人身事故現場で人々が「頑張れ」と叫んでいるのを見た

水曜日は定時退社日なので、水曜日である今日はさっさと会社を出ることにした。10月に入ったとはいえまだまだ蒸し暑い日が続く、半袖にカーディガンでちょうどいいくらいの気温の日だった。

 

8月は残業時間が45時間を超え、9月も44.5時間くらいだった。会社員生活3年目、今まで20時間、多くて30時間くらいの残業で毎月凌いでいたのに最近どうも忙しい。それでも今日はまだ18時台なのに電車に乗ってる!すごい!と感動しながら目的地に向かった。

 

今日はオリンパスプラザにカメラを受け取りにいく予定だった。愛用しているミラーレスカメラのWi-Fiが起動しなくなってしまい、先週修理に出していたのだ。

 

事の発端は、この前の三連休、恋人は出張に行ってしまったので寂しさを紛らわすために一人遊びをするしかなく、下北沢を徘徊する前に腹拵えで寄った渋谷の喫茶店。隣に座った常連らしいおじさまとしばらくカメラの話で盛り上がった。「昔のPENはハーフフィルムカメラだったから普通は35mmフィルム36枚のところ72枚撮れるんだよ」「なるほどそれは画期的ですね」

よく分からない話がほとんどだったけれど、おじさまの話ぶりからしオリンパスNikon、Cannon、パナソニックとどのカメラメーカーについても相当詳しい人だというのがよく分かった。

 

「新しいことを教えてもらってるんだ」と店員さんに得意気な顔をするおじさまは、煙管を吹かしながら「そのカメラは携帯に写真を飛ばせるやつなのか?何秒くらいでいくの?」と覗き込んできたので実際に見せてあげようと操作していたところ、Wi-Fiが利かなくなっていることに気づいた。それで修理に出した。今度またあの喫茶店に行って、カメラが直った旨おじさまに報告したい。修理から戻ってきてピカピカになったカメラを横目にまた話をしたい。

 

オリンパスプラザに行ったところ、カメラを預けるときに担当してくれた女性の方が、今日も担当をしてくれた。巡り合わせが成功したみたいですこしうれしい。「研修中」と書かれた帯を腕に巻いて、鈴の鳴るような声でわたわたしながらも丁寧に接客をしてくれるひと。前回は気がつかなかったが、白く細い腕に真っ赤なハートマークが土台の皮の腕時計をつけていて、調べたところ楽天で3000円くらいで買ったものだなとあとで勝手にブランドまで特定した。当分はカメラを修理に出す予定もないし、オリンパスプラザを訪れる予定もないので、あの女性とはもう二度と会わないかもしれないけれど、クレジットカードのスキャンがうまくいかなくて慌てている様子や、スキャンがうまくいってほっと笑みをこぼす様子や、まだ研修中だからか決済のダブルチェックを他の男性社員に頼んでいるところ、丁寧にカメラを包んでくれるところなどなど妙にその方の動きに注目してしまった。

 

オリンパスプラザを後にして、この前カメラを預けるときにも寄ったパン屋で、今日はチョコレートパンとオニオンパンとしょうが昆布パンを買った。噛むと小麦の味がする、ハードめのパンを売っている小さなパン屋さん。あとは家でコーヒーを入れて余り物のサラダと合わせれば今日の夜ご飯は完璧だと思っていた。

 

帰る矢先、私が駅のホームに足を踏み入れた瞬間、ホーム中に警報が鳴り響き始めた。どうやら隣のホームで人身事故が起きたらしい。よく分からないがとりあえず電車が来るのを待とう。そう思いながらホームを歩いていると、隣のホームの電車の下に肌色が見えたような気がした。あれは人間の太もものような気がする、と思いながらも、人身事故の現場に遭遇したことのない私としては、粉々になった人間の肉であったり粉砕された洋服であったり血まみれになった線路の石とかが視界に入らなくてよかったと思った。何もよくはないのだが…。

 

5分もすれば電車は来るだろうと思っていたけれど、隣のホームの人身事故の影響で電車が止まってしまった。しばらく待つか、どうするか、と考えていたところ「がんばれーー!!!」という女の人の声が聞こえた。救助活動が始まったのか、私がいる側のホームでは人々が野次馬のように押し寄せてしゃがみながら電車の下にいる人間の様子を伺っていた。「がんばれーー!!!」と叫ぶ声が何度も聞こえる。電車は運転見合わせをするので乗客は一旦降りるようアナウンスがされ始めた。一斉に降り始める人たち、それでも降りない人はいるもので、空いた席に椅子取りゲームのように次々と人間が座っていく。

 

お前が座ったその椅子の下に、人間が下敷きになっている。それなのに座って帰りたいがためにお前は椅子に座っている。向かいのホームでは、頑張れと叫んでいる人がいるのに、椅子を座ってスマホをいじって知らないふりをしている。

 

良い悪いの判別はできないし、もし現場に居合わせたとしても私たちができることは何もない。頑張れと声をかけたところで何が変わるわけでもないかもしれない。それでも、と思ってしまった。何もできないけれど、と心の中で思った。

 

東京で働き続ける限り、人身事故の現場に居合わせても何も気にしないふうにスマホをいじれるようになってしまうんだろうか、そんなに奴隷船に乗って会社で社畜をするようになってしまうのだろうか、気を紛らわすためにスマホでパズルゲームをやるような人に、とりあえず写真を撮って人の顔が特定できる状態のままインターネットに流してしまうように。

 

埒が明かないので別のルートから帰ろうとホームから階段に向かう途中、先ほどまで人間の太ももが見えていた電車のあたりにブルーシートが引かれていた。相変わらずこちらのホームでは人々が野次馬のようにその様子を見ていて、頑張れと叫んでいる人もいる。

 

なんていうか、その一連の人間の様子、たとえば野次馬のように押し寄せる人、素知らぬふりで椅子に座っている人、騒々しい駅のアナウンス、落ち着いているようで一斉に人間が何かを発信し始めている様子(そのときちょうどツイッターは落ちていて使えなかった)、あらゆる人間の動きを見てしまって、よく分からないけど涙が出てきてしまった。東日本大震災のときもそうだった。何が何やらよく分からないけれど、ヤバいということだけは分かる、そんな状況下で意味も分からず涙がこみ上げて止まらなくなる。一刻も早く立ち去らないと私は負の感情を背負い過ぎてしまう。精神が侵食されてしまう。そう思って混雑に巻き込まれながらも別のルートから帰ることにした。

 

「当駅で人身事故が発生しました。ご迷惑をおかけして申し訳ございません」というアナウンスがしきりに流れていた。いつも人身事故による遅延や運休に巻き込まれると苛立ったり憂鬱な気持ちになったりしたけど、今日は、誰も謝らなくていいという気持ちしかなかった。

 

あと、人身事故が起きたとき、私が泣いて駅で動けなくなっているとき、ツイッターが使える状況だったら私は迷わずにツイートをしていたと思う。抱えきれないから、発信せずにはいられなかったと思う。でもそれができなかったので書き殴るようにして久しぶりのブログを書いている。本当なら1か月前にできた恋人のことを書きたいと思っていた。遅延やら間隔調整やらで動かなくなってしまった満員電車の中でこれを書いている。帰ったらおいしいパンを食べて早めに眠りたい。あのひとが、無事でありますように。

終わらせることが苦手

何かを終わらせることがとても苦手だ。

誰かが死んだと知ることもとても苦手だ。

 

何かが終わり誰かが死ぬことを想像して不安になることが私はとても得意だ。

 

***

 

先日バレエの発表会があった。

半年間ほど練習をしてきた成果を他人に見てもらった。毎年夏に舞台に立つということは、幼稚園生のころから変わっていない。早いときは冬から練習が始まり、春が過ぎ夏が来れば舞台に立つ。化粧をして、衣装を着て、肌が焼けるように熱い照明に照らされ、人の呼吸する波が見える客席に向かって、踊る。

 

今年は一瞬で終わってしまったので少し味気ない気がしたが、去年『白鳥の湖』を盛大にやったので、足りない感覚があるのだと思う。いま足が物凄くむくんでいる。

 

***

 

本番前の楽屋で友人と話していたことが、思いがけず私にとって大事なことだったのでここに書き残しておく。

 

ひとつの作品として観客に感動を与えるための配役、「この子は村娘が得意だから」という理由だけで何年も連続で同じ子どもに村娘の役を与え続けると、その子どもは他の役柄を演じることができなくなる。そういうお教室がどこかにある。けれど、私の先生は違う。オーロラ姫もキトリも海賊も妖精も白鳥もパドフィアンセも踊ってきた、踊らせてもらってきた、あらゆるチャンスを与えてもらってきた。

 

作品という成果物を見てもらうために日々練習を頑張っているのではなくて、自分の踊りたい演目を勝手に踊ってそれをたまたま見てもらう機会がある、というのが、発表会のための配役に苦しむことなく楽しく続けられる理由だと思うし、今の教室はそのようになっていると思う。それってすごく恵まれた環境だよね、という話をしていた。

 

以前、バレエの先生から「あなたに主役をやらせるのはそれが務まると思ってるからなんだから、自信持ってやりなさい」と言われたときに、すごく救われた気がしたのを今でも思い出す。あなたにならできる、だから声をかけている、迷惑をかけてでも自信を持って楽しんで踊ればいい、と先生は色んな人に言っている。「私なんかで大丈夫だろうか」と不安になるときは、この言葉を思い出して、声をかけてくれた先生の期待を裏切らないためにも頑張ってみようと思える。人の扱いがすごく上手な先生だと思う。

 

***

 

 

来年の発表会は、バレエを20年続けてきた中でも一番大きなチャンスを掴んだので、まだ今年の発表会が終わったばかりだけれど、これから猛練習しないといけない。ストイックだと言われるけど自分ではそんな自覚はなく、私がどんなに練習をしても追いつけないほど上手な人が周りにいて、その人たちに置いていかれないように必死なだけ。というか、身体を動かしていないと落ち着かないだけだと思う。

 

本番当日の話に戻る。

 

 

 

「子どもたちがいきいきしている」と他のお教室にも通う人が話していた。本番直前なのに袖で踊りまわっていること、自分の演目でもないのに友達の練習を見て振り付けを覚えて踊ってしまう元気さがあること、踊り終わったあとに「ちょっと失敗しちゃったけど楽しかった!」と言い切れる素直さがあること。

 

「他のお教室だと先生に叱られて大人しく萎縮してしまう子どもが多いけれど、ここは違うよね」とその人は話していて、確かに子どもは無限に喋ってるし無限に踊ってるし何か萎縮してる様子はあまり見たことないなと思った。これもまた恵まれた環境だと思う。

 

 

 

こんな、恵まれた環境でずっとバレエを続けていきたいと思う。

 

「いつまでも楽しく踊れることを祈っています」と花束に添えられた母親からのメッセージを見て、そうだね、と思った。

 

楽しく踊り続けるために何が必要なのか、考え始めると途端に不安が押し寄せてきて胸がひゅうひゅうする。呪いであり、祈りだ。母親にとっても、私にとっても。

 

教えてくれる先生も、踊り続けたいと思う私も、毎年観にきてくれる母親も、みんな老いていつか死ぬ。そうしたら私はどうやって生きていけばいいのか分からなくて頭がおかしくなりそうになる。意外と人はすぐには死なないらしいけど、確実に老いる。それだけはどうしようもできない。

 

誰もいなくならないでほしいと思うのに、終わることばかり考えてしまうのは悪い癖だ。

 

身体が硬くなる、振り付けの覚えが悪くなる、仕事が忙しくなる、働きながらレッスンを受けるという時間作りをする体力がなくなっていく。その中で若い世代がどんどん上達して世代交代の波にさらわれる。私より若く恵まれた条件の身体を持つ人間に太刀打ちできるはずがない。過去の自分より上手に踊るためには、自分の周りに降りかかる老いとうまく付き合いながら、耐えず鍛錬するしかない。怖い、そんなことできるのかな。

 

 

いつか、「もうこれで踊るのはやめにしよう」と決断できる日が来るのか、と考えると、来ない気がする。今まで20年続けてきて、そんな決断ができた試しがないからここまで来てしまっている。

 

 

「20年も続けてることがあるなんてすごいね」と言われても、それの何がすごいのか私には分からない。やめられなかっただけ、やめる選択肢を選べなかっただけ、かといって、やめないという選択肢を選んできたつもりはなく、何も選択せずにいたらここに辿り着いていた。

 

何かが終わることに関して、終わらせることに関して、とにかく耐性がないので、いつも終わるときは大抵何らかの外的要因がある。私が踊らなくなる、その外的要因。

 

 

人間関係が終わることに関してこんな感じなんだから、バレエに対しても、踊れなくとも何らかの方法で関われるように縁を繋ぎ続けていくんだろうな。まだその方法は分からないけれど。

 

 

 

『トイ・ストーリー4』を観た(ネタバレあり)

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私の話を聞いてほしいという切実な願いを私以外の人は知らない。喉元まで出かかって、もしくはなんとか発話しても周りに掻き消されてしまうことのほうが多い。(声量に限った話ではなく)声が小さいから聞いてもらえない。どうすればいいんだろうか、と迷う中で観た『トイ・ストーリー4』は、自分の声に耳を傾けることの大事さを教えてくれるような気がしていて、話を聞いてもらえなくとも、いま私が何を感じているか、どう思っているか、自分の感情だけは決して否定されない領域にあるという確信だけを得た。

 

(⚠️以下、映画内容についてネタバレ・言及するので注意)

 

幼稚園に行きたくないボニー、いつかハーモニーに遊んでもらえることを夢見てアンティークショップに住むギャビー、ボニーに遊んでもらえなくなったウッディ。

 

小さな声を否定せずにすくいあげて描いたのが『トイ・ストーリー4』だと思った。声が大きい人ばかりに物語が集中するのではなくて、人間でも、玩具でも、同じようにスポットが当てられ、どの登場人物にも感情移入できる映画だったように思う。

 

冒頭、ボニーが床に転がるクレヨンに気を取られたあと、テーブルに目を戻すとそれまでなかったはずの先割れスプーンやモール、目玉が置いてあった。あのとき目を見開くボニーの顔だけで、魔法って存在するんだなと思う。あんなにも純粋に驚くことができるボニーは、ウッディが働きかけてくれたことなど1ミリも知らない。

 

自分の預かり知らぬところで自分のために動いてくれている誰かがいることは、幸福なことに違いない。魔法をかけてくれている誰かがいることは、とても恵まれたことだと思う。

 

幼稚園に行きたくないと部屋で泣くボニーのことをウッディはちゃんと見ている。玩具である自分ができることはないかと考えている。そしてボニーのリュックに潜入して、見守り、手助けをする。

 

母親に連れられて訪れたアンティークショップでひとりお茶会を開くハーモニーのことをギャビーは見ている。故障したボイスボックスが直れば、ハーモニーと一緒にお茶会ができるかもしれない、私に残されたのはこのボイスボックスだけと信じる一方で、日々のケアには余念がない。そばかすをインクで塗り直したり、フォーキーに髪を梳かしてもらったり、ハーモニーの動きを真似し、本を読みながらカップの持ち方を練習している。

 

ベンソンはギャビーのためにアンティークショップの監視をし、献身的に動いている。バズも、フォーキーの世話に明け暮れるウッディを見かねて「代わろうか?」と声をかける。

 

みんな、「自分はあの人のために何ができるだろう」と考えて行動している。相手のことが好きだからとか、自分のことを愛してもらいたいからとか、行動原理があってもなくても自分の身体を持ってして行動しているというだけでえらい。本当にみんなえらい。

 

「フォーキーのためと言いつつ、あなた自身のために動いてるのよ」とボーはウッディに言うけど、そんなのどうだっていい、誰かのために行動するということがとても尊い

 

***

 

メリーゴーラウンドのこと。

 

ボー・ピープとウッディたちはアンティークショップに乗り込む前に、メリーゴーラウンドのてっぺんで世界を見る。「子ども部屋に戻らなくても、世界はこんなにも広い」「そもそも玩具は子どもに遊んでもらうことが一番の幸せなのか?」と問題提起が行われる。

 

これまでメリーゴーラウンドは馬に跨ってぐるぐる回るだけのものだと思っていたけれど、見上げてみれば屋根があり、屋根の上から見える景色は馬に跨って見ていた景色よりもずっと広い。

 

メリーゴーラウンドの馬は決して後ろを振り返ずにただ同じ方向へと進む。それは時間が不可逆だということも示していて、子どもは大人になり、玩具は別の持ち主のところへ行く、輪廻転生というと表現が違うかもしれないけれど、みんな巡り巡って生きていく。

 

映画の冒頭でアンディやボニーがウッディ、バズを手にぐるぐると回りながら駆け回ることからも分かるし、『トイ・ストーリー4』の初期のトレイラーからも玩具たちが手を繋ぎ、視線を交わし、ぶつかったりしている様子からも、今回の物語は、円、縁がテーマなんだなと感じた。

 

 

バトンが手渡されていくという意味でも、メリーゴーラウンドが彼らにとって象徴的な場所として設定されたのだと思う。ジェシーはメリーゴーラウンドの近くに泊まったキャンピングカーのルーフでバッジを渡されていた。

 

***

 

「子どもが大人になればいずれ私たちの元から去っていく」というようなことをボー・ピープが言っていたけれど、私は子どものころに大事していた玩具のもとから去った、という意識はほとんどない。

 

玩具のもとから去ったつもりはないけど、遊ばなくなった、使わなくなったことで、玩具たちに寂しい思いをさせているのかもしれないと思うと、胸が痛む。

 

でも人間はいつか大人になり玩具で遊ばなくなることを玩具自身も分かっているし、大人になった持ち主に一生愛されたいと必ずしも思っているわけではないように思う。

 

ただ、自分はアンディと遊んだ、ボニーと遊んだという記憶だけがずっと蓄積されていって、人間はみんな大人になっていき、子ども時代のことを少しずつ忘れていき、自分だけが変わらず玩具としてここにいること、記憶や過去を抱えたまま生きていることが喜びであり、つらいんだと思う。

 

人間の成長を見守る側でい続けることはつらい。

 

物語の最後まで人間は玩具が働きかけてくれていることを何一つとして知らないし、知らなくていいのだと思う。これはきっと魔法だと目を見開く瞬間を、ちゃんと玩具は見守っている。

人間は、玩具が頑張ってバレないように動いているから、何か変だなと思うことはあれど、それが玩具の仕業だと思い至りさえしない。

映画を観終わったあとだと、「バレないように動くことってそんなに大事なことなのかな?」とも思う。「そもそも玩具は子どもに遊んでもらうことが一番の幸せなのか?」という問題提起の前に、何のために人間にバレないように動いているんだっけ?と考えると、人間をびっくりさせないために、というのが第一の理由で浮かんでくる。だけど、それだけではなくて、人間をびっくりさせたあと怖がられて遊んでもらえなくなる、ともすれば捨てられたり壊されたりするというリスクを孕んでいるから、バレないように動いている。これまでの楽しかった記憶や過去を、おしまいにさせないための努力をしている。

薄氷を踏む思いをしながらも、あの子のためにと歩みを止めない姿に感動する。

 

もし、トイ・ストーリーの続編を作るとしたら、玩具が生きていると知った人間との物語であってもいいかもしれないと思った。子どものころの気持ちのまま大人になってずっと玩具を愛している人間、人間のように記憶や過去が薄れていく玩具、「玩具のきみは忘れてしまうだろうけど、僕はずっと覚えている」というようなそんな話。

 

***

 

ボー・ピープのこと。

 

ウッディと再会したばかりのボー・ピープは暗闇から目を背けていた。9年前にモリーやウッディたちと別れてから、羊たちと一緒に生きてきたがずっと孤独だったように思う。

 

あのときの痛みはもう二度と味わいたくないと記憶を心の奥深くに隠して鍵を閉めて、一瞬つらそうな顔を浮かべたあとにウッディに調子を合わせ「レックスは元気?みんな一緒なの?」と聞く。「みんな一緒だよ」と答えることでウッディはボーを無自覚に傷つけている。細い針で身体をチクチク刺されるような痛み、そんなことばかり。子どもに手に取ってもらえたかと思えばすぐ捨てられる、そんなことばかり。

 

暗がりが怖くて眠れなかったモリーのために夜通し部屋を明るく照らし続けたボーの足元には真っ暗な闇が広がっている。羊が一匹、羊が二匹と数えながら眠りに落ちるモリーを見ていた、あのときのボーは見守る側の玩具だった。

 

でも、あれから一人で生きていくようになった。愛しい羊たちはいるけれど、それ以外は誰もいない。

 

ボーはきっと、シャンデリアを見ている最中にウッディが自分のことを見ていたことに気づいている。気づいていて、あえて気づかないふりをしている。

 

腕が折れることも、別れることも怖くないと言い聞かせながら生きてきた。それなのに、ウッディと再会することで脆く崩れそうになってしまう。見れない、見たら心が溶けてしまう。自分の足で強く立っていないと陶器はいとも簡単に壊れてしまう。壊れても捨てられても行動しないと始まらないという信念は、誰からも助けてもらえなかった経験があるから、自分で自分を助けるためにできることをやるだけ、自分に残された道はそれしかないと信じている。

 

ウッディと再会したときは驚きと嬉しさと恥ずかしさですぐには抱きつけなかった。あの、帽子を直し、頬を撫でるおまじないもできなかった。そうすることで過去に引き戻されることが何より怖かった。

 

アンティークショップから命からがら脱出したときに、「あいつおかしいよ」とみんなが口々に言う中、ギグルもウッディのことを悪く言っていて、そこまでして持ち主に愛されたいと願い、フォーキーを助けるために必死になるウッディを私だっておかしいと思う、けど、私の愛するウッディを私以外の人が悪く言うのは許せない!みたいな顔をするときのボーがすごく、すごくすごく涙腺にクるポイントであって、「そこが愛すべきところよ」と、決意を込めて言うボーの格好よさに痺れてしまう。自分の道は自分で選ぶ、そんな強くて弱いボーの精神が本当に大好き。

 

また、最後だけはピンクの水玉のスカートを巻いてウッディに抱きついているのがとても印象的だった。ブルーのマントで身を覆うことで、隠していた自分自身、武装としてのマント。

 

過去と向き合って、受け入れることでこそ今の自分を生きることができる。なぜならば、過去の自分と今の自分は地続きだから。過去の自分を否定している限り、今の自分を受け入れることはできない。

 

キャラクターの改変と評されていることも承知の上で、私は『トイ・ストーリー4』のボーのことが好き。「世界はこんなにも広い」と感じ取れる心の豊かさを失わずに生きていてくれてありがとう。

 

***

 

その他まとまりのない雑感。

 

「ハーモニーは完璧な子だから」とギャビーは言う。その認識が最初から間違っている。ウッディを公園に連れて行き、ブランコで遊ばせたあといつのまにかいなくなっていたとしても、ボニーのように泣いて探し回ったりしない、「フォーキーはフォーキーじゃないとだめなの」と泣くボニーとは対照的に、ハーモニーは色んなものに手をつけてはすぐ飽きる。でもハーモニーが悪い子とかそんなことではなくて、そういう子どもがいたって何も不思議なことはなく、当然のことで、むしろアンディやボニーが玩具に愛情を注ぐ時間がレアケースだとも思った。「ウッディは恵まれた玩具だ」と評している人がいたけれど、まさにその通りだと思う。

 

 

ボニーが幼稚園に登園した際に、「見てあの子」とクスクス笑う幼稚園児のシーンや、スクールバスが公園に到着して弾けるようにバスから飛び出して公園を駆け回る子どもたちのシーン。あれは玩具の視点から見ると、大きくて騒がしくて乱暴な人間に襲われる、というふうに映るのだろうけれど、あれが人間から見ると普通なのだろう。

ボニーのことを一目見ただけでクスクス笑う子どもたちの気持ちはあまり分からない。笑われることが分かっていたかのように幼稚園に行きたくないと泣くボニーのことも分からない。

でも、これまでのシリーズに出てきたサニーサイド保育園だって、子どもは喧しかった。アンディやボニーがウッディたちにとって特別だとしても、他の子どもたちにあるような暴力性がないわけではない。

 

 

ボニーは左利きだった。左手でペンを持ち、フォーキーの足に名前を書いていた。そんなボニーがフォーキーないしはウッディを右腕に抱えてベッドに入る、そのときの腕の強さを思うと泣き出しそうになる。まだまだ子どものボニーが眠りに落ち、腕の力が弱まればいつだって逃げ出せる。ウッディは、幼稚園から帰ってきた夜のこと、ボニーがフォーキーではなく自分を抱えて眠ったことに喜びを隠しきれていなかった。とても幸せそうな顔をしていた。いつでも逃げ出せたし、フォーキーがゴミ箱に投身してることも分かっていたけれど、今ここにある幸福を噛み締めてボニーの寝息を聞いていた。久しぶりに自分が選ばれたらそりゃ嬉しいよね。泣く。

 

玩具は過去を携えて生きている。ウッディはギャビーを抱えて、ボーは羊を抱えてジャンプする。カブーンは自分に打ち勝つためにポーズを決め祈りながらジャンプをしている。誰も見捨てはしない、全部抱えて生きていく。そういう姿が何よりも眩しい。

 

カブーンはCMみたいなことはできやしないと思っているけど、実際はとても素晴らしいジャンプをしていた。

誰かから励まされることで、力が湧いてくること、「あなたならできる」と肯定されることが何よりの力になるんだと分かるシーン。ハンドルを握り、目を瞑り、俺ならできると祈り、飛ぶ。

 

カブーンをつくった製作者だって、本当は飛べないけど飛べるんだと嘘をつきたくてついていたわけではなくて、飛ぶことができるかもしれないという夢を込めてカブーンを作っていたのだと思う。カブーンが子どもたちに愛されたらいいな、たくさん遊んでもらえたらいいなという思いでつくっている。だから、カブーンは製作者の夢を叶えている。自分自身の力で。強い。

 

 

ボイスボックスを手に入れたギャビーは、ハーモニーに声をかける。「私、ギャビー・ギャビー。おともだちになりましょう」

ギャビーが入っていた箱にも「おともだちになりましょう」と書いてあった。

フォーキーが目を輝かせながら「見て!」というあの瞬間は、まさに魔法の一瞬であって、それが最終的に地獄に突き落とされるものだとしても、その前段階の胸の高鳴り、ワクワク感、これでやっとギャビーは幸せになれる、今までの苦しみが報われる、ああこれでやっと…!と胸が掴まれる。

冒頭でボニーがテーブルに目線をやって目を見開くあの瞬間と同じ。ウッディがボニーのために動き、ボニーはフォーキーを生み出し、フォーキーはギャビーを見て目を見開く。そうやって知らぬ間に伝染していく感情がとても美しい。

 

 

人間の成長を見守る側でい続けることはつらい。

 

でも、見守ってくれる誰かがいるということが、どれだけ自分を助けるか、私は知っている。

また、見守る対象の人間が変わっていく様子を見るのはとても楽しい。こういうことを言われると笑うんだとか、悲しいんだとか、今幸せなんだなと分かる、その瞬間がたまらなく好き。

 

好きだった人が私を愛してくれなかったように、また私のことを好きでいてくれる人がこの世の中にいるように、誰かに見られていると同時に誰かを見ている、そういう繋がらなさもまた、メリーゴーラウンドを思い出させる。

 

 

押し付けられたものを殺したい

首の高さにゴールテープが貼られていて、いつもの速度で帰り道を歩いていると、 いつの間にかゴールテープもといロープが首に巻きついていて足が地面から浮いている。宙に浮きながら歩いて家に帰る。ここ最近ずっと首が苦しくてどうしようもない。

 

振りかざされる愛、受け止められない容器、他人から押し付けられたペットに対して「可愛い、私なんかに世話をさせてくれてありがとう!」と笑顔で言い放ち、ドアを閉めた瞬間に膝から崩れ落ちる思いでいる。呼吸さえまともにできずに蹲るしかない。 

 

気軽に頼み事をできる奴隷的な隣人として、内心見下されている気配がする。この小さくあたたかい命など手のひらで握り潰せば簡単に死ぬのに、どうしてつらい思いをしてまでそれらを保護しなければいけないのか何も必要性を感じない。けど殺して捨てる選択もせず、ただそこに横たわっていてときどき視界に入るからストレスになる。なぜあえて私の住処に自分の痕跡を残していくのか、それを世話するのは私なんだよ、そういう役割、女だからですか?私だからですか?ナメられるの?率先してやりたがるように見られているの?私が抱える負担って、誰が対価をくれるんですか。

 

 

容姿に恵まれているなんて生まれて一度も思ったことがない。ちょうどよく頭が悪く、ちょうどよく精神が弱い、攻撃的で不安定な部分も生きづらさの象徴としてちょうどよい。細くもなく太くもなくちょうどよく抱き心地の良い体型をしていて性欲も満たせて便利。

 

誰でも受け入れるふりをしながら、他人を丁寧にラベリングして、丁寧に見下している、丁寧に弱いものとして扱い、保護し、これまでの弱い生き物にもそうしてきたように同じベストプラクティスで殴ってみる。そうやって寛大な自分、弱い生き物を育成する自分に酔っているだけ、感謝されたいだけ、あの子は昔むかし暗いトンネルの中にいたけれど、今は外に出て幸せそうにしていて良かったと遠く離れたところで言ってそれで満足か。

 

***

 

電車のボックス席に座っていると隣におじさんが座ってきて、Bluetoothスマホをうまく接続できていないのか盛大に音漏れをしている。ボリュームの下げ方さえ知らないのか、何食わぬ顔で鞄にスマホを閉まっているが、スマホから音漏れをしているのでめちゃくちゃ耳障りだ。AirPodsから音楽は流れていないのに、腕を組み指先でリズムを取っていて大変不愉快。耐えきれず、わざとらしく頭を抱え背中を丸めるとおじさんが再度スマホを取り出して音量を下げる素振りを見せた。 5分後には結局音漏れしたままのスマホを鞄に閉まって音楽を聴いているふりをしている、私は目頭を押さえ頭を抱えるふりをする。向かいに座る男性もチラチラ視線で「音漏れしてますよ」とポーズを取っているが声をかけるには至らない。うるさい。お願いだから静かにしておいてくれ。

 

宇多田ヒカルの『Play A Love Song』を聞いている。『初恋』に収録されている『あなた』は大事な曲だから、うかつに再生されないよう注意してiPhoneを操作する。押し寄せる感情をしゃくりあげると涙が止まらなくなり久し振りに泣きながら帰る夜となる。今日も首は締まっていて、外の音もあまりよく聞こえないし、ゆっくりにしか歩けない、なぜなら宙に浮いているから、仕方がない。

 

今朝、研修会場では同期からの「最近買って良かったデパコス何?」との一言で牽制のし合いが始まった。「クレドのアイシャドウが良かったよ」となんとか口にしたところで「Youtuberが紹介してたやつだ〜(笑)」と返されて心底どうでもいい。その質問は私の回答を踏み台にして自分が答えたいだけの形式的な質問で、お前が使っているクラランスのリップオイルのことはどうでもいい、デパコスなどどうせたまにしか買わないくせに、何を偉そうに牽制を始めているのか。そこに大層な価値があるとでも思っているのか。

 

朝から他人に牽制する元気のあるその口元が旦那の前で甘く溶けるときがあるのか、どうでもいい、気持ち悪い。睡眠障害の話とか「今日は夜ご飯何作る予定?」とか「いま付き合ってる人とは結婚できそうなの?」とかお前の人生がどれだけ素晴らしいものか私にはその価値が1ミリたりとも理解はできない、する気もない。牽制しないと保っていられない幸福など興味ない。勝手に言ってろ

 

 

ときどき過激なことを言って笑いを取る。「そういうところがあなただよね」というレッテルを貼られることの楽さに胡座をかく。勝手に私のことを決めつけて好き勝手言われてもそれは結局私の演出の結果。もっと知性や色気のある手の届かないアクターに軌道修正することは今さら可能なんでしょうか。ツイッターで感情を書くだけでふぁぼられて「私はいま知性も色気もあり幸福です」とマウンティングを取られるのに、そいつの喉元を掻き切る元気もないのに、妄想ばかり先行して血まみれなんですよね。鉄分は常に足りていない。

 

***

 

今日のピークは食べ方を褒められたことだった。

 


食事のタイミング、あまり意識していなかったけれど、これまで会ってきた人はタイミング良く食べていたのだなと気づく。

あたたかい命はあたたかいうちに食べてしまった方がきっと美味いだろう、冷めた残飯処理を微笑み浮かべて喜んでやるような女、それはそれで楽そう。なんでもいいし、どうでもいいし、みんな勝手にしてほしい。

 

付き合ってたけど好きではなかった

 

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一緒にいても会話が多いほうではなかった。沈黙になるとお互いにスマホをいじりだして、テレビに対して笑ったり突っ込んだりして会話がない状況を誤魔化していた。実家もこんな感じだった。テレビに顔を向けて会話をしている、なので私は人の目を見て話す方法をよく知らない。そして、「会話をせずともお互いのことが分かる」、なんてそんな領域には足を踏み入れてもいなかったし、お互いのことを何も知らないままデートの回数だけは重ねていった。

付き合っているのだから私はこの人のことが好きに違いないと思っていた。

 

 

好きな人と付き合ってなかったと判明したあとに出会ったのが岸くんという人間だった。彼は私の2歳年上で、今までそういう関係性になった人間の中では2番目くらいに年齢が近かった(1番は中学生のとき塾が一緒だった颯くん)。

 

そういう関係、というのはまともではない恋愛関係も含んでいて、その中でも岸くんとはまともな恋愛関係だった気がする。恋愛関係というか恋人という既存の枠の中にうまく入れていただけというか、facebookのステータスを交際中にしていただけというか、ただただ形として恋人がいることを他人に見せられた。

 

それが私にとっては貴重な体験だった。

そう思えるほどまともではない恋愛関係ばかりの人生だったから。

 

私と誰かの関係性を他人に見せたい、アピールしたい、他人に知っておいてもらうことで関係性を強力なものにしたかった。

 

***

 

私は大学生のころやたらと出会い系サイトにハマっていて、初めて会った人とセックスすることを厭わなかったし、自ら若い女として男に消費されることを望んでいた。それくらい実家に帰ることがつらく、私のことを愛してもいないただの性欲目的の他人からでさえ抱きしめられると涙が出るほど幸せだった。

 

そんな人間が、岸くんと出会ってからというもの、頻繁に互いの家を行き来することになり、「手料理を食べたい」とねだられ、一緒にディズニーに行ってくれるとなると、これまでやりたくてもやれなかった"普通のお付き合い"が実現されていくようでとても嬉しかった。私もこういう普通のデートがしたかったんだ、友人のインスタグラムを見ては嫉妬する日々からいい加減卒業したいという思いが強かった。(本当か?)

 

 

こういう感情・執着は一度口に含んで舐めだすと美味しくてずっと飲み込めない。

  

 

岸くんはブランド物をくれそうな人間だった。

 

精神が邪悪。

 

***

 

岸くんは出会った当初から配慮の人で、寒くない?痛くない?喉乾いた?休憩する?とよく確認をしてくれた。そんな人これまでいなかった。エスコートをしてくれる人はいたけど、それは私が女だからであって、私自身に対しての配慮ではなかったような気がする。私の身体を使って自慰をするような人ばかり、またはそんなつもりはなくても私が我慢してることを言い出せず勝手につらくなって終わった。岸くんと私は明らかに育ちや性格、価値観が異なる人間同士だったので頻繁に違和感を感じることもあったが、その都度、ないしは後からでも私は違和感を感じたと表明するようにしていた。

 

***

 

違和感の話。

 

例えば、「活動休止前の嵐のライブチケットが当たった!」と言うと「めっちゃすごいじゃん!ヤフオク出したい(笑)」と言われたり、「ディズニーシーの餃子ドッグ美味しいんだよ!写真見て!」「えっ芋虫みたいで美味しくなさそう」、私の行きつけの喫茶店に連れて行って支払いの際にカードを出したところ、自分がPayPayの残金を使い切りたいからと私のカードを下げさせた挙句支払いに手間取り店員が困った顔をしていた。

 

 

カウンター席しかなく予約しないと入れないような人気店。彼が行きたいと言うから私が予約をしたのに(行きたいというなら自分で予約くらいしろ!)、注文したものが出てくるまでiPhoneで野球を見ていることもあった。そのときは不快に思いつつも直接言うことができなくて、少し経ってからやっぱり私はあのときすごく嫌な気持ちになったんだとキレてしまった。

 

そのときは、「きみが嫌ならやめる」と言われたけれど、そうではなくて、食事を作ってくれている人、サービスを提供してくれているお店の人に失礼なのだということは自分で気づくべきだと思ってあまり強くは言えなかった。そういうデリカシーのなさ、失礼さ、というものにあまりに無頓着だった。そして私は周りの目を気にしすぎていた。マナーとか常識とかを押し付けすぎだったのかな。マナーとは一体何だろう。

 

文字にしてみると「いや、普通にデリカシーのない人なのでは?」と思うのだけれど、好きだったから、自分がすり減るのことに痛みを感じつつもその場では笑っていた。少し前のブログでも書いたけど、感情が遅延してくるタイプなのでその場ですぐ言うことなんてできない。あとから不快感を表明するばかりだった。

 

彼が私に抱いていた違和感についてももっとちゃんと知りたかった。

 

不機嫌になられても何がいけなかったのか分からないときがあるからちゃんと言葉で言ってくれと言われたこと。

 

岸くんと付き合いだしたのは彼がフリーで働き出したころで、私が一人3000円~くらいするお店にばかり行きたいと言うと、「今は仕事を頑張りたいし、お金を使いたくない時期なんだよね」と言われたこと。なのでショッピングモールの中にあるようなお店で食事をした。お金を稼いで貯蓄がたくさんあることと、お金を節約して貯蓄がたくさんあることは違うんだと思った。

 

***

 

価値観が合わない話。

 

結局食事の価値観が合う人と食事に行くのが良いという学びがあった。

例の好きだけど付き合ってなかった人から、外食は美味しいということを学んだ。

私はお酒が飲めないけれど、日本酒がたくさんあるような小料理屋で食べるご飯がとても美味しいということを知ってしまった。本当に野毛は最高。

 

岸くんとショッピングモールの中に入っているオムライス屋さんに行って、びっくりするくらい味がしなくて食べることが死ぬほど苦痛だった日もあった。お金はいくらでも出すから美味しいご飯を食べたい、それだけ。奢ってもらいたいとかない、寧ろ全然出す。だけど、先も書いたようにお店の中で食べログ開いて「ここが3.3か〜」発言はつらい。

 

 

 

 絶望を知らない、そして他人の悪意を知らない人間だったように思う。

 

おしまいのきっかけは、彼が待ち合わせ時間に早く着きすぎることだった。

 

 

強い女友達ばかりと付き合っていると口調も強くなりがちなんだけど(突然の言い訳)、上記ツイートのような「は!?」という反応は怖いと言われた。

インターネットの人からは『そんな言い方したらビクッとするに決まってんだろ』、『「言われてた予定よりも早く到着されると私も色々予定してたのに狂っちゃうから次からオンタイムで行動して」的な風に伝えるか「わかった。じゃあ私は17時まで予定あるから時間つぶしてて」と伝える』とアドバイス(?)を受けた。

 

なるほどと思い、2回目は「私にも予定があるし、急に言われても迎えにいけないから、次からはもっと早くに言って」と伝えた。そうすると「電車乗るときには連絡したんだけど」「早く会いたいから急いだつもりだったんだけど」と言われてズーンとなってしまった。そもそもお互いの家がまあまあ近いから電車に乗るときに連絡したところで遅いし、早く会いたいからと言われてしまうともう何も言えない。

 

そこで気づく。私はこの人のことが好きじゃないかもしれない。

 

なんだかんだその日も私の家に来て仲直り的な場が設けられたが、私が迎えに行った際の態度が溜息だの「疲れた」だの言ってたらしく、それを責められた。「じゃあもう一緒にいるときは溜息もつかないし疲れたなんて言わないから」と面倒くさい女に成り下がると「うん」と頷くだけだった。「これでいい?」「もうこの話はおしまい!」と場が終了してから、男は私の頭を撫で抱きしめキスをしようとしてきたのがとても気持ち悪かった。

 

 

おかしくて仕方がなかった。なんでこの状況で性欲を他人に翳せるんだよ。それで、私がなんか一言言ったくらいで簡単に身を引くの、なんなんだよそれ。お前には私をねじ伏せるくらいの力があるんだから力づくで抱くこともできたのに、それをせずさっと身を引くところが嫌だった。そういう優しさみたいなものが、すごく居心地悪かった。セックスを受け入れない私がまるで悪いみたいな、好きではないと気づかされているような気がしたから。

それで沈黙のスマホいじりの時間だけが過ぎて岸くんは帰った。おしまい。

 

その後、他の男の人に「喧嘩したあと仲直りするためにどうしてますか?」と聞いたら「そりゃセックスだろ」と返されて少し泣いた。

 

***

 

ところで、岸くんはマルチをやっていた。マルチではないと言いつつマルチだった(多分)。私の家で実験を見せられ「感想は?」と聞かれ何も言えなかった。怖かった。

 

ボディーソープと塩(汗か海水というテイだった気がする)を混ぜ、市販のは塩と混ざると固まって塩化ビニールになるから、普段利用しているボディソープは身体に悪いんだよと言われる。

肌は弱酸性なのに市販の石鹸はアルカリ性だから身体によくないんだよ、うちの商品だけ弱酸性だから安全なんだよと私の腕をリトマス試験紙にして実験を見せられる。

常在菌が、活性炭素が、真皮が、ターンオーバーが、など色々言われたけどよく分からなかった。突っ込まれることを前提としていない、習得した売り文句。話し方がすごく上手だった。

 

私は何年間も化粧をして自分の肌に合った化粧品というのを探してきたけど、お前普段化粧しないくせにファンデーションとか何とか言うな、というのが純粋な感想だった。

 

私は過去にアムウェイに勧誘されてすごく怖い思いをしたから、正直いまの段階で信じることはできないと伝えても、「商品は本当に良いものだから少しずつ分かってくれたら嬉しい!」と返される。その明るさというか純粋さが怖い。

 

上記のような実験を通して客が商品を買い、リピートし続ける限りは何もしなくても自分にインセンティブが入ると言っていた。言いたいことは分かるけど、その売り方って変だよね?。怖くて検索する手を止められず、色々な記事を漁るうちに、結局マルチで儲け続けることは難しいから、いつか大損するなり破綻するなり人間関係が全て立ち消えるなどしていつか終わりは来るのだろうと思った。その終わりの先に続く道がプラスであれマイナスであれ終わりは来るし、私はただの他人。

 

 

マルチ、目を覚ますためには時間と誠実さでやっていくしかないんだと人に言われて、私はそれに耐えられるのか?耐える意味があるのか?根気強く接した先に報われる何かがあるのか?と結局自分のことばかりを考えていた。なんとなく岸くんは悪い人間ではないので伸びしろがある気がしていたし30代になったらもっと魅力的な人間になるような気がする。一年後くらいに近況を聞きたいくらいの距離感に今はいる。

 

 

 

悪い人間ではないと思う理由はこういうところにあって、良くも悪くも先入観や偏見がないところがすごくよかった。今まで年上の人間とばかり関係を繋いできたからもうすでに固まってしまって動かない価値観や、何も不思議と思わない純粋な差別意識とか、そういうところが少ないのがよかった。

 

ただ供養のつもりで6000文字書いていたけれど、1ヶ月経ってもいないのに過去形で書けることに驚いた。もう私の中で過去のことになっているんだと気づけた。

 

好きではない部分もあったけど、好きだった部分も確かにあった。

でもあのとき「私はこの人のことが好きじゃないかもしれない」と思い至った瞬間も確かにあった。

 

今週のお題「2019年上半期」



 

あじさい日和

金曜日。

紫陽花を見にいった。よく晴れた一日だった。

 

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経緯は昨日書いた。

大好きなディズニーの年パスを今年は買わず、ほかの場所で写真を撮る一年にしたいという話。

 

なので、早速撮ってきた。

 

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調べたところ、紫陽花は土が酸性かアルカリ性かによって色が変わるらしい。雑に言うと、酸性の場合は青く、アルカリ性の場合は赤くなる。土が酸性ということは、アルミニウムを吸収しやすく、紫陽花の中にあるアントシアニンのデルフィニジンとアルミニウムが結びついて青くなるとインターネットに書いてありました。よく分からないがこういうことを勉強したい。

意図的に土にアルカリ性の物質を混ぜて色を変えることもできるらしい。

 


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金曜日に見た中でも一番に好きな紫陽花。小さな花が集まってブーケのようになっているのがとても可愛いと思う。

 

紫陽花には花束の集まりみたいなやつと、折り紙で作ったみたいなやつと、つぶつぶがギュッてしてるやつなどがいて、絶対に私が子どものときより品種増えたでしょって思った。品種改良が進み紫陽花に多様性が生まれている。というか、紫陽花にたくさん種類があることを知らなかった。私が紫陽花を見たのは高校生か大学生くらいにインターネットの人と長谷寺に行ったときくらいで、なんだかあそこはあまり好きになれなかった。

 


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「天使のほっぺ」という名の紫陽花。真っ白ながくに薄付きの桃色が控えめで可愛い。日本人が好きそう。

 


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紫陽花、見にいったこと自体は本当に良くて、最高の一日になったなと思ったんだけど、平日ひとりで行ったせいか知らない男に後をつけられ話しかけられインスタグラムのアカウントを交換させられた。花を見てるだけでナンパされる人生ってつらい。私の好きにさせてほしい。

 

「写真どんな感じか見せてくれませんか?」

「インスタ交換しましょう」

「晴れてきたのできれいに撮れますよ」

「さっき見せた紫陽花あっちのほうにありますよ、よかったら案内しましょうか?」

「このあともう少しいる感じですか?僕はそろそろ帰ろうかなと、うーんどうしようかな」

 

完全に具合が悪かった。私が写真を撮ってる背後に男がいるのが気配でわかる。視界の端にいる、話しかけようとタイミングを見計らっている、すり抜けようとしても何かしら声をかけられる、怖い、何もしないでくれ、私の精神をレイプしないでくれ、もう何も喋らず私のことを視界に入れず今すぐ立ち去ってくれとお祈りをするようにシャッターを切った。「首から下げてるお前のFUJIFILMのカメラを掴んで地面に叩きつけストラップで首を絞めてやろうか」という思いで必死に紫陽花だけを見るようにしていた。無理だった。

 

断りきれずインスタのアカウントを交換したが、最近フェイクで作ったビジネスアカウントがあって本当に助かった。過去の私グッジョブ。インスタのアカウントを教えるなどしないとそのまま「お茶しませんか」とでも言いたそうな雰囲気だった。もう何も話したくなかったからアカウントを教えることで全てを留保した。ふざけるのもいい加減にしろ。

 

向こうはカメラを持ってるわけだし、私もスカートを履いてるわけで、いつのまにか盗撮されててインターネットに晒されるかもしれないと自意識過剰な精神になったので、次ひとりで行くときはパンツスタイルで身体を隠していこうと思った。無防備でいるからレイプされるんだろうと言われる、男に媚びているから話しかけられたんだろと言われる、違う、何もかも全てが間違っている。

 

ディズニーではこんなことなかった。ディズニーオタクは自分がどれだけ良い写真を撮るかに必死で、たくさんぬいぐるみバッジをつけてアピールしたり小物を取り出してキャラクターに好かれようとしたりするだけで、何もこっちに危害は加えてこなかった。みんな良くも悪くも自分の都合の良い世界だけを見ている。

 

ただひたすらに写真撮っている最中に性的消費をされたくないと思った。私は女ではあるが一個人として尊重されるべきで、厚底サンダルでスカート履いていたとしても男に媚びてるとか思わないでほしい、暑かったから涼しい格好で外を歩きたいだけです。

 


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和紙で作ったような紫陽花。

 

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今まで写真を撮っていると 人間の眼の精度に敵うものはないと思っていたけど、最近写真の腕が上達したのか 自分の肉眼で見ているものを その色や明るさで写真を撮れるようになってきました。


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写真は楽しい。花は美しい。

誰にも邪魔されず無心で撮っていたい。

人とすれ違うたびに「すみません」と声をかけられるのがなんだかよかった。花のことを話している人もいたし、近所の文化会館で開催される催し物について話している人もいた、カップルで来て自撮りばかりしている人もいたし、手に触れられる距離にあるのになぜか望遠レンズで撮っている人もいた。ディズニー以外で写真を撮る体験がなかなか良かった。ナンパを除いて。

 

 

紫陽花を撮った動画はツイッターに載せたのでよかったら見てください。

 

お題「カメラ」

ホスピタリティは地獄

今年はディズニーの年パスを買わないと決めた。去年初めてディズニーランドの年パスを買ってからというもの10回以上はディズニーランドに通ったし、香港ディズニーデビューもして、散々ディズニーランドを楽しんだ一年だった。

 

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私はグリーティングやパレード、ショーの写真を撮るのが好きなタイプのオタクで(ディズニーオタクには、キャラオタク、フェイスオタク(キャラオタの中でもプリンセスなど実際の顔が見えているキャラクターが好きなオタクのこと)、ダンサーオタク、アトラクションオタク、バックヒストリーオタクなど、あらゆるオタクがいる)、仕事やプライベートで精神がおしまいになるたびにディズニーランドに通って精神を回復してもらった。ドナルドやデイジー、ニック、プリンセスにハグをしてもらったり、全力で踊るダンサーの笑顔を写真に収めることが何より私の幸せだった。それは今でも変わらない。

 

しかし、それでも年パス更新を躊躇ったのは色々理由があって、ひとつはオタクの増加と過激化だった。

 

わりとインターネットで騒がれていたミッキーの顔が変更になった件では、変更前の旧フェイスのミッキーに直接「(今の顔で会うのは)これで最後だから、今の顔が好きだから、もう来ません」と涙ながらに宣言する人がいたり、ミッキーの顔を変えないで!と署名活動をオリエンタルランド社に対して行う人がいて、2018年のドナルドの誕生日にウッドチャックというグリーティング施設が600分待ちになるなど異常な混雑を見せ、また、その際のキャストの対応もDオタ界隈では話題になっていたような気がする。2017年にスタージェットがクローズになる際にはラスゲス(最後にアトラクションに乗る人)になりたいがために、案内終了したはずの列に割り込む人もいた。双子コーデが流行り出したあたりからのオタクとしては、年を重ねるごとに民度がおしまいになっているのを感じるし、その一方でキャストが足りてないんだなと思うことも多くなった。

 

人手不足が常態化しており電車に乗るとよくアルバイト募集の広告を見る。

夢の国で働ける、輝かしい職場であればアルバイト採用でいいだろうと言わんばかりの頑なな広告で、見るたびうんざりする。ツイッターでは東北のほうでもアルバイト募集の広告が打たれていると聞いた。どれだけ人が足りてないんだよ。

 

人が足りてないからか、ツイッターなどで真偽不明のまま情報がすぐに回るようになったからか、キャストがハピエストサプライズを友人にあげていたとか誕生日のシールをメルカリに出していたとか、先日のグーフィーのトレイル(グリーティング施設)クローズでは、「待ち時間あげておけば人来ないよ」と言っているキャストがいた!など、もうツイッターはチクりの場所となっている。

 

また、キャストの行動だけでなく、頭のおかしいゲスト(先に述べたスタージェットのラスゲスの件や、ドリーミングアップでやたらベイマックスのヒロに黄色い声を上げるオタクの動画や、トゥーンタウンの箱やうさたまの車に乗って写真を撮る若者たち)であったり、サービスの低下(先日のバケーションパッケージ限定のワイン飲み比べセットと謳いながら実は一般にも売られると情報を後出しにした件や、レストランでのプラスチック皿ではなく紙皿での提供変更(これは良し悪しだが)、量は減るのに値段は上がる食事、熱中症対策に塩まで提供してくれる店(これも良し悪し))など、色々あって、こう、いやそれはおかしいだろ!っていう否定的な気持ちよりも、ホスピタリティという名の過剰サービスの提供を減らしたらいいのでは?という思いと、夢の国だから何でも許されるだろう思考もいい加減やめたほうがみんなハッピーになるのにな、という思いで、結局思いやりだのおもてなしだのが地獄を生産し続けている気がした。

 

香港ディズニーに行ったときは、外のどこか別のお店と同じようにキャストは接客をしていたし、それで困ることは何もなかった。夢を提供するというよりも普通にただの労働場所としてディズニーに出勤している気がした。舞浜が異様に親切なのか几帳面なのか分からないが、香港で肌で感じたその雑さが良かった。

 

もらっている賃金に値する労働力を提供すればいいだけだと思うし、過剰に働くから人が減って人手不足になる、マニュアル化されていないから属人化が進む業務内容。もちろん毎日多く訪れるゲストの安全を守るために厳しすぎるチェックやテストを繰り返しているのは承知の上で、効率化とか従業員満足って疎かになってないですか?って思う。

 

ディズニーが嫌いになったわけではなく、むしろこれからも楽しみなことがたくさんある。ソアリンもオープンするし、新エリアも工事が進んで完成に近づきつつあるし、夏は大好きだった城前ショーが復活し、アウト・オブ・シャドウランドが終わりソング・オブ・ミラージュが始まる、シーのハロウィーンも変わるみたいだし去年見て衝撃を受けたスプーキー "Boo!"パレードも楽しみ、あれは本当に最高、神、毎日見たい。

 

友人が撮ってくれた、ディズニーにいるときの私の表情は本当にいつもとは考えられないくらい楽しそうに笑っていて、私って本当にディズニーが好きなんだなと思う。めちゃくちゃいい笑顔をしている。いろんな人と行ってみたい。

 

まあこれまで書いてこなかったけど、私も私の人生があって、ディズニー以外の趣味というか、写真の腕を上達するためにディズニー外で写真を撮るようにしたいと思っている。それなので、今年一年は様子見としたら年パスを買わずに他に目を向けてみようかな、という次第。

 

自分の整理のために、あらためて書いてみると色々思ってることがあるんだなという気づきがある。

 

ディズニーリゾートが得意です、私。

 

オタクであることに変わりはないので、行く機会があれば、どの順番で回ればいいかなどコースの相談は気軽にしてください!おおよそ間違いなく楽しめる予定を立てられるかと思う。それだけは自信がある。

 

明日は今日のことを書く予定。書きたい。ブログの習慣化を目指したい。

今日は紫陽花を見に行き、実写版アラジンを観ました。そのときの写真を一枚。きれい。

 

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