心にうつりゆくよしなしごと

 

ディズニーランドに行けたのはよかった。

10月に行く予定だったのに夫婦喧嘩が勃発して泣く泣く延期していたので、とにかく無事行けたのはよかった。楽しかった。「はじめてのデートのつもりで行くのはどうかな?」とパートナーに誘われて私がまんまと落ちてしまった。

でも、我慢することや気になることがなかったわけじゃない。夫婦喧嘩で傷つけられた言葉の数々も、無かったことにはならない。

ディズニーランドに行けて楽しかったけれど、現状は何も改善していない。

 

気になったこと。

例えば、パートナーは喫煙者なので、度々喫煙所に行く。ディズニーランドの喫煙所は3か所しかないので、わざわざ喫煙所の近くに私も向かう。パートナーは5回くらい喫煙所に行った。ディズニーランドは、喫煙所に入るにも並んで待たなければいけない。大変な場所である。当然時間もかかる。別に、煙草を吸うな!なんて思ってない。でも、パートナーに合わせて喫煙所の近くまでわざわざ向かったり、一人で待っている時間が、無駄だなあと思う。チュロスの一本でも奢ってくれてもいいんじゃないか?とは思ったが特に何も言わなかった。

 

以前、南紀白浜アドベンチャーワールドという、パンダが大量にいる広大な動物園兼遊園地に行ったときも同じようなことを思った。アドベンチャーワールド内には喫煙所がなく、入り口を出て喫煙所まで行き、再入場する必要があった。広大な土地にもかかわらず、何回か入り口まで戻ってパートナーが煙草から帰ってくるのを待つ。この時間、一体なんなの?と思った。

 

喫煙者を待つ側の人たちはどうしているんだろう。

アドベンチャーワールドのときは、待っている間にひとりレッサーパンダを見ていた。かわいかった。

 

↓そのときに撮った写真です。

 

しかしディズニーランドはどのアトラクションも並ぶ必要があるし、パートナーが煙草から帰ってくる時間を有効活用するというのが結構難しかった。派手に転んで泣く子どもとか、ベビーカー争いで姉妹喧嘩をする子どもとか、ご飯を食べずにギャン泣きしている結構大きめの子どもとぶちギレる母親とかを見ていた。なんなんだこの時間は?

 

まあいい、ディズニー自体は行けてよかった。楽しかった。

しかし帰ってきてから思い出すのは先日の喧嘩のことで、やっぱり無かったことにはなっていないし、私の傷も十分には癒えていなかった。

にも拘わらず、パートナーは「来年はシーに行こうね」とか、「紅葉を見にドライブに行こう」とか「年末年始は新潟においしいご飯を食べに行こう」とか言う。

現状は何も改善されていないのに、これまでのことには向き合わずに、楽しいことにばかり目を向けている。それはそれでいい。でも、私はまだ傷が痛くてたまらないし、今回一度延期したディズニーをよくもまあ「来年も行こう」だなんて簡単に言えるよな。私はまだ傷が痛くてそれどころではなく、今はそこまで紅葉を見にいきたいわけでも、新潟に行きたいわけでもないのにな。

置いてきぼりにされている感じがする。

私の意思は?私の意思や気持ちはどこへ行くのだろうか?と思う。

 

 

ディズニーランドでスーベニアメダルを買った。2006年からチマチマ集めているもので、すごい好きというわけでも行ったら毎回買うわけでもないんだけど、なんとなく気になるものがあったときに買っている。今回買ったものをコレクションブックに入れてパートナーに見せたら「こんなに集めてたんだね、知らなかった~!」と言われて嬉しい気持ちになった。まだパートナーが知らない私の一面があること、また、それを知ってもらえたのが嬉しい気持ちだった。続けて、「今度一緒に行ったらおれの分と合わせて二枚買おう」と言われた。ん?と思ったが、そのときはそのままスルーした。

 

自分の中の引っかかるものがあったのに目を背けてしたツイートがこちら↓

 

 

で、今日になって、「私の""好き""にフリーライドされている感じがしてイヤだ」という自分の気持ちに気づいた。私が昔から大事に積み上げてきたものを、一瞬にして奪われたり浚っていかれる感じがしてイヤだった。そんな簡単に私の好きを奪わないでほしい、私が感じている良さも大事さもこの短時間じゃ分からないくせに、なんなんだよと思った。それがモヤモヤの始まりだった。

 

なんとなく元気が出ないな、なんとなくつらいなと思っていて、何が原因だろう?と考えていた。以下いろいろ。

  • パートナーが「諸刃の剣」を「もろはのけん」と言っていたのが気になった。そういう読み方があるのかも、と後で調べたらそういう読み方はなかった。「間違ってるな~」と脳のメモリを食うことも、指摘をする負荷も、指摘したら指摘したで気を悪くして「そんな些細なことで!?」といつものように言われるかもしれないとつらく思うことも、全部イヤだ。
  • キンプリの3人が脱退するという話をしたときに、「ジャニーズって他のアイドルみたいにメンバーを補充したりしないよね」という話をする中で、「ももクロ有安杏果さんは二期生だ、だからいじめられてたんだ」という話をされたことも気になっていた。もしかしたら私が知らないだけで二期生だったのかもしれない、と思って調べたら有安杏果さんは最初からメンバーだったし、早見あかりさんが抜けるタイミングでZになっただけだった。
  • 上記二点の間違いをパートナー自身が気づかないこと。自分が間違っているかも?と自ら調べて訂正するようなことはしないこと。私が調べて指摘するのがしんどい(指摘しなきゃいいだけ、だけど気になってしまう、スルーすればいい、それはそう……正しさで殴ればいいってもんじゃない、分かっているけどできない……これは私自身の問題……)
  • モスバーガーのきれいな食い方スレが私は大好きで、パートナーに紹介したところ、パートナーは「読んでみるね」と言ったけれど多分読んでくれないだろうなと思ったこと。以前ハマっていたNetflixの『ウ・ヨンウ弁護士は天才肌』も紹介して「今日見ようかな~」とパートナーは言ったくせに見てくれなかったし、期待を持たせるようなことを言いながら行動に移さないだろうなと思ったこと。好きなものを知ってくれないのがそもそも悲しいんだけど、「見ようかな」「読んでみるね」と期待させたくせに行動しないということでさらにつらくなる、というのがたびたびある。
  • 駅のホームで電車を待つ間、人が多くて日差しが眩しいところがイヤだったので、パートナーにその旨を伝えて移動した。が、移動した先も日差しが強く眩しいところだったので「眩しい」と言った。しかし二人で椅子に座っていたのでさらなる移動は叶わなかった。パートナーは帽子をかぶっているからいいだろうけど、私は眩しくてムリなのよ……
  • 「はじめてのデートのつもりで」というのはディズニーだけの話で、これからはまたこれまでと同じようなことが繰り返されるんだろうなということ。謝罪も寄り添いも改善も何も求めてはいけない、何も変わらないと諦めなくてはいけないであろうこと
  • 仕事や習い事など人と関わる中で気になったことやおもしろかった話など雑談としてパートナーに共有しても、その場では聞いてくれたとしても、喧嘩のときには「なぜそこまで人に執着するのか分からない、なぜそこまで人が気になるのか分からない」と言われたり、私が嵐や松たか子のことが好きなのを知っていながら大野智のことを「大麻くん」と言ったり、「松たか子が歌下手なのはもとから」と言ったりするから、私の大事なものや好きなものの話は極力しないように気を付けている。傷つけられたくないから。だから傷つけられてもいいどうでもいい話題を話すんだけど、そんな傷つけられてもいいどうでもいい話題ってなかなか無いなあということ。話すことがない。
  • 私がバレエに行くときは、パートナーは温泉施設に行っていて、一緒に帰るときがたびたびある。いつも私のほうからパートナーが電車の何号車に乗っているのか探したり声をかけているが、今日はこんな状況でつらい気持ちであるというのをパートナーも知っていたはずなのに、パートナーはホームで待つ私をついぞ探しにきてくれなかった。
    ホームの椅子に座り、一歩も動かないまま「駅のホームにいるね」と連絡をしてきた。私の認知は「駅のホームにいるね(だからおまえがおれのところに来い)」だった。私は一緒に帰れたらラッキーくらいにしか思っていない一方で、パートナーは「一緒に帰りたい」と思っているらしい。そのくせに自分からは行動しない。そういうところが気になる。つらい状況においても、パートナーから私に駆け寄ってくれることはなく、私からパートナーを探し出さなければいけない。
    この、探しにきてくれないという悲しみを言葉にしたところで、今度からパートナーの行動は「私を悲しませないよう、怒らせないように、探しにいく」というふうに変容するだけで、パートナーの意思として、早く会いたい、早く見つけたい、なんて一ミリも思ってないことがさらに悲しいのである。

 

好きなものを知ってほしいと思うけれど、たびたび傷つけられてきた。傷つけられるくらいなら、いっそ興味など持たないで、近寄らないでくれと思う。「見ようかな」とか「読んでみようかな」とか期待を持たせないでくれと思う。私が好きなものを一緒に好きになってほしいだなんて思ってない、興味を持ってほしいだなんて思ってない。ただ知ってくれているだけでいい。私の好きという思いを尊重してくれればそれでいい。傷つけられたくない。私の性格や行動に対してひどい言葉をかけてくるのはまだ我慢できるけれど(それでもつらいけど)、私の自殺を救ってくれたアイドルのことや、その他の好きなもの大事なものを傷つけられるのがたまらなくイヤだ。

 

あと、私はパートナーの添え物だと、たびたび感じている。添え物、付き添い、オプションみたいな気持ちになる。たとえば、パートナーが旅行の計画や予約を全部してくれるから、パートナーの旅行に私がついでについていっている感じがすること。パートナーが湯舟を張ってお風呂に入るから、私もついでに入ること。私が結んだゴミ袋をパートナーが全部持ってゴミ捨てに行ってしまうから、私も手ぶらでついていくこと。パートナーが電車に乗って帰るから、私もその時間に合わせてパートナーを探し出してついでに一緒に帰るように感じること。

「旅行の予約は私だってできるのに!」「ゴミ捨ても私ひとりでもできるのに!」そうやって主張してきたけど、なんでも全部パートナーが主体で、私が添え物みたいな感じがしてイヤだったんだと気づいた。

だから、私がチマチマ集めているディズニーのスーベニアメダルを「今度一緒に行ったらおれの分と合わせて二枚買おう」と言われたとき、私が大事に積み上げてきたものを横取りされて、一瞬にしてパートナーが主体になるような感じがして、脅かされた気がしてイヤだった。

 

 

私を戦力外として扱わないでほしい。頼ってほしいし任せてほしい。私にもやらせてほしい。いないものとして扱わないでほしい。一声かけてほしい。

 

 

aknynk.hatenablog.com

 

えーーん いろいろつらいよーー

 

パートナーに送ったLINEメッセージ

改善策について、同じ話になりますが、話をさせてください。返信は不要です。

 

まず、今できないことを将来できるようにするには大変な努力と時間がかかります。
できるようにしようと努力するのは素晴らしいことです。
でも、今できる範囲内で工夫してやっていくほうが、時間もかからずに済むし、精神的にも楽なはずです。

 

そういう意味で、お互いが無理のない、楽なやり方でやっていこう。できないものはできないという前提で、うまくやっていこう。そういう話をずっとしてきました。7/25にもLINEでそういう話をしました。

 

「楽な方法なんかないと思う!」と昨日言われましたが、あなたが懸命に努力して長い道のりを歩んでいる間、私は何度でも傷つけられても仕方がないのでしょうか?あなたが努力しようがしまいがそれとは関係なく、私は傷つけられたくないです。

 

今できないことを将来できるようにするという最終的なゴールがあってもいいと思います。
でも、そのゴールにたどり着くまでに、何度も何度も何度も何度も同じことを繰り返さないように、今できる範囲でできることがないのか、考えてほしかったです。

 

たとえば、私は、イヤなときに反射的に「今のイヤだった」と言うのが苦手です。でも、LINEや文章で後から伝えることはできます。
将来的に、反射的に言葉で伝えられるようになったらいいなと思います。ディズニーに着ていくお気に入りの服の返品の話をされたときは「今の言い方イヤだった」と頑張って言えました。でも、一回言えたからといってこれからいつでも反射的に言えるわけじゃありません。だから暫定対処策はLINEやノートで文章で伝えることです(最近ずっとノートがリビングに置かれていないから書けなくなりましたが)。恒久対処策は反射的に言えるようになることです。そういう考え方ができませんか?

 

あなたは、機嫌が良くなったり調子に乗っていると、簡単に人のことを無視する人間です。全部自分一人でやってしまう人間です。忘れないように気をつけても忘れてしまう人間なのです。言っちゃダメだと分かっていても、口を挟まずにはいられない人間なのです。簡単にこれまでの改善策が全てすっぽ抜けてしまうような人間です。
それがダメだとは言っていません。そういう人間なんだということを受け入れて、その前提で、できる範囲で行動をしてよって言っています。

 

どうせこれも伝わらないでしょう。諦めています。何も伝わらない。何も伝わらない前提で、それでも私は文章で伝えようとしてしまいます。どうせ何も伝わらないだろうけど、もしかしたら1/1000くらいは、1/10000くらいは伝わるかもしれないと、微かに期待をしてしまっています。
しかしもうこの期待も薄れています。何も伝わらないのでしょう。
こういった長文LINEもサンドバッグと感じられることでしょう。ごめんなさい。
いつものように無視してくださいね。

『ウ・ヨンウ弁護士は天才肌』を見た/好きなひとの好きなものを知るということ

 

https://news.kstyle.com/article.ksn?articleNo=2195104&categoryCode=PU

 

 

好きなひとの好きなものを知るということ

好きなひとの好きなものを知るという行為は、好きなひとを知ることに直結している。

好きなひとを好きなひとたらしてめている、「好きなもの」。

好きなひとがどのようなもので構成されているのかを知るということ。

 

私は、パートナーであれ友人であれ好きなひとの好きなものを知ることが好きだ。

映画や本や音楽など何かをおすすめしてもらったとき、何かが好きだと聞いたときはなるべく触れるようにしている。

好きなひとがどうしてそれを好きになったのか理由を探り、理由が分かると嬉しくなる。あなたはこういうものに心が動かされ、目が輝き、胸が躍るのね、と、感覚で分かる。

好きなひとの好きなものに触れるということは、好きなひとの目線に立つというか、好きなひとの脳で世界を見るような気持ちになる。思考をお裾分けしてもらってる気持ちになる。好きなひとが好きなものを好きな理由を知る糸口になるから、好きなのだ。

 

Netflixで『ウ・ヨンウ弁護士は天才肌』を見た。

 

ウ・ヨンウはASDの弁護士でクジラが好きである。

ウ・ヨンウのそばにはヨンウを気にかけてくれるイ・ジュノという人間がいる。

 

ヨンウによるクジラの話をジュノは興味を持って聞いてくれる。一緒に海まで行ってくれるし、水族館で窮屈に暮らすクジラを開放するようデモ活動まで一緒にしてくれる。

だけど、逆に、ジュノが(ヨンウ以外の)好きなひとやものについてヨンウに話すシーンは描かれていなかった。ジュノが仮に何かのオタクでその話をヨンウに聞いてもらいたい、知ってもらいたい、一緒に現場に行ってもらいたいと思っても、おそらくそれは叶わない、叶ったとしてもヨンウにとってはすごくストレスがかかるものなのだろう、ジュノは自分の好きなものを知ってもらえない孤独を抱えることになるのだろうと容易に想像できる。

 

なぜ孤独になるのか。

好きなひとが自分の好きなものを知ってくれないから。

自分は好きなひとの好きなものをたくさん知っているのに、好きなひとは自分のことを知ってくれないから。

だから孤独になる、寂しいと感じる。

別に、好きなひとは自分に興味がないわけじゃないのに、自分の好きなものを知ってくれないのは寂しいと思う。好きなひとに悪意がないことは頭では分かっている。

「あなたの好きなものを知りたい、教えて」という気持ちをお互いが持ち、好きなひとのことを知り、自分のことを知ってもらう、そういった双方向のやりとりが愛を育んでいく。

 

私の話をすると、私はパートナーが好きな海外ドラマをSeason5までひとりで見たことが2回ある。段々と作品を好きになっていくとしても、あまり気乗りしないものを長時間見続けるのは結構大変なことだと思う。おすすめされた映画や音楽だって触れたことがある。

でも、パートナーは私の好きな海外ドラマをSeason5とかまで見てくれたことなどない。映画は見てくれたことがあるけれど、大抵私と一緒に見ている。パートナーが能動的に、ひとりで、私の好きなものに触れてくれたことなんてほとんど無い。

私ばかりがパートナーの好きなものに触れ、パートナーは私の好きなものには触れてくれないことが、たまに悲しい。

 

さて、ウ・ヨンウの話。

好きなポイントをいくつかあげていく。(ネタバレがあるのでご注意を)

 

『ウ・ヨンウ弁護士は天才肌』の好きなところ

法律への愛

ウ・ヨンウは弁護士であり、法律を愛している。

 

私は法学部卒で、法律と法律を学ぶことが好きである。

社会人になるまでは実家に住んでいた。

父はたびたび大声で怒鳴り、母も私も土下座をするしかなかった頃があった。

何がおかしいのか、どうすればこの父を裁けるのか、法律を知ることが自分の武器になるであろうと思い法学部へ行くことを選択した。

 

法は気持ちを重視します、気持ちによって罪名が変わります

 

ウ・ヨンウの一話の台詞である。この台詞で一気にこの作品のことが好きになった。

法律を愛している人間全員に見てほしいと思った。

 

また、ヨンウではない別の登場人物が、自分を救ってくれた法律をタトゥーとして身体に残すシーンがあり、最高だった。かっこいい。自分を救ってくれた法律をいつも手元に置いておき、気が向けば何度でも見返せるような近いところに肌身離さず抱えておくこと。愛じゃん……。

 

おうむ返し

ヨンウは相手の言葉をおうむ返し癖がある。おうむ返しのシーンを初めて見たとき、うちのパートナーもやってる!おうむ返しをしたときの周りの反応もすごく共感する、分かる…と思った。

 

私のパートナーは会話をしている中で「スズキ???」「ミスド???」みたいなはてなマークがたくさん付く単語の聞き返しをよくやっていた。パートナーは、言葉は聞こえているのに内容を理解していないときに単語聞き返しをよくやっていた。この単語聞き返しをされると、私はパートナー自身が考えることを放棄して私に丸投げして安易に聞き返しているような気持ちになりつらくなってしまう。そういった丸投げの聞き返しは寄り添い感がないよねとパートナーも気づいてくれたので、最近はそのような聞き返しをしたときは気づいて「ごめんねえ」「ミスド…?って思ったんだねえ」など単語のあとに言葉を付け足して話してくれている、ありがたい。

 

周りの人々の優しさ

上司であるミョンソクと同僚スヨンが好きだ。

ミョンソク役のカン・ギヨンさんは、かつて私が好きで付き合ってると思ったけど確認したら付き合ってなかったひとに酷似していて具合が悪くなる、好きになってしまう。ヨンウの突飛な行動も広い心で受け入れる鷹揚さと笑顔が好きすぎる。私が中学生だったら、ミョンソクのことが好きすぎて、ミョンソクの闇落ちSSを書いていたと思う、好きすぎて……。

 

仕事中に意見が合わず問題が生じたら 話して解決すべきでしょう

いちいち賞や罰を与えるのは 私のやり方じゃない

 

そして、こういう仕事に対してひたむきな姿勢が胸を打つ。

仕事に熱心だからこそ元妻を孤独にさせたこと。

そしておそらく元妻も仕事に熱心なところが少なからず好きで彼と結婚したのであろうということ。仕事に注がれる熱い眼差しを自分にも向けてほしかったこと。

 

 

そしてスヨン

 

あなたは 春の日差し見たい

ロースクール時代から思ってた

講義室の場所や休講情報 試験範囲を教えてくれて

私がからかわれないようにしてくれた

今も(ペットボトルの)フタを開けてくれて

のり巻きの日は教えると言ってくれる

あなたは明るくて温かくて

思いやりにあふれた人なの

春の日差し チェ・スヨン

 

愛の詩か!?

スヨンは、ヨンウに法律の知識では全く勝てないことを分かりながら、ヨンウに張り合ったり蹴落としたりせず、むしろヨンウに寄り添って声をかけてくれる。

ヨンウの発想や記憶力の強さに太刀打ちできない自分自身が歯がゆいときもあっただろうに、ロースクール時代から優しく、正義感にあふれ、障害者差別はダメなんだと怒り声をあげられる強くて優しい春の日差し。

正義感が強すぎると法律を振りかざしたり濫用したり武器として使うおそれだってあるのに、スヨンはそんなことはしない。いつもクライアントのために、自分の正義を貫いて闘っている。

 

ヨンウが「私は障害者だから…」と弱気になるシーンでもちゃんとヨンウを「こら!」と叱ってくれる。障害者差別はいけない、あなたは差別されず一人の人間として尊重される、と力強く背中を押してくれる。

「教育して叱ってくれ」

東京事変の『群青日和』の歌詞である。

誰かのために叱ってくれるひとを見るといつもこの曲を思い出す。

春の日差し、チェ・スヨン

 

 

ジュノとの恋愛

先に書いた通り、ジュノはヨンウのクジラの話に日々付き合ってくれている。

ヨンウの好きなものを知ろうとしてくれている。

 

それに加えて、

自閉症の人は…感覚過負荷の時 体を圧迫すると 落ち着くんですよね

と、ASDについて学んで行動に移してくれている。

やはり、自分のことを知っておいてくれるというのは、ほかならぬ愛だなと思う。

 

そしてヨンウもジュノのために道路側を歩いたり、椅子を引いてあげたりと精一杯の愛を手渡している。ヨンウには自分の世界があり、あっという間に自分の世界のことで頭がいっぱいになるので、意識的に行動しよう、行動しようと思い続けていないといけないのだと思う。それはヨンウにとってはすごく難しいことだと思う。

 

"他者と自分がいる世界"ではなく

"自分だけの世界"に慣れているからです

他者は自分と考えが異なりうること

ウソをつく可能性もあることを

頭では分かっていてもすぐ忘れます

だまされないためには常に意識しないと

 

私と一緒にいて 孤独を感じたことは?

私の頭の中は自分のことでいっぱいで

そばにいる人を孤独にさせます

いつ なぜそうさせたかも気づかず

どうすべきかも分かりません

 

意識していないとすぐそばにいる人を孤独にさせてしまう、そのことに自覚的であるだけで十分すばらしいことだと思う。ジュノは、「一緒にいるだけで幸せです、僕の幸せに必要不可欠な人なんです」と言うけれど、本当に?と思う。ヨンウは好きなひとを孤独にさせることを理解し、ジュノもヨンウと一緒にいるのに孤独を感じることを覚悟する。それって正直すごいしんどいことだと思う。

 

ヨンウの言語化してもらわないといけない察することが苦手で自分のことで頭がいっぱいになる特性と、周りの人たちがわざわざ言語化しないといけない手間や、言語化しないと伝わらない寂しさ、悲しさがすごく分かるので、ついつい のめりこんで見ていました。

 

ジュノは意識してるときは言語化して何でも伝えようとしているけれど、「ヨンウのことが好きだな、ヨンウもおれのことを好きでいてくれるんだろう」というときに 「あなたは私のことが好きですか?」と今更な質問をされるとウッてなる、おれの思いは伝わってなかったのかという悲しい表情をしていて、分かるーーーーッ!てなりました。

 

ただ、ジュノは「おれを孤独にさせないで」だなんて言わないし、孤独でシュンとする表情を見せることはあっても、私のように感情的に怒ったり泣いたりメンヘラみたいに長文LINEを送ることもない。ヨンウの特性を理解し受け入れ、その特性を変えようとしない、立派な大人なひとだ。私もそうなりたい。

 

 

上記のツイートの通り、パートナーに自分の真意が伝わらないときにも、私は孤独感を感じる。一緒にいるだけで幸せ、それはそう、そうなんだけど、一緒にいるために何かを諦めたり仕方がないことだと我慢することってきっとゼロじゃない。それは他人と生活していく中で当たり前のことだけれど、それでいちいち悲しむな、傷つくなっていうのもおかしい。

孤独を感じないようにできればいいかもしれないけれど、私は、孤独も寂しさもつらさも悲しさも全部鮮やかに感じていたい。積み重なった孤独と、それでも一緒にいたいんだという思いを天秤にかけて、生きていくほかないのだろうか。

 

自分の人生を自分で選び、肯定すること

どんな人生でも等しく価値があること

ヨンウは障害者だからといつも誰かに守られて生きてきた。父親がヨンウが失敗しないようにと先回りして足元の石を取り除くような、そういう生き方をしてきた。

 

ちゃんと挫折したいです

挫折すべきなら私1人で ちゃんと挫折したいです

大人だから

お父さんが毎回私の人生に立ち入って 挫折まで防ぐのは イヤです

 

失敗でもなんでも自分の人生なのだから経験したい。

それが痛みを伴うものでも、大人だから、経験をしたい。

そのようにヨンウが実の父に言うの、すごいなと思う。

先回りして足元の石を拾うような親って、そんなこと言われてもきっと手出しすることをやめられないんだと思う。でも、ヨンウの父はちゃんとできうる限りの力でやめられる。それもまたすごい。

 

私は みんなと違うからなかなか溶け込めないし

嫌われることも多いです

それでも平気です

これが私の人生だから

私の人生は

おかしくて風変りだけど

価値があって美しいです

 

自分の人生をこんなにも爽やかに肯定できるの、すてきだなと思う。

自分の人生、酸いも甘いも存分に味わい尽くして、命の炎を燃やして生きていく。

人に嫌われようと、挫折をしようと、どんな人生でも等しく価値があることを示してくれる作品で、見て良かったなあと改めて思う。

 

自分の感情を自分で決める

先に書いた「法は気持ちを重視します、気持ちによって罪名が変わります」という台詞は、つまり、原告/被告の両者が自身の気持ちを言語化し決定する必要があるということだとも思う。「嫌だった、つらかった」「殺すつもりはなかった」「被告を愛している」などなど……。それは、障害者でも同様に適用される。

 

でも障害者でも 悪い男に恋する自由はあります

シンさんの経験が愛なのか 性的暴行なのか

判断するのはシンさんです

お母さんと裁判所に決めさせては――

いけません

 

他人に否定されれても 自分が愛だと言えば――

愛です

 

自分の感情は誰に縛られるでもなく自分で決めていい。

シンプルなようで案外難しいことだと思う。

自分の心が感じたものを、そのまま言葉という枠組みにぴったり当てはまることなんてないだろう。感じたものをすぐ言葉にすることも難しいだろう。

言葉という枠組みに当てはめることは暴力性を孕むと私は思う。

でも、人間には言葉があるからこそ伝えられるものがある。

だから必死に言葉を駆使して相手に自分の思いを伝えようとする、それが人間という生きものだと思う。

 

最後に

このように、私とパートナーの生活と重ね合わせながらヨンウたちの生活を見ていました。ジュノが抱えているつらさをもっと醜くグチャグチャにしたのが私の感情なのだと思います。それでもフィクションであれ私の心に寄り添うものがあって救われる気持ちになったのは確かでした。

 

パートナーに『ウ・ヨンウ弁護士は天才肌』を見てほしいと何度か言ったけれど、結局未だ見てくれていない。

私はパートナーにも見てほしいと思うけど、そんなのおまえもウ・ヨンウと同じASDだって言って聞かせるようなもので、つらい思いするかもしれない。私を慰めるドラマとして見る分にはいいのかもしれないけれど、これをパートナーに見せるのはだめなのかもしれないと思っていた。

そうやって自分の言葉を使わずにこのドラマを見て私の気持ちを分かってほしいなんていうのは烏滸がましいのだと思う。それでも伝えたいのであれば、ドラマを見て私が日頃から感じている孤独感やつらさを自分の言葉で伝える方が良いのだろうと思った。

自分の好きなものを知ってもらえないのは少し寂しいけれど。

 

作品内で出てきた안 도현 (アン・ドヒョン)の『練炭一枚』という詩が刺さった。

愛する人を温めるために、愛する人に温かいご飯を食べてもらえるように、身を粉にして燃え続けるという詩が すごく好きですごく刺さった。

 

考えてみれば 人生とは 自分を粉々に砕くことなのだ

雪が降り滑りやすくなったある日の早朝

私ではない誰かが安心して歩けるよう

道を作ってあげることも知らなかった

 

今、私はパートナーに何をしてあげられるのだろう。

「好きな人がいるなら離しちゃダメだ、たとえ離してももう一度つかみにいくんだよ」というミョンソクの言葉を胸に、パートナーとの生活をこれからも続けていきたいと思う。

パートナーがご飯を作ってくれた

 

今日は、パートナーがご飯を作ってくれた。

パートナーは昨日料理教室に行って魚の捌き方を習ってきたらしく、その復習として魚料理を作ってくれた。

 

嬉しかった。美味しかった。

何のためらいもなく料理を振る舞えるのが羨ましかった。

悔しかった。美味しかった。作ってくれてありがとう。

私もそのような言葉をかけてもらいたかったと思った。

 

以前、私がパートナーに料理を作ってあげたところ、「今はいらない」と言われた。

「頼んでないのに勝手に世話を焼いてそれで感謝してほしい、おいしいと言ってほしいなんていうのはおまえのエゴだよ」と言われた。

今はその通りだと思うが、言われたときはショックでわんわん泣いた。

それでも作ってあげたいという欲望は残っていた。

 

しかし、その後「今まで作ってくれたご飯はおいしくなかった」と言われた。

そこで作ってあげたいという欲望はぷつんと切れ、むしろ、パートナーにご飯など作りたくないという気持ちに変わった。

 

 

 

別に私はパートナーに好かれるために料理はしなくていい。

そのままの私でも、パートナーは私のことを嫌いになんかならない。

作ってあげたい、あわよくばおいしいといってもらいたいなんてただのエゴ。

 

ほかにも、パートナーからはパスタのゆで方がおかしいと言われたり、おまえの米には虫が湧いているなどと言われてきたし、皿洗いに関しては雑だと言われ、食洗器導入を本気で検討していたところ「食洗機を買ってもおれは手洗いを続ける」と言われた。

 

それから、私は私のためだけに料理している。

一人暮らしをしていたときと同じように、作るのは私一人分のご飯。

最近はコウケンテツさんや鳥羽周作さんや渡辺康啓さんのYoutubeを見ながら料理を作る。

パン作りも好きなので、手ごねで作ったり、ホームベーカリーで作ったりする。

 

ただ、パートナーからの言葉の棘は未だ刺さったまま抜けない状態で、料理をするたび、食べるたびに 「これは私にとって美味しいものでも、パートナーにとっては不味いもの」と一瞬呪いに支配されてしまうようになった。パートナーの前で明るく料理したり食べていても、そういう思いに駆られてしまう。

 

これまでもこれからも 料理をするときに、そういう悲しい思いとか また同じようなことを言われるかもという恐怖なんか感じたくなかった。

 

そういうこともあり、料理の写真あげるのが怖くなった。

前まではインスタとかにあげてたのにね。

 

今は料理をしているときに「いい匂い!」ってパートナーから言われることがあるけど、それが本心からの言葉だとしても 「おまえの料理はまずかった」と言われたこともまた事実で、その板挟みで気がおかしくなりそうなときがある。

 

それでも料理をするのは、第一に料理をしたいからだし、パートナーの言葉に引きずられて 私ができることが一つ奪われるのもイヤだから、奪われてたまるかみたいな気持ちで、悲しみとか恐怖を毎回思い出しながら料理してる。でも、こんなこと感じたくなかった。

 

パートナーを黙らせるくらい料理の腕をあげたいとは思わない。もう食べてもらいたい気持ちがない。私しか食べない料理に対して散々酷い言葉を言われてきたので、食べてもらわなくて結構、私しか食べない料理には口出ししないでと祈りながら毎回料理をしてる。

 

そして今日、パートナーは料理を作ってくれた。

何のためらいもなく料理を振る舞えるのが羨ましかった。

悔しかった。美味しかった。作ってくれてありがとう。

私もそのような言葉をかけてもらいたかったと思った。

 

私は私一人分の料理を作るのさえ怖いのに、パートナーは料理を振る舞えていいな。

私もそれがしたかったな。

 

「ご飯作ったんだけど、一緒にどう?」

 

と声をかけられたとき、「頼んでないのに勝手に世話を焼いてそれで感謝してほしい、おいしいと言ってほしいなんていうのはおまえのエゴだよ」と言う選択肢が私にはあった。

 

「おいしい、ありがとう」

 

と言いながら食べた。「まずかった」と言う選択肢だってあった。

 

 

でも、私は過去の私が言ってもらいたかった言葉をパートナーに伝えた。

やられたことをやり返しても何の意味もない。

何の意味もないけど、悔しかった。

 

悔しくて悔しくて涙が出た。

 

私だって、あなたのようにいきなり料理を作って「一緒にどう?」とか言いたかった。「おいしい」と言って食べてもらいたかった。料理をするときに恐怖なんか感じたくなかった。

今日の食卓は、私がまさに喉から手が出るほど望んでいた光景だった。

 

 

ご飯を食べてるときに、「以前ご飯作ってくれたのにひどい言葉を言ってしまってごめんね」とは言われた。言われたけど、それだけじゃ全然足りなくて、今あなたの手料理を食べて感じているこの悔しさが分かるか、分かってたまるかって、思った。

 

 

前に進まねば、と思う。

これは私の問題で、私が過去のことを記憶しすぎ、引きずりすぎ、怖くても、それでも前に進めたらいいのになと思う。

パートナーに料理を作ってあげ、食べてもらって、そのときは「おいしい」と言ってくれても、またいつ「まずかった」と言われるか分からない恐怖。「これは私にとって美味しいものでも、パートナーにとっては不味いもの」という呪い。また同じことを言われるかもと思うと怖くてたまらない。

 

また「まずかった」と言われるくらいならいっそ食べてもらわなくて結構。

そう思っているけれど、今日みたいに料理を作ってもらうとまた思い出して泣いてしまう。料理を作ってない日も思い出してTwitterでグチグチ書いてしまう。

 

つらかったろう、悲しかったろうと過去の自分を抱きしめながら、このつらさや悲しみをどうにか癒してあげられるのは私だけ。私の問題だから。

パートナーには、ひどい言葉の数々を言った代償として、私の克服のために最大限サポートしてもらえたらいいなと思う。恐怖が弱まるような優しい声かけとか。それすらもエゴなのかもしれないけど

 

自分の人生を自分でよくしていくこと

今日は、一週間仕事を頑張ったご褒美に、初めてロイヤルホストに行こうと思っていた。

何せ初めてのことなので、昨日はメニューを1時間眺めて何をどのような順番で頼むか綿密な作戦を練っていた。

 

しかし、結局ロイヤルホストには行けなかった。

 

いま私は家出をしている。

28歳にもなってロイヤルホストに行けなくて大号泣したのは事実だけれど、ロイヤルホストに行けなかったから家出をしているわけじゃない。

 

またパートナーと言い合いになって、もうどうしようもなくなって、家出をしている。

 

先週末に喧嘩があり、ここ1週間ほとんど会話もしなかったし一緒に眠らなかったし一緒にご飯を食べなかったけれど、それでも、LINEで話し合いはしていたから仲直りの兆しはあったのに。それがいとも容易く崩れてしまった。

 

パートナーは、失敗や誰かを傷つけるようなことをしたときに「なんて自分はダメな人間なんだ」と考え続け、自分を責め続け、塞ぎ込むような人間である。

先ほどは「おれみたいな人と一緒じゃなかったら、おまえはこんな苦しまなくて済んだのに」というようなことを言われた。

 

私はというと、そんなたらればの話をしても仕方がないし、「なんて自分はダメな人間なんだ」と責め続けても何も生み出さないし何の意味もないと思っているような人間である。

 

夫婦と言えど他人同士なのだから、意図せず相手を傷つけることはある。他人同士なのだから、分かり合えないことはある。

 

それでも次同じような喧嘩や諍いをしないように、相手を傷つけたときは、どうして相手が傷ついたのか、どうして自分は相手を傷つけるような行動を取ってしまったのか、原因を探る、いま目の前で傷ついている相手に寄り添ったり慰めたりして心のケアをする、そして今後どうすれば同じことが起こらなくなるか再発防止策を考え、それでも再発した場合の暫定対処や恒久対処をそれぞれ考える。

原因追求、復旧対応、暫定対処、恒久対処、と私がインフラの運用SEだったからそのように思うのかもしれないが、人間関係もそのような感じで将来のこと(また同じことが起きないように、また起きたとしても被害を減らせるように)を考えながら対応していきたいタイプである。

 

別にパートナーの「なんて自分はダメな人間なんだ」と責め続ける態度をやめろとか、パートナーにも私のように対応をしてほしいと求めているわけじゃない。あくまで私個人の生き方としては、障害(喧嘩)が起きる前提で、仕組みを作り、対処をしていきたいと、考えている。

 

パートナーにこの話をしたら、パートナーは、正論で殴られて打ちのめされているようだった。「そうあるべきなんだと思う」とパートナーは言った。そんなことはない。私は自分の考えを強制したいわけでも正義を振りかざしたいわけでもなんでもない。

 

続けて、このように話していた。

 

パートナー「自分を責めて塞ぎ込んでても何も変わらない、意味はないのは、確かかもしれないけど、そういうふうに思って、自分を責めて塞ぎ込んでるときは、ただ話を聞いてもらいたかったり、聞いて寄り添ってもらえたら、嬉しいかな。」

 

パートナー「(自分を責めて塞ぎ込むということは)前向きな考えではないというのはよく分かるし、でもそういうふうに考え込んでしまうことは自分ではしょうがないと思っていて、それが『ダメだ!やめろ!』と言われても困るし、それを分かってもらおうとも思わないけど、そういう愚痴とか言葉にできない訳わかんない話でも聞いてもらえれば、嬉しい。嬉しいってだけで、批判されてもしょうがないなって思う」

 

言いたいことは分かる、分かるが……。 

 

私「自分を責めるときに寄り添ってほしいというのはすごく分かるし、今度からそうしようって思うけど、あくまで私が傷つけられてないときに限った話だなと。私が傷つけられたのに、それなのに、『自分はダメだ…』ってなってる人には寄り添えないです。なんで、傷つけてきた人に対して、そうだよねって寄り添わなきゃいけないのか分からない。それはイヤ。傷つけてきたくせに、寄り添ってほしいとか、それはムリ。そうじゃない場合だったら、できる」

 

どうしても、なんというか、うーん……。今回の喧嘩の発端は、

 

・過去にパートナーから言われた、料理に関するひどい言葉や行動の話をしたところ、パートナーにシカトされる(私はその言葉や行動が今もトラウマで苦しんでいる)(シカトされて悲しい)

・パートナー自身がその過去のこと忘れている(忘れられて悲しい)

・忘れていることに関して、自分で思い出そうとせず気軽に私に質問してくる(トラウマを私の口から話さなければいけないという負荷に関して無自覚)(トラウマを話すのはつらいししんどい)

・赤ちゃんをなぐさめるみたいに「悲しかったんだねえ〜つらかったんだねえ〜」とあやされる(パートナーの言動や行動によって傷ついたのだから、謝ってほしいときもあるし、もっと真面目に反省をしてほしいときもある)(つらいつらいと大声で叫んで訴えているのに、その声が全然届かなくて言葉も通じないという絶望感と悲しさ)

 

という感じである。

 

 

 

 

 

 

正直、こういう喧嘩というか話の流れがあって、それなのに、「相手を傷つけてしまった、なんて自分はダメなんだ」と塞ぎ込む自分に寄り添ってほしい?話を聞いてほしい?どういうこと?なんで私が?と思ってしまった。

そりゃあ仕事の愚痴とか、毎日のうまくいかなかったことや失敗の話は聞くし寄り添うよ、でも、なんで、今回のような、あなたが私を傷つけたというシチュエーションで、寄り添ってほしいとか甘えたこと言うんだよ、と思ってしまった。まず傷ついた私のケアをしてよ、と。

 

こういう、被害者ムーブはよくないんだろうなと思う。今日も被害者ムーブをかます人間は危険だから、注意してる、といったツイートも見た。でも、私は上記のようなことを思ってしまった。

 

「そんな些細なことで泣くの?」「おれはそんなことで傷つかない」「おれそんな悪いことした?」と散々言ってくるような人間に、思った本音をすぐ口に出して相手を傷つけては、それが本音なんだから仕方がないだろと言うような人間に、とにかく謝ってほしいと泣く私に対して「納得してないのに謝って何の意味があるんだよ」と言い 泣きながら私が彼を納得させられる言葉を出さない限り頑なに謝らない人間に、なんで私が……と。

 

全然ケアが足りてない。もっと真剣に謝ってほしい。私の傷は全然癒えてない。つらい。これは全部私のわがままなのかもしれない、モラハラなのかもしれない、求めすぎなのかもしれない。

 

***

 

他人同士分からないなりに分かろうとしたい。分かろうとしてほしい。これが私の欲であり執着である。

 

私には離婚するという選択肢もありながら、いま日々選択をし続けている「パートナーと一緒に生きていく」という選択肢を正解にしていくしかないと思っている。何事も、選択をしたときにはその道が正解かどうか分からないのだから、選択したあとでその道が自分にとって正解だったと、自分で正解にしていくしかない。

 

他人同士なのだから傷つけることもあるでしょう。自分を責めて塞ぎ込みたいときもあるでしょう。

相手を傷つけたときは、自分の気持ち(傷つけるつもりなんかなかったのに!そんな些細なことで?)や納得(なぜこの人は傷ついているんだろうという理解)は二の次で、とにかく傷つけてごめんねと謝る。その流れで、つらかったよね、傷つけたよねと相手に寄り添いながら、相手がなぜ傷ついているのか探っていく。そういうもんじゃないのかなあ。これは私の押し付けがましい考え方なのかもしれない。

 

例えば、不意に人と人とがぶつかり一人が膝から血を流して泣いている。そういうときはもう一人がまず謝り、血を止めて絆創膏を貼る。そういったケアをしてから次どうしようかと改善策を考えていきたい。

 

でも、パートナーと私の場合、私が血を流して泣いているとき、まず血を流している私がパートナーに謝ったり パートナーが納得するような言葉をかけるところから始めないといけない。私が「ごめん、不注意でぶつかってしまった」と。そうすると彼は納得して、謝ってくれたり、血を止めてくれたりする。

 

なんでだよ

 

まず血を止めるのが先だろ、といつも思っている。なぜ、血が出て痛くて痛くてたまらなくてつらくて泣いている私が、彼に必死に言葉を尽くして話さなければいけないのか、全然分からない。私にとってはものすごくつらい。つらくて泣いてるのに、さらに言葉を尽くしてパートナーが理解できるよう、事細かく状況を説明し、なぜ私がつらいのか言語化する、パートナーは同じ目に遭ってもつらくならないと言ったりもするので、いやそれでも私はつらいんだよと繰り返し何度も何度も何度も何度も言う。そうしないとケアをしてもらえない。

 

結局のところ、人に血を止めて絆創膏を貼ってもらうのではなく、私がひとりでに泣き止み、ひとりでに血を洗い絆創膏を貼るしかないのかもしれない。

別に、パートナーに理解してもらおうと言葉を尽くす必要などないのかもしれない。

ひとりで生きていけるし。

 

「一人でも大丈夫だけど、誰かに大事にされたい」

 

というのはドラマ『大豆田とわ子と三人の元夫』のセリフですが、うーん、一人で生きていけるけど、誰かに大事にされたい、そうなんだよなあと、思う。

 

以前友人から「あなたは自分の人生を自分でよくしていけるから大丈夫だよ」というようなことを言われたことがある。

そうなのかなあ、分からない、でもまずは自分で自分をケアしなければいけないと思う。自分を大事にできないひとは、誰かを大事にすることもできないと、Podcastジェーン・スー堀井美香の「OVER THE SUN」』でも言ってたはず。

 

ロイヤルホストのコスモドリア食べたかったなあ

その場にいるのに、いないものとして扱われることがつらい

夫とレストランで食事をし、テーブルでお会計をしようと伝票をもらう。

すると、伝票は必ずと言っていいほど夫に手渡されます。

 

またあるとき、夫と私、そして不動産屋さんの三人でテーブルを囲い、

賃貸の契約を結ぼうとするとき。

不動産屋さんは夫にばかり話しかけ、私のほうをあまり見てくれませんでした。

当然夫が契約者になるのだと不動産屋さんは頭の中で思い、夫に契約書を差し出します。

これまで不動産屋とメールでやりとりをしてきたのは私なのに。

 

 

こういったときに、私は疎外感を感じます。

その場に居合わせているのに、私ひとりが孤独を感じています。

夫と第三者のひと(不動産屋さんや店員さんなど)は全くの無意識です。

彼らには、傷つける意図も悪意も何もないですが、ただただ私が蚊帳の外にされているような感じがして、胸が少し痛みます。

 

 

先日、現在住んでいるマンションの立ち退きにあたり、管理会社の方と打ち合わせをしました。

その管理会社の方は、夫にも私にも平等に話しかけてくれ、目も合わせてくれました。

それにもかかわらず私は疎外感を感じました。

なぜか。

理由はふたつあって、

ひとつめは、夫は、管理会社 対 夫(自分)という構図で会話をしており、私はあくまで夫のフォローをする役回りだったからです。夫が疑問点を管理会社の方に質問し、話が混線してきたところで、私が道筋を整理するような発言をする。打ち合わせのあと、「フォローしてくれてありがとう」と夫は言いました。管理会社 対 夫という構図の、夫の一歩後ろに私がいるような感じがしました。

 

ふたつめは、夫が私のほうを向いてくれなかったことにあります。「ほかに気になったところある?」「これはどう思う?」などの声掛けはなく、夫は夫の疑問を管理会社の方にぶつけ、私のほうをあまり見てくれませんでした。二人宛てに渡された資料も、当然のように夫が受け取り、折りたたんで、家に持ち帰ってきました。

 

なんだかそういう、ほんの些細なところが、後からじわじわじわじわ効いてきて、つらくなってしまいます。

 

夫と管理会社の方だけで会話が進行していて、私もたまに疑問点を管理会社の方に投げかけてみますが、結局のところ対管理会社のやりとりになってしまい、本来あるはずの夫と私の関係性みたいなものがぶっつり切れているように感じます。

 

ただ、夫と私がふたりきりになると、ちゃんとその関係性は復活し、双方向のやりとりに戻るのです。

 

明日、弁護士に立ち退きに関する相談をしにいくのですが、また同じようなことになるのではないかと怖くなり、泣いてしまいました。

弁護士を探したのは私、弁護士に問い合わせたのも実際にやりとりをしたのも私、弁護士に相談する質問の草案を作ったのも私。

にもかかわらず、明日になれば夫と私と弁護士の三人の会話は、いつの間にか夫と弁護士の会話になり、私が蚊帳の外に、いないものとして扱われてしまうんじゃないだろうか。

 

この話をしたところ、夫は、「おれは二人のときだと普通にやりとりできるけれど、三人になるとうまく会話ができないのかもしれない」というようなことを言っていた。

三人での会話が苦手なのかもしれない。なるほど。

また、「自分がいないものとして扱われたときに、自分は感じるだろうか考えてた」とも言っていました。もうこれだけで正直十分ではある。私のつらさを蔑ろにすることなく、話を聞いてくれ、私の立場になって物事をイメージして考えてくれるだけで十分。

 

 

ただ、私たちには男女という性差があり、さらに、20歳という年齢差があります。

 

社会から私たち夫婦がどう見られるかというと、夫のほうが、力関係的に強いと見られるのではないか。夫婦は平等であるはずなのに、他人は無意識のうちに夫のほうが偉い、ご主人だから偉い、そういう謎の刷り込みが発動して、いつもいつも当然のように男を立てようと夫のもとに伝票が手渡される。

 

実際には私の方が稼いでいるのに。

私の方がお店や不動産や弁護士や何もかも調べて率先して問い合わせているのに。

それなのに女性で20歳年下というだけで、自然と視界から見えないものとして扱われる。

 

「それは人によるでしょう」

それはそう。

でも、実際に上述したようなことがあった。

みんながみんな私たち夫婦を平等に扱ってくれるわけではない。

 

だからこそ、夫には私の腕を引いて、妻である私の存在が第三者からも見えるように声を上げてほしいと願ってしまう。

男性であり、20歳年上であるというだけで、優遇されることや受ける恩恵に自覚的であってほしい。

私のことをフォローしてほしいと言っているわけではない。私は私の足で自立して生きていけるし、ちゃんと意見も言える。

でも、その、自分が当然のことのように受けているサービスが何であるのか、その裏で無視されているひと、蔑ろにされているひと、蚊帳の外で疎外感を感じているひとがいることを知っておいてほしいと思う。

 

別に誰も悪意を持ってるわけじゃない。

でも、誰しもが刷り込みやこれまでに培ってきた価値観があり、結果的にやんわりとした無視を生み出していることもある。

 

少し話がそれるけれどジェンダーフェミニズムに関する話をすると、

「女はそういうことを声高に言うよな」と以前夫に言われたことがある。

自分がどれだけ優遇された立場にいるか無自覚で、なんて乱暴な言葉なんだろうと思った。

「お母さん食堂がダメならお父さん食堂にすればいいだろ」

「レディースデーがあるのにメンズデーがないのはおかしい」

女性専用車両があるなら男性専用車両も作らないと不平等だ」

「おまえが会社の同僚にセクハラされたからって、おれはどうしろというわけ?おれが加害者を殺せばいいの?」←ヤバ発言

こういう、ジェンダーフェミニズムに関する理解が浅い夫だけれど、その夫と生きていこうと決めたは私自身である。

夫が生きてきた時代はまだ男性が外で働き、女性は主婦として子育てをするのが当たり前だった時代だから……などと時代のせいにすることもできるけれど、だからといって私は夫の言葉に屈するような人間でもないので、ひたすらに言葉をかけ続けるしかないのだろうと思う。

 

夫や妻や恋人やパートナーに加えて第三者がいるような状況において、あなたのパートナーはあなたのことを気にかけてくれていますか。

ナチュラルに無視されたり、いないものとして扱われてつらいときはないですか。

そういうことが聞きたくて、この記事を書きました。

 

おそらく、男性側が蚊帳の外だと感じるときの代表例として挙げられるのは、幼稚園や保育園といった、子どもに関する場所なのかなと思う。

幼稚園や保育園ではやはりママというのが圧倒的に立場が強いイメージがあるというか、先生対ママの会話になってしまい、パパは蚊帳の外として扱われてしまうことがあるんじゃないかなと思う。

そういう、その場にいるのに、いないものとして扱われるのはつらいよねという話でした。

 

 

 

金沢旅行記 初めて金沢へ行った

 

お盆にひとり一泊二日で金沢へ行った。

旅行の記録や写真を初めてブログにまとめてあげてみる。

 

 

訪れたところ

かいてん寿し 大倉

金沢五種盛(白えび、甘えび、ぶり、ばい貝、のどぐろ)

まぐろ三種(中落ち、中とろ、大とろ)

 

近江町市場にあるお寿司屋さん。

初めて食べたのどぐろが一番おいしかった。

他にも鯵やかじきのお寿司を食べました。

回転寿司と言いつつ、寿司は回転していなくて、湯飲みと醤油皿が回転していた。

注文票に食べたいものを書いて注文する方式で、注文票を職人さんに手渡すタイミングがなかなか難しくてドキドキした。

白い長靴を履いたひとがお店の奥でお魚を捌いてるっぽかった。魚の命……。

 

近江町市場

魚だけじゃなくて野菜もたくさん売ってた。

つやつやした大きくて逞しい感じの野菜ばかりだった。

大量のさかな

大量のたらこばっかり売ってる店とか、大量の貝だけ売ってる店とかもあってすごかった。

うなぎとかすごい分厚くてびっくりした。

 

いしかわ動物園

いしかわ動物園能美市にあって、とにかくアクセスが悪い。

金沢駅から出ているいしかわ動物園行きのバスは、平日1本、土日祝は3本しか出ていなくてヤバい。なので土日祝に行ったほうがいいです。

「絶対にこの時間のバスに乗るぞ!」と決めて、そこから逆算するように新幹線やら何やらの時間を決め、タイムアタック的に活動する必要があって、初めて行く土地でバスに乗り遅れないことだけに命を懸けた。

 

向かうまでの道中は緑が鮮やかな畑があったり小さな山があったりして、人も車もそこまで多いわけじゃなくて、絶妙にまったりしていてよかった。

 

そして、メチャクチャ暑かった。38度くらい。

動物も人間も伸びていて茹で上がりそうだった。

 

みんな伸びてた

最近好きになったオオハシ

エリアを自由に飛び回っては片目で人間のことを観察していた。

多分両目だとクチバシが邪魔すぎて見えないんだと思う。

多分プレーリードッグの子ども

すごく美しかったゴイサギ

きれいな鳥だな~と思って見ていて、パートナーに写真を送ったところ「これは紛れもなくゴイサギ」とのこと。

パートナーの職場にはたまにゴイサギが飛んでくるらしく、その可愛さをたびたび話してくれていたので、たまたま私がきれいだと思った鳥がゴイサギということでなんだか運命感じて嬉しかった。

国の特別天然記念物ライチョウ

トキ

めったに見られるものじゃない

 

カレーの市民アルバ

金沢旅行をしようと決めて金沢情報をツイッターのフォロワー内検索で情報収集していたところ、ゴーゴーカレーではなくアルバを推している方がいたので、教えに倣い行ってみた。結果、行って超よかった。メチャクチャおいしかった。

 

カツ、エビフライ、ウインナー、目玉焼きとかが載ってる名物のホームランカレーを食べようかと思ったけれど、量が多くて食べきれないような気がしたのでクリームコロッケカレーにした。

どろどろで濃厚でB級グルメ感が最高~

私の好きなタイプのカレーで、すごく美味しかった。

付け合わせの千切りキャベツが意外に合う。よかった

あと、接客に不慣れな学生っぽい店員さんがおもしろすぎてウケた。

 

こういう面白すぎるひととの出会いも、もう二度と会えないのかなと思うと少し寂しい。

 

ひがし茶屋街

2日目朝に行ったのでお店はほとんど閉まっていた。

デカいゴールデンレトリーバーを散歩させているひとや、フォトウェディングなのか和装で写真を撮っているひとがいた。

るるぶとかまっぷるの本で見た通りの景色だった。


兼六園

とんでもなく暑かった兼六園

木々の鮮やかな緑を肉眼で見たいけれど、日差しが強くてサングラスもしたい…みたいな状況で兼六園を回った。

石の上に流れる透き通った水と、土の上を流れる透き通った水の境界

木が木によって支えられている

兼六園、あちこちに人が手入れした気配がありよかった。

人の手入れによって成り立っている歴史。

観光客は大して兼六園について情報があるわけでも興味があるわけでもなさそうだったけれど、「あ、カモ」「サギだ」と動物を見かけるにつれ写真を撮っていたのが面白かった。

 

金沢21世紀美術館

今回の金沢旅行で一番楽しかった場所。

この美術館はやっぱり写真が撮れるというのが良くて、ひとりではなく誰かと来たのならたくさん写真を撮ってもらえるだろうなと思った。私も知らないひとの写真を撮ってあげたりしたし、そういう旅先での人とのコミュニケーションが発生している感じがよかった。

 

今回は『「ひとがた」をめぐる造形 / 特別展示:オラファー・エリアソン』という展示を見た。

 

 

チケットの仕組みや かの有名な『スイミング・プール』の地下部に入るための事前予約の仕組みが難しすぎて前日の夜ホテルで格闘した。

いくつかの展示があり、その中で自分が観たい展示のチケットを買う、そのチケットによりけり『スイミング・プール』の地下部に入れたり入れなかったりするし、全部が全部WEBでチケットを買えるわけではない、という仕組みなんだけど、公式サイトの情報が分散されていてまとまっていなかったこともあり、私にとってはすごく難しかった。

 

カラー・アクティヴィティ・ハウス

色彩がうつくしい

スイミング・プール

「ひとがた」をめぐる造形

アニメっぽくて馴染みやすい。

テラコッタでできており、肌の質感、衣服の質感が伝わってくるような作品だった。

 

特別展示:オラファー・エリアソン 《太陽の中心への探査》

これが一番見たかった展示。一生見ていられると思った。

とにかく美しかった。どこの角度から見ても美しい。

 

全体的な感想

金沢という街について

金沢、観光地としてよく知られているけれど、観光地ビジネスのためにそこに住む人を疎かにしている感じがあまりなく、金沢で働く人だけでなく、金沢で生活する人たちも観光客に優しくしようみたいな意識があるような感じがしてとてもよかった。

 

具体的には、「〇〇へ行きますか?」と行き先を尋ねられたバスの運転手さんが「行きますよ」と一言で返すだけじゃなくて、「△△を経由して〇〇へ行きますので大丈夫ですよ」というような返し方をしていて素晴らしいなと思った。

乗車中のアナウンスも、「このバスは1日フリー乗車券使えます」「Suicaは使えないです」「整理券があなたが乗った起点を示すものですので乗車時には整理券を取ってください」などたくさん声かけをしてくださっていた。

あと、金沢駅のバスターミナルでは、バスがいつ頃到着するか、現状どれくらい遅延しているか、ここへ行きたい場合は何番乗り場に行けばいいか、を逐一アナウンスしてくださっている方がいて、それが本当に感動した点だった。

また、金沢で生活をしている地元民らしい方がバスを先に乗るよう親切に譲ってくれたりして、21世紀美術館のチケット購入の複雑性も細かくアナウンスしている人がいたし、いちいち親切でなんだかほっこりした。嬉しかった。

初めて訪れた場所で知らない人に優しくされることで癒されるものがあった。

 

普通、というか、観光地化して随分経つと観光客にも観光地ビジネスにもうんざりして案内が雑になったりしそうなものだけれど、そういうのがなくて、新鮮だったし嬉しかった。

 

九谷焼のお店の若い店員さんも親切だった。そして、TwitterInstagramといったSNSを大活用しててすばらしかった。

 

あと、金沢はベンチがたくさんあってよかった。

金沢はメチャクチャ暑くて、炎天下の中2日間も10km以上歩いて足が限界のときに何度もベンチで休ませてもらった。東京ほどべたべたするような湿度というわけじゃないけど、熱がこもるような感じの暑さだった。

 

バスについて

金沢はすごいバスが発達していて、どこへ行くにもバスに乗った。金沢市内の周遊バスもたくさん出ているし、本数も多いので、お盆と言えどもそこまで混雑している印象は受けなかった。

 

私はバスに乗り慣れていないので、事前に整理券や支払いの方法等、乗り方をめちゃくちゃ調べた。あと、JR系列ではない北陸鉄道バス等のバスはSuicaが使えないので、小銭の用意をしておく必要があった。普段現金を使わない生活をしているので、これが地味に大変だったな。金沢市内は周遊バスのフリー乗車券を活用したけれど、いしかわ動物園は市外のためフリー乗車券が使えず、840円×2(往復分)を用意する必要があって現金で払いまくっておつりで小銭をもらいまくった。

 

あと、生まれてから今まで一度もバスの両替機を使ったことがなくて、今回初めて両替機を使った。今まで使ったことがなかったのは、両替するタイミングが、体育の授業でやった大縄に入るタイミングと同じくらい分からなくて難しくて緊張して怖くて近寄れなかったからでした。

「走行中の両替は危ないからバスが止まってから両替してください」とアナウンスをしているものの、赤信号でバスが止まっている時間がどれくらいだか分からないし、降りるときになって両替を始めると他の人を待たせたり邪魔することになるから落ち着かないし……。だから、とにかく両替機を使わないで済むように小銭を用意して、バスに乗った瞬間から小銭を握りしめ終点に着くのをひたすら待っていました。が、始発駅から乗り、出発までしばらく時間があるときにそっと席を立ち、初めて両替をすることができた、初めての経験……。私でも両替できた……。

 

今まで見かけたことのある両替機って、大抵千円札を100円玉10枚にするような両替機ばかりで、100円玉を10円玉10枚にしてくれる両替機を見かけたことがなかったので「バスの両替機では、100円玉を10円玉にすることができますか?」といった知恵袋を見ていたところ「それを両替と言うのですが」といった、冷たい書き込み(質問の回答にすらなっていない)を見かけてウワ~~~と思った。(金沢関係ない話)

 

 

 

既婚者のひとり旅について

パートナーは一週間以上の夏休み、私は4連休という中でそれぞれ好きなところへひとり旅をした。案外よかった。

パートナーとそれぞれの旅行の様子をLINEで共有できるのが楽しかった。

これまでパートナーとの旅行となるとホテルやレンタカーの予約、計画をすべてパートナーが先回りしてやってくれていたので、今回のひとり旅に際して自らホテルを予約し計画を練るという自分の頭を使って旅行ができたというのもよかった。パートナーにおまかせしていたけれど、私だって予約や計画をする能力はあるんだぞ!と自分に成功体験を感じてもらえた気がする。

 

結婚してしまうとひとりの時間が取れなくてしんどいと思うときもあるけれど、いざひとりになるとそれはそれで寂しい。でも、結婚してからでもひとりで旅行できるというのが経験として分かってよかった。