったら荒れ狂っちゃう。城壁をより強固にするエルサの心がよく分かる。

 

「氷を溶かして夏に戻すことはできない」とはっきり言葉にするエルサに対して、「エルサなら絶対できるよ!」と無邪気に言うアナは、エルサを傷つけていることに無自覚だし、余計にエルサの孤独を深めていることにも気づかない。きっとこのことを追及したら、「傷つけるつもりなんかなかった、ただエルサのためを思って」みたいなことを言うんだろうなと思うともうそれだけで項垂れてしまう。圧倒的な断絶、分かり合えないことの証明でしかない。

 

でも『雪だるまつくろう』の歌のとき、幼少期のアナはめげずにエルサの部屋のドアをノックし続けていて、成長するにつれ エルサに反応してもらえないことが分かると、ドアの前に足を運んでも ノックする気が失せて声をかけるのを諦めてしまっていた。声をかけたい気持ちはあるのに 心が折れてしまうこと、よく分かるよ。

 

……というように過去に心が折れていたときもあったけれど、ガンガン話しかけにいくアナはそれだけでもう偉いと思う。私にはできない。拒絶され続けても積極的に人に話しかけにいくようなこと、私にはできない。

相手のことを傷つけようが邪険にされようが、話しかけたいから話しかける、そういうシンプルな強さがアナにはあって、そういうアナの性格にエルサはいくらか救われているんだろうなと思った。

 

誰もが完璧じゃない それを補うために必要なものが本物の愛

放映当時はあまり響かなかったトロールたちの『愛さえあれば』という歌が響くようになった。大人になったものだなと思う。「誰もが完璧じゃない それでいいのさ」「それを補うために必要なものは本物の愛」だということ、結婚してからようやく分かりつつある。もはやアナ雪が描いている一番大事なテーマってこれだったんだ!と今更実感を持って理解できるようになった。今まで私は何を見てきたんだろう……。

 

「愛っていうのは、自分より人のことを大切に思うことだよ」 とオラフが雪の身体を溶かしてアナの身体を温めるシーンがある。そのときに「これが暑さなんだね」とも言っている。人のために行動することによって初めて得られるものがあり、一人では得られることができないものこそが自分を育てるんだよなと思った。

 

エルサが能力をコントロールできるようになったのは、アナとの関係性が改善し、アレンデールがアナとエルサにとっての安全基地になり、ありのまま生きられる環境になったからこそだと思う。人のために行動するためには、自分のことを否定されない安全基地が必要で、能力を誰にも否定されないこと、心に痛みを抱えながら「少しも寒くないわ」と言わなくてもいい環境であること、「能力を隠せ」などと言われないこと、赤子を遠ざけ奇異なものを見るような眼差しを向けられないこと、そういった小さなことの積み重ねが、結果的に愛を育んだという話だった。

 

その他 思ったこと

  • トロールの「頭は簡単に丸め込める」という、記憶の改竄は容易いという言葉が結局よく分からない。アナとエルサの幼少期の思い出はアナにとって改竄されたままなんだろうか。エルサに傷つけられたこと、思い出せないままなんだろうか。そこが若干有耶無耶になっているのが気がかりだった
  • 反復の描写が気が利いていて良い
    アナ雪の後に放映された『ズートピア』は反復の描写がこれでもか言わんばかりにふんだんに盛り込まれていて、あれはあれで最高だけど、アナ雪の細やかな反復も寒いときにココアを飲むような温かさでとてもよかった
    • 冒頭はエルサが部屋に閉じ込められて孤独になり、後半ではアナが部屋に閉じ込められる。ドアを背もたれにして途方に暮れるシーンの反復が、アナはエルサの立場に立って考えたんだな、同じつらさを味わったんだな、というのが描写として分かるのが良い。
  • 冒頭の子どもってクリストフだったんだ!と何度見ても思ってしまう。スヴェンと生きてきて、トロールに育てられてきたんだということを何度見ても忘れてしまう

  • ピエール瀧さんから武内さんに声優が変更になったバージョンのアナ雪を見られてとてもよかった。瀧さんのオラフの雰囲気が可能な限り踏襲されており、瀧時代の世界観を無いものとして扱わずにそれもひっくるめて尊重されている感じがしてとても良かった

  • 神田沙也加さん(涙)

 

思えばわりと自分の価値観を育んだ作品のひとつで、これを改めて映画館で見ることができてよかった。結婚してパートナーとの生活において試行錯誤しているからこそ理解できる感情があり、よりアナ雪のことを好きになった。

反応してくれなくてもいい、となれたら

反応してくれなくてもいい、と思える日がいつか来るのかな。コミュニケーションなんて正しいキャッチボールの上だけで成り立っているわけではないと私はいつになったら理解できるんだろう。

 

正しいキャッチボールというのは、相手からボールが届いたときにはそれを受け止めて、そのあとで次は自分がボールを投げる、というやりとりのことで、自分ばかりが投げすぎるのも、投げなさすぎるのもダメということ。交互に投げ合うことでキャッチボールが成立する。

 

でも、コミュニケーションなんてそんな正しさの上だけで成り立っているものではなくてもっとグラデーションであって、例えば、ふたりが同じタイミングでボールを投げてしまうときもあれば、ボールを投げたのに相手が受け取ってくれないこともあり、私だって相手からのボールを受け止められないときもある。相手のボールがこちらに向かってきていて私は受け止める体勢に入らなければならないのに言いたいことが浮かんで思わず投げる体勢に入ってしまうことだってある。

 

そのように頭では分かっているのに、私に対する反応がないことに過敏になっている自分がいる。

自分の言葉にリアクションがなかったり無視されると悲しい。私はそれを取り締まる無視警察になってしまう、いつも、常に、ずっと。

 

リアクションがないこと、相槌がないことによって、私は「大事にされていないような感じがする」。大事にされていないように感じるのは悲しいことだと思う、好きな相手だったら尚更のこと。

相手はどんなに私のことを大事にしたいと心で思っていたとしても、リアクションがないことによって大事にされていない感じがする、と私の心が感じてしまう。だから無視警察になってしまう。

 

切り離したい。

でもできない。

 

 

前回のブログでも書いたかもしれないけど、無視した側っていうのは大抵無視したことに無自覚で、反応したつもりになっているんだよね。だから、「今リアクションがなかったよ」と私が言っても、「リアクションしたよ、リアクションしたつもりだよ」と私の指摘を受け止めてもらえなかったり否定されたり、「今ちゃんと会話してたじゃん、ひとつの話題の中で会話をしていたよね」みたいな謎の自己弁護をされたりする。

 

リアクションをしてもらえなくて「大事にしてもらえていない感じがする」という悲しみを抱えている最中に、「今リアクションがなかったよ」と言うのもつらいのに、それを否定されたり真っ先に自己弁護に走られるとつらさが増える。

悲しい中それを言語化して伝える私の工数や負荷のこと、あなたはちゃんと分かってる?

 

たびたび録音して聞かせてやろうか?と思う。なんというか、根底には絶対に私は間違ってない、私は聞き逃してなんかいない、っていう思いがあるんだろうな。でも、相手が口にしたことや私が口にしたこと、音声データという事実は私の中で間違っていなかったとしても、相手の心の中までは全く考慮されていない。相手がどういうふうに考えていようが音声データという事実が正だろ、と思ってる。

 

ともすれば音声データをエビデンスに相手を殴ろうとしている自分の暴力性に気づいて本当にゾッとする。正しさでバトルするためにコミュニケーションをしてるんじゃないのに。コミュニケーションを通じて感情や意見を交換するためにやっているのに。優しさが足りないと自分でも思う。優しくない。私は全く優しくない。

 

「熱心に考えながら話していたら聞くのが疎かになってしまった」とパートナーはよく言う。「共感してもらいたくて一生懸命考えていたらあなたの言葉にリアクションをしなかった、聞こえてはいるけど、反応できなかった」というようなことも言う。

 

また、パートナーと私がふたり同時に喋ったときに、私は「パートナーと私ふたり同時に喋ったな」って認識してるんだけど、パートナーはふたり同時に喋ったことを認識してない。シングルタスク人間だから喋ることに集中していて、聞くというタスクが疎かになっている。そして、リアクションを取らなかったことにパートナーは私の指摘なしに自分で気づくことはない。だから私はいちいち言葉にして言っているわけだが、そのときに否定や自己弁護の攻撃に遭う。攻撃だと、被害だと私は感じているんだな。

 

このように、仮に相手の心や考えがが分かったとしても、音声データという事実は事実なんだから、どういう思いがあったとしてもそれは情状酌量の余地はあれど事実に変わりはないんだよと思ってしまう。

 

コミュニケーションというのは音声データだけじゃなくて、呼吸や頷き、目線や表情、そういうったものが必ずあるはずなのに、それを見落としているのは私の方かもしれないのに、とにかく口にした言葉、音声のことを気にしている。

 

人はそんなに正しく生きてないし、うまくコミュニケーションできる日ばかりじゃないのに、私だってそうなのに、なんでリアクションをしてもらえないとこんなにつらいんだろう。

 

***

 

今思い出したけど、LINEでもスタンプで済まされるのがすんごい嫌いなの。スタンプじゃないか、スタンプは全然いい、あのステッカーみたいなリアクション機能が本当に嫌いなの。あれって通知が来ないから。こっちが見にいかないと分からないの。返信を待っているときに返信がこなくなって「あれ?相手からの反応がなくなったな、まだ未読なのかな?それとも既読無視かな?」って思って能動的に見にいくと、リアクション機能で「リアクションはしましたよ」みたいなのを知るのが本当に嫌い。なんかね、「リアクションはしましたよ」って感じが雰囲気から漂ってるの、既読無視する罪悪感を抱える覚悟がないヤツがいい人ヅラするための免罪符として使ってるみたいな感じがする。免罪符じゃないから、あの機能は。

 

あとなんかね、ときどきLINEをしているときに「この会話もうクソつまんないからいい加減やめませんか?」って思うときがあるの。本当は言いたくてたまらないのに言えないの。こんなクソつまんない会話の意味ってある?ないだろ?終わりなら終わりだって言おうよ、言いたいよ私は、いちいち返信のたびに苦しくてたまらなくて、なんなんだよこのコミュニケーション、確かにキャッチボールは成立してるけどクソつまんないよ、やめたいよって思うときがある。

パートナーには「"この会話もうクソつまんないからいい加減やめませんか?"って言っていいと思う?」と相談したことがあるけど、「やめておいたほうがいいんじゃない?」と言われて、やめた。そうやってわざわざ波風立てるやり方は争いを生むから、やめておいたほうが無難だってことだと思う。

 

リアクション機能というものは、波風を立てない無難な方法なんだろう、多分。でもなんかすごいモヤモヤするんだよな。「こっちは返事を待ってたんだけど?」って思うんだよ、どんなにクソつまんない会話でも。「今リアクションがなかったよ」と言うのを封じられてる感じがするんだよ。

 

で、話を戻すとリアクション機能を使ってくる人には私も同じように対応をしている。やり返してもどうせ相手はきっと何も感じてないと思う。何も感じない人だから元々そういう機能を平然と使ってるんだと思う。「こっちは返事を待ってたんだけど?」と相手が思うことを想像できない人か、想像できても別に何とも思わない人というか。

 

で、こういうことを読んで言いなりになる人間のことがもっと嫌いなの。大嫌いなの。自分の意思がない感じがする。浅はかなところや考えなしなところがある自分というのをきちんと受け入れて、そのままのあなたでいなさいよって思う。こういうのを読んで早々に態度を変えてもあなたの根底は何も変わらない、そのことをちゃんと自分の奥歯で噛み締めて生きていてほしい。外側を取り繕っても過去は変わらない。別に変化するなと言ってるわけじゃない、ただその変化のトリガーが自分自身がよくよく考えた結果ではなくて、他人の発言であるということ、分かっていてほしい。忘れないでほしい、トリガーになった他人の存在を。自分自身で気づいた成果じゃない、私はそういうふうに思ってしまう。

 

なんというか、こういう文章を読んでも何の影響も受けないでほしい。

でも人は影響を受けてしまう。

 

多分私は自分の発言や文章が他人に影響を及ぼすことにかなり無自覚で、相手の行動に制限をかけていることに本当に無自覚なんだと思う。誰かを怖がらせている、恐怖によって従わせている、そういうやり方を自ら選択している、そしてそのことに無自覚である。

他人からなんか言われると私はすぐ傷つくから、傷つかないためにも誰も何も影響を受けてほしくなくて、そんなのムリなのに、結局ビビってんのは私じゃん、みたいな。自己弁護や自己保身にまみれてるのは私じゃん、みたいなことを思う。ああイヤだ。

"無視"への対処

 

以前、夫であるパートナーとこんな会話がありました。

 

私「(オードリーの)若林さんがパパになったって、第一子誕生だって!」

夫「西村賢太が死んだね」

 

私の言葉に対するリアクションがないまま、パートナーは別の話題を話してきました。

内容としても、好きな人(私はオードリーのことが好きで、パートナーも私がオードリーのことが好きであることを知っています。)に子どもが生まれて嬉しいという話に対して、私もパートナーも取り立てて好きなわけではない人が死んだという話をされて、とても戸惑いました。

なぜ私の話を"無視"するの?なぜ嬉しい話に対して悲しい話をするの?と悲しくなりました。

 

 

また、私の好きな漫画(高校生の物語)について会話しているときにこのようなことも……。

 

夫「今時の高校生の話は、おれたち世代じゃ全然分からないよね」

私「そうだねえ、でも今時の高校生の物語だけど、大人でもありうる物語だよね。

  大人でもありうることを大人の作者が高校を舞台に描いているよね」

夫「この情報化社会でさあ……」

私「???」

 

この、いきなりの情報化社会の話題への転換と、私の言葉にリアクションがないことを指摘したところ、「どうしてこうなっちゃうのかな!?」「噛み合わなくたっていいじゃん!」と言われてしまうこともありました。

 

 

こういった行動もありました。

 

私「(新体操の番組を見ながら)すごいねえ~~!」

夫(何も言わずにテレビのチャンネルを変える)

 

「チャンネル変えるね」の一言がなかったのでとても驚きました。私は新体操の番組を見たかったので、私の言葉に何のリアクションもなく、「チャンネル変えるね」の一言もなかったことがショックでもありました。

 

 

我が家では、「私の話に対するリアクションがないままパートナーが別の話をする」という事象が頻発していました。細かく分けると①私の話に対するリアクションがないこと、②パートナーがいきなり話題転換をすること、この2つの事象に私はずっと困っていました。

 

最近この事象に対して、改善が見られてきたので、改善に至るまでの対処などを書き残しておこうと思います。

 

 

まず、「私の話に対するリアクションがないままパートナーが別の話をする」というこの事象について、この記事では"無視"という表現をしていますが、人によっては"無視"という表現は強すぎる可能性があり、「それは"無視"ではないのでは?」と思う方もいらっしゃるかと思いますが、私は、私の話に対するリアクションがないままパートナーがいきなり別の話をしてくると私の話を無視されたように感じるため、このような表現をしています。どうかご容赦ください。

 

また、私は会話に対して厳しく、会話が成立していないことがものすごく気になるタイプです。具体的に例えば何が気になるかというと、「はい」か「いいえ」で回答ができるクローズドクエスチョンに対して「はい」か「いいえ」で返さない会話とか、「うんうん、そうだよね」といった相槌がない会話、「話変わるけど」といった前置きなく別の話題に移行する会話、矛盾していて一貫性のない会話、相手の言葉を聞き取れなかった際に「ん?」と聞き返せば相手が言い直してくれると思ってる人の会話などが気になります。

会話が成立していないと感じる基準が恐らく人より厳しいです。

 

でも人間に一貫性を求めることは難しく、矛盾したことを話すのが人間で、私だって相手の話を無自覚に無視することもあります。「ん?」と聞き返してしまうときだってありますし、相槌をしないときだってあります。いちいちイラついてるわけでも傷ついているわけでもないですが、当然ながらリアクションがほしいときだってあります。

 

"無視"をされるとどのような気持ちになるのか

"無視"をされるとどのような気持ちになるかというと、まず、私の話を聞いてくれていない、と感じます。その裏にあるのは私の話を聞いてほしい、という欲望です。

また、私の話を聞いてくれていないと感じるとき、私は相手から大事にされていない、尊重されていないなあと感じ、蔑ろにされていると感じるときもあります。相手が私のことを大事に思っていて、尊重しようと思ってくれていたとしても、"無視"をされると"大事にされていない感じがする"のです。

 

仮に街中で一人泣いているとき誰からも声をかけてもらえなくても、「私は無視されている!」とは思いません。別に街中の人に対して「声をかけてほしい」と伝えてないですし、街中にいる人たちは私にとって大事な人ではないからです。

夫や友人など大事な人から"大事にされていない感じがする"と悲しい気持ちになります。また、私は大事な人の会話を聞きリアクションをしているのに、私は大事な人から"無視"をされると悲しくなります。大事な人から大事にされない(感じがする)というのは悲しいことです。

 

世の中には大事な人から"無視"をされても悲しくない人間がいるのでしょうが、それでも私は悲しいのです。

 

↓"無視"され続けると心がダメになります。

 

"無視"を指摘するのは怖い

"無視"に対する対処を書く前に、"無視"を指摘するのは怖いということも書いておきます。

 

私とパートナー間の場合、"無視"というのは大抵無自覚で、自分では気づかないうちに"無視"をしています。「無視してやろう!」と思っているのではなく、むしろ話に対するリアクションをしたいと思っているのに、無自覚に"無視"が出てしまいます。

それを録画も録音もないまま立証するのはとても難しいことです。言った/言わない、リアクションした/しないの議論に終始して、"無視"されて悲しかったという気持ちにフォーカスされないのではないか、「無視などしていない」とパートナーが言うのではないか、これまで喧嘩したときに言われたように「そんな些細なことで傷つくのか」と言われるのではないか、という恐怖がありました。

 

そういった恐怖がある中で対処を重ねてきました。

 

 

"無視"に対する対処

前提と対処に分けて記載します。

また、対処については効果と難易度も記載します。

 

効果が薄いというのは、対処の意図や本質が相手に伝わらなかったために効果が薄いケースが多いです。だから、どんなに効果が薄い対処を何度も何度も必死にやってもあまり意味はないのです。

 

これが結構苦しいのですが、一見 私が伝えた対処をパートナーが実行してくれているように見えるけれども、単に対処を実行してくれているだけで、その奥にある意図や本質を理解していないために、私の悲しみやつらさが加速するケースもありました。相手の行動が変わっても、相手が本質を理解してないのが分かる、そのために悲しみやつらさが減らずにむしろ増えてしまう、ということです。

 

そうすると「おれはあなたに言われた通りに行動しているのになぜ悲しむのか」と言われてしまいます。そういう場合、そもそも何のための対処なのか立ち返る必要があります。今回の場合は"無視"をされると大事にされていない感じがして悲しいから、その悲しみを減らすために対処をしているんだということを双方振り返る必要があります。

 

効果が薄い対処をしまくって改善が見られなかったところで「私の"無視"される悲しみが全然相手に伝わらなくて悲しい!」とさらに悲しみを重ねても仕方がないのです。

 

相手にものが伝わらないのは伝え方やそのアプローチが間違っているケースがあり、伝え方やアプローチを変えれば伝わるケースがたくさんあります。相手に伝わらない悲しみは分かるし、言葉を尽くしたのに伝わらないとき、これ以上どう伝えればいいんだと途方に暮れる気持ちも分かります。でも、とにかく相手に伝わらないと意味がないので、相手に届くまで色んな球を投げるしかないと私は思います。

 

また、この記事を書いていて思ったのはこれは単なる生存者バイアスがかかった文章だということです。たまたま以下の対処をしたらうまくいったというだけで、うまくいかない可能性だってあったはずなのに、うまくいったからと押しつけがましく文章を書くのはどうなのかなと思っています。でも、何か、誰かの参考になればという思いと、「あなたはこんなに頑張っていたんだよ」と過去の自分を肯定するために書いています。そもそも"無視"されて困ってる人なんて私以外にいないのかもしれない。誰のための文章かというと、結局は自分のために書いているに過ぎません。

 

前提の確認

  • "無視"された言葉は聞こえていたかを相手に確認する
    • 聞こえていなかった場合は、相手に聞こえるまで伝えます。
    • 聞こえていない場合は単に相手の耳が遠かったり、自分の声が小さく聞き取りづらかった可能性があります。また、意識が逸れていたり集中力が切れていたために話を聞けていなかったというケースもあると思います。
    • パートナーの場合、私の言葉は聞こえているにも関わらず、リアクションを取らずに別の話題をいきなり話すケースが多かったため、以降はそれに対する対処が中心となります。
  • リアクションを取るつもりで何を言おうか考えていたが、考えがまとまらない等で言葉が出なかったのではないかを確認する
    • これはリアクションを取る意思があり、具体的なリアクションを検討していたものの、「今考えているからちょっと待って」などの言葉がなかったために、”無視”されたと感じているのかどうかを確認する意味合いがあります。
    • 会話をしている際に沈黙が続くと、「何を言おうか考えているのかな?」と察することができるのですが、「私の話に対するリアクションがないままパートナーが別の話をする」というのは、考え中の沈黙とは別物です。
  • 相手は私の話を"無視"するつもりはないことを思い出す
    • これは私の心構えの問題なのですが、パートナーは別に「私の話を無視してやろう!」と思って"無視"しているわけではないと何度も何度も思い出していました。これを忘れてしまうと悲観的になりすぎてしまって「パートナーは私のことなんか大事じゃないんだ!」「私は話を聞いてもらえなくても当然の存在なんだ!」と大メンヘラ時代に突入してしまうので、相手は"無視"するつもりはなく、むしろリアクションをしたいと思っているはずだ、と何度も何度も思い出すようにしていました。
  • "どのようなときに"無視の事象が発生したかを確認する
    • テレビを見ながら、料理をしながら、掃除をしながら、など。
    • 対処のところで詳しく記載しますが、何かをしながらリアクションを取るという行動が難しいと感じる人が世の中には存在するということを念頭に置きます。
  • 「無視されてつらかったよね、悲しかったよね」と慰め寄り添ってほしいということを伝えておく
    • パートナーは共感や寄り添いがとても苦手で、改善が見られなくてもいいから、余裕があるときは寄り添ってほしいんだよということを伝えていました
    • でも寄り添ってくれるようになったのはつい最近で、それまでは 反論(?)への対処に書いたようなことばかり言われていました

 

対処

(その場で)口頭で伝える
  • 効果:★★★
  • 難易度:★★☆

「今リアクションなかったよ」と"無視"されたそのときに口頭で言うという対処です。

 

これは私にとっては少し難しいものでした。私は、泣いていると「泣くな」と言われたり、笑っていると「うるさい」と言われるという機能不全家庭で育ち、首を絞めることで痛みを最優先事項にし、そのときの感情を殺すという対処をして生きてきました。そのため、つらいときにその場でつらいと感じることがかなり難しいです。このような子ども時代に負ったトラウマが未だに残っており、つらいときにつらいと感じられず、後で落ち着いたころに「ああ、あのとき私はつらかったんだ」とやっと気づくという、感情が遅延してくる人間です。その場でつらいと感じ、つらいと言葉にするということは私にとってとても難しいことです。
でも、パートナーは私の両親とは違い、私のことを愛し、大事にしてくれる存在であるということを意識して、私が感情を伝えても大丈夫だと思い出しながら、今も頑張って、伝える訓練をしています。

 

また、"無視"されたときに必ずつらく悲しいというわけではなく、つらくないときや悲しくないときもあるので、そのときは負荷がかからずに「今リアクションなかったよ」と伝えることができます。

 

その場で口頭で伝えることにより、「ごめん、今リアクションなかったよね」とパートナーが言ってくれるようになり、かなりシンプルな対処で改善が見られました。

 

(あとで)口頭で伝える
  • 効果:★☆☆
  • 難易度:★☆☆

あとで口頭で言うという対処です。これは、つらいときにつらいと感じられない私にうってつけの対処です。後々思い返したときに、「あのときの会話は無視されてたな」と気づいたときに相手に言う対処です。

 

これは伝える難易度が下がるのと併せて効果も薄れます。あとで言うという対処は、自分も相手もどのような会話をしていたか忘れてしまうという弊害があります。みんながみんなそこまで細かく会話を覚えているわけではないですし、相手は無視したつもりがないからなおさら、「反応はしたじゃん」「あのときリアクションしてたよね?」といった返事が返ってきます。

 

また、私の場合、あとで言おうとするとあれもこれも……と言いたかったことが増えてしまいがちでヒートアップしてくる一方で、パートナーは会話を覚えていないしリアクションをしたつもりになっているのでなぜ私がそこまでヒートアップしているのか理解ができず、パートナーと私との間で温度差が生まれやすかったです。「無視してなんかない」「いいや無視した」という言い合いになり、過去を確認する方法は録音や録画などしていない限り分からないままで、事実確認に終始するのは不毛です。

 

(あとで)文面で伝える
  • 効果:★☆☆
  • 難易度:★☆☆

「(あとで)口頭で伝える」と似ていますが、ノートやLINE等文面で伝えることのメリットは、ヒートアップしづらいということです。でもこれも「(あとで)口頭で伝える」のと同様効果も薄いです。

 

会話を文面に書き起こす
  • 効果:★☆☆
  • 難易度:★★☆

会話をノートやLINE等に書き起こすという手法です。実際に行われた会話を録音したり、会話をしながらメモを取る必要があるため、これまでの対処と比べて難易度があがります。

 

メモを元にノートやLINEでこのときはこういう会話をしていて、あなたは私の言葉にリアクションを取らないまま別の話題にいきなり移行したんだよ、と伝えるものですが、ノートやLINEをパートナーが読む頃にはすでに会話の詳細を忘れているため、この対処もあまり効果は期待できないです。

 

反応されるまで言い続ける

  • 効果:★★★
  • 難易度:★★★

文字通りリアクションをしてもらえるまで言い続ける、リアクションを催促をするという対処です。

 

相手はリアクションをしていないことに無自覚なので、こちらから気づかせる必要があります。例えば「ご飯何食べるの?」という質問にリアクションがないときは、リアクションをされるまで「ご飯何食べるの?」と言い続けます。

 

私とパートナー間の場合、良いときは2回目で、大体は3回目くらいでパートナーがリアクションをしていなかったことに気づきます。最近は「ハッ!今無視してたよね、ごめんね、リアクションしてほしかったよね」と寄り添ってくれたあと、リアクションをしてくれています。

 

でも、催促というのは大変なエネルギーがいることです。疲れているときはできないときもあるでしょう。そのため難易度を★★★にしています。

 

催促したからといって必ずしも相手が"無視"を自覚してくれるかというとそうでもないのですが、「成功とは成功するまでやり続けることで、失敗とは成功するまでやり続けないことだ」と松下幸之助氏が言っていたように、相手からリアクションをされるまで言い続ければそれは"無視"にはならないのです(?)超疲れますけどね。

 

本当は催促をされた際に「ごめん気づいてなかった、言ってくれてありがとう」まで言ってほしいのですが、そこは求めすぎのような気がしてそこまでは求めていません。が、催促してもらえるのが当たり前だと思うなよ、ということはパートナーに言っています。

 

また、私もリアクションを取ってもらえて当たり前だという認識を捨てる必要があり、神経質にならないように気をつけています。催促し続けると相手の自尊心を傷つけるおそれがあるため、本当にリアクションをしてもらいたいものに限定して催促をしています。

 

ながらをやめる
  • 効果:★★★
  • 難易度:★★☆

何かをしながらの会話の場合、それを一時中断するという対処です。例えばテレビを見ているときは一時停止する、料理・掃除をしているときは手を止める等です。また、テレビを見ているときや料理・掃除をしているときは話しかけないようにし、終わってから話すことも私は意識しています。

 

パートナーはマルチタスクが苦手で、何事もシングルタスクの人間なので、ながらをやめるということは日々実践しています。

 

ここで注意をしたいのが、「自分が話しているとき」も注意が必要なことです。会話というのは双方が話すことによって成り立つものですが、パートナーの場合、話しているときは話していることに集中しているので、聞くことが疎かになるときがあります。聞くことができていても反応が疎かになるときもあります。

 

あくまで私の推測ですが、パートナーにとってテレビを見ながらの会話というのは、①テレビを見ながら、②自分の話をして、③相手の話を聞き、④リアクションを取る、というようにタスクが並列に走っている状態で、どれかひとつが疎かになっても仕方がない状態なのではないかと思います。

 

家でドラマを見るとなるとどうしても会話をしたくなります。一方で、映画館で映画を観る場合は会話はせず映画に集中し、映画が終わってから映画の話をします。これがパートナー向きのコミュニケーションです。
会話がしたい場合は他の手を止める。ながらをやめる。ながらのときはリアクションがなくなるときもあるだろうと心構えをしています。

 

先日ドライブに行ったのですが、「これから運転をするから話を"無視"しちゃうかもしれないから、そのときはごめんね」とパートナーが事前に言ってくれる出来事があり、とても嬉しく感じました。パートナーがこのように事前に伝えてくれるようにまでなった、そのこと自体とても嬉しかったです。いきなり"無視"が来るから衝撃を受けてしまうのであって、私もパートナーも、何かをしながらの会話のときに"無視"が出る可能性があると心構えをしておけば、実際に"無視"されてもダメージは最小限で済みます。

 

動画を見せる
  • 効果:★★★
  • 難易度:★★★

"無視"されたときの動画を相手に見せる対処です。自分が無自覚に"無視"をしていることを客観的に理解してもらいます。

 

今はスマホで何でも写真や動画に残せる時代です。別に"無視"された瞬間を記録してやろう!と思って動画を撮ったわけではないのですが、日常的に撮った動画の中でリアクションを取ってもらえなかった動画がいくつか見つかりました。

 

伝え方としては、LINEで"無視"の動画を3つほど共有しました。
「どうなったの?」という言葉に反応がなかった日、「なんでナンバーのチェックをしてたんですか?」という言葉に反応がなかった日、「寒いから今日は」という言葉に反応がなかった日、とそれぞれ説明付きで伝えました。

 

また、パートナーを責めたくて動画を見せるわけではなく、"無視"していることを自覚してもらうために動画を見せるのであって、そこで感情的にならないように抑えていました。「"無視"されて悲しかった!」等の感情は抑えるということです。「あなたは無視するつもりがないのは分かっている。常に無視しているわけじゃないことも分かっている。でも、この動画のように何かをしながら会話をしているときにリアクションがなくなる傾向がある」といった言葉も添えて伝えました。

 

パートナーは動画を見て「おれが反応してないね、反応してくれなくて無視されているようで、これは悲しいね」と言ってくれました。
これは本当にすごいことで、やっと伝わった!と思いました。これまで散々口頭や文面で"無視"していることを伝えてもあまり伝わらなかったのに、動画ではちゃんと伝わり、動画を見せる案を思いついた私って天才だ!と自分を褒めました。

 

ここで注意が必要なのが、"無視"された動画を見返す際には少なからず精神的にクるということです。今まで気づいていなかった"無視"に気づくきっかけにもなり、「私ってこんなにリアクションを取ってもらえてなかったんだ」と気づくのはキツいものです。

 

そして、相手に動画を見せることも少しの勇気が必要です。なぜかというと、その動画が楽しい旅行のときの動画であった場合、楽しい思い出を悲しみで少しだけ上書きすることになる可能性もあるからです。楽しくて思い出として残しておきたいからこそ動画に撮ったのに、それが悲しみの証拠になってしまう……。私はパートナーに動画を見せるときにそういう思いになりました。でも、結果的にパートナ―自身が反応していないと気づくきっかけに大いに貢献してくれたので、見せて良かったと思っています。

 

コミュニケーションの定石を教える

 

  • 効果:★★☆
  • 難易度:★★☆

コミュニケーションの定石を教える、というと「そんな定石は無い!」とか「お前の考えを社会の当然のルールとして押し付けるな!」とか言われそうでとても怖いのですが、会話には「うんうん、そうだよね」と相槌を打ったり、話題を変えるときには「話変わるけどさ」と前置きをするといった、ルールではないけれど、テンプレートがありますね。それを改めて言語化して伝えるという対処です。

 

この対処に至った経緯としては、パートナーは私の言葉が聞こえており、「リアクションはしたよ」と主張していることから、「相槌がへたくそなのでは?」というか「そもそも相槌をするという会話のテンプレをあまり知らないのでは?」と思ったことがきっかけでした。

 

次に、パートナーは私の言葉が聞こえており、心の中では何かリアクションを取ったのかもしれない。しかし、言葉としてリアクションを表現しないまま、いきなり別の話題に移行したことによって、私はリアクションを取ってもらえていないと感じているだけなのではないか?と思いました。

 

対処として「前置きなく話題がいきなり変わると、ついていけなくなるんだよ」といった話をしました。「あ、そうなんだ~」「全然別の話になるけどさ~」等、ワンクッションがあると受け入れやすいんだけど、それがないとびっくりする、ついていけなくなっちゃうときがあるんだよ、"無視"するつもりがないのは分かってるんだけど、蔑ろにされた気持ちになって悲しいんだよという話をしました。

 

もうひとつ対処として、これは私の伝え方が悪かったのですが、以下のような伝え方をしました(LINEで)。

「うんうん、それで?」「そうだよね」と相槌をしないで自分の言いたいことを言ってしまうのは、あなたが相槌が苦手だからなのかもしれないと思いました。もしかしてあなたは相槌が苦手なのではないですか?

その結果以下のような返信が来ました。

普段、相槌をしていると思います。自分の言いたいことだけ言ってません。ケンカをしているときに冷静に相槌をしないで自分の言いたいことを言うのはお互いにそうです。

相槌が苦手ではありません。あなたが苦手なのかなと思ってもいいです。

いわれのないこと、身に覚えのないことをいわれて、おかしいな変だなと思っても相槌はうってます。画面に集中していても相槌うってますよ。相槌をうってない、あなたがそう思うのはいいです。

メチャクチャ怒ってますね。相槌をしていないことに無自覚だから、いわれのないことを言われると抵抗感が出てくるのは最もだと思います。

このあと上述した動画を見せたところ、すんなり理解を示してくれました。

 

コミュニケーションの定石を実践して見せる
  • 効果:★★★
  • 難易度:★★☆

「うんうん、そうだよね」と相槌を打ってほしければ自分がまず相槌を打つこと。話題が変わるときは「話変わるんだけど」と前置きをしてほしければ自分がまず前置きをして話すこと、自分の話をしたいときは、相手の話を受け止めリアクションをしてから自分の話をすること、これを実践して見せるという対処です。

 

私のパートナーは、私の真似をすることが得意です。私が転職活動を始めたらパートナーも転職活動をするし、私がカウンセリングに行き始めたらパートナーもカウンセリングに行き始める。真似が得意なパートナーにとって、この対処は結構有用でした。

 

これまでも普段から相槌をしているつもりでしたし、話題が変わるときは「話変わるんだけど」と言っているつもりでしたが、より一層意識して会話するようにしました。その結果「最近"話変わるんだけど"と意識して言ってくれてるよね」とパートナーが気づいてくれ、パートナーも相槌を頻繁にしたり、「話変わるんだけど」と言ってくれたり、私の話にリアクションを取ってから自分の話したい話をするように変わってきました。私が実践して見せることによってパートナーが学習してくれてよかったなと思います。

 

やめた方が良いこと

「いつも」「全部」「全然」という言葉を言わない

 

「あなたはいつも私の話を無視する」「あなたは全然私の話を聞いてない」とか、そういう言葉を使うことによって「おれはいつも無視してるわけじゃない」「全然聞いてないわけじゃない、反応しているときだってあるだろう」とパートナーから反応されることがありました。まあ確かに常時"無視"しているわけではないのですが、悲しみが肥大化すると話を盛って表現してしまいがちです。でも、「いつも」「全部」「全然」という言葉を使って表現を盛ると、相手の自尊心を傷つけます。言葉を正しく使って事実を伝えることが大事です。

 

反論(?)への対処

「言いたいことを言うことの何が悪いの?」

 

言いたいことを言うのはいいけど、その前に私の話に対するリアクションをしてほしいということを伝えていました。会話をキャッチボールとして例えると、私がボールを投げて、それに対してパートナーもボールを投げているのだから、会話のキャッチボールになってるじゃん!というのは勘違いです。キャッチボールというのは相手からのボールをキャッチして、そのあとボールを投げるというのがキャッチボールであって、相手のボールをキャッチしないでそこらへんにゴロゴロ転がっている最中に、自分がボールを投げたいからって投げるのはそんなのキャッチボールではないと思います。

 

 

「思ったことを言うことの何が悪いの?」

他にも「思っちゃったんだから仕方がないだろ」「おれは言いたいことを言っただけ、それがそんなに悪いこと?」と言われてきました。

 

思うこととそれを言葉にして相手に言うことは別だと伝えました。

相手が傷つき悲しんでいるときに、思ったことを言葉にして言うことによって相手がさらに傷つく可能性がないか検討してほしいとも言いました。どのような会話でも、言葉のかけ方に注意が必要で、相手の言葉を理解しようとして言った言葉なのか、相手のことを気遣った言葉を選んでいるか考えていきたいんだよ、というような話もしました。

 

「おれはなんてダメな人間なんだ」

「無視されてつらい、と指摘されたことによっておれの人格が否定された、おれはなんてダメな人間なんだ」という意味です。

「無視されてつらい」と私が訴えているときに、「無視されてつらい、と指摘されたことによっておれの人格が否定された、おれはなんてダメな人間なんだ」とパートナーが凹むことが過去にありました。私としては人格を否定しているわけではないのですが、自尊心が傷つき否定されているように感じてしまうときもあるのでしょう。

 

だから『人格を否定しているわけではないんだよ、単に無視されると悲しいんだよ、リアクションを取ってほしいんだよ、今回の会話だと自分の話したい話をする前に「うんうん、そうだよね」と私の言葉に対する反応がほしかったんだよ』と具体的に伝えることが大事でした。

 

LINEを見返したところ、このようなメッセージを私が送っていることもありました。

あなたは無視されたと指摘されて悲しかったんですよね。無視するつもりはなかったんですよね。つらかったですよね。責められているように感じたんですよね。それはつらかったですよね。ごめんなさい。つらかったと思います

 

"無視"されたと指摘されて悲しい、というパートナーの気持ちが完全に理解できるわけじゃないですが、私からも寄り添う姿勢を見せるようにしました。正直、私が"無視"されて悲しい!と訴えているのに、パートナーは私に寄り添ってくれることは少なく、パートナーの精神が落ちてしまうことが多く、悲しんでいる私がパートナーのことを慰め寄り添わなければいけないところに私は不満を感じていて、抵抗感が出てくるのですが、それでも歯を食いしばって対応してきました。

 

話は逸れるんですが、相手を傷つけるようなことを言って、相手から「そのようなことを言われると私は悲しいです、傷つきました」と言われると、凹んでしまう人が、私は本当に苦手です。

傷ついているのは相手で、傷つくようなことを言ったのは自分なのに、それを指摘されると凹んでしまう。なんでだよ?と未だに不思議です。「相手を傷つけるようなことを言ってしまってごめんね」ではなく、「傷つけるようなことを言ってしまうおれはなんてダメな人間なんだ」と矢印が自分に向かって、全部「おれが」という主語になってしまう。その時点で傷ついた相手のことを視界から消している感じがして本当に苦手です。

私は人間なんてみんな他人同士なのだから意図せず傷つけることなんてザラにあると思っていて、「そのようなことを言われると私は悲しい、傷つきました」と言われたときに、「ああ、無自覚だった、気づいてなかった、気づかせてくれてありがとう、傷つけるようなことを言ってごめんね」とならずに大ショックを受けてしまうのはなんでなのだろうとずっと考えています。きっと、「そのようなことを言われると私は悲しいです、傷つきました」と言われて受け止めるだけのキャパシティが無いんだろうと思っています。

 

 

「おまえだって無視をするだろう」

「おまえだって無視をするだろう、おまえだって同じことをするくせに、自分が無視されたときにだけ傷つくのはおかしい」「おれは無視をされても傷つかない」「無視されたくらいで傷つくなんてネガティブすぎる」と言われてきました。

 

人間は何で傷つき悲しむかは人それぞれ違います。

「おまえだって無視をしているのだからお互い様だろう」というような主張は、おればっかりが傷つくおまえのことを慰めたり寄り添ったりしたくない、そんなの不平等だ、と思っているから出てくる言葉な気がしています。平等で対等な関係を築きたいのであれば、いちいちそんな些細なことで傷つかないでほしい、おれの基準に合わせてほしい、といった気持ちがあるのかもしれません。

でも、人間は何で傷つき悲しむかは人それぞれ違いますし、何で傷ついて何で傷つかないかという人それぞれの心の基準を相手に合わせることなんてできません。できるとするのならば、我慢だけです。「相手は同じことをされても傷つかないのだから、私は我慢しよう、我慢しなければ……」と、その場では我慢できたとしてもいつかダメになるときが来ると思います。

 

対処としては、人間は何で傷つき悲しむかは人それぞれ違うし、無視をされると私は悲しい気持ちになるんだよ、あなたは無視をされても悲しくないのでしょうが私は悲しいんだよ、ということをひたすらに伝えていました。

 

"無視"をされると蔑ろにされている気持ちになるんだということを言う。「蔑ろになんかしていない」と言われても、「蔑ろにしてない、大事にしてくれようとしているのはわかるけど、でも"無視"をされると蔑ろにされているように感じるときもあるんだよ」と懸命に伝えるしかないのかなと。

 

あなたと私は違う人間であると自他の境界線を引くのが大事なんじゃないかなと思います。

 

「察しろってこと?」

話を"無視"されたくなくて、"無視"されて悲しいと私から申告しているときですら「察しろってこと?」と言われることがありました。私は話を"無視"されたくないし、話をちゃんと聞いてほしいと伝えているのに、それでもパートナーにとっては分かりづらい部分があるから「察しろってこと?」というような言葉が出てくるような気がしています。

だからそのような言葉を今後言われないように、リアクションを取ってもらえるまで言い続けるとか、その場でリアクションを取っていないことを口頭で具体的に伝える等の対処をしています。とにかく全部言葉にしています。

 

「なんて言葉をかければいいか分からなかったから」

「何を言ってもイヤな気持ちにさせる気がして」とも言われていました。

これは前述した「リアクションを取るつもりで黙って考えていたが、考えがまとまらないなどで言葉が出なかったのではないかを確認する」と似ているとは思うのですが、なんとなく違う気もしています。

 

このような言葉を言われたときは、なんて言葉をかければいいか分からなかったからといって"無視"をしていいわけじゃないと思う、と伝えていました。なんて言葉をかければいいか分からなかったのなら「なんて言葉をかければいいか分からなかった」と言ってほしい、考え中なら「考え中」と言ってほしいと伝えていました。必要に応じて「ふーん」「そうなんだ」で話を流しても良いと思うとも伝えていました。

「何を言ってもイヤな気持ちにさせる気がして」は自尊心が傷ついていたり、私に対して恐怖を感じている状態なので、パートナーが私との生活を安全基地として過ごせるよう、相手の恐怖や傷つきを癒すケアなどをしていました。

 

「無視するつもりはなかった」

あなたの反応の催促に気づけなかった、そういうこともあったんだろう。気づけないときもあるし、気づかなきゃいけないわけでもない。それが無視だとは思いません。無視したくないし、無視するつもりもないんですから

あなたの世界では、無視したという事実になってしまっている

とパートナーから言われたことがありました。


私はあまり理解できないですが、パートナーは「そんなつもりじゃなかった」とよく言います。そんなつもりじゃなかったから許してほしい、なのか、そんなつもりじゃなかったから"無視"じゃない、なのか分からないけどとにかくそういう表現をします。


赤信号を守るつもりだったけど、結果的に信号無視をしてしまったのなら、それは信号無視でしかないのに、「守るつもりだったんだ」ということをとにかく主張してくる感じです。

 

パートナーによると、「そんなつもりじゃなかったのならおれは相手のことを許そう、という気持ちでいる」とのことで、これは、おれは"無視"するつもりはなかったんだから許す優しい心をおまえにも持ってほしいということなんでしょうか。このあたりが未だによく分からないです。

 

それはそうとして、私が泣いているときや傷ついているときに「そんなつもりじゃなかった」とパートナーから言われても「それなら許そう」とはなかなかなれないものです。「そんなつもりじゃなかったのなら、許そう」というのは自分自身で思い至るから許せるのであって、他人から言われてもムカつくだけです。


私はパートナーが"無視"するつもりなんてないことをわかっています。"無視"よりもむしろ話を聞きたい、リアクションをしたいという思いでいることも知っています。ただ、"無視"されて悲しいという気持ちのときに「そんなつもりじゃなかった」ということを免罪符のように言われるのがとてもつらいのです。

 

だから「無視されてつらかったね」って言ってもらうだけでいいのです。そして、私からも「無視するつもりじゃなかったのは分かっているよ」と可能であれば伝える方が吉です。そうすればパートナーが安心をしてくれて、私の悲しみに寄り添ってくれる可能性が上がるから。


終わりに

この記事は1万6000字もある内容なので、誰もここまで読んでいない気がします。読んでくれた殊勝な人がいるのならば、「なんで?そんなに私のことが好きなのか?読んでくれてありがとう」という気持ちです。

私の話に対するリアクションがないままパートナーに別の話をされると悲しいというのが文字数から分かった感じがします。過去の自分よ、よく頑張ったよね。

 

こうして振り返ってみると、"無視"だけでなく、「言いたいことを言うことの何が悪いの?」「おまえだって無視をするだろう」とパートナーから言われてしまうことも悲しみを加速させる要因でした。

最近は「無視されてつらかったよね」と寄り添ってくれることが増えましたし、パートナーも何かをしながらの会話ではなく、手を止めて会話に集中するよう行動してくれるようになり、この良い感じの関係性が継続することを祈るばかりです。

 

ドアノブは一つだけ

 

隣にいるってなんて贅沢なんだろう、と思う。

昨日Threadsに「隣にいるだけでいい」みたいなことを書いたけど、そんなの"だけ"じゃないんだよな。現に今私の隣には誰もいないのだから。

 

インターネットの話。

 

なんか、機種変するときに新しいスマホと古いスマホを隣に並べれば勝手にデータがそのまま移行するような、新しいスマホなのに今まで使ってたのと何の変化も不自由もなくそっくりそのまま使えるような便利さを、人間関係にも適応してそれってどうなん?と思う。

 

人間関係もデータみたいに移行して、場所が変わっても関係性は変わらない、本当かよ?

変わるよ、同じ人間でも、場所が変われば、ほんの少しのきっかけ一つでボタンを掛け違えたかのように、ドミノ倒しになって何もかも変わっちゃう可能性だってあると思う。生身の人間も人間関係もデータじゃないんだから、そっくりそのまま移行できるわけないだろ。今まで通り仲良くできる可能性なんて全然ない。でもそれは別に悪いことでもなんでもない。

 

MastodonとかThreadsとかMisskeyとかBlueskyとかTruth Socialとか、みんな行き場を求めて彷徨って、とりあえずアカウントだけ取得して、みんなが合流するのを待ってる。

それなのにみんなうっすらTwitterのことが嫌いな状態でもなおツイートはしている。あれ何なの?もう破局が確定してるのにサンクコストがあるから別れを切り出せない恋愛関係みたいで気持ち悪い。一回浮気したんだからまた浮気するだろうなって思いながら関係性を続けるみたいな、そういううっすらとした嫌悪感、白々しさみたいなものを感じる。先日のAPI制限がそれを加速させた。

 

生きている限りどんどん荷物が増えていくな。

私はアカウントを作って、逃げ場所を増やして自分の荷物を増やしていく感じがすごく苦手だよ。何かを入れるためには何かを捨てねばならないんじゃないの。

 

今日も感想いろいろ

 

 

岡田惠和『日曜の夜ぐらいは…』最終話

 

ダメなんだけどな こういうの

楽しいの ダメなんだけどな

楽しいことあると キツいから

キツいの耐えられなくなるから

私は キツいだけのほうが楽なんだよ

 

キツいことだけ続くのであれば耐えられる。

そのうち耐性ができるし、昨日のキツいことと今日のキツいことの差分なんてたかが知れている。でも、たった一つでも幸せなことがあると、キツいことと幸せなことの差分がデカすぎて、足元が揺らぐんだよね。キツさへの耐性がなくなってしまう。

それがものすごく怖い。幸せになるのが怖い。

幸せになっても、その幸せは永遠には続かないのだから、キツさが訪れたときに自分がダメになってしまいそうで怖い。分かるよ。

 

この台詞は1話のおだいりさまの台詞で、最終回では回想シーンとして挿入されていた。おだいりさまが周りの人たちとどんどん幸せになっていく中、ついに自分たちのカフェをオープンする日、カフェの内側から扉を開いて外の世界を見る、そのときに恐怖が湧いてくる。もしお客さんが全然いなかったらどうしよう、カフェがうまくいかなかったらどうしよう、今までで十分すぎるほど幸せだったのだからこのあと落ちるのは当然なのではないか……。

 

扉を開けるのを躊躇っていると優良ケンタが「大丈夫ですか?開けましょうか?」って言ってくれる。あの台詞はね、別に優良ケンタは本当に俺が開けましょうか?って言ってるわけじゃないんだと思う。おだいりさまたちが安心して扉を開けられるよう、勇気を分けてあげているというか、俺もあなたと一緒にドアノブを握っていますよ みたいな、彼女たちの背中を押す台詞に私には聞こえたな。

 

ドアノブは一つしかない。自分の手で開けなきゃいけない。

頭では分かっていても、それはすごく勇気がいることだよなあ。

「ドアは 自分たちで開けようと思います」と言えたのは、おだいりさまが幸せ耐性がついたからというわけではないし、外の世界が劇的に良くなったからというわけでもなくて、外の世界が最悪であろうと、どんなことがあろうと、絶対に味方でいてくれる人がそばにいてくれると信じているから言えたんだろうなと思う。

 

***

 

なんかね、これから落ちると分かってるのにジェットコースターから降りられない恐怖って、あるよね。大人になると、未来がある程度パターン化されて、大体こうなるだろうなって自分でも予想できるようになる。これはうまくいくだろうなっていうポジティブなパターンも、これは失敗するだろうなっていうネガティブなパターンも、両方。

なんか、このまえ人と話してて思ったのは、これはうまくいくだろうなっていうポジティブなパターンも何かつらいんだと思うのよ。

予定調和にもううんざり。素直に楽しめない、素直に喜べない、だってうまくいくって分かりきってるんだから、そこに予定外・予想外なんてどこにもない。驚き?新鮮さ?そんなものはどこにもない。

そのうち、予想・仮説と結果の間にある過程に着目して楽しむ遊びばかりやりこんじゃってる。しかもその遊びにももう飽きている。

これは仮説の通りにうまくいった、それはなぜか、こういう理由だから、次はどうしようか、これを試してみよう、うまくいかなかった、それはなぜか、こういう理由だから、これを一生繰り返していて、ハムスターが回し車で一生同じところをぐるぐる走ってるのと同じ気分になるんだよ。どうせ同じ海にたどり着くのなら、どの道を選択しても同じじゃね?みたいな、きっと海にたどり着くまでの過程に喜怒哀楽いろいろあるんだろうけど結局最後は一緒じゃん、みたいな。

それなら何も見えないほうがいいじゃんって思うときもある。

なんなんだろうね、これは。死ぬまで一生続くんだろうか。

 

キャサリン・ハードウィックトワイライト〜初恋〜

 

トワイライト~初恋~

トワイライト~初恋~

  • クリステン・スチュワート
Amazon

 

今更トワイライトシリーズを見始めている。

ロバート・パティンソンは本当に佇まいが格好いい。

 

吸血鬼と人間の恋愛映画で、一緒にいるために尋常ではない我慢と努力をしている二人の物語だった。ロバート・パティンソンクリステン・スチュワートもずっと眉間に皺を寄せていて、好きな人同士一緒にいるのに、大笑いしたり大泣きしたりせず、ただただずっと苦しそうだった。

自他の境界線を踏み越える/踏み越えないという話を延々とやっていた。


好意とか性欲ではなく怒りとか暴力性をもって性行為という手段で発散しようとしていて、壊したいほど相手のことを愛してるのに、壊さないように薄氷を踏む思いで相手のことを大事にして、どんどん自分の首は絞まっていって、それでも一緒にいるために苦しむことを受け入れて、気が狂いそうになる中 自分を制御するっていう、なんか、苦しんで生きていきたいっていう人たちの話だった。

ああいう殴り合いの喧嘩みたいな人間関係、好きだな。

どんなに好きでどんなに一緒にいても分かり合えないから、「なんで分かってくれないんだよ!」って怒っても、「そんなの分かるわけないだろ!」って怒り返すみたいな、そんな感じ。

でも別にそれは不幸じゃなくて、本望だよ、それの何が悪いの?って感じで、迫力で周囲を黙らせて……あれくらいの強さがほしいね。

 

森山至貴『10代から知っておきたい あなたを閉じこめる「ずるい言葉」』

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今はこの本を読んでいる。

 

これまでパートナーから「そんな些細なことで?」「そんな些細なことで怒られるんだったらおれはもう何も言えないよ」「そのとき言ってくれればよかったのに」「お互いつらいんだからお互い様だよね」と言われてきた。これまで言われてきた言葉、言ってきた言葉がこの本には載っている。

 

「もっと早く言ってくれればよかったのに」 と思ってしまうことを、私は悪いことだとは思っていません。「手助けしたい」からこそそう思うわけですからね。でも、「もっと早く言ってくれればよかったのに」という言葉を、いままさに困っている人にぶつけてしまうとなると話は別です。 「困っていると言えないから困っている」ことを見過ごし、「困っているなら困っていると言えるはずだ」という前提を相手に押しつけることで、結果として、「早く言わなかったあなたが悪い」 というメッセージを相手に伝えてしまうからです。 ただでさえ困っているのに、さらに責められているように感じてしまったら、手助けを求めるのは難しくなるでしょう。

 

他人の傷つきやつらさを「そんな些細なことで」などと自分の基準で勝手に判断をしないこと。自分では到底分からない痛みでも、目の前の相手は痛がっているんだから痛いんだろうと想像し続けること。傷ついていると認めてもらえないことがさらに傷つきを引き起こすこと。

 

助けてほしいだなんて一言も言っていないのに、頼られたからには助けなければいけないと勝手に他人のつらさを背負ってどうにかしようとした結果どうにもできなくて、他人のつらさを無いことにしたり否定する人がいるらしいということ。

「悪気がなかった」ことを許してもらうための理由として持ち出す人がいるということ。

 

最近はトーンポリシングやマイクロアグレッション、ガスライティング、シーライオニングなどに興味があります。

 

その他

今日気づいたんだけど、エレベーターの外側のドアって、動かずにずっとそこにあるんだね。エレベーターのドアって内側のドアと外側のドアの二重構造になっているということを今日初めて知った。建物の1階にも2階にも3階にも4階にも外側のドアは動かずにそこにあるっていうこと、今まで考えたことがなくて今日初めて思い至った。あ、このドアってずっとここにいて、開閉だけしてるんだ、上下移動はしていないんだ、って思った。それだけ。

 

***

 

困難や悲しみに遭遇したとしても乗り越えられる人だって世の中にはいるのに、この困難や悲しみは到底乗り越えられるものではないと勝手に判断して、人のことを同情の眼差しで見つめ続けるのって暴力性がすごいよね。

「つらかったですよね」「しんどかったですよね」と言われたいのはそこじゃない。というか別にそんなこと他人に言われなくてもどうでもいい。乗り越えられちゃうんだから。もうつらくないこと、もうしんどくないことに同情されるのはすごく疲れる。

本当は、乗り越えられるようになってしまったその背景を抱きしめてほしいのに、人はそれには気づかないし目もくれない。強くならざるを得なかった背景にこそ、困難や悲しみが隠れているのにね。

感情いろいろ


そばにいたいと思えば思うほど、相手から何かを奪ってしまう。おれは相手のありのままが好きなのに、おれは相手からありのままを奪ってしまう。それでもおれは一緒にいたいと思ってしまう。おれと一緒にいる限り相手のありのままは死んでいくのに、おれは相手のありのままを殺してまで、一緒にいたいというエゴが全身から湧き出てきて相手を貫きそうになる。


あと……嫌われたくない。好かれたいだなんて思わない。ただ嫌わないでいてほしい。そういう気持ち、分かんないかな。

 

これはヤマシタトモコ『違国日記』9巻の感想。

今日はいろいろコンテンツ系の感想と感情のこと。

 

 

ヤマシタトモコ『違国日記』9巻

 

 

スランプで苦しむ槙生。

ヤシの木が生えた小さな小さな南の国(のようなところ)にいる槙生。

周りは砂漠(のようなところ)である。


私のこのツイートと同じだ、と思った。

 

このまま這い上がれなかったら死ぬんだみたいな絶望的な気持ち。どこにも行けないという槙生の気持ち。


スランプのときの槙生のことを、笠松さんは「正直そこは怖くて避けて通ってたので」と言った。怖くて近寄れないという意味だと思う。腫れ物に触れてはいけない、地雷を踏んではいけないと言いながら、自分の恐怖がゆえに槙生のことを一人にした。寂しい思いをさせた。でも、笠松さんは、遠くから槙生のことを見ている。見てはいる。ただ、声はかけない。一人苦しむ槙生のことを双眼鏡で覗き込んで見ている。きっと、助けを求めてたら、助けてくれる、優しい人なんだと思う。でもね、助けを求められないから困ってるんだよね。

 

笠松さんのいう「怖い」って何。本当かな。

触れてみたいよ、私は。

一方で遠くから見るんじゃなくて触れようとする朝ちゃんの愛よ。朝ちゃんはスランプの槙生の世界に踏み込まずともバリアを破っていたよ。あれが愛だよ。私が欲しい愛のかたち。

小さな南の国で声をあげるほど元気のない槙生に向けて、朝ちゃんは砂漠から叫んでいたよ。

「大丈夫?」って遠いところから、安全なところから聞いて、「大丈夫だよーーーッ!」て叫ばせるようなことはしない。そうじゃなかった。遠くにいる朝ちゃんがひとりでに叫ぶ、槙生のことをもちろん意識はしているけれど槙生に返事を強要するものではない。返事ができないくらい元気がないことを分かっているから。ただ、私はここにいるからね、と相手に知らせるだけ、そうすれば槙生に声が届くから。遠くにいながらでも近くに感じられる、そういうやり方があった。灯台があると分かればそのあたたかさを想像することができる、それくらいで十分なのかもしれない。眩しい優しさは疲れる。

 

***

 

胸を掻きむしりたくなるほどの感情に叫び出したくなる。孤独と強すぎる感情、槙生の、誰かが誰かのために勇気をふりしぼって戦うのが大好きだという気持ち、誰かが誰かのために何かを懸ける姿が胸をつよく撃ち抜くこと、揺さぶられること、分かる、全部分かる。でも、そんな理想論を掲げながら、掲げたくせに、誰かを助けることができなかった過去、懸命に伸ばした手をすり抜けたわけではなくて、私は手すら伸ばさなかった、罪悪感を感じることすらおこがましい。そういう矛盾した自分がいることをそのまま受け止めること。誰に軽視されようと、矮小化されようと、私はそれがおかしくなりそうなほどつらかったのだ。

 

***

 

わたしにとっての「才能」は「やめられないこと」

 

やめられない、やめられないことが才能。私はバレエを子どもの頃から今まで続けてきて「子どもの頃から続けてすごいね」と言われてきた。そうかな、私はただやめなかっただけだよ、やめられなかっただけだよ、呪われたように、踊ることを手段として、続けるしかなかった、踊るしかなかった、他にも、書くしかなかった。Twitterに一週間書かなくなってもそれでも書くことはやめられなかった。

 

ヤマシタトモコ『違国日記』8巻

カウンセリングを受けている時に大嫌いな父親の気持ちが分かるというか、「私が子どものときに冷たい態度を取られたのはもしかして父親なりにこういう意図があったのかもしれない」って思いを馳せることがあるんだけども、その子どもの時に冷たくされて悲しく感じた自分の気持ちっていうのはそれはそれとして別にあって、父親が考えていたこととか父親の意図とかそういうのが分かったところで、分かったからといって許せるようになるわけではないんだよね。ただ、父親に聞いたわけじゃないけど、自分なりにこうなのかもしれないって思うことも、相手のことを知るということの一貫だとは思う。

 

父親のことを知って、父親の意図を知っても、「それなら仕方ない」って思えるほど私は優しくないし許せるわけではないし水に流せるわけではないし、父親のことを可哀想って思ったりつらかったねって思ったりそういうことはないんだけど、ただ知ってるっていう、思いを馳せたっていう、そういうことが良いのか悪いのか分からないしそういう問題じゃないと思うんだけど、ただ知ってるっていうことが、今の私にとっては大事なことなのかもしれないなって『違国日記』の8巻を読んでて思った。

 

朝ちゃんが「父親ってどんな人ですか?」と色んな人に聞いてまわることで、何か、思いを馳せるヒントが増えたらいい。そうやって輪郭が掴めることってあるからね。

 

反響で周囲が見えるっておもしろいよね

 

周りに見てもらうことで輪郭を帯びることってあるよね。それが朝ちゃんにとっては"エコー"という言葉で表現されていた。

 

 

岡田惠和『日曜の夜ぐらいは…』第9話

わぶちゃんとおだいりさまがケンタに対して「今日は配管工事の立ち会いお願いしますね」と言ったあと、みねくんが家に来て「今日は配管工事の立ち会いお願いしますね」と同じことを言っていた。これは、みねくんが配管工事のことを覚えていて、さらにわぶちゃんとおだいりさまが「お願いしますね」という言葉を言ったことを知らずとも、みねくん自身が言葉にしたいと思って言葉にしたということで、なんというか、そういうコミュニケーションが大事だよねと思った。


前に一回言ったからもう言わなくていいとか、他の誰かが言ったからもう言わなくていいとか、そういうことじゃない。
そういうことじゃなくて、みんなが「お願いしますね」と言葉にすることが大事。みんながあなたのことを大事に思っていますよ、みんながあなたのことを忘れずにいますよ、という そういう言葉はいくらあってもいい。


別のシーンでも、みんながちゃんとリアクションを取っていた。3人に向けられた言葉なら、「うん」「うん」「うん」と3人がリアクションを取る。これが大事だと思った。

 

ハルノ晴/市川貴幸, おかざきさとこ, 黒田狭『あなたがしてくれなくても』最終話

最終話は賛否両論だったらしい。主人公のみちが「一人で生きていく」と言って夫と離婚したのにその夫と復縁するんかい!という視聴者のツッコミがあったとのこと。
私は、結婚していても一人で生きていくことは可能だと思う。だから、「一人で生きていく」と言ったのに復縁するんかい!というツッコミは、物事を表面上でしか見ていないのではないかと思った。
みちが言っていた「一人で生きていく」「一人で生きていきたい」という言葉は、「自立して生きたい」「自分の足で歩んでいきたい」ということ。この「自立して生きていく」ということを、結婚しているとつい忘れてしまう。独身のときは家事も仕事も趣味も何もかも一人でできたのに、パートナーがいると、ついつい何かを共有したつもりになって、共有できないと不満に感じることが増えていく。家事を手伝ってくれない、仕事の大変さを分かってくれない、自分が大切にしているものについて話を聞いてくれないetc. 今までは一人でできていたのに、いつの間にかそれができなくなっていく。
そういうところを、みちは昇進試験の勉強をがんばったり、転んで助けられるのを待つ陽ちゃんを助けないでそのままにしておくとか、そういうことをしていくことで、ひとつひとつが自立に繋がっていくんだと思った。

 

その他

オードリーの若林さんがおれのことを分かってもらいたいと思っていた時期は書けたけど、分かってもらいたいと思わなくなったら書くことがなくなった、というような話を以前していた。

Twitterに書くことを一週間ほどやめてみて、もう書くことなんてないような気がした。今はよく分からない気持ち。私は誰かに分かってもらいたくて書いていたんだろうか。私は私のために書いているつもりだった。でも今はなんか他人の妙な眼差しがあるような気がして、その脳のメモリを一瞬食う感じが邪魔で仕方がない。うるさい。

 

***

 

今日電車を降りて駅のホームを歩いていたら後ろから思い切りぶつかられた。え?と思ったのも束の間 ぶつかってきた人は私の前を通り過ぎて階段を降りていった。私はその人に釘づけになって、その人のことを走って追いかけてしまった。私に気づいたその人が、私のことを一瞬見たあと歩みを早くしたのが分かった。それでも私はその人の顔がもっともっと見たくてたまらなくなって、その人から少しの間目を逸らすことができなかった。追いかけるのをやめられなかった。


こういうことがよくある。


駅で折れた傘を自販機横のペットボトルのゴミ箱に捨てる人、階段で危ない傘の持ち方をして他人を失明させるリスクを無自覚に背負っている人、そういう人を見ると、怒りはなく、ただただ知りたいという欲望がとても強くなる。もちろん常識と言いつつ自分の基準で判断して、こいつはヤバいと思っているのは確かだけど、それでも自分が被害に遭ったとかは全く思わず、ただ、私の常識とは別の世界に生きて生きる人のことがとにかく知りたくなる。どういう顔をして、どういう目つきをして、どういう歩き方をして、何を身につけて、どのように生きてきたのか、猛烈に知りたくなる。
誰もがご飯を食べてお風呂に入っていつかは眠る。私の常識とは別の世界にいる人でも家族や友人や好きな人や尊敬する人や嫌いな人がいて、生活が存在している。知りたい。とにかく知りたくなる。凝視をやめられない、追いかける足を止められなかった。