私の行ける街

私の行ける街が減った。

 

平日は会社と家の往復で、土日はバレエばかりしているし、特に仲の良い友達と遊ぶところはいつも大抵場所が決まっていて、でもそういうことじゃない。

 

今の私の行動範囲を、過去の私が狭めている。

 

例えば、付き合っていた人と泊まった旅館や、手を繋いで歩いた水族館とか、好きな人と泊まったホテルや、たまたま時間が空いたからといって訪れたショッピングモールや映画館、いつも会うときに使っていた駅、連れていってくれたラーメン屋、そういった場所たちが、会社と家の往復の間にあって、ときどき友達と遊びに行く際に通り過ぎる駅だったりして、胸が変な風に締め付けられる。

 

今、ひとりでそういった場所に降り立つとして、私は自分の足でちゃんと立っていられるのだろうか、という気持ちになる。

 

思い出ばかりが反芻されて現実を直視できない。

 

いつも駅ビルの前でスマホをいじりながら誰かを待っていて、もうすぐ来るだろうなという気配を感じながらも顔をあげないでいたこと。きっと見つけてくれるだろうという気持ちが私の中にはあって、そういう過去の行いが今の自分を苦しめている。

 

待ち合わせのときに自分から相手を探そうという意思のない、きっと見つけてくれるだろうという待ってるだけの人が大嫌いだけど、それでも好きな人を待っている間は自分もそういうことをしてしまう。

 

これからバレエで使うシューズを買いに行く。

そのお店は、好きな人と過ごしたホテルの近くにある。どうしても躊躇ってしまうし、泣き喚いて今すぐ連絡しようと思うけど、過去に縋ってるみたいだし、自分の過去は、自分の思い出は、自分で背負っていかなければならないとも思う。

 

いつか時が解決してくれることなのかもしれない、他に付き合う人ができたとしても、他に好きな人ができたとしても、過去に苦しんでいた私を楽にしてくれた人、楽にしてくれた場所のことを忘れることはきっとできないんだと思う。

 

どこかの駅に降り立つたびに、「ここであの人を待っていたな」とか「信号を待つことさえも惜しくて、車の停まっている場所まで早足で行ったな」とか「『もうすぐつく』って連絡にすごく喜んでいたんだな」とか思う。

 

一人暮らしをするための部屋探し、住む場所探しをしているんだけど、そういう思い出の場所が私にはたくさんあって、好きな人と過ごした好きな駅の名前が無機質な音声として電車内に流れるだけでつらくなるから、あわよくば今行けば会えたりするんじゃないかとか、せめてすれ違ってあの人が元気に過ごしていることを確認だけできたらいいなとか、欲望ばっかりになって狂いそうになるから、誰かと生活をしたり、生活じゃないことをしたり、そのことはそのときだけのものじゃないんだなと思った。

 

好きな人がどこかで元気に暮らしていることを願っています。私もなるべく元気に暮らしていきたい、できれば自立という形で。