道幅の広い道路


つまるところ、私が文章を書くことの意味というのは、メンタルが過剰に落ちて誰かにぶつけるわけでもない感情を文章化して、自分の落ち着かない精神を見てみぬふりしてどうにか宥めすかして日々を過ごすための手段なわけです。

だから、過剰に精神が安定して幸せ状態に陥ってしまうと、途端に書くことがなくなってしまう。文章を書くのは好きだけど、書くためのエネルギーとして、一言であらわすのであれば「不幸」が私には必要なわけです。

小説家になりたかったり作詞家になりたかったり、文筆業を生業としたい時期が少なからずあったけど、自分の不幸を糧に生計を立てるのは、到底無理なことだと思った。ましてや自分が書きたくないこと、感情の赴くまま書けない仕事、ルールがたくさんあって、それにがんじがらめになってしまうくらいなら、いっそ仕事になんかしたくないと思った。

他人がつまらないことを愚痴ってたり文句言ってたりするのを目にすると、不快になる人もいれば、他人の不幸は蜜の味と口角をあげる人もいるんだろうと思う。
けど、愚痴や文句や悩みや悲しみを文章に書くことで他人を悲しませようとかイライラさせようなんて意図で何かを書いてる人なんて、少なくとも私の周りにはいない。
書くことでのストレス発散というか、吐き出すことでどうにか現実と折り合いをつけている、ある種の儀式のような気がしている。

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別に取り立てて悲しいことがあったわけじゃないのに、いろんなことが積み重なって、それがもう限界に来て思わず駅前の本屋で泣いてしまった。バイト終わり、やっと解放されたという気持ちで銀行を巡って記帳をし、来年の手帳はハイタイドがペイジェムかやっぱり高橋がいいのかなんて考えながらロフトを何周もして、地元の駅前の本屋でも手帳を見てたら、iPodから入野自由の『それが大事』のカバー(J.C.STAFFオオカミさんと七人の仲間たち』の何らかの企画だったように記憶している)が流れてきて涙がドバドバ出てきた。

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アニメ自体は見てなかったけど、重度の声オタだった2007年~2013年あたりの中高生だった私は、この曲を聞いて、本当に愕然とした。

昭和歌謡や平成でも昔の曲を好む傾向があったものの、アニソンで声優がカバー曲を歌うというのは、『そらのおとしもの』や『デュラララ!!』、『夏のあらし』の企画で、ちょうど2010年くらいに結構盛んになっていたんじゃないかなあ。
そういう企画が生まれてくる理由は、製作者の年齢がそういう曲を聞いてきた世代、CD世代になってきた証拠なんだと思う。

それで話を戻すと、『それが大事』の何に愕然としたかというと、歌詞が最初から最後まで素晴らしいなということでした。
今日本屋で号泣した私はこの歌詞を聞くことでやっと、自分は少し疲れちゃって今これ以上忙しく動くことは無理なんだなと自覚したのでした。


 負けないこと 投げ出さないこと 逃げ出さないこと 信じ抜くこと
ダメになりそうなとき それが一番大事

負けないこと 投げ出さないこと 逃げ出さないこと 信じ抜くこと
涙見せてもいいよ それを忘れなければ Oh Oh Oh…

高価な墓石を立てるより安くても生きてる方が素晴らしい
ここにいるだけで 傷ついてる人はいるけど
さんざんわがまま言ったあと あなたへの想いは変わらないけど
見えてる優しさに時折負けそうになる*1

 


前回のエントリ(古い女 - 未明にかけて)は要約すると「友達からのLINEの返信が来なくてつらい」という話だったんだけど、今回もその延長線上で、既読になったまま返信をしない時間をゆっくりゆっくり延ばして、返信のスパンを開けることで距離をとって優しいお別れをしようとしてくる人たちの、見え隠れする配慮に私はどうしても耐えられなくて、今みたいに頻繁に会える仲じゃなくても一年に一回くらいは一緒にご飯を食べる関係でいてよ、みたいなそういう駄々っ子みたいなワガママなわけですね。


高価なニットをあげるより 下手でも手で編んだ方が美しい
ここにないものを信じれるかどうかにある
今は遠くに離れてる それでも生きていればいつかは逢える
でも傷つかぬように嘘は繰り返される

ここにあなたがいないのが切ないのじゃなくて
ここにあなたがいないと思うことが切ない*2

 
つまりこれって愛情の話じゃないですか。
段々と距離を置かれてなかなか会えなくなってしまう関係性でもいつかまた会えばいつも通りに話せたらそれがベストだけど、でも中には本当はその裏にぎこちなさがあるのに、薄情なまでの優しさをもってして接してくれる人もいて。
お情けで会ってくれてることなんて分かりきっているのに、次また同じように会える保証なんて全然ないのに、こうやって人と会ってる時間は私は好きだなと痛感しながら時間を消費してる。
それが死ぬほど好きな人だった場合、なんとか繋ぎとめることができた関係性を喜ぶと同時に、どうしても自分からじゃ埋められない溝があって、そういうことを考えるとめちゃくちゃに泣けてきちゃうのでした。

 

 

 
小学生のときからケータイを持っている前略プロフィールmixi世代としては、いかにアドレス帳に友達のアドレスが登録されているか、マイミクがどれだけ多いかっていう目に見えやすい「数」でもって友達の多さや交友関係の広さを見せつけていたわけだけど、結局その中で大事な人なんてものは片手で数えるくらいしかいない。

この前『闇金ウシジマくん』の映画を見て、「俺の強みはケータイ3台に登録された3000件のアドレス、人脈、ネットワーク!」みたいなことを言ってる小川純くんという男の子がいたけど、純くんが借金を返済できなくなって殺されかけてるときでも、お金を貸してくれる人なんて誰一人としていなかった。

昔からマイミクが多い人とかアドレス帳に何百件も登録してあるんだと~とマウンティングしてくる人のことを馬鹿にしてた。どうせそのうちの8割はほとんど連絡を取らない相手なだけだろう、スタンプラリー形式で集めただけの他人のアドレスなんか持ってるだけで連絡を取り合わなきゃ意味なんてないだろと思ってた。

でも、今の私が考えていることは、本当に人に縋るようなことであって、「疎遠になった人とでも、いつでも連絡を取れる状態を保つ」ことで、自分が安心したいだけなんだと思う。
自分からLINEのアカウントやメールアドレスを削除しなければ、ツイッターFacebookでブロックしたりされたりしなければ、簡単に保つことができる。返信が来なくても相手に届くことに意味がある。
今じゃ連絡先が分からなくてもインターネット上で検索をかければ芋づる式で相手を見つけることができるから、大して苦労もしないで数年間会ってない人が知らない誰かと結婚したなんていう情報を得ることができる。

その便利さに甘えて、LINEで繋がってるから、ツイッターで繋がってるから、これまでの関係をなかったことにはされてない、って安心することができる。繋がってる気になって勝手に安心することができる。
その小さなあたたかみだけはどうか奪わないでほしい。

別に人は人の過去を消すことはできないわけだし、なかったことにするのもされるのも個々人の勝手だけど、確かにあなたと私は一回おしゃべりしたことあるんだよね、っていう確認を自分自身でしたいがための繋ぎ止めであることも分かってる。

そんな安易なもので、繋がった気になってるくらい、許してほしいと思ってしまう。


 *

人とお別れするのがさびしい。
私の不用意な一言でもう二度と会えなくなってしまうことが本当につらい。
そんなこと全部忘れたみたいな顔で無理して会ってほしいわけじゃないけど、まだうまく水に流すことはできないけど、たまには一緒にお茶しようよ、っていうくらいでいいから、私から離れていかないでほしい。

もしツイッターがサービスを終了して、次のSNSに移行したときに、今のフォロワーとどれくらい仲良くできてるだろうか。ただでさえ嫌われることが多いから知らない人にブロックされてることもあるのに、そう思うとひどくさみしくなってしまう。

友達に「あなたは、先のことを考えすぎて目の前の小石に気づかないで転ぶタイプ」と言われたことがあるけど、その通りで、今からそんな未来の心配をしたって、ほとんどのことは杞憂に終わるんだと思う。

「5年後、10年後も同じことで悩んでると思う?思わないでしょ」と大事な人に言われたことも思い出す。悩みや心配事がどんどん変化していくから、そんなに気にせずともなるようになる、なるようにしかならない。

このまえ会社の同期が「(この先のことは)なるようにしかならない、かも?」と言っていたことも、なんかすごくハッとさせられた。すごく良いなと思った。なるようにしかならないけど、ときどき予想外の出来事にもエンカウントするという感じの文脈で言っていたけど、やたらにポジティブで印象的だった。

人間関係もなるようにしかならないのかもしれない。
それでも自分の行動でどうにか修復することもある程度はできるんだと思う。
鬱陶しがられても「あなたに会いたい」と伝えることに意味があって、会いに行くために時間をかけることに意味があって、人と会うためのおしゃれや武装もちゃんと意味があって、それでも終わってしまったものなら仕方ない。いつかその終わりが意味を帯びるときがきっと来るんだと思う。生きていればいつかは逢える。

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先の入野自由の『それが大事』を聞きながら国道を自転車で走った。お客のいない花屋を見てまた泣いた。花を買って部屋に飾ればこの悲しみも少しは楽になるんじゃないかなと思ったけど買わなかった。泣きながら花を選んでる自分を想像したらすごく馬鹿げていた。
駐輪場のおっちゃんにも「どうしたどうした」という目で見られたし、もうそれだけで十分だった。
泣いても泣いても涙が止まらないので、ひたすらに自転車を漕いだ。
私は道幅の広い道路が好きだ。包まれてるみたいですごく安心する。
広くて大きいところ、品川~大崎あたりの車道とか、北海道の車道とかも好き。(北海道の広い道幅は、雪を一時的にも堆積させるためのスペースだって知恵袋に書いてあって感心した。)
夜の住宅街を号泣しながら走っても、ただ涼しい風が頬を撫でるだけなのに心が落ち着く。
背中に背負った重荷をどんどん捨ててもいつかは溶けて許されるような気がする。
涙で湿って重くなった心も風にあたることで乾いて少しだけ軽くなる。
だから道幅の広い道路を走ると、誰かに抱きしめてもらってるみたいで安心する。

今は遠くに離れてる それでも生きていればいつかは逢える。

*1:大事MANブラザーズオーケストラ それが大事 ~完全版~ 歌詞

 http://j-lyric.net/artist/a051dff/l01b1b1.html

*2:大事MANブラザーズオーケストラ それが大事 ~完全版~ 歌詞
http://j-lyric.net/artist/a051dff/l01b1b1.html