「なんでもいい」問題について

関係をつなぎとめておくためにあえて他人にかける負荷みたいなものについて考えていました。

自分とは明らかに違う性質を持った人と遭遇すると、どうやって対応したらいいのか分からなくなるときがある。
まくしたてるように喋るとか、意味不明な知識をひけらかすような人々はコミュニケーションとして成立していなくとも、こちらが適当に相槌を打ってればなんとかなる。なぜならその人は話を聞いてもらいたいのではなくて単に自分が話したいだけなのだから。

私がどうしても困ってしまうのは何も意見を言わない人で、「ご飯何がいい?」と尋ねると「なんでもいい」と返事をするような人で、まあ私も昔付き合ってた人に「ご飯何食べたい?」って聞かれると嫌がらせのために「なんでもいい」と答えていたんだけど、「ご飯何食べたい?」って聞かれると そもそもご飯を食べるかどうかの選択肢が立ち上がってきて食欲失せるしいっそ「駄菓子と寿司どっちがいい?」と聞いてほしいと思っていたりもして、私が困っている「なんでもいい」という返事に関してわりかし私自身が相手への質問の投げ方が悪いというのもある。

おそらくは「なんでもいい」と返事をしがちな人に対しては具体的な選択肢で選ばせる方法を取ったほうが相手の負担が少なく選びやすいような気がしている。「なんでもいい」って人はそもそもの前提として選択肢が見えてないから選べないってことだと思うから、具体例をあげたほうがイメージしやすいんだと思う。

ネットの記事で「カレーとラーメンどっちが食べたい?」と質問された時点ですでに「食事をするかどうか」「食事をしない」という考えはなくなってしまう、みたいなのを読んだことがあって、そう思うと「ご飯何食べたい?」と質問をされると店探しの相談が面倒くさすぎて「なんでもいいし寧ろ食べたくない」という思考になってしまう自分の気持ちもなんとなく分かるような気がする。

 
自分は本当に色んなことに怒っていてすごく怖いんですけど、まあこの2015年のツイートにもまあ共感できるはできるんですよね。なんか、分からないことに遭遇したときにもちろん自分で考える作業は必要なんだけど、それで延々と悩み考えてたら人生が終わってしまうから、具体的に、例えば何時までに自分一人で考えてみてそれでも分からなかったらどこがどのように分からないのか詳細に示して人に頼りに行こう、みたいな時間を自分で設定しておくのってきっと、ダラダラ夏休みの課題を先延ばしにしておくみたいなことよりはずっと楽だと思う。



去年小学校のときからの友達3人とディズニーシーに行ったときに、「次どのアトラクション乗る?」「ご飯はどこで食べる?」みたいな話にほとんど「なんでもいい」と答える子がいて、せっかくお金払って時間かけて来てるのになんでそんなに全部がなんでもいいんだよ!と内心イライラして、ディズニーに詳しくないのならガイドを見るとかスマホで調べるとか友達に聞くとかすりゃいいのにそれもしないで「なんでもいい」って平然と答えやがって、結局他の子たちで相談して決めたようにアトラクションとか回っていたんだけ、そうすると変に罪悪感がわいてきて「なんでもいいとは言っていたけど、内心不満に思われてたらいやだな」という感じになり、すごく苦しかった。

で、「世の中にマジで自分の意見がない人がいて、全部の質問を「なんでもいい」って答えるんだけど、それってなんなの なんでそれで生きていけるのかな なんでもいいっていって生きてくほうがつらそう」ってツイートをしたときに、「辛くはない。むしろ楽。」「必要な時、必要な相手にだけ言います」ってリプライをもらって、「なんでもいい」っていう人は決して自分の意見がないわけじゃなくてあえて言ってないんだという気づきがあった。

「好きでもない人にdisられるのが我慢ならない。」とも言われて、別にあなたの意見が却下されたからってあなたのことをdisってるわけじゃなくて、何かを決めるときに相談して決めたい、お互いの意見を知った上で選択したいっていうのが私にはあるから、なんていうか、そういう人もいるんだな、傷つけられている気持ちになる人もいるんだなと思った。お互いの意見を擦り合わせた結果よりよい選択ができるのかもしれないなら、そりゃ意見交換したいと思うじゃない!?!?!?!?!



あと別の話だけど、最近知り合いに映画に誘われて、「今やってるあの映画このあと観にいきませんか?」って聞かれたときに、なんとなく答えづらくなったのはイエスかノーで答えなくちゃいけないからで、選択肢の幅が曖昧で広すぎることと選択肢が狭すぎることで相手に負担をかけてしまうことって往々にしてあるなあと思うのでした。

コミュニケーションに関してもそうだけど、何かしら失敗したときって多分やり慣れてないかそのやり方自体が間違ってるかのどっちかだから、なんで間違えたかちゃんと考えないでたまたまこうなってしまったって偶然を装うのが私はすごくいやで、なんでこうなったのが原因をちゃんと考えないまま人と別れてまた新しい人と同じように失敗デートを繰り返すみたいなことはしたくないんですよね。

だからそういった意味も含めてツイッターで自分で文章をツイートしながらあのときはああだったのかもしれないとか、もしかしたら相手はこういう気持ちで言ってくれていたのかもしれないと自分の感情なり何なりをフラットにしていく作業ってきっと必要で、面と向かってだと人は他人に厳しいことを言えない、それは別に利害関係のある人たちではないから、ただ善意で、なんとなく気が合うから、一緒にいて楽しいから友達をやってくれているだけであって、親切にあなたのこういうところがよくないと思うなんて教えてくれる人は友達でさえ案外少ない。自分で気づいていかなくちゃいけない。

 

 この前知人が開いてくれた飲み会に参加して、当初は10人以上来るはずだった人が当日になって5人しか集まらなかったときに感じたことなんだけど、やっぱり多くの人に参加ほしいならそれなりの負荷ないしは付加価値をつけたほうが良いと思っていて、それは「欠席したら自分に不利に物事が動く」とか「もうお店でコース料理予約しちゃってて欠席したら他の人が自分の分のお金を払ってくれることになってて申し訳ない」とかそういう人に迷惑をかけるかもしれないから行っておこうとか参加することで被る被害を少なくしなくちゃみたいな人の心理を手綱にかけておく作業っていうのは意外と必要なんだなと思っている。

 
私は日本人的な飲み会の風潮なんか大嫌いなんですけど、人に「新卒は数字を出せてないんだから飲み会に行って可愛げを見せなきゃダメなんだよ」って言われたことがすごく刺さっていて、そういう、参加すれば何かしら自分をアピールできるっていうのはメリットだしだからこそ参加しておこうってなる心理がすごく分かるし、だからこそ居酒屋のゴミみたいな味のする料理を食べながら人とコミュニケーションする時間ってのがあるんだと思う。

もちろん「参加すれば得られる知識や人脈」とか「無料で食べられる美味しいご飯」とかをエサに、それをメリットとして参加を誘導することはできるけど、付加価値つけることができないなら負荷かけたほうが良いと思いました。

参加した人にだけ知らされること、不参加の人には知らされなかったこと、って差別化しておかないと、参加不参加問わずみんな平等に情報を共有するってなるとそりゃ参加する意味なんかなくなっちゃうと思う。



「あなたの好きにしていいよ」「なんでもいいよ」って言われると、ポンと与えられた自由がはたして私に対しての優しさなのか、そう言ってる相手がただ単に何かを決めることを面倒くさがっているのか興味がないのかなんなのか分からなくなってきて、それって全然優しさじゃなくない!?!?!?!って思うわけですよ。優しさという名の怠慢なわけでしょ、なんでもしていいよって選択肢をゆだねてるつもりでも全くそうじゃなくて選択する負担をこっちに丸投げしてるだけでしょ、それを優しさだとかいって誤魔化すのはやめてください!!!!!!!!!っていうのが今日の言いたいことでした。