彼女たちの正義

 

glee』を観てる。

 

受験とか就職活動とか、どんな本を読もうとか、どんな映画を観ようかとか、ご飯は何を食べようかとか、誰もが人生においてこれまで自分で選択してきたものがたくさんあるけど、選択をした時点ではその結果が正解なのか間違いなのか誰にも分からない。

どうしても止められない衝動に駆られて夜中にアイスやお菓子を食べる生活を続けた結果2kg太った。昨日思い立って運動をしまくったら2kg痩せた。行き当たりばったりで生きているので自分で選択回数を増やしがちな人生ではある。

それでも結局は自分で選択したものを、自分で正解にしていくしかないと私は思ってる。


glee』も例外なくそんな人生を生きている人たちがいて、登場人物それぞれに正義があり、そのせいで諍いもまあまあな頻度で起こっている。本音を言ってしまえばストーリーはお粗末なものもあると思う。それでも観てしまうのは、このストーリーの不十分さ、完璧ではないところを補完するようにして視聴者側が考えなければいけないからだと思う。

   *

Seoson 2の冒頭でクインとサンタナが喧嘩をするシーンがある。

「私が豊胸手術したことチクったでしょ!」
「事実じゃない!」
「アンタみたいに妊娠しちゃうよりはマシよ!私は目立ちたいだけなの!」

クインにもサンタナにも自分の正義がある。
自分の選択した人生や、場当たり的にそうなってしまった人生がどうであれ、いま自分で下した決断というものにはちゃんと理由付けをして生きている。

クインにとってはチアリーディング部に入るということは自分で選択したことだろうし、Seoson 1での妊娠のエピソードは自分の選択ではない、ただ妊娠の仕組みを知らなかったというだけの話。

サンタナにとっては豊胸手術は自分で選択をしたことであり、手当たり次第に男とセックスをすることはそうすることで彼女が束の間の救済を獲得することができるから、これも結局自分で選択していること、選択せざるを得ないほど自分では無自覚に、彼女が苦しんでいるように私には見える。

一方で、「喧嘩はやめて(Don't stop violence.)」と喧嘩の仲裁に入るブリトニーは、これまで「gleeでブリトニーの曲をやるのはいやだ、私の名前はブリトニー・S・ピアースだから」と物事の好き嫌いはあるけど、あまり自分の正義とか信念があるようには見えない、S2の今のところは。

そしてそれ以前の問題として常識というものが備わっていない、言われたことを言われたようにやるだけ、だから流されて生きているように見えるけど、その実、他の人であったら常識にとらわれて足がすくむような状況においてもブリトニーは難しい顔ひとつせず簡単にそれをやってのける。だから悪気なく選曲リストを他校に渡すようなことができるし、チア部の顧問であるスーの言いなりになって「ビーストに痴漢された」と平気でウソをつくことができる。

そのあと周りがどうなるかなど全く考えていない、そのあと自分がどういう目に遭うかさえも考えていない。

ここがブリトニーの良いところだと私は思うし、この生き方が今後サンタナを救済するんだと本気で思っている。

 

 

 

 
S1を観てる途中なのに今後ブリトニーとサンタナが活躍するだろうと予期してここまで勝手に妄想できるのはさすが元腐女子、元声優オタクのなせる業という感じがしてさすがに笑っている。S2観はじめてこのツイートがあながち間違いじゃないんだろうことはなんとなくツイッターの人とかを見てても分かるので、ひそかにガッツポーズをしています。


さて、何事においても当事者意識のないブリトニーはgleeのオーディションで目の前にめちゃくちゃ歌のうまい女の子が現れても表情ひとつ変えずただ眺めている、傍観している。彼女はいつも傍観者ではあるけれど、傍観して得られたものを言語化するのがとても下手、自分がインプットしたものをアウトプットして、次の誰かのインプットに繋げることがなかなかできない。

とはいえS1でチアリーディング部が大会で優勝して、スーがテレビにインタビューをされている後ろで、サンタナとぴょんぴょん飛び跳ねてハイタッチしている様子は本当に嬉しく感じているんだろうというのが伝わってくる。
ただ、優勝した事実そのものが嬉しいのか、優勝して嬉しがっている周りを見て嬉しくなっているのか、そこまでは分からない。そこまでは描かれていない。だから冒頭でも書いたように、視聴者側が考えなければならない、想像しなければならない。
「このときのブリトニーは何が嬉しくてあんな笑顔を浮かべていたのだろうか」と。

S1の最終回、大会で負けてメンバー全員が落ち込む中、全員でウィルに向かって歌うシーン、あのときサンタナは本当に悲しくて泣いているように見えるけど、ブリトニーはそんな様子のサンタナを見て悲しい顔をしているように見える。

ブリトニーにとって事実かどうかは大して重要なことではなく、目の前の大切な人がどう感じているかだけが重要で、最優先事項で、それで生きているような女の子だと思う。

 *

「一人でデュエットなんてオナニーみたい」

サンタナがS2 4話でカートに言い放つシーン。
「他人という器を使ってオナニーしてんのはお前も同じだろ」という気持ちで見ていました。

誰かとするセックスが一人のオナニーよりも優れてるなんて、そんなことは決して言えないし、誰かとのセックスが一人でするときより虚しいときだってあるだろうに、きっとすごく怖いんだと思う、一人になることが、誰かにウソでもいいから、愛情なんてなくていいからキスをされることで、抱きしめられることでやっと自分の足で立っているような状況で、恐怖を抱えながらも堂々と一人で歌うカートの姿を見るのがすごくつらいんだろうな、サンタナ


何話か忘れたけど、カートのお父さんが入院して、みんなで神様を信じるか信じないかみたいな話をしている回があって、誰もが救済を求めている中、その救済を誰に求めているか、神様に求めるのか、実在する彼女に求めるのか、結局それだけの違いなんだろうと思う。みんな残らず救済されて次の試練に立ち向かってほしい。


「神様は信じないでいいけど、でも扉は閉ざさないで、すばらしい世界があるかも
 (I know you're not really spiritual or whatever…,
 but, I feel like you're closing yourself to a world of experiences that might surprise you.)」

メルセデスがカートにそう話しかけるこの台詞をまんまサンタナに言いたくて泣きそうになったのが本日のハイライトでした。

 *

ここでツイッターで話すとgleeファン以外のフォロワーがうるせえよって言ってくるかもしれなくて怖くて言えなかったS2のgood pointを供養します。

<1話>
・ウィルとスーがビースト相手にピザを何十枚と注文する悪巧みをしたときの二人の表情が超最高にイイ

・自然の摂理に反してでも目立ちたいという理由で豊胸手術をするサンタナが可愛い

・ビースト痴漢冤罪案件。ブリトニーの「むしろ私が触りたい」発言

・リアルに『ドリームガールズ』のオーディションを受けたアンバー・ライリーがいる目の前でオーディションの曲として『ドリームガールズ』の曲を選曲するセンス

・オーディション時、静かに人の歌を聞くブリトニー
 サンタナはわりとS1のときからニコニコしながら人の曲を聞いているけど、ブリトニーはずっと真顔で言語化できない感情をゆっくり整理しているように見える。曲が終わったあと腕をぐるぐる回して「よかったよ~!」って伝えているのが可愛い

<2話>(ブリタナお当番回につき神回)
・ブリトニー「むかし拉致された宇宙船によく似てる」

・ブリトニー「歯を抜かないで。子どものお尻みたいな顔になる」

・ブリトニー「歯ブラシは青がいい」

<4話>
・ブリトニー「優しいキスがすき」
 サンタナ「私はヤりたいの」
 ブリトニー「私はただ…」
 サンタナ「ぬくもりを感じたいだけ」

・食事券もらえると知ってめちゃくちゃやる気を出すサンタナ
 ご飯食べるのが好きなんだなと感じるシーンで個人的にめちゃくちゃ好き。
 食事とセックスが好きな女の子超健全児童かよ。

・ブリトニー「あなたのことロボットだと思ってたの」←可愛い

・自分がメルセデスとデュエット組むのはいいけどブリトニーが他の子とデュエット組もうとするのは許せないサンタナ可愛い

・ブリトニー「でもあなたと行きたい。『わんわん物語』みたいな長いパスタを注文する」可愛すぎて頭を殴打されて軽く意識飛びかけた。


いつにも増して気持ちの悪いブログですね、おわり。

平日

 

人との会話に飢えている気がする。
一人暮らしを始めて数ヶ月。ずっと前から住んでいたみたいな顔をしてスーパーで20%引きのベーコンを買ってスクランブルエッグと一緒に食べている(夜ご飯)。

ネットで頼んだはずの再配達が来なかったり、近所ではハーゲンダッツは199円で売っているのにコンビニでは270円くらいしている、社内でセクハラ被害に遭っているから「どうかアイツ宛ての電話ではありませんように」と祈りながら電話対応をしている。

 

問題は加害者だけではなく、問題を問題として扱ってこなかった周りの人間にもある。
人は仕事をしているふりをしているだけで、その実なにもうみだしていないということが往々にしてある。
人が死に、妊娠している。

 

昨日はラジオを聞きながら爆笑していたのに、今日はベッドでボンヤリしているだけで22時を過ぎた。今週は金曜日が祝日だから頑張れるだろうと思うのに、何がつらいというわけでもないのに疲れていて、それをラジオや音楽やインターネットで一時的に癒しているにすぎない、AVを見ながら変なタイミングで達したわりに翌朝はけだるさが残っている、ずっと食べたいと思っていたジャンクフードを食べたはずなのに満たされている感覚は薄い。

布団の上の髪の毛、床に散乱したペットボトル、テーブルに置かれている再配達の紙。

人生をどう生きていきたいとか、自分はこうやって幸福になりたいという目標はないけど、自分の時間を自分の思うように使いたい、自分で決めた忙しいスケジュールを漏れなく遂行できるような元気がほしい、元気がないけど深夜にアイスを3本も食べたりする。

海に行きたい。

私に価値を見出す人間、それは若さであったり女という性別であったり、趣味、話し方、容姿、性格、別になんでもいいし相手にとって私という人間が何かしらの利用価値があるのならそれでいいんだけど、そういう他人と海に行って何をするでもなく生きていたい。生きていたいなあという気持ちが強くて泣いている。

私はきれいな写真は撮れないし、ハイブランドの化粧品を買うお金もないし、良い喫茶店や良い洋服や良い場所も知らないけど、自宅近くの商店街や、いつも使う電車の読書率が高いことや、スーパーの店員さんの愛想がすごく朗らかであることはよく知っていると思う。

言語化できるイベントが発生したことによる、感情のゆらぎ、たとえば冠婚葬祭、そういうことは何もない。

ひたすらにプロ野球を見ながらずっとつらい、胃袋に鉛を落とされたみたいになって、人間はこうやって生きているんだなと、親、学校、練習、食事、好きな人、好きなこと、睡眠、仕事、運、天気、季節、電車、みたいなことを思っている。
1塁と3塁にチームメイトがいる、試合はノーボール・2ストライク・2アウト、これで自分が打たなかったら、打てなかったらチームに点が入らないままその回は終わる。

 

これまでの誰かの努力、これまでの誰かの声援、これまでの自分の練習、これからの自分の人生、これから、

誰か一緒にご飯でも行きましょう。

生活をしなければならない感と譲れないもの

いま自分が何を悩んでいるかというと、特に何も悩んではいないのだけれども、一人暮らしを始めたことによる生活をしなければならない感、(たとえば洗濯、たとえばお弁当箱や水筒を洗わなければいけないこと、三食きちんとたべなければいけないことなどを生活をしなければならない感と指す)、が労働を人質に取られているから強制的に義務になっている状態がなんとなく心身ともに疲弊する原因になっているように思う。

 

本当なら労働などしたくないし、生活をしなければならない感など幻であって、先輩のようにフケがついたまま出社するかとも可能だし、食事をしなくとも洗濯をしなくともお弁当を作らなくても全く何も問題はない。

 

何も問題はないし、自分に強制してるわけでもなく、同期が手作りごはんをインスタグラムにあげて自意識を保っているように私もインスタグラムに花の写真をあげたりもした、誰にも強制はされていない。「素敵な生活をしてるのね」、と少しは思われたい、「機能不全家庭に育ったあなたは社会人一年目にして頑張って一人暮らししてるのね」と思われたいのはもうすごくすごくある。

 

ただ実際は、退勤後に最寄りのスーパーに寄ってピーナッツチョコを一袋買ってそれを一夜にして空にしてしまうような、チョコボールを箱買いして一週間で食べきってしまうような、ベビーフットをしたがために自分の足の皮がべろべろにめくれてそれが部屋に散乱してしまうため1日に5回は掃除機をかけているような、お風呂に入らないまま眠りについて昨日の前髪ケープをシャンプーで落としてまたコテで前髪を巻いてケープをかけている、疲れているとアダルトビデオを探す能力も低くなって、質の悪い性欲処理に明け暮れて翌日ぐったりしながら会社に行ったりするようなそんな生活が本当のこと。

 

コスメデコルテのクレンジングやシャネルのパウダーとか、お金をかければ手に入るものは楽に快楽を得られるから便利、時間もお金もないけど簡易性な快楽は疲れないから、「最近の女の子は強烈にイクということを知らないよね」と誰かが言っていて確かにその通りのような気がしたけど、そんな感じで便利に世の中を生きている。

 

✳︎

 

会社の人事は本当に良くも悪くも人柄の良い人を探すのが上手だと思う。悪くも人柄が良いというのは、残業代がもらえなくともお客様のために仕事をするとか、相手を蹴落としてまでのし上がろうという気持ちがないことであったり、メリハリがなくダラダラと働き善意だけで成り立っている生産性のないザ・日本的企業に染まっているということ。良い面は、私の所属する事業部は、OJTコーチと新人の相性がすごく良いこと。コーチにとっても教育しやすく、新人にとっても価値観が合わない人間だから仕方がないわみたいな諦めがあまり発生しない。

 

先日他事業部の偉い人にプレゼンのレビューをしてもらったときに、「プレゼンの内容は良いんだけど、それでじゃああなたは何がしたいの?何をしていきたいのか、自分の意思を表明して」と言われて困ってしまった。

 

私が新人だからか、そもそもの人間性が問題なのか分からないけど、4月から社会人になって「こうしていくぞ!」とか「こうなっていきたい」みたいなビジョンが本当に全くない。お金のために取得したい資格や、できるのであれば年収をあげてそれなりの生活をしたいとか、そういうのはあるけど、自分がこの会社でどういう評価をされたいのかという感情がない。

 

秀島史香さんの本で、「誰にどんなふうに見られたいのか決まればそれに反する行動はしなくなる」と書いてあった。「常に上機嫌な人に見られたいのであれば些細なことで怒りはしないだろう」と。「私が目指している人間はこんなことできっと怒らない」、そんな考え方できる日がいつか来るのかな。

 

みなさんはどんなふうに見られたいとか、そういうのって持っていますか。

 

人の目を気にしているわりに、人からどう見られたいか戦略がない。

 

本当の私は早食いで早歩きだけど、誰かといると緊張して遅食いで遅歩きになる。そんなこと自分が分かってればいいだけの話で、「マイペースだよね」と言われても、「あなたには私がマイペースに見えるんだふーん」で終わらせられたらいい。

 

書いてて気づいたけど、「こういうふうに見られたい」はないけど、「こういうふうに見られたくない」というのはある、一人暮らしの部屋を決めるときもそうだった。「希望はないけど、この条件に合致しないの嫌だ」と消去法で生きてきている。

 

いつでも検索結果3000件を全部眺めて良さそうなのをお気に入りに入れて決選投票をするような人生。

希望や願望が言語化できる形として、ない。

 

 

仕事だってみんながみんなこれをやりたいと思って働いているわけではないだろうし、嫌なことがたくさん、やりたくないことがたくさんある中で折り合いをつけて生きていると思う。

折り合いをつけることばかりうまくなって、これだけは譲れないというのが一つあれば上々だと思う。「全部やりたくないけど仕方ないからやるか」から「これをやらせてもらえるんだったら、仕方ない他の嫌な作業もやりますか」レベルに引き上げを図りたい。

 

たとえば人に愛されたいとか、わかんないけど。

 

これがやりたいみたいな意思がないから、生活をしなければならない感に追われてダラダラしてるんだろうな。なんとかしたいです。

 

私の行ける街

私の行ける街が減った。

 

平日は会社と家の往復で、土日はバレエばかりしているし、特に仲の良い友達と遊ぶところはいつも大抵場所が決まっていて、でもそういうことじゃない。

 

今の私の行動範囲を、過去の私が狭めている。

 

例えば、付き合っていた人と泊まった旅館や、手を繋いで歩いた水族館とか、好きな人と泊まったホテルや、たまたま時間が空いたからといって訪れたショッピングモールや映画館、いつも会うときに使っていた駅、連れていってくれたラーメン屋、そういった場所たちが、会社と家の往復の間にあって、ときどき友達と遊びに行く際に通り過ぎる駅だったりして、胸が変な風に締め付けられる。

 

今、ひとりでそういった場所に降り立つとして、私は自分の足でちゃんと立っていられるのだろうか、という気持ちになる。

 

思い出ばかりが反芻されて現実を直視できない。

 

いつも駅ビルの前でスマホをいじりながら誰かを待っていて、もうすぐ来るだろうなという気配を感じながらも顔をあげないでいたこと。きっと見つけてくれるだろうという気持ちが私の中にはあって、そういう過去の行いが今の自分を苦しめている。

 

待ち合わせのときに自分から相手を探そうという意思のない、きっと見つけてくれるだろうという待ってるだけの人が大嫌いだけど、それでも好きな人を待っている間は自分もそういうことをしてしまう。

 

これからバレエで使うシューズを買いに行く。

そのお店は、好きな人と過ごしたホテルの近くにある。どうしても躊躇ってしまうし、泣き喚いて今すぐ連絡しようと思うけど、過去に縋ってるみたいだし、自分の過去は、自分の思い出は、自分で背負っていかなければならないとも思う。

 

いつか時が解決してくれることなのかもしれない、他に付き合う人ができたとしても、他に好きな人ができたとしても、過去に苦しんでいた私を楽にしてくれた人、楽にしてくれた場所のことを忘れることはきっとできないんだと思う。

 

どこかの駅に降り立つたびに、「ここであの人を待っていたな」とか「信号を待つことさえも惜しくて、車の停まっている場所まで早足で行ったな」とか「『もうすぐつく』って連絡にすごく喜んでいたんだな」とか思う。

 

一人暮らしをするための部屋探し、住む場所探しをしているんだけど、そういう思い出の場所が私にはたくさんあって、好きな人と過ごした好きな駅の名前が無機質な音声として電車内に流れるだけでつらくなるから、あわよくば今行けば会えたりするんじゃないかとか、せめてすれ違ってあの人が元気に過ごしていることを確認だけできたらいいなとか、欲望ばっかりになって狂いそうになるから、誰かと生活をしたり、生活じゃないことをしたり、そのことはそのときだけのものじゃないんだなと思った。

 

好きな人がどこかで元気に暮らしていることを願っています。私もなるべく元気に暮らしていきたい、できれば自立という形で。

 

努力の方向性を変えられるよう親は子どもに対してアクションを起こさなければいけないんじゃないかという話

 

週一で通っているバレエのスタジオには中学一年生の女の子がいる。

その子が「来週と再来週休みます」と先生に伝えていたので理由を聞いたところ、「今度テストがあってその勉強をしなくちゃならないので」と言う。

「学校の成績悪いと親にバレエをやめさせられちゃうんです」と言うほど親は子どもの勉強的教育に熱心で、その一方で「親は私の大事な習い事であるバレエを遊びだと思ってる」とも言う。習い事も教育の一種だと私は思うんだけど、どうしても良い高校に入って、良い大学に入って、良い会社に入ってほしいという親の願いが強く、中学一年生の今から塾に週に何回か通っているとのこと。ここで言う"良い学校"は偏差値が高いこと、"良い会社"というのは大企業で年収がそれなりであることを指す。

これは別に誰が悪者であるとかそういう話じゃない。

彼女は家にいるときも勉強をしていると言っていた。
学校や塾の宿題だけでなくいつも予習や復習としていると。
私が中学生のころは教科書なんか学校に置きべんしてたし、家に教科書を持って帰っていないんだから予習も復習も全然やるわけがなかった。だからといって勉強ができなかったわけではないと思うし、高校も県内では中の上か上の下くらいの公立に行くことができた。運がよかったんだと思う。

「家で勉強している間、親は何してるの?」
「寝てる」

「勉強することは好き?」
「好きじゃない」

「でも、バレエは好きだから、今度の発表会で遊びじゃないってことを言うために練習頑張ってるんです」

涙ぐみながら言っていた。

私はそう力強く宣言する彼女の横顔を見ながら、本当に頑張ってほしいと思った。


この前までTBSで『下克上受験』というドラマが放送されていて、子どもなんか全然好きそうじゃない深キョンがいつもの演技でお母さん役をやっているというところが個人的にはわりと好きだったんだけど、あの作品の内容は子どもの受験に向けて、塾に通わせるのではなく父親が仕事をやめて付きっきりで勉強を教えて、受験合格を目指すという話だった。

仕事をやめて参考書を大量購入して付きっきりで子どもに勉強を教えるくらいの覚悟が、受験には必要なんじゃないかなと思う。何もかもかなぐり捨てて親がしてあげられること、それくらいの熱意とかエネルギーとか。別に塾に通うことの良し悪しとかの話じゃなくて、子どもが勉強しているときに親が寝ていること、まあ別に子どものノートを見て丸付けをしろとか添削をしろとかいう話でもないんだけど、なんか、そういう彼女が勉強を強いられているという境遇にいることそれ自体が私はなんとなく悲しかった。


子どもに不足のない人生、"良い人生"を歩んでほしいと思って、親は、「よかれと思って」子どもを塾に通わせる。「よかれと思って」やっていることだからなおさら、タチが悪くて、一概に親を悪者にできないところが家族に関する話のつらいことだと思う。


三浦しをんの『まほろ駅前多田便利軒』で出てきた由良(ゆら)という小学四年生の男の子も彼女と同じように受験のために塾に通わされている子で、その送り迎えは「他の親に対する見栄」、つまり塾に通わせるお金があってかつ毎回送り迎えもできる余裕があるというプライドの誇示、ただ実際問題として送り迎えができないから多田便利軒が借り出されるわけなんだけど、決してあの小説に出てくる親は子どもを心配して防犯上何かあったら大変だから送り迎えをしてほしいと頼んできたわけではなく、周りの親に対して体裁を整えるための依頼だったと記憶している。それを子どもも自覚して了承済みだった。だからこそ親のいない自宅で何度も『フランダースの犬』を見て「この話の良いところはネロに親がいないところ」と断言する。


私も小学生くらいのころからバレエとか習い事のたびに送迎をしてもらっていた。親の「よかれと思って」に甘えていた。でも、ときには叱られていつもは車で送ってもらっている道をいつもの3倍くらいの時間で泣きながら歩いて必死に習い事に行ったりもした。それくらい私は習い事が好きで、どうしても家にいたくないときがあったからこそ必死に歩いて目的地まで歩いた。

いつも車で通っている道を自分の脚で歩いてみて初めて、いつもは目に入らなかったパチンコ屋さんの看板とかマンションの名前とかそこらへんの植木とか家の外で飼われている犬とかに気がついた。いつもの道が全然景色を変えて自分の目に入ってきた。
そういう経験が大事なんじゃないかなと思ってるわけ、私は。

ちょっと不審者っぽい人に遭遇して怖かったとか、自分の脚で時間をかけて歩いたからこそいつもの送迎のありがたみが分かるとか、そういう、逆説的に物事の大事さを実感していくみたいな、ことであってほしいわけ。


怖い思いをしてみないと親の愛情なんか全然気づかないわけ、どんなに「あなたのためを思って」と言われても、その背景を頭では分かっていたとしても、体験していないからイメージがわかない。そういうのじゃ良くないと思うのね、籠の中に入れられた鳥みたいに外の世界を知らないまんまで大人になったときに、いつか大人がいなくなってしまったときに自衛する方法を知っているのといないのとじゃ全然違うと思うわけ。

全然違うと思うんだよ本当に。

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つらくなってきたので、いらすとやの犬の画像でも見て元気になりたい(唐突)。



で、その子は家にいる間は勉強してるからテレビはほとんど見てないとも言っていて。
今がどうかは知らないけど、私が小学生とか中学生のときは、クラスメイトとの共通の話題はテレビが一番主なものとして眼前にあって、テレビの話題についていけないと会話の中に混じれないみたいなことがあったような気がする。別にテレビだけが一番じゃないけど、狭い世界ではどうしても昨日見た『学校へ行こう!』でやってたゲームを早速友達とやってみて大ウケするみたいな、今でいうとブルゾンちえみとかサンシャイン池崎とかの話で盛り上ったりするんじゃないのかな。

そうなってくると、勉強の話だけでなく、クラスになじめるなじめないという話も出てくるわけで、なんか、親が子どもの将来を案じて前々から勉強の習慣づけをさせるというのは良いことである一方で、それよりも、将来の子どもの姿ではなくて、たった今目の前にいる子どもを見てあげてほしいというのが私の気持ち。


22歳になってよく思うのは、過干渉で親切で「よかれと思って」色んなことをしてくれる親だけど、本当に助けてほしいときには助けてくれなかったなと思う。
私が「クラスのあの子が馬になって○○ちゃんに乗られてた!」とか今日あった楽しい出来事を話してるだけなのに、担任にチクられて学級会が開かれるなんてことがしばしばあった。
友達が「めがね貸して」と言ってきたので貸してあげたという話を親にしただけなのに、翌日には「めがねをかけている人にとってはめがねは身体の一部だからむやみに借りるのはやめましょう」という学級会が開かれたりする。地獄か。
でも、親はよかれと思ってやってるんだから仕方ない。「めがねを取られているあなたがかわいそうでかわいそうで仕方なかったのよ」と言っていた。私が私の意思に基づいて友達に貸しただけのそれを奪われたとかいうふうにストーリーを歪曲して受け取ってしまうことそれ自体も悲しくて、私が楽しいと感じている出来事、楽しいと感じることさえダメなことなのか当時は本当によくわからなかった。




私の家は幸いなことに親に「宿題やりなさい!」とか「明日の準備しなさい!」とかは言われたけど、「良い大学に入らなきゃだめよ」とか「大企業に就職しなさい」とかは全く言われたことがなくて、家庭環境が悪いと自負しているわりにそこだけは救いだったなと思う。


今日の彼女の様子を母親にしていたところ、母親が、「親だって子どものためを思って色々言っているんだけども、それがどうしても嫌な場合は、何度も親を説得し続けなきゃいけないと思うんだよね。外の人には言えて親に言えないなら、ある程度仕方がないんじゃないかと思う」と言っていて、なんかそれ聞いて私は泣いた。

言い出しづらい環境を作り出しているのが親だとしても自分だとしても互いによるものだとしても、擦り合わせをしろと、親に自分の意思を見せ続けなければいけないということを話していて、それはめちゃくちゃ難しいことだけど、正しいことだと思った。


周りの人は「偏差値の高い○○高校を受験するんです、そのために勉強をしているんです」と言うと「えらいねえ」って絶対言う。
その言葉の中には「そこまで勉強して何か得るものがあるのかな」と懐疑的であったり「うちの子はそこまで勉強させられないな」という劣等感であったり心の底から「そんなに頑張ってえらいなあ」とか、色んな意味が含まれているんだと思うけど、子どもはそうやって「えらいねえ」と周りに連発されることで、「親が敷いたレールが良い道なんだ」と学んでいく。

別に人生の選択に良い悪いとかないし、本来なら自分の生きたいように生きることができたらそれが一番なんだけど、小学生とか中学生とかまだアルバイトができずに親に手綱を握られている状態で、「成績悪いならあなたの好きな習い事をやめさせるから」と言われてしまえばそりゃあ勉強するしかなくなるわけで。

そういうのって卑怯なんだよね、本当におかしいと思う、本人の意思なんか聞かないでこの道を進んでいってくださいと示していくのは。
そして、子どもだからなおさら「頑張って勉強すれば努力が実って志望校に合格するはず!」と思いがちなのも良くないと思っていて。

私の好きな言葉でビートたけしの「努力すれば夢が叶うなんて事はない。 努力とは宝くじを買うようなもので 当たり券を買うことではない。」という言葉があって、なんていうか私が言いたいのはこれだけ!
今だからこそ思うことだけど、別に努力したからって何か見返りがくるわけでも褒められるわけでもなんでもなくて、成功するのは一握りだから、努力に期待しちゃいけないんだよって私は思う。努力しないで成功した人を憎んだり嫉妬したりするのもおかしいんだよって思う。どれだけ勉強に時間を割いたからといって成果が出るわけではなくて、メリハリバランスを取ることがそこには必要で、ただ「勉強している時間」が何かの免罪符になるわけでもなんでもない。


ただ、親として子どもに何かできるとしたら、子どもが何かしらの壁にぶち当たっている、何度も失敗をしているときに、その方向性を変えるよう声かけをすることくらいなんじゃないかなと思う。
大人は「何度も同じ間違いをするときは、やり方そのものが間違っているんだ、それならやり方を変えてみよう」という発想ができるんだけど、子どもだとそういうことができないかもしれない。「今回はこれでうまくいかなかったけど、じゃあ別にこんな方法があってそれをやってみたらどう?」と提案すること、そういうサポートの仕方が大事なんじゃないかなと思う。

あとは何か間違いを起こしたときとかに頭ごなしに叱りつけるんじゃなくて「どうしてこういうことをやったの?」と聞くとか。「どうして?」と子どもに尋ねるのは教育上良いって何かで読んだ。実際は知らないけど、「どうして」を深堀りして考える習慣をつけるのは大事なことのような気がする。その「どうして」を自分の口で説明できるようになることも大事だと思う。

まあ、子どものいない私が言うのもなんだけど。

安心毛布にくるまって寝たら毎日血だらけの話

私が大事な人と会えない間、何してたか知ってる。
あなたの働いている場所、一緒に働いている人、一緒に生きていく人、生きてきた人のことをインターネットで調べてたわけ。ネットストーカーとして暗躍してたわけ。

「最近Facebook更新してないよね」

人がそこで息をしているという破片をインターネットで拾い集めてやっと安心して眠れるようになる。私あなたのことはよく知らないけど、あなたのよく知らない同じ部署のあいつの趣味のことよく知ってるんだ。犬が好きで年甲斐もなくパーティーに参加してそれで満足してるんだよ。2011年の3月12日に「東北に住んでる従兄弟と連絡が取れません」とツイートをしてからもうずっと更新してない誰だか知らない同じ会社の人のことだって知ってるんだ。知ったところでそれは何の切り札にもならないんだけど、私の安心毛布だからどうか奪わないでほしい。

安心毛布は内側にルブタンのスタッズみたいなとげとげがたくさんついてて、あったかく眠れる一方で目を閉じながらもずっと咳をしているみたいな感じがする。
自傷なのは分かってても、価値があったりなかったりすることは度外視してゴミも全部かき集めて情報に埋もれて落ち着いていたい。

スクロールしても永遠に見終わることのできないツイッターのアカウントがあれば、iPhoneのナイトモードをオンにして暗闇の中ひたすらに親指をすべらせ続けられるのに、そういうのはないからフォロワーを辿って終わりのある作業をしてる。もう更新のなくなったアカウントでさえ何か繋がりがあるんじゃないかと思って非公開リストにいれてコレクションしてる。しょうもない。

 

 

 

 
卒業式でゼミが一緒だった友達と写真を撮った。そのあとLINEで写真の交換をして終わった。もう二度と会わないかもしれないけど別に泣くほどつらいわけじゃなかった。学校で会ったときは楽しくおしゃべりをしたけど何が好きでどんな人と付き合ってるのかなんて知らなかったし学校の外で会うこともほとんどなかった。


バイトの最終出勤日に、その日出勤じゃない人がわざわざお店に来てくれてさよならを言いに来てくれたこと。その人たちはこれからもあのお店で変わらず働き続けるんだろうし、私が出向けばきっと嫌な顔をせず受け入れてくれると思う。頑張れば会えないわけじゃないということそのものが私を安心させてくれる。


バレエのスタジオから一人の女の子が辞めるらしい。お姉ちゃんがもともと通っていたスタジオに移動するから妹であるその女の子はあっさりと今の場所からいなくなってしまうらしい。

私の母とバレエの先生が些細なことで大きな喧嘩をしたときに、母は「もうバレエ辞めなさい、あの先生のところではやらせません」と私に言った。客観的に見て明らかに母が人に迷惑をかけたことが発端である喧嘩だったため、高校生だった私はバレエの先生や他の保護者に頭を下げてまわった。「うちの母が迷惑をかけてごめんなさい」と頭を下げた。母は更年期障害の出始めだったんだと思う、それを受け入れられないでいたし、私も母の変化がつらくて責め立てたこともあった。だから、だからというわけじゃないけど色々仕方がなかった。
先生に、「もうバレエ続けられないかもしれないんです、どうしよう」という話をしたときに、先生は泣いた。初めて先生の泣き顔を見た。これまでどういう家庭で育ってきたのか、お父さんはどんな人でお母さんはこんな人だったという話をしてくれた。独立して教室を始めてから、たった5歳の私に出会ったこと。スタジオが移転してもずっとついてきてくれたことが嬉しかったと話してくれたこと。今まで色んな人が先生のもとを去ったけど、そのたびにたくさん泣いて眠れない夜がたくさんあったこと。私が辞めるかもしれないという話を聞いて、今日も全然眠れなかったんだと話してくれたこと。

人が、どこかからいなくなることで悲しむのはわりと残された人のほうで、いまどき誰もが携帯を持っていて、頑張れば連絡が取れること、連絡先を知っているという事実がどれだけ自分を安心させてくれているか分からない。

頑張れば連絡が取れるのに、その少し踏み出す力が出なくて、それとか私がこれから働き始めたときに土日はちゃんと休みたいから人と会うよりも家で過ごすことを選択してしまうようになったり、色々あって今まで関わってきた人たちがもう交わらない人たちになってしまったりする。



坂本真綾は「この星が平らなら二人出逢えてなかった/お互いを遠ざけるように走っていた/スピードを緩めずに/今はどんなに離れても/廻る季節の途中に/また向かい合うのだろう」と歌い、

鈴村健一は「みえないリングにとらわれてる世界のなかで/君と僕が同じ道たどってる軌跡」とか「鞄の中ちゃんと整理して/持っていけない荷物別れ告げて/さあ踏み出そう 寂しいけど」とか歌ってた。

彼ら夫婦の、生きてきた道が本当に羨ましくて、人はそれぞれの道を歩んで、交差したり離れたりして別れも確かにあってどんどん荷物は増えていくけど大きい荷物は自分で持って、持っていけないものにはお別れをして、そういう生き方を私もしていきたいと思う。

昔の人に会いにいくときに、今まできた道を戻るんじゃなくて、これからの道を進んだ先で会いたいと思う。

私は人の気持ちが変わっていくのを見るのが好きで、人が変わっていくのを見るのが好きだから、それに良いも悪いもないし、人の生きてきた道を知るような、そういう変遷はすてきじゃないですか。

「一ヶ月前に会ったAと今会ってるAは 確かに過去は内包してるけど確実にぴったり重なるわけないのよ なぜなら時間が経ってるから その間会ってない期間があるから、だからそのときに 変化したことに関して変化を押しもどすような退行させるような発言ってあんまよくないと思うわけ」という話をした。

人との別れに慣れることはできないけど、別れのつらさに耐える練習をしないと、そのうちおかしくなってしまう。誰かがどこかで生きてる破片を収集しても、何にもならないんだってこと、ちゃんと分かってるのにな。



2017年3月23日

卒業した。大学からも、アルバイト先からも。

 

一か月前までは行く気のなかった卒業式は、袴を着たいという気持ちもなく友達も多くない私がわざわざ卒業式に出たところで何か記念になるのか疑問だったけど、付き添ってくれた親は私が卒業式に参加すること、留年もせず難なく単位を取得してストレートで卒業すること、そして自分が付き添っていいということ、娘の晴れ姿を見れるということを喜んでいたので、多分記念にはなったと思う。

卒業式というのは当事者よりも当事者の周りにいる人々のほうが感じるものは多いような気がする。

 

振袖を着ました。

 

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帯がすごい。

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「厳しく指導してくれた先生方、ここまで育ててくれた保護者の皆さまありがとう」というような答辞を、1、2年のときの英語の授業で一緒だったクラスの真面目くんが任されており、なんだか遠いところにいるんだなきみは、と思った。

田舎から出てきた野暮ったい青年が、恋愛なんか知らない、勉強もイマイチなくせに真面目に頑張ってるような、授業終わりには教授のもとへ話を聞きに行っているような青年が、いま多くの卒業生や先生や保護者の前で堂々と答辞を読んでいる姿を見て私は大学で結局何もできなかったんじゃないかと思う。英語の授業を取らなくなってから取っている授業がたびたび重なることはあれど全然喋ることはなかった。すれ違っても何もしなかった。教職を取っていて教育実習に行って先生になりたいという夢を懸命に追いかけていることなんか知らなかった。

 

私は、確か3年の前期まではフル単で、卒業までに落とした単位は2つだけで、4年生前期の就活時期にはほぼ卒業要件単位を取得しており、ここ半年は授業を取らずひたすらにアルバイトと習い事をして過ごした。

 

大学の授業はジェンダー論と社会学民事訴訟法と民法が消費者法と会社法が面白かった。

生身の人間が社会で生きていることを実感できる法律がすごく好きだった。

 

「女が外で働いても男と比べて給与が少ないのであれば私的領域で家事をこなし、稼げる方の男が外で働いて、それで2人で生活すれば合理的ですよね」みたいなことをコメントシートに書いたらジェンダー論の教授から「あなたは結婚を合理的なものでしか見てませんね」みたいなこと言われたの思い出してる。恋愛工学の問題点について無理やり話してもらったのもよかった。

 

「人柄や好感度は気にしないで、むしろ言ってることに矛盾しないかってことのほうが大事なんですよ、嘘をつくってことは大変なことなんです」

 

「親と縁を切る 幸せになるための鉄則です」

 

「法律の条文を絶望的に理解できない学生さんがときどきいますが、それは人の悪意を知らないからなんだと私は思います。人間として幸せな環境に育ったから私はいいなと思う、頭が良い悪いではない、人の悪意を知っているかどうかです。」

 

大学で習った学問そのものよりも、教授の価値観、実感のこもった言葉の方が鮮明に覚えている。

 

1年生にも容赦しない厳しくて辛辣な民法の教授のゼミナールのテーマソングが中島みゆきの『ファイト!』だったときは本当に震えた。

「私は、『冷たい水の中をふるえながらのぼってゆけ』という歌詞が好きなんだ』と話しているその姿に胸打たれたのをよく覚えている。

 

大学在学中に学外の人によく会った。インターネットの人にも、会社の人にも、インターン先の人にも、芸能人にも、たくさんの大人とたくさんの子どもにも会った。

アルバイトは塾講師・メロンパンアイスクリーム屋の店員・郵便局の年賀状仕分け人・バレエの先生・不動産屋の営業・中華惣菜の店員とか色々バイトした。一昨年は掛け持ちをしていたので還付申告をしてお金が戻ってきたりした、通帳に税務署から振込みがありましたって書いてあるの面白くて笑った。

 

今日は、アルバイトの最終日で、今までどおりに働いていたら一番お世話になったパートさんが出勤日でもないのにプレゼントを渡しにきてくれて本当に嬉しかった。「また寂しくなったらお店に来てね、またお話しましょう」と言ってお別れをした。

アルバイト先で一番話が合って、愚痴を聞いてもらったパートさんも来てくれてまたプレゼントをもらった。その人には「でもやっぱり寂しいわ」「素敵な会社ライフを!あといい人見つけてね」って言われた。

店長には「シフト協力してくれてありがとね、本当助かった。オープニングから働いてくれてありがとう」と言われた。

 

もらったプレゼント

 

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多分、今までで一番働きやすくて居心地がよくてやりがいのある職場だったと思う。学生バイトもパートさんもてきぱきしてて、仕事を先回りしてやってくれる人もいればそうじゃない人もいたけど、それで結局バランスが取れていて、パートさんに色々愚痴を聞いてもらいながら、社員のダメなところを言い合いながらも楽しく働けたと思う。楽しかったなあ。時給もよくて家から近くてシフトも入りやすくて適度に仕事がハードで、売上目標という数字が目の前にあると頑張ろうと思える自分がいるということを発見できたこと、よかったと思う。

もともと老人嫌いを克服するために、老人がたくさん来そうなお店で働こうと決めたのが一昨年の9月ぐらい。それから他店で研修を受けてオープニングスタッフとして死ぬほど人が並んでいるレジを捌くのが本当に大変で、こりゃ時給に見合う仕事をしなきゃいけないんだなとひどく納得した。この高時給はこのハードな仕事の上に成り立っているんだなと思った。

後輩の指導、自分ができる仕事の幅を増やすこと、お客さんに商品を買ってもらえるように言葉を選ぶこと、常連さんの顔を覚えて何をいつも買っていくのか覚えること、新商品に目がないお客さんと何気なく店先でお喋りするのがこんなにも楽しいこと。色々経験ができたのは本当によかった。

 

大学の卒業式よりもむしろアルバイトからの卒業のほうがなんだか感慨深くて、今まであんなに仲良くしていた職場の人たちとなかなか会えなくなるんだと思うと寂しくて、いつでも厨房で些細なことで笑ってたのに、それが終わるなんて少し信じられなくて悲しい。

 

あと数日で四月になるけど、社会人になる自覚なんて全然なくて、それでも踏ん張っていかなきゃならないので、ヤバイときには助けてね、という感じ。これから満員電車に乗って通勤しなくちゃならないのが一番の苦痛。頑張って生きたい。