『コーダ あいのうた』を観た

『コーダ あいのうた』を観た。

 

今年『パワー・オブ・ザ・ドッグ』に勝つ形でアカデミー賞作品賞を受賞した映画。Apple 配給の、初めての配信業者が作品賞を受賞した映画。

 

簡単に(乱暴に)言ってしまえば、主人公ルビーは、自分以外の家族が全員ろうあ者のヤングケアラー。ルビーは歌うことが好きで、才能もある。歌うために大学へ進学するか、家族のために大学進学を諦めるか、という物語。

 

一昨日映画館で観たらあまりにも自分の過去と重なるものがあり、嗚咽し、目を真っ赤にして帰ってきた。別に私の家族にはろうあ者がいるわけではない。彼女が大好きな歌も、仕事である漁も私はやっていない。要素的には何も重なる部分がないのに、私が地元に置いてきたあらゆる地獄が、主人公の生きる町には確かに存在していて、結局何も解決しないまま生きていく様子をまざまざと見せられて息をするのが本当に苦しかった。

 

ルビーは夜中の3時に起きて漁に行き、そのあと学校へ行く。学校ではクラスメートから、ろうあ者の家族であることを笑われる。学校が終わると港へ行き、家族と家族以外のひとを繋ぐ通訳者として働きながら、歌のレッスンに通い、眠る。

 

本当に何も解決していない映画だと思う。

 

学校でクラスメートから笑われることも、自分以外の家族だけで漁に出た場合、無線を受け取っても耳が聞こえないため気づけないこと。ろうあ者であること、障害があることから獲った魚を安く買いたたかれること、それに伴いお金がなく貧しいこと。大学進学しても奨学金で生活が賄えるか分からないこと。主人公が大学進学すると家族の通訳者としてヤングケアラーや搾取されるひとが再生産される可能性があること(お金がないから通訳を雇うようなお金がない)。

 

本当に、何も解決していない。

それに、誰も家族のために理解を示したり変わってくれやしない。

クラスメートがろうあ者とその家族に理解を示すこともなければ、漁師仲間が気を遣って手話で話してくれることなんかない。夜中3時に起きて学校へ行き仕事をしながら歌のレッスンに行くためにはどうしても遅刻してしまうときがあることを、歌の先生は理解してくれないし、慰めてくれるひとなんて誰もいない。

唯一マイルズの存在が救いになっていたけれど、彼は無邪気に「きみの家族は仲が良くて羨ましい」と言葉をかけてくる。ルビーの事情なんて何も知らないくせに。彼には彼の地獄がある。けれどマイルズの言葉すら鈍い痛みとなって残る。

 

現実ってそういうもの。何も解決しないまま進んでいく。時が経てば自然と解決することなんか何もない。過去の悲しみで痛みや傷がまだ治っていないのに次々と地獄が押し寄せてくる。いま目の前に広がる地獄があってもそれでも生きていくしかない。

 

加えて、母親からは「私たちが耳が聞こえないからあなたは歌をやるのね。もし私たちが目が見えなかったらあなたは絵を描いていたわ」と言われるような生活。主人公はただただ歌うこと、音楽が心の支えなのに、それすら家族に理解してもらえない。家族は耳が聞こえないから理解できなくて仕方がない……本当にそうだろうか?仕方がないと諦めるしかないのか?そんなことない、そんなことないはずと自分の意思を絶えず言葉にして伝え続けるルビーの強さがたまらなく愛しかった。

 


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終盤に主人公が歌う『Both Sides Now』という曲。

日本語では『青春の光と影』と訳される。

 

この、風景が目に浮かぶ歌詞とまっすぐな歌声を前に泣かずにいられない。

彼女の青春に影を落としていたもの。

誰が悪いというわけでもない、もちろん彼女が悪いわけでもない。

仕組みで解決できることもたくさんあるだろうけれど、それ以上に彼女が知らずのうちに背負った、背負わされた家族の重さ。愛の重さでも、負担の重さとも違う、10代の少女が背負うには厳しすぎる現実の重さ。

彼女には彼女の人生があり、家族にだってそれぞれ人生があるはずなのに、共に生きるうちにその境界線がどんどん薄まって、いつの間にか同化してしまいそうになる。

どんどん腕をつかまれて引き込まれてしまう。自分の道を進みたいのに進めない、「助けて」とも叫べない。叫んでも声が届かない。

 

立ち止まって一瞬、自分の人生、本当にやりたいことは何かを考える。

歌いたい。言葉で表せられないほど、歌うことが自分の一部になっている。

誰のために歌うというわけではない、自分のために、ただ自分のために歌いたい。

そういうことをこのシーンを見ながら感じた。

 

何も解決してなくても、そばにだれか一人いるだけで救われることがある。

現実から目を背けているわけではなく、逃げているわけでもなく、自分が二本足でかろうじて立てるくらいの、ほんの些細なことでも本人にとっては大きな救いになることがあるよなあと思う。

 

私は学校でいじめられたことがあるし、ゴミ屋敷の実家では両親が怒鳴り合っているのが日常茶飯事だった。4畳もないであろう自室は普通に虫が湧くような部屋で、身体は常にかゆくアトピーは悪化し肌はボロボロだった。それによりいじめも悪化した。バレエに行けば親の代わりに私が謝り、親にだけ話したことが一瞬で他人に広まるような息苦しい田舎。

お小遣い制度も無いに等しく、自分で何かを選び取る、そういう自由が本当になかった。「これが欲しい」と親にねだれば買ってくれるけれど、私が欲しかったのはそういうものではなかった。自分で選びたい、自分の意思で決めたい、と切望していた。間違ったもの、不必要なものを選んだとしてもそれすら経験にしたかった。でも、できなかった。

大学生になり、マッチングアプリと出会い系サイトで不特定多数の男性に若さを消費されながらも、若い女というだけで優しくしてくれるひとがいること。大事にしてくれるひとがいること。家に帰らないためにそういうことをやっていた。あのときの私に会ってくれたひと全員に感謝している。私の人生に関わってくれて本当にありがとうと思っている。

別にそれで何かが解決したわけじゃないけれどやり過ごすことはできた。

やり過ごして、蓋をして、家を出て、就職して自分の金で生きていくんだと思い続けた。

そういう過去を映画を観て全部思い出した。いきなり胸ぐら掴まれて、捨てた記憶と大嫌いな地元の人たちを無理やり思い出させられた。

 

正直観る前はありきたりな青春群像劇だろうとナメていて、パートナーと週末に銀座でご飯を食べて映画デートしようくらいの軽い気持ちだったのに、映画観ている間中ずっと歯食いしばってないと倒れそうだった。

 

一見ハッピーエンドでライトな青春群像劇に見えるけれども全然違っていて、「おちこんだりもしたけれど、私はげんきです」(魔女宅のキャッチコピー)みたいな感じでもなくて、さわやかな潮の香る海沿いの青春の話でもなく、もうただの地獄、ああ私はこれが嫌で嫌で仕方がなくて地元を出たんだった、私は私の二本足で生きていくことを決めたんだったと思い出させる映画だった。

 

終盤に、着たくなかったら着なくていいわよとコンサート用のドレスを母親が持ってくるシーンがある。そのときに母親が言う。

「あなたを産んだとき、耳が聞こえなければいいなと願った。けれどあなたは耳が聞こえると知り、理解し合えないような気がした。子育てに失敗するかもと思った」

つらい。「耳が聞こえる聞こえないの問題じゃない」と返すルビー。そのあと母親に膝枕で頭を撫でてもらうあのシーンが、仲睦まじいように見えるけれども私としては物凄くしんどくて、狂いそうだった。

 

映画を観ていて、今すぐそこから逃げなさいとルビーに叫びたい気持ちになったり、家族に甘えたり縋りったりわがままを言って通したい気持ちになったり、でもなんかこのつらさやしんどさを分かるひとと分からないひとがいるのだろうという絶望を感じたり、色々だった。

 

ストーリーとしてはありきたりで、驚くような展開はない。手話をしながら歌うシーンがあるだろうな、耳が聞こえない側の家族目線のシーンもあるだろうな、と容易に予測できる。それでも刺さるものがあったし観てよかった。

 

自分の過去があるからこそ嗚咽するほど泣いたんだろうし、こういうひとつひとつの経験が糧になっていくんだと思う。観てよかった。過去の自分は頑張っていたよねと褒めてあげたい、認めてあげたい、あのとき死ななくてよかったねと抱きしめてあげたい。今このタイミングで観られてよかった。

 

自立した人間になりたい

実家にいた頃、母に「ホットケーキ作りたい!」と言ったところ、台所にはホットーケーキミックスに加え、計量された牛乳とバター、すでに割られた卵と、ホットケーキを作るために必要なボウル、フライパン、お皿などすべてが用意されていたことがある。

 

21歳のときの出来事です。

 

当時すでにアルバイトをしていてホットケーキの材料を買うくらいの財力はあったし、材料を用意してほしいと頼んですらいない。ただ、私の実家はゴミ屋敷なので、台所には一人、せいぜい二人しか立てず、母が台所を使わないタイミングで、ひとりのびのびと台所を使いたい、そういった意味で「ホットケーキ作りたい!(だから私が台所を使っていいタイミングを教えてほしい。)」と言ったんだと思う。言葉足らずだったと思う。

 

家がゴミ屋敷のため人間が立つスペースが限られていることや、台所という場所は専業主婦の母の領域であるという認識だったため、当時は全くと言っていいほど料理をしたことがなかった。そういった状態の中、21歳にもなって、たかだかホットケーキごときで、「はい、どうぞ」と言わんばかりの(すべての材料を計量し、調理器具まで用意された)台所の光景を見て、私は本当に悲しくて腹立たしくて、母に対して泣いて泣いて怒った。

 

 

母は私のためを思って材料や調理器具を用意してくれたんだろうけど、21歳にもなってこんなことをしてもらっているのがものすごく恥ずかしかったし、私にはできないと思われているような、ナメられているような感じがしてすごく悔しかった。

 

私は、材料を買い、牛乳を計量し、慣れない台所で調理器具を探すところからやりたかった(ゴミ屋敷の整理されていない棚からがらがらと色々調理器具が崩れ落ちてくるとしても)。生地を作り、焼いた末に半生でもコゲコゲでもそれすら経験にしたかった。準備や失敗まで含めた一連の体験をしたかったのに、母は大事な娘が転ばないように先回りして石を拾ってくれるようなひとだった。

 

ホットケーキなんか母の許可なく作ればいいだろうと思うひともいるだろうけれど、実家では「テレビつけていい?」「エアコンつけていい?」とすべて許可を取りながら生きてきたので、まあ、察してください。

 

そういったいきさつがあり、一人暮らしを始めたときの嬉しさと感動はひとしおだった。裕福でないにしろ、誰の許可もなく自由に生活ができること。下手でも要領が悪くても時間を気にせず料理がひとりでのびのびとできること。自分で稼いだ金で生きられる嬉しさ。

 

 

これは2014年のツイートで、つまり20歳のときのこと。

最近は少しずつ変わってきてはいるけれど、パートナーに対しても「それ言われてつらかった」と自分のつらさを主張しても、言葉が届かなくてつらい思いをしていた。人生同じことを繰り返してばかり。でも、ときどき変化が訪れるときもある。しんどいけれど、絶えず他人とコミュニケーションをやっていくしかない。

 

***

 

結婚して、また実家にいたころのような自分に戻っているような気がする。

 

旅行の計画ひとつにしても、パートナーが先回りして全部旅行の予定を決めてくれる。行く場所も、ホテルも、レンタカーの手配も何もかも全部。

 

 

今回のゴールデンウィークは浜松~伊勢・鳥羽~松本へ旅行に行った。

何度も「私は何もしてないから」と口にした。旅行の計画・予約から、車の運転まですべてパートナーがやってくれて、私は本当にただついていくだけ。何も貢献できていない、ただ行きたいところに連れていってもらって、助手席でおしゃべりするだけ。

 

パートナーは「このホテル予約しておいたよ~、もし支障がある場合はあとでキャンセルすればいいから」とわりと私に相談なくパパッと予約をして事後報告をしてくる。

そういうことの積み重ねで、旅行の日が近づくまでほとんど旅行の日程を把握していないケースがある。パートナーから口頭では都度どこの何を予約したと共有はされているけれど、その全貌が私には見えないため(パートナーの頭の中にはイメージがしっかりある)、旅行が近づいてやっとノートに書き起こして整理して、そのときに初めて私の理解が追い付くことがたびたびある。

 

本当はもっと良いホテルに泊まりたいと思っていたり、別に温泉はついてなくてもいいと思っているけれど、温泉好きなパートナーが予約をしてくれているから何も言えない。去年パートナーが仕事をいきなり辞め年収が格段に下がったこともあり、値が張るような要望も出しづらい。そしてその値段が高い理由が目に見えないサービスのケースが特に難しい。本当は星野リゾート的な、宿泊先にもお金をかけて心を癒したいと思うけれど、いつもドーミーインとかルートインとかになりがちである。

 

それでいい、相手に任せて甘えてしまったほうが楽だと頭では分かっていながらも、それでも自分の無力さや役に立たない感覚が身を刺すようにつらい。

 

 

あまりに私が計画フェーズに参加していないために、なかなか旅行自体に興味を持てないし、覚えてもいられない。どういう思いでこのホテルを予約したのかとか、どんな道路で行くとか、何時に出発するとか、そういうものを全く理解できないのが悲しい。理解したい。全部やってくれてありがたいけどしんどい。

パートナーが悪いという話ではなく、私の旅行に対するエンジンがかかり始めるのが遅かったり、もっとグイグイ計画に割り込んでいけばいいだけなのに、面倒くさくてパートナーが決めてくれたものをわざわざ覆す気にもならない。

 

 

私としては、パートナーと相談しながら予定を立てていきたい。どこのホテルに泊まるか、どこに行き何を食べ、どんな観光をするか、そういうことを考えている時間を楽しみたい。計画フェーズから参画したい。中途半端に参画するとそれはそれで揉めるので、やるなら休日に時間を取って取り組みたい。(まじめ)

 

この話をパートナーにしたところ、「あとでキャンセルすればいいからと全部予約するのはやめる、予約する前に相談するね」と話していた。事後報告が事前報告になっただけでは意味がなく、そうじゃなくて一緒に探すところからやりたいんだけど…と、絶秒に意図が伝わっていない気もする。また次の旅行の計画のときにちゃんと話す必要がある…。

 

↓浜松で食べたうなぎ。(つらい話が続くので、食べ物の写真ででほっこりしたい意図があります)

 

 

旅行だけではない。料理に関しても同様で、稀にパートナーと一緒に料理をしようというときも、ほとんどパートナーがすべてやってくれる。(基本的にお互いばらばらにご飯を用意して食べる生活をしているが稀に一緒のときもある)

 

 

aknynk.hatenablog.com

 

この記事にも書いたけれど、「お前の米は古いから虫が湧いていると思う」「今までおまえが作ってきたご飯はおいしくなかった」「おまえはおいしくしようとする努力をしていない」みたいなことを散々言われてきたので、その言葉を思い出して怖くて足がすくむ。同時に、パートナーに全部任せて私は何もしてあげられない、無力だ、みたいな感情で病む。

 

以前一緒に料理をしようということになり、麻婆豆腐を作ったこともあるけれど、それもパートナーがお膳立てしてくれていた。パートナーが材料を買ってきてくれて、パートナーが豆腐を切ってくれ、私が肉と豆腐を炒めていた。なんか違う。一緒に料理ってそういうことじゃない。

パートナーは、私の「一緒に料理をしたい」という欲望を満たすために動いてくれたに過ぎない。そうじゃない、そうじゃないんだよ……。

 

我々夫婦は一緒に何かをしようとすると揉めるので、相手に任せて口出ししないほうが平和に行く気もしており、なかなか難しい。パートナーからこれまで言われてきた言葉の数々も足枷になっており、都度怖くなる。

 

お膳立て(材料の用意とか、旅行全部予約済とか)はされたくない、けれど、これまで言われてきたこと、やられてきたことの数々が思い出されて怖い。

結果、病む!!!!!

 

  • 料理関連
    • 「お前の米は古いから虫が湧いていると思う」→料理するの怖い
    • 「今までおまえが作ってきたご飯はおいしくなかった」→料理するの怖い
    • 「おまえはおいしくしようとする努力をしていない」→料理するの怖い
    • 「おまえが皿洗いすると汚れが残ってる」→なるべくパートナーの皿洗いはしない。するときは一度洗ったあと目視で確認し、必要に応じて二度・三度洗う→食洗器があればいいのにな→「食洗器を買ってもおれは手洗いを続ける」→食洗器ほしいけど、怖くて買う決断ができない
  • 旅行関連
    • 私が事前に計画したルートをパートナーに伝えておいたにも関わらず、当日知り合ったレンタサイクルのおっちゃんが教えてくれたルートを採用される→普通に悲しい。しかも特に合理性とか効率性とか理由がなかった。おっちゃんのルートの方が行きやすい、とか理由があれば全然納得できた。

 

一人暮らしをしていたころ、結婚をする前は、友人との旅行や食事の予定は私が率先して探して予約をしていた。そういった能力はあるのに、現状できていないのがもどかしい。どんどん能力がなくなっていく気がして怖い。

 

そして、これまで言われてきた言葉の数々に足がすくみ、何もかもパートナー任せになり、パートナーに依存するような状況になっているのがとてもつらい。最終的に自分じゃ何もできなくなり、何も決められなくなり、脳死状態になってしまう気がする。

 

ついにパートナーに貢献できることが金銭面だけになる(転職して給与がバカみたいに増えた)。そういった状態が続いていくと、「誰の金で生きてると思ってるんだ!?」という父のようなモンスターに私もなってしまうような気がして怖い。

モンスターはこうやってできあがるんだとやっとイメージができた。金でしか威張れない、金でしか頼られない、だからそういう発言が出てくる、かわいそうな生き物。

 

どうしたらいいんだ~~~~!!!

 

相手に任せて甘えるというのもある種の自立だと思う。相手に任せたくせに、自分の無力さに不安になってしまうようじゃまだまだ甘え能力が足らんと思う。

パートナーから言われた言葉に縛られずに、自由に動きたい。思い出したくない。

もう少しお膳立てされないような工夫をしたい。どうしたらいいか分からないけれど。

お膳立てされる前に何か自分から先手を打てればいいのだけれど。

MicrosoftのFundamentals試験(AZ-900/PL-900/AI-900/SC-900/DP-900)に合格した話

 

いきなりタイトルの主旨から脱線して恐縮ですが、私はパンが好きです。
自分で焼くのも、パン屋さんに行くのも好きです。

今回の話は、様々な街のパン屋さんに行きたくて、そのついでにテストセンターで試験を受けたらなんか合格できました、という話です。

決して資格を取得して今後仕事に役立てよう!Azureゴリゴリ使っていくぜ!みたいな最もらしい理由は全くなく、ただ無料で試験受けられるし、様々な街に行き(私は知らない街でひたすら散歩するのも好き)、テストセンターを見に行こう、そしてパンを買いにいこうという適当なノリでやっています。

 

自宅受験もできるけど、あえて電車賃と移動時間をかけてテストセンターへ行き、その後習い事のバレエへ行くというのを定期的にやっていました。

 

結果として受かったのは以下の5つ。
どうしてこの5つかというと無料で受験できるからです。
今のところ無料で受験できるMSの試験はすべて合格したはず、多分…。

  • Microsoft Azure Fundamentals(AZ-900)
  • Power Platform Fundamentals (PL-900)
  • Azure AI Fundamentals (AI-900)
  • Security, Compliance, and Identity Fundamentals (SC-900)
  • Azure Data Fundamentals (DP-900)

 

AZ-900については以前の記事。このときはちゃんと勉強していた模様。

aknynk.hatenablog.com

 

 

概要


各試験の概要は各自で調べてください。

試験 AZ-900: Microsoft Azure Fundamentals - Learn | Microsoft Docs

試験 PL-900: Microsoft Power Platform 基礎 - Learn | Microsoft Docs

試験 AI-900: Microsoft Azure AI Fundamentals - Learn | Microsoft Docs

試験 SC-900: Microsoft セキュリティ、コンプライアンス、ID の基礎 - Learn | Microsoft Docs

試験 DP-900: Microsoft Azure Data Fundamentals - Learn | Microsoft Docs


MSのバウチャー付きのVirtual Training Daysに申し込んでバウチャーをもらっておく。

www.microsoft.com

 

結果


合格ラインはすべて70% (700/1000点)です。
AZ-900が一番点数低かった。謎にDP-900だけ9割取れてた。

試験 受験日 点数
Microsoft Azure Fundamentals(AZ-900) 2021/4/30 745
Power Platform Fundamentals (PL-900) 2022/2/12 793
Azure AI Fundamentals (AI-900) 2022/2/26 880
Security, Compliance, and Identity Fundamentals (SC-900) 2022/3/19 828
Azure Data Fundamentals (DP-900) 2022/4/16 921

 

勉強方法

AZ-900以外は勉強時間は3~4日くらい。1日1時間も勉強してないと思う。
それくらい超簡単試験なのでわざわざ記事にするのを躊躇しています…。

AZ-900の勉強方法はここに書きました。

AZ-900以外の勉強内容。
まずは試験を申し込む。とにかく試験を申し込まないと重い腰があがらないタイプなので、申込試験を突破することが大事。

次に、あまり堂々と言えたものではないけれどexamtopics を使って暗記する。
無料で解ける範囲の問題を合計4周くらいやる。試験の3~4日前くらいから勉強始めて、1日1回1周する。
英文での問題しかないけどGoogle 翻訳を使えば何の問題もないです。
正答率は9~10割くらいの精度にしておく。当日は全然知らない問題も出てくるので、合格ラインの7割より上の点数を取れるようにしておいたほうが無難。

何回も間違えるところはMicrosoft Learn(上記概要のリンク先)を使ってイメージを掴む。
それだけ。

個人的には、AZ-900から勉強したほうがいいように思う。
というのも、ほかの4つの試験でもAzureのRBACやポリシーに関する問題や、BLOBやFile等を使うためにはまずストレージアカウントが必要だよね、みたいな前提の問題が結構出題されたため。


結局まだ受験してないけど、Microsoft Azure Administrator (AZ-104)というAZ-900のひとつ上(?)のランクの試験の勉強もしていたので、そういった知識も活用されていたような感じがする。
AZ-900がAWSのCloud Practitionerなら、AZ-104はAWS Solutions Architect Associateなイメージをしている。

 

最後に


パン屋さんに行くというのがメインの目的ではあったけれど、それとは別に、尊敬している方がバリバリ子育てしている中で、キャリアチェンジをする形でMSに転職して色々試験を受けているのを見て少し刺激されたというのもあり、また、私自身も転職して新しい会社で落ち着いてきたこともあり、人生の暇つぶしとしてやっていた取り組みの一つでした。

 

 

また人生の暇つぶしを探さなくてはならない…。
おすすめ暇つぶし情報をお待ちしています。

嬉しいはずなのに つらい

 

これまでパートナーから「おれはそんなことで傷つかない」「おれそんなに悪いことした?」と散々言われてきたけれど、そういった発言が精神的な暴力にあたること、他人の悲しみや傷つきをそういった言葉で軽んじることは二重の加害であることをようやくパートナー自身が気づいてくれた、ということをこの前書いた。

 

 

この記事では省略していたけれど、「お前の米は古いから虫が湧いていると思う」と言われたときに、併せて「今までおまえが作ってきたご飯はおいしくなかった」「おまえはおいしくしようとする努力をしていない」と言われていた。

 

今日書くのは、加害性に気づいたパートナーが話を聞いてくれ寄り添ってくれるようになって嬉しいはずなのに、過去のパートナーによる暴力的な発言は私の心に刺さったままなので、感情がグチャグチャになってつらい、という話です。

 

✳︎✳︎✳︎

 

私はこれまでパートナーのためにご飯を作ってあげたい、という感情をずっと持っていて、でも、パートナーは「頼まれてないのに勝手に飯を作って食べてほしいと相手に期待するのは傲慢であり、『食べる?』と聞いたときに『要らない』と言われてもおれは全然傷つかない」と言うので、作ってあげたいなあ、おいしいと言ってもらいたいなあと思いながらも、要らないと言われるのが怖くて、ほとんどパートナーに対してご飯は作らないようにしてきた。

 

パートナーは『要らない』と言われても傷つかないタイプの人間なので、「『要らない』と言われるのが怖い」という感情は持ち合わせていない。そういう怖さや躊躇いを感じないで無邪気に料理を作るパートナーを、私は羨ましく思っていた。

 

このあと、「今までおまえが作ってきたご飯はおいしくなかった」「おまえはおいしくしようとする努力をしていない」と言われたことによって、パートナーに食べてもらうかどうかに関わらず、料理をするたびにこの発言を思い出し、つらくなるようになってしまった。

 

先に書いたように、パートナーはこれまで精神的な暴力を振るってきたということや、二重の加害をしてきたことにようやく気づいてくれて、そのこと自身は本当によかったと思っている。

最近のパートナーは私の話を聞いてくれ、寄り添ってくれるようになった。優しく接してくれるようになった。つらさを受け止めてくれるようになった。

 

今日は、ガパオライス、かぼちゃのサラダ、きゅうりの浅漬け、大葉とミョウガしらすの味噌和えを作っていて、料理ができたときには、いい匂いだねえ、おいしそうだねえとパートナーに言われた。

 

「今までおまえが作ってきたご飯はおいしくなかった」

「おまえはおいしくしようとする努力をしていない」

 

作っているときには過去の発言を思い出してつらくなっていて、私がどんなにおいしくなるよう努力をしていても、私自身おいしいと思って食べていても、他人にとっては努力をしていないことになるし、結果としておいしくないものができあがる。

 

そんな他人の評価など、パートナーの感覚などどうでもいい、私がおいしいと思えばそれでいいじゃないかと頭では分かっているのに、

 

いい匂いだねえ、おいしそうだねえとパートナーに言われたとき、頼むから料理を見ないで、と思った。

恥ずかしくて、惨めな気持ちだった。

 

別にパートナーは気を遣っていい匂いだねえ、おいしそうだねえと言ったわけじゃない。

 

だからこそ恥ずかしくて惨めな気持ちになる。

 

おいしくないとパートナーが言ったことは事実で、いい匂いだなあと言ってくれたことも事実。

いい匂いでおいしそうであっても、おいしくない、ということは全く矛盾なく両立する。

 

結局自分の気持ちの問題でしかない。

 

あんなに話を聞いてほしい、寄り添ってほしいと、喉から手が出るほど切望していたはずなのに、いざ話を聞いてくれ、寄り添ってくれるようになると、感情がグチャグチャになってしまう。

 

今までだったら「おれそんな悪いことした?」「同じことされてもおれは傷つかない」と言われ続け、どんなに言葉を尽くしても届かなかった思いが、今は届いてしまう。

話を聞いてくれている、寄り添ってくれている。

 

結局自分の気持ちの問題でしかない。

 

私の料理に対して気を遣ってコメントをしてほしいわけでも、コメントを控えてほしいわけでも、料理を見てほしいわけでも見てほしくないけでもない。好きにしてくれて構わない。

 

ただ、過去にパートナーに言われた言葉をまだうまく自分の中で昇華できていなくて、優しくなったパートナーの態度も受け入れる方法がよく分かっていない。

 

急に優しくされるとどうすればいいのか分からなくて困る。どう処理したらいいのか分からない。どうすれば恥ずかしくて惨めな気持ちにならなくて済むのか、パートナーの過去の暴力的な発言と、今の話を聞いてくれる姿勢の折り合いをどうつければいいのか分からない。

つらい。嬉しいはずなのにつらい。

私のつらさを「大したことない」と軽視しないで

結婚して一年半、たびたびパートナーと喧嘩をしてきた。

 

 

「おれそんなに悪いことした?」

「なんでそんな些細なことで怒るの?」

「おれは同じことされてもそんなことでは傷つかない」

 

いつも言われる。この言葉にすごく傷ついてしまう自分がいる。傷ついたり悲しかったりした出来事そのものよりも、この私のつらさを軽視するような言葉にとてつもなく傷ついてしまう。

 

これまで何度もつらさや悲しみ、痛みに寄り添ってほしい、共感してほしい、と話しても理解してくれなかった。私がつらさを話すと「おれだってつらい!」と言ってきて、私のつらさに彼のつらさをぶつけてチャラにしようとしてきた。

 

つらさにつらさをぶつけてもチャラにはならないんだよ。

共感することと同感は違うんだよ、とAlan-sanとSakura-sanの動画を見せてもあまり響かなかった。

 


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このまえも些細なことで喧嘩をした。

 

 

話の流れで(?)、なぜか「お前の米は古いから虫が湧いていると思う」と言われた。

※パートナーと私それぞれのお米があるため、"お前の米"という表現をしています。

 

私はこれまでパートナーのためにご飯を作ってもらいたい、という感情をずっと持っていて、でも、パートナーは「頼まれてないのに勝手に飯を作って食べてほしいと相手に期待するのは傲慢であり、『食べる?』と聞いたときに『要らない』と言われてもおれは全然傷つかない」と言うので、作ってあげたいなあ、おいしいと言ってもらいたいなあと思いながらも、要らないと言われるのが怖くて、ほとんどパートナーに対してご飯は作らないようにしてきた。

 

一方で、パートナーは私にご飯を作ってくれることがあり、私は断らずに食べるし、おいしいと言うようにしてきた(事実おいしかった)。

 

 

今まで私が作ってきたご飯はおいしくなかったと言われたのはショックだけど、仕方がないことだと思った。私に料理の腕が無いのがいけないのだから仕方がない。

ただ、「お前の米は古いから虫が湧いていると思う」と言ってくるようなひとにご飯など作りたくない。「作ってあげたいなあ、おいしいと言ってもらいたいなあ」という感情から、「もうあなたにご飯は作りたくない」という感情に変わった。

 

 

泣きながら布団に潜り込み、聞いていたラジオでこの言葉を聞いて、ああ分かるなあ~と思った。私は一人で生きていく能力も財力もあるのになんでパートナーとの結婚生活をずっと続けているのだろう。何度も何度も同じような喧嘩をして、何度も何度も「おれそんなに悪いことした?」「おれはそんなことで傷つかない」と言われてきて、それでも結婚生活を続ける意味ってなんだろう。結婚というステータスがなくなること、一人身になる寂しさ。そういう不安に耐えられないから、不幸を選んでいる。選び続けている。

 

そして、「そんなこと言われたらもう何も言えなくなっちゃうよ」というマイクロアグレッション的な物言い(言葉としては差別に関する用語らしい)も結構つらい。

 

一回目の話し合いのとき、「言わないと気づかない、いちいち言わなければ、気づいてもらえないことにうんざりしている」といった話をした。

例えば、レストランに行って「こちらへどうぞ」と店員さんに促されても彼は気づかずに、案内されたところとは全く別の席に座ったりする。(店員さんは困り、私は代わりに謝っている)

パン屋さんに行って「袋詰めしましょうか?」とレジで声をかけられたのを断り、トレイを持ってそのままどこかへ行こうとし、店員さんから「ここで詰めてください」と言われたりすること。

そういうことの積み重ねがつらいのだと話したら、「それが何なの?」と言われてびっくりした。店員さんを困らせたくないし、私だって謝りたくないのですが……。

でも、パートナーにとっては、「店員に案内された席に絶対に座るべき」「袋詰めはレジでするのが普通、前の人もそのようにやっていたので言わずとも分かる、当然のこと」といったように、私が「~~するべき」、普通・当然、といったことに囚われているように見えるとのこと。

 

私が言いたかったのは、そういうことじゃなくて、あなたの代わりに謝ってつらい、だからそのつらさに寄り添ってほしい、という話だったのに、いつの間にか「それが何なの?」と言われていた。「おれがそんなことに気づいてないんだったら、おれは記憶障害だよ!」とも言われた、が、人間には往々にして気づかないことだってあるだろう。だから、気づかないことは仕方がないけど、代わりに謝ってることを知っておいてね、というただそれだけを言いたかった。察してほしいわけじゃなくて、こちらがいちいち言わなきゃいけないのが結構しんどいのだということを知っておいてほしかった。

 

言葉が届かない絶望を感じる。

 

 

私が何でもかんでも傷つきすぎ、流行りの言葉でいうならHSPとでもいうのだろうか。私がモラハラ気質なだけなのだろうか。弱者仕草をかましている繊細チンピラなのだろうか。機能不全家庭で育ったアダルトチルドレンだからいけないのだろうか。

 

パートナーは、怒鳴ったり興奮しているときや頭の整理がついていないときはひどい言葉も言うけれど、基本的には言えば分かってくれる人間なのだ。そして、私のつらさが分からないなりに、つらさを取り除こうと「別れたほうがいいのでは」と言ってくる。悪意がないことは分かっているし、むしろ優しさからそういう発言になるのだろうということも分かっている。

 

でも、私はパートナーと一緒に生きていきたい。日々を過ごしていきたい。

仲良くしたいだけなのになんでこうも喧嘩ばっかり起きてしまうのだろう。

 

 

nikkan-spa.jp

 

あるとき、えいなかさんという方が書いたこの記事を読んだ。

尊敬するだいすきな方がこの記事をシェアしていたことがきっかけで読んだ。

 

「おれはそんなことで傷つかない」「おれそんなに悪いことした?」と言われることで悲しんだり、怒ったりするのは自然なこと。

つらいことが起きるだけでもつらいのに、そのあとで 「おれそんなに悪いことした?」とつらさを軽視・矮小化されることでさらにつらくなる。つまり二回つらい思いをしているということ。

 

 人は、悪意なく人を傷つけてしまうことがあります。だからこそ、「相手の傷つきから学ぶ」ことで、相手とより良い関係を築いていくきっかけにすることができます。

 

 しかし加害者は「感情的になられても困る」と、相手の感じ方が過剰だという姿勢でこの出来事を捉えています。しかしパートナーの「傷つき」はすでにそこにあるのであって「感情的である」「過剰だ」と考える意味が、ーー少なくともこの2者が愛し合う関係を持ちたいのであればーーありません。

 

 パートナーが悲しんだり怒ったりしているのに「大したことじゃない」「感情的すぎる」と捉えていませんか?

 大切な人が悲しんでいることをそのように軽んじるのは、その人の心に深い傷を付ける二重の加害です。パートナーの悲しみや傷つきを目にしたときに、「この人はどうしてこんなに怒っているのだろう」と目の前の事実について考えることがケアの始まりです。今からでも、いつからでも、愛することは始められます。

 

この記事をパートナーにLINEで送ったら、「自分に当てはまることが多いのでもっとよく読んでみるね」と返信が来て、それだけでも救われる思いになった。

 

つらいことが起きるのは仕方がないし、私も無自覚に他人を傷つけてしまうことはあるけど、でも、そのときに「つらい思いをさせてごめん」「気づかなくてごめん」と言える人間でありたい。言えないまま、自分のことだけを考えて「私はそんなことでは傷つかない、大したことない」と言ってはさらに他人を傷つける加害者になってしまう。

 

二回目の話し合いをした。

最終的には、私の古いお米は捨てて、お米を使いたいときにはパートナーのお米を使わせてもらう、ということで「お前の米は古いから虫が湧いていると思う」の件については話が収まった。

そして、パートナー自身が、「おれの価値観を相手に押し付けて精神的に暴力を振るっていた」と言ってくれて、本当に、やっと、やっと伝わったんだな、と思った。

 

 

 

えいなかさんの記事がなかったら、🕊さんがシェアしてくれなかったら、パートナーは気づいてくれなかっただろうなと思う。

 

 

***

 

3/12(土)の話。

 

パートナーが出かけるというので玄関で見送ろうとしたら、パートナーがBluetoothイヤホンを耳につけていて、それを見て私は悲しくなってしまった。Bluetoothイヤホンは、前々からパートナーが欲しいと言っていて、このまえのクリスマスにプレゼントであげたもの。

 

彼は以前から仕事から帰ってきたときもイヤホンをつけていて、「おかえり~」と私が迎えたときもイヤホンをつけていることには気づいていた。でもそれは仕事の荷物やお買い物をしてきたことで両手が塞がっているなどでイヤホンを外すタイミングがなかったのかなと思っていたからそこまで気にならなかった。

 

試しに「イヤホンつけてるのしょんぼりする」と言ってみたけれど、「音楽聞いてないよ?(聞こえてるよの意)」と返されてさらにしょんぼりした。

 

以前も同じようなことを伝えてみたけれど、「おまえがプレゼントしてくれたんじゃん」と言われて、ああ、私がプレゼントしたのがいけなかったのかと思い込んでつらさを流した。パートナーが欲しいと言うから、喜ぶと思ってプレゼントしたけれど、こんなことを言われるということはプレゼントした私がいけなかったのだ、だから仕方がなかったんだ、と諦めた。

 

それぞれの時間を過ごしているときは別にイヤホンつけていいんだよ。でも、一緒にいるときは、音楽を聞いている・聞いていない、外の音が聞こえる・聞こえないの問題ではなく、イヤホンをつけていることで疎外感を感じること、シャットアウトされているように感じること、話を聞く気がないように感じるし、私はいつも家に入る前にイヤホンを外しているんだよ。ということを話したら、「そうだったのか、気づかなくてごめんね」と言われた。これは、本当にすごいことで、なんかもうそれだけでもメチャクチャ泣いた。

悲しみを受け取ってもらえるだけでこんなに楽なのか。「おれはそんなことで傷つかない」「おれそんなに悪いことした?」と言われないだけで、こんなにも楽なのか。

 

これまでのパートナーであれば「聞こえてるよ?」「おまえがプレゼントしてくれたんじゃん」「そんなことでおれは傷つかない」「おまえだってスマホをいじってておれだってつらい」と言っていたと思う。でも、今回は違った。ちゃんと、つらさや悲しみを受け取ってくれた。軽視しないで、私の声を聞いてくれた。

 

別に改善を強制・強要したいわけじゃなくて、イヤホンを絶対につけるなと言ってるわけじゃなくて、ただ、私が疎外感を感じてつらかったと泣きながら話したときに「感情的にならないで」と言われずに話を聞いてもらえたことが、本当に嬉しかった。怖くなかった。今までみたいな二回目のつらさがなかった。やっと、初めて、このつらさがない。

やっと、一歩前進した気がする。

 

 

・これまで書いたパートナーに関する記事


aknynk.hatenablog.com

aknynk.hatenablog.com

aknynk.hatenablog.com

 

喧嘩のあとの話

先週些細なことで喧嘩をした。

今日は喧嘩についてパートナーと話した。

その記録。

 

Twitter に書こうとしたけどお気持ち長文ツイートで読むひとを不快にさせるな〜と思いブログのほうにシフト……。読みたくないひとは読まないでください。

 

 

私の主張

  1. いつも喧嘩になったときにごめんよりも先に「おれそんなに悪いことした?」と言われる。それが余計に私のつらさに追い打ちをかけること

  2. 「そんなこと言ってない」「そんなことやってない」と言ったことやったことをすっぽり忘れられる。発言は認めた上で 「そういう意図はなかった つい言ってしまった」と言う主張なら理解する。

  3. 感情が制御できなくなるのはいい、私だって制御できなくなるときがある。ただそのときの態度が、店員に対して高圧的になる、大きい音を立ててドアを閉める等だから、喧嘩に関係ない店員や近隣住民まで巻き込んいることを自覚してほしい。私は自分のつらさを整理するために一人になりたいときがある。それをして「あからさまに不機嫌になって」と言われるが、私はそんなにすぐ気持ちを切り替えてニコニコできる人間ではない。一人になって立て直したいときがある。それを知っておいてくれると嬉しい。責めても怒ってもなんでもいいから一人にさせてほしい。(彼は感情の制御が利かないとき「おれはつらさを我慢してるのに、それなのにお前は態度に出している」と思っているとのこと。恐らくこれが"おれだってつらい!"発言に繋がるのだろう。我慢してると言うけど、現状大きい音を出したりと我慢できてるとは私の目には見えないが。)

  4. 上記の3について以前話した際に、「不機嫌な客の対応をするのも仕事のうちだろ」とパートナーは言っていたけれど、仕事以前に、相手は生身の人間である

  5. 「おまえが認めたい多様性しか認めたくないんだな!」と喧嘩の際に言われるがそれはつまり『おれは頑張ってるけどうまくできない、うまくできないおれを認めろ』という主張だと認識している。

  6. 「お互いつらくてお互い様なんだからチャラにしようよ」と言うけど、私はつらさにつらさをぶつけてもチャラになんかならないと思っている。仮にチャラになるんだとしたら、上記5の主張なんか知らねえよってなる。チャラだと主張するくせに「おれのつらさは認めろ」「うまくできないおれを認めろ」というのはおかしい。そうではなくて「こう言われてつらかった、だから今度からこうしてほしい」「今回はここまで頑張れたけど、途中でうまくできなかった」と互いのつらさを話して直していけるのならそれがいい

 

「おれはつらさを我慢してるのに、それなのにお前は態度に出している」と彼が思っていることが分かってなんだか腑に落ちた。だから「おれだってつらい!」発言になるんだね、きっと。別につらさを我慢しろなんて一言も言ってないからつらさは出せばいい、私のいやなところ、許さないところ、嫌いなところ、むかつくところ、全部言えばいい。

 

ただそのときに大きい音を立てて不機嫌な自分を他人に分かってもらおうとしたりするのは赤ちゃんだからやめてほしい。おまえには言葉があるだろう、言語化することを諦めてすぐ大きい音とか出すな、すぐに言語化できないなら距離を置いて一人になって整理する時間をつくろう、整理できたときに冷静に話そう。一人になりたい相手を責めるような真似はしない。それでいい。それでよくないか?

親知らずを抜きまして

初めて親知らずを抜いた。

 

歯の矯正を開始するにあたり、上の親知らずを2本抜く必要があるそうだ。

今日は1本。来週もう1本。

 

親知らずを抜いてもらった帰り道、街を歩いていて、電車に乗っていて、「私は先ほど親知らずを抜いてきましたよ」と心の中で誰かにこっそりとつぶやいていた。

みなさん何食わぬ顔をして歩いていますがそれぞれに事情がおありでしょう。

実は、私、親知らずを抜いたんです、それも初めて。

いつもはその他大勢に埋もれて帰宅する日々、だけど今日は少し違った。

 

どういうわけかは知らないが、歯医者ではロキソニンは5錠しか処方できないらしい。

痛みが悪化しても怖いので、薬局でロキソニンを買い足しておこうとイトーヨーカ堂に行った。

ご時世的にロキソニンを買うというだけで「コロナにかかっているのでは?濃厚接触者なのでは?」と思われてもいやだな~(実際は誰もそんなこと思ってない)と思ったが、店員さんに「今日親知らずを抜きまして……」と話したところ、「もう血は止まってますか?お大事になさってくださいね」と心底心配そうな顔で言われ、世の中には優しいひとがいるもんだな~、ありがとうイトーヨーカ堂、ありがとうイトーヨーカ堂の店員さん、と思った。いつも薬や洗剤などはココカラファインで購入しているが、たまにはイトーヨーカ堂も良いものだ。

 

イトーヨーカ堂ではおかゆとお菓子とオレンジピールのパンも買った。

家に帰ったらすぐロキソニンを飲むよう言われていたが、だらだらとイトーヨーカ堂巡りをしていたために麻酔が切れて歯がずきずきと痛み出して焦った。

 

おかゆ、普通に食べた。たまご粥。

オレンジピールのパン、飲むように食べた。(炭水化物に炭水化物、って言わないで)

プリッツも食べちゃった。

今日の夜ごはんおしまい。

食後に処方された抗生剤も飲んだ。

 

シュウウエムラのクレンジングオイルで化粧を落としているときに、頬越しに違和感を感じた。さっきまでは生えていた歯が一本無い、という違和感。

腫れてきたらいやだな~

 

「今日冷やすのはいいですけど、明日以降は腫れの原因になるから冷やさないでください」と先生から言われたので、まあすごい痛むというわけでもないが保冷剤で冷やしてみる。

明日は雪が降るらしい。今夜の時点で結構冷え込んでいる。冷え込む夜、暖房がきいた部屋、保冷剤で冷やされる頬、おかゆを食べて温かくなっている口内。おかしみを感じる。

 

私の親知らずはどれも奥深くやや斜めになって育っているため、先生は結構苦労していたような気がする。「すごい繊細にやってますのでね」と何回か言われた。繊細にやってくれてありがとう。

 

なんというか、親知らずを抜くということに関してあんまり深く考えておらず、麻酔をすることは認識していたのだが、ものすごいドリル音、ガガガガガ…!!みたいな音にびっくりしてしまった。その時になって初めて「ああ、歯を抜くってこういうことなんだね」と思った。ぐらぐらしてきたな~と思ったらすぐ抜けた。

抜けたら終わりかと思っていたけれど、歯が生えていたところの穴を先生は縫っていた。ススススス…という感じで口の周りを細い糸が当たるのが気持ち悪かった。先生の予告通り痛くはなかった。

 

施術後、家に帰ったらまずはロキソニンを飲むこと、ロキソニンは1回で5時間くらいの効果があるからバンバン飲まなくていいこと、抗生剤は3日分すべて飲みきることで効果があらわれること、歯磨きは親知らずを抜いたところは触らないようにすること、運動や浴槽への入浴など血行が良くなるようなことは控えるよう言われた。

中でもおもしろかったのが、「麺類は控えてください」ということだった。麺をすするときに、親知らずを抜いた傷からできたかさぶたを一緒に吸い込んでしまうから、麺類は控えてくださいと言われた。そんなことがあるのか~~~と、かさぶたと麺を一緒に吸い込む想像をしてウケた。うどんと共にしゅしゅっと吸い込まれるかさぶた……。

 

 

「抜いた歯って……」と受付の方に聞いたら袋に入れて渡してくれた。

今日の目標は抜いた親知らずを持って帰ってくることだったので無事達成。

スマホには「親知らず もらえる もらえない」と検索した履歴が残っている。

受付の方には「たくましい歯ですね~」と言われた。

これまで私の口内にいて良いもの悪いものなんでも噛んでくれていたマイ歯……根本はこんな形をしていたんだね。かわいい。

 

親知らず、どんな人間でも最大4回(4本)しか体験できないことなのかと思うとおもしろい。もうとっくに抜いてしまってそのときの痛みや感覚を忘れてしまっているひともいるだろうし、私みたいに初体験で新鮮な思いのひともいて、未体験のひともいる。

 

来週は抜歯と、腫れが引いているようであればもう一本親知らずを抜く予定。