
読み終わったあと、ウォレン養護学校にいるチャーリィの姿を想像して涙ぐんだ。広大な土地、森、宿舎、そこでチャーリィと同じような人たちと遊んでいるチャーリィの姿。読後、放心状態になった。だがしかし書かなければ、書きたい、という気持ちでいまこれを書いている
ウォレンに向かう電車の中で、その電車がもう二度と元いた場所に戻らないのと同様、チャーリィはもう彼が生きた街、部屋、パン屋、センター、教室、ダンスホールに戻れないということ、戻らないということ、チャーリィの人生、能力ももはや不可逆であることの意味。
チャーリィはウォレンに行くことを自分で選択した。朦朧としていく意識の中で、自分が正常でなくなったらあの場所に行くのだと決めていた。
以前いた場所に戻り、そして留まることだってできたかもしれない。パン屋や教室にだって一時的にでも戻れたのだから、そういう選択だってあったはずだ。しかし、人に迷惑をかけたくないという気持ちもありながら、自分の、人間としての最低限の尊厳、どこで生き、どこで死ぬか、という選択肢は決して手放さなかった。
チャーリィは、手術前も、手術後も、そして退行したあとも、ずっとずっと人間だった。誰から許可を得る必要もなく、生きている生身の人間であるということは当たり前のことだ。しかし、チャーリィのことを人間として扱わない人も中にはいる。ウォレンですら、"大きい赤ちゃん"のようにチャーリィのことを扱うのは目に見えている。
ぼくは人間だ、一人の人間なんだ――両親も記憶も過去もあるんだ――おまえがこのぼくをあの手術室に運んでいく前だって、ぼくは存在していたんだ!
*
今まで読んだ翻訳された本の中で一番読みやすかった。これほどするすると読める海外の本は今までなかった。小尾芙佐さんの翻訳、尋常じゃなく読みやすくて、読んでいる最中「なんでこんな読みやすいの?これはなんなの?」と思っていた。特に手術後のチャーリィが各所で怒るタイミングがあるけれど、そのときの台詞は初見でも噛まずに抑揚をつけて声に出して読めるレベルだった。演劇の台本のようでうつくしい文章だと思った。
*
ちょっと待って、アルジャーノン読み始めてもう10ページくらいでもう泣いてる 痛い目に遭ってもかまわないから賢くなりたいってなんだよ 泣く
読み始めて、私は上記のpostをBlueskyに投稿していた。
ぼくわ痛い目にあってもかまわないのですぼくわじょおぶだしいしょけんめやるつもりですからとぼくわいった。
かしこくしてくれるならかしこくなりたいのです。
大ぜえのひとがぼくをわらうけれどもみんなぼくの友だちでとてもたのしいのです
こういうようなことをチャーリィが言うたびに涙が出た。彼はパン屋の同僚や学校のみんな、博士のことを友達だと思っている。
笑われているなんて思いもしない、ただ、みんなが笑ってくれるとぼくも嬉しいという気持ちがあり、ぼくも賢くなれたらみんなが話してることがわかるからどんなにいいだろうかという希望に胸を膨らませるあたたかくて明るい気持ちに、涙せずにはいられなかった。
*
手術後、賢くなり出してからキニアンやニーマーの人物像がわかってきた。美人だとか、どういう表情をしているかだとか、顔が見え始めた。最初、文章から顔が見えなかった。そして最後、退行するにつれ、どんどんモヤがかかるように彼らの顔は見えなくなっていった。
文章を読んで、このような体験をしたのは初めてだった。
*
最初は「みんなの話してることが分かるようになったらどんなにいいだろう」って夢を見てたのに、もはや一般人の知能を超えていよいよ「博士や教授連中と話しても奴らは自己保身ばっかでまともな話もできなくてくだらない」と周囲を見下し始めた。
女性のことを抱きしめると幼少期の自分に見られてる気がしてハッとして振り返るけど誰もいなくて息を吐く そういう鮮やかな描写に圧倒された
窓から見られている様子、窓から見ている様子、どちらもチャーリィなのだが2つの人格がせめぎ合っている様子がおそろしかった
*
『アルジャーノンに花束を』を読んでいるとき、その影響からか、寝てるときに夢をたくさん見た。しかもはっきりと覚えてる。私の脳も寝てるときに整理されてるのかもしれない
あの謎の、テレビのような音が出る箱が私のそばにもあったのかもしれない
*
私はずっとチャーリィが発達障害なのだと思っていたけれど、中盤でフェニルケトン尿症と紹介されていて驚いた。病気について少し調べ、分かったふうな気になった
*
終盤、人がひとりで死ぬこと、無になることになんとか抗うために人と手を繋いで行う、祈りのようなセックス描写が とてもよかった。よいというか わかるというか、わからないけど そういうふうに感じる人がいるのを私は知っている。
人間は嵐のさなか、船外へほうりだされないようにするために、おたがいの手を握りあって、引きはなそうとする力に抵抗する、そうするときわれわれの体は、無へ押し流されないようにしてくれる人間鎖のひとつの輪となって融合する
これでのちのちキニアンが妊娠したら……というのを想像せざるを得なかった。チャーリィが生きていた証が、論文という形ではなく、何かもっと神秘的な、命としてあったなら……。
今ふと『フォレスト・ガンプ』のことを思い出した。ガンプが女性を訪ねたら家には子どもがいて、あの子はあなたの子どもなのよと初めて知らされて、子どもとぎこちなく対面するシーン……。
*
私はただそれまでどおりに、彼女といっしょに遊んでもらいたかった。彼女の気持を傷つけるようなことはなにひとつするつもりはなかったのだ。
チャーリィの「なにもするつもりはなかった」という言葉を読むたびに、心が突き刺されるような思いだった。夫と喧嘩をするとき、夫の言葉や行動に私の心が傷つくとき、夫には悪意があったんじゃないかと思ってしまう。でも、そうじゃなくて、本当に、相手を傷つけたり悲しませたりするつもりなんか本当にないんだってことが、冷静になるとようやくわかる。そういうことを100回以上は経験している。
もともとは怖かったりつらかったりしんどい気持ちがあって、それが元で様々な行動をチャーリィがするのだけれど、なにをするつもりじゃなくても、チャーリィの行動は、周囲から笑われたりひどい言葉を言われたりする。
きっと、とてもつらいことだと思う。
誰にもわかってもらえないことだから。
どこにも悪意なんてないことを、伝える術すら手術前や退行後のチャーリィは持っていない。
ただこわくてつらかっただけなのに、身体が震えたり、漏らしたり、他人が見たらばかに見えるようなことをしてしまうがゆえに、人間として扱ってもらえない悲しさ。
これまで、夫から、「そんなつもりはなかった」と言われるたびに、「そんなつもりはなくても、あなたの行動に私は傷いた」と怒っていた。
まるでチャーリィの母親ローズのようだと思った。
こうあるべき、というのが自分の中で固まっていて、そこから逸れることを極端に恐れている。チャーリィの人生はチャーリィのものなのに、チャーリィが自分の所有物であるかのように支配しようとする態度。私も自分の態度を見直さなければならない。
*
以前山下智久さん主演でドラマ化されていた。私は当時21歳だった。もうドラマの内容はほとんど覚えていないし、改めてドラマのサイトに掲載されている人物相関図を見ても、あまりピンとくるものがなかった。
ただ、当時の私はたびたび『アルジャーノンに花束を』のことをツイートしていて、心の中ではずっと読まなければと思っていた。思えば、この本はずっと私のことを呼んでいたのだと思う。そして手に取った今が、読むべきタイミングなのだと思った。
本が世界や宇宙を旅するように、私自身も世界や宇宙を旅している。その2つの円(私はいつも人も物もまるい円の形をした人生、旅をしているようなイメージをする)がバチッと重なったのが今だったのだと思う。このタイミングで読めてよかった
アルジャーノンのドラマの一話、アルジャーノンが外に出されたのち主人公に拾われて世話される、研究者の女が主人公のもとを訪れ「返してください」と土下座をして、きらきらしたものが好きな主人公は女の人の耳についてたピアスと交換してた ぜんぜんちがう?
— 赤埜よなか (@_ynk) 2015年4月13日
↑当時のツイート。きらきらと光るものに心が奪われる描写は原作のほうにもあったので、一応ドラマ版も踏襲はしていそう
改めてドラマは一体何だったんだと見返したい気持ちとそんな怖いことは今はしないでもいいよ、の気持ちで揺れている
*
『アルジャーノンに花束を』や『窓ぎわのトットちゃん』を図書館から借りてきたとき、夫は表紙を見て「なつかしい」と言った。(アルジャーノンは当初ハードカバーで読もうと図書館で借りてきていた。そのときに夫から上述の通り声をかけられた。その後文庫本も借りてきた。それがこの記事のトップの写真)
「読んだことはないけど、すごく売れた本で、実家にも置いてあったから」と言っていた。私もそういう体験がほしい。今から20年後に中村佑介が描いた絵が表紙の森見登美彦の本を読んでいる人がいたらそういうことを感じると思う。