カサンドラ症候群に関する本を読んでみた

 

パートナーと喧嘩をすると、いつもこんな感じになる。

 

  1. パートナーにひどいこと言われたり、厳しい態度を取られる(パートナーは無自覚)
  2. 私はショックで黙り込む。態度がそっけなくなる。
     (パートナーにとっては、いきなり私の態度が豹変したように見える。
      無自覚なので原因も分からない)

  3. 「今こういうことをされて(言われて)私はつらかった」とパートナーに言う
  4. 「黙ることで他人をコントロールしようとするな」

     「なんでそんな些細なことで怒るの?おれは同じことされても つらくならない」「おれそんなに悪いことした?」

     とパートナーに言われる

  5. 私は怒りと悲しみが限界を超えて、怒鳴る、号泣する

 

こういう感じで喧嘩をしてきて、怒りと悲しみが限界を超える前に冷静に話そうと試みたり、直接相手に話すのだと冷静でいられなくなるのでノートに自分の気持ちを書くようにしたり、色々試行錯誤をしてきたつもりなんだけど、最近は、2~4をすっ飛ばしていきなり大激怒!いきなり大号泣!というようなパターンが増えてきて、「あれ?なんか自分おかしいな」と思っていた。

 

いつも喧嘩をするとお互いすごく精神を消耗する。

 

同棲を始めてからは3ヶ月に1回で喧嘩をしていた。でもそれはお互いの生活スタイルが異なることによる喧嘩で、一緒に生活をするうちにそういった喧嘩は少なくなってきたように思う。

 

同棲を始めてからすぐのとき、「たまにはお風呂の排水溝の掃除をしてほしい」とパートナーに頼んだら、「おまえの髪の毛のほうが多くても俺がやんのね」と毛量の差によって生活タスクの割り振りについて言われたので精神がおしまいになった。後から「毛量に関わらずふたりで分担してやったほうがいいよね」と言ってくれた。

 

私は嵐のことが好きで、パートナーもそのことを知っているのにも関わらず、大野智さんのことを大麻くんって呼んだ。松たか子さんのことが好きなのも知っていながら「歌が下手なのは元からじゃないの?」と言った。エマ・ワトソンのことは大尊敬しているんだけど、「デブとのセックス動画が流出した女」とパートナーは言った。そういう発言は傷つくからつらいと伝えると「自分は軽はずみでもそういうことを言わないのか」「おまえは何様なんだよ」「おれより嵐が大事なんだな」と言われて泣いてしまったこともあった。後から、「おれより嵐が大事なんだな、なんてそういうことを言いたいんじゃないよね」と彼は言ってくれた。

 

お母さん食堂の件が巷で炎上したとき、パートナーと話していたら「じゃあお父さん食堂でいいよ」と突然大きい声を出された。そんな雑な話があるかよ。それからフェミニズムに関する話題を避けていた。本当は逃げ恥を一緒に観たいけど、傷つくのが怖くて言い出せなかった。
でも、『花束みたいな恋をした』を映画館で観てから坂元裕二脚本の作品を大量に一緒に観られたのは嬉しかった。『問題のあるレストラン』を一緒に観られただけで十分だと思った。
坂元裕二のパートナーって森口瑤子なんだよ」とパートナーに話したら「誰それ?、もう寝るから」といきなり会話が終了してつらくなったりもした。自分の興味のあることにしか反応せず、興味がなくなった途端にぶった切られるのがつらい。

 

ピザを頼んだとき、残りはいつもパートナーが食べてしまうのに、「残りのピザ食べなさい」とその日に限って言われた。自分は要らないからと私に食べるよう促してくるのが悲しかった、今まで残りは全部食べてもらって構わないと思っていたけれど、実はそれは違っていて、本当は私の分も残しておいてほしかったし、全部食べるなら一度聞いてほしかった、公平に 一緒に買ってるはずなのに、譲り受けるような、上から下に食べていいよと許可を出されるような、残飯処理をさせられるような感じがして嫌だった、ということもあった。そのように伝えた。「言い方がいけなかったね、今度は最初から半分にしておくのがいいのかもしれないね、もしくはおれが多く食べるならその分多くお金を払ったほうがいいかもね、そのへんルーズにならずに気をつける」と言われたけど、そういうことじゃなかった。一声かけてほしかっただけなのだ。

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ピルのこと。避妊してくれないことがやっぱりつらくてピルの話をしていたら「いつまで言うんだよ」と言われたことも悲しかった。あなたにとってそれほど重要じゃないことでも、私にとっては大事なことなんだよ。

aknynk.hatenablog.com

 

パートナーがぶちギレて暴れた結果、ぶん投げられた炊飯器のお釜はへこみ、ご飯が部屋に飛び散ったりしていたこともあった。何日間もご飯が壁に張り付いた状態でカピカピになっているのを私は毎日目にしてぐったりしていた、けどパートナーは壁にご飯が張り付いていることに全く気付いていなかった。怖い。仲直りしたあとに、パートナーは炊飯器を指さして「見てーここへこんじゃった」と笑っていたけど全然笑えなかった。

 

お店に行ったとき、「◯◯は対象外です」と公式に記載されていないのにもかかわらず実際は対象外だったりしたときに、「公式に書いてないんだからそれはおかしいだろ」って怒鳴ったりもしていた。私の父親もそういうひとだった。怒られるのも仕事のうち、おれの怒りは正当なものであるみたいな感じで、相手が生身の人間だということをすっかり忘れている感じがする。

 

少し前のつらかったこと3本まとめは以下の記事です。

aknynk.hatenablog.com

 

喧嘩の話ではないけれど、パートナーと外食に行ったときに「あの人たちが席譲ってくれたね」とか買い物行って「あの店員さん優しかったね」と私はパートナーに話しているんだけど、全然パートナーは気づいてなかったりする。周りが見えてない、外食のときに店員さんに「テーブル席どうぞ」って言われたのにカウンター座ろうとしてたりして、私が恥ずかしくなったりする。これはツイッターのひとに「ふたりは認知特性が異なるのでは?」と言われて、そういうこともあるのかも、と思ったりした。

 

 

 

「喧嘩をしても、その度に話し合いをして仲直りができたことが結婚の一番の決め手。今まで付き合ってきたひととはそんなことできなかった。喧嘩したらそれで関係性がおしまいになってしまうから、喧嘩しないように怒らせないように気をつけて生きてきた」とお義母さんに話したし、それは私の本心であるはずだったのに、段々と喧嘩をして話し合う気力もなくなってきている。

 

 

何も改善もされないように見える。何も反省していないように見える。何度も同じことを繰り返してそのたびにごめんねと謝ってくれるけど具体的な改善がされてないように感じて、そのたびにパートナーを詰めてしまう。イライラしてしまう。

 

 

 

生きづらさを抱えながら生きているパートナーに幾度となく「無理しないで」と言ってきた。でも、彼にとっては「無理しないでって言われることさえ責められてるように感じる」と言われたこともあった。私の怒りと号泣、私の「無理しないで」という言葉の板挟みになって押しつぶされそうになる彼をどうやって救えばいいのか私は分からない。

 

喧嘩が絶えなくなってきたころ、パートナーはカウンセリングに行った。

そして、ASD傾向があるということが分かった。

 

aknynk.hatenablog.com

 

調べているうちに、『カサンドラ症候群』という言葉の存在を知り、安堵した。

「あ、私のこの現状に名前がついている」と思った。名前がないと思っていたものにちゃんと名前があると安心するし、人に説明するときにすごく便利である。

それと同時に、パートナーはASDの傾向があって 私がカサンドラ症候群になりつつあることを「パートナーの中のASDの部分」じゃなくて、「ASDであるパートナー」という差別的な見方をしてしまっている自分にも気づいていて、厳しい。どうにかしたい。

 

 

 

岡田尊司さんの『カサンドラ症候群 身近な人がアスペルガーだったら』という本を読んだ。

 

 

結婚を選択するくらい、お互いに愛情があったはずなのに、喧嘩が絶えない状況になってしまうつらさに寄り添ってくれる文章で、とても救われた。結婚を選択するくらい、性格や容姿、価値観が合うと思って結婚した。でも、見落としていたのは、気持ちや関心を共有するといった共感的なやりとりの少なさだった。私は「一声かけてほしい」「共感してほしい」「私が好きなものをパートナーにも大事にしてほしい」と強く思っているんだなと本を読みながら気づいた。共感してくれなくてつらいんだ、私って。共感してもらえないから怒ったり泣いたりしていたのだ。

 

悪気なく、興味のないことにはそっけない反応しか示さない。相手がどんなに関心を共有したいと望んでいても、自分の興味のないことには何の感想も言わずにスルーしてしまうのである。

 

失敗した上に、感情的に叱責したりすると、パニックや怒りの反応を誘発しやすい。追い詰めないことが大事である。

 

ねぎらいや感謝がないと、カサンドラ的反応を起こしやすいのだ

 

人格が破壊されるほど傷ついた妻にとって唯一の慰めは、夫に怒りをぶつけ続けることでしかない。そんな妻の怨念のこもった恨み節を死ぬまで聞かされるのは受難としか言いようがない。
だが、妻もそんなふうになりたくてなっているわけではない。あまりにも深く傷つけられた結果、傷口から毒を吐き散らすことしかできなくなっているのである。

 

カサンドラの症状は、①不安や混乱、②怒りと攻撃、③抑うつ、④脱愛着と無関心といった流れになっているらしい。今私は①のラインを超えて、②~④のラインにいると思う。分かってほしいという気持ちよりも、もうどうでもいい、という気持ちのほうが強くなっている。それでも私の中ではまだ分かってほしいという気持ちが残っているからいきなり怒ってしまう。

 

共感などあまり必要としない回避型の人は、そういうことにそもそも関心がないし、共感的なかかわりが、水と同じくらい必要な人がいるということさえ、ピンとこない。相手が怒っていることが、なぜそんなふうに目くじらを立て、金切り声を上げているのか、腑に落ちず、「ヒステリー」としか思えないのだ。

 

なるほど、と思った。だから、「なんでそんな些細なことで怒るの?おれは同じことされても つらくならない」「おれそんなに悪いことした?」と何度も言われるのだ。私の痛みを軽視している、ナメられている、と感じて限界突破して怒りに支配されてきたけど、パートナーにとってはその痛みがどれほど痛いものなのか「分からない(こともある)」のだと、そのとき初めて知った。

 

ただ、パートナーがその痛みを分からないからといって、分かってもらうことを完全に諦める必要はないとのことだった。「つらい」「痛みを感じる」というのは素直に伝えていい。「もうどうでもいい」と分かってもらうことを諦めたり自己犠牲を払うのではなく、対等な立場として意見を交わすことが大事とのこと。

 

対等で平和な関係を継続するためには、今のこの状況がすべてパートナーに原因があるのだと思うのではなく、私にも原因があると自覚すること。私の育ってきた環境、機能不全家庭のことも省みること。感情的に叱責したりすると、パニックや怒りの反応を誘発しやすいから、追い詰めないよう冷静に話すことを心がけること。

ASDにとって「察する」ことは難しいので、何をしてほしいのかはっきりと言葉で言うこと。間接的な物言い「どうして~~してくれないの!?」ではなく、直接的な物言い「~してくれると嬉しいな」「~してくれない?」といった表現をすること。

理論的な正しさよりも、パートナーの感情を優先すること。(私はパートナーの感情を無視して、理論的な正しさでパートナーを追い詰めていたように思う。)自分の正しさを押し付けないこと。分かってもらえないからといって感情的に責めないこと。優しい言い方をすること。

いきなり反論や否定をするのではなく、私の方も一旦飲み込んだ上で、自分の気持ちや考えを述べる、ワンクッション置いたコミュニケーションをすること。

ある程度達観した姿勢を取ること。パートナーと共感的なやりとりができない代わりに、パートナー以外の社会(例えば趣味の集まりとか仕事仲間との雑談)で、共感してくれる場所を持つこと。

 

ふたりが安心できる場所(本には『安全基地』と書かれていた)をお互いで作ることが大事とのことだった。お互いに共感すること。お互いに応答すること。一方的な態度を取るのではなく、相手の反応をよく見て丁寧にやりとりする姿勢を忘れないこと。

 

相手を理解するだけでなく、自分を理解してもらうことも大切だと言える。そのためには、相手に共感してもらうための努力が求められる。気持ちや事情を伝え、自分の気持ちを理解してもらう能力も磨く必要がある。共感性が高い人は、相手の気持ちを理解することに長けているだけでなく、自分の気持ちを理解してもらうことにも長けているのだ。

 

共感してもらうための努力。今まで、私は「なんで共感してくれないの?」とパートナーを責めていた。共感してもらう努力なんて何もせず、ただ感情をぶつけていた。だから共感してもらえなかったんだ。

 

実際のところ、腹立たしいことばかりしてくる相手も、心の中は寂しく、傷ついている。その点では、あなたとさほど違わないのだ。相手も本当は仲良くやりたいと思っている。しかし、傷ついたプライドと意地のために、素直にそうすることができない。心ならず愛情よりも敵意を見せてしまう。そのために、一番身近な伴侶や家族からさえ愛してもらえない。憐れで、可哀想な状況に自分を追いやっているのだ。

 

どうやって、パートナーからの共感的応答がなくなった状況で、自分の気持ちを支えているのだろうかと、よく観察してみると、失われた部分を想像力で補っていることに気づかされる。相手の些細な仕草や反応を、こう言ってくれようとしたのだと、自分で言葉にするのだ。まるで幼い頃、母親が、まだ言葉を話せない子どもの気持ちを代弁するように、一人二役で、相手の発言を代弁し、会話として成り立たせるのだ。些細な仕草に、ありがとうの気持ちを汲み取ることができれば、それを励みとしてかかわり続けることができる。

 

「関係性は不可逆ではない」と書いてあったのがすごくよかった。どんなにグチャグチャになっていても、お互いその気があればやり直せるのだと背中を押してくれる感じがした。

 

共感することが苦手でも、思いやりや優しさを備えたひともたくさんいること。パートナーがその中のひとりであることを信じて、これからもふたりの生活をやっていきたいと思う。