私の話を聞いてほしいという切実な願いを私以外の人は知らない。喉元まで出かかって、もしくはなんとか発話しても周りに掻き消されてしまうことのほうが多い。(声量に限った話ではなく)声が小さいから聞いてもらえない。どうすればいいんだろうか、と迷う中で観た『トイ・ストーリー 4』は、自分の声に耳を傾けることの大事さを教えてくれるような気がしていて、話を聞いてもらえなくとも、いま私が何を感じているか、どう思っているか、自分の感情だけは決して否定されない領域にあるという確信だけを得た。
(⚠️以下、映画内容についてネタバレ・言及するので注意)
幼稚園に行きたくないボニー、いつかハーモニーに遊んでもらえることを夢見てアンティー クショップに住むギャビー、ボニーに遊んでもらえなくなったウッディ。
小さな声を否定せずにすくいあげて描いたのが『トイ・ストーリー 4』だと思った。声が大きい人ばかりに物語が集中するのではなくて、人間でも、玩具でも、同じようにスポットが当てられ、どの登場人物にも感情移入できる映画だったように思う。
冒頭、ボニーが床に転がるクレヨンに気を取られたあと、テーブルに目を戻すとそれまでなかったはずの先割れスプーン やモール、目玉が置いてあった。あのとき目を見開くボニーの顔だけで、魔法って存在するんだなと思う。あんなにも純粋に驚くことができるボニーは、ウッディが働きかけてくれたことなど1ミリも知らない。
自分の預かり知らぬところで自分のために動いてくれている誰かがいることは、幸福なことに違いない。魔法をかけてくれている誰かがいることは、とても恵まれたことだと思う。
幼稚園に行きたくないと部屋で泣くボニーのことをウッディはちゃんと見ている。玩具である自分ができることはないかと考えている。そしてボニーのリュックに潜入して、見守り、手助けをする。
母親に連れられて訪れたアンティー クショップでひとりお茶会を開くハーモニーのことをギャビーは見ている。故障したボイスボックスが直れば、ハーモニーと一緒にお茶会ができるかもしれない、私に残されたのはこのボイスボックスだけと信じる一方で、日々のケアには余念がない。そばかすをインクで塗り直したり、フォーキーに髪を梳かしてもらったり、ハーモニーの動きを真似し、本を読みながらカップ の持ち方を練習している。
ベンソンはギャビーのためにアンティー クショップの監視をし、献身的に動いている。バズも、フォーキーの世話に明け暮れるウッディを見かねて「代わろうか?」と声をかける。
みんな、「自分はあの人のために何ができるだろう」と考えて行動している。相手のことが好きだからとか、自分のことを愛してもらいたいからとか、行動原理があってもなくても自分の身体を持ってして行動しているというだけでえらい。本当にみんなえらい。
「フォーキーのためと言いつつ、あなた自身のために動いてるのよ」とボーはウッディに言うけど、そんなのどうだっていい、誰かのために行動するということがとても尊い 。
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メリーゴーラウンドのこと。
ボー・ピープとウッディたちはアンティー クショップに乗り込む前に、メリーゴーラウンドのてっぺんで世界を見る。「子ども部屋に戻らなくても、世界はこんなにも広い」「そもそも玩具は子どもに遊んでもらうことが一番の幸せなのか?」と問題提起が行われる。
これまでメリーゴーラウンドは馬に跨ってぐるぐる回るだけのものだと思っていたけれど、見上げてみれば屋根があり、屋根の上から見える景色は馬に跨って見ていた景色よりもずっと広い。
メリーゴーラウンドの馬は決して後ろを振り返ずにただ同じ方向へと進む。それは時間が不可逆だということも示していて、子どもは大人になり、玩具は別の持ち主のところへ行く、輪廻転生というと表現が違うかもしれないけれど、みんな巡り巡って生きていく。
映画の冒頭でアンディやボニーがウッディ、バズを手にぐるぐると回りながら駆け回ることからも分かるし、『トイ・ストーリー 4』の初期のトレイラーからも玩具たちが手を繋ぎ、視線を交わし、ぶつかったりしている様子からも、今回の物語は、円、縁がテーマなんだなと感じた。
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バトンが手渡されていくという意味でも、メリーゴーラウンドが彼らにとって象徴的な場所として設定されたのだと思う。ジェシー はメリーゴーラウンドの近くに泊まったキャンピングカーのルーフでバッジを渡されていた。
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「子どもが大人になればいずれ私たちの元から去っていく」というようなことをボー・ピープが言っていたけれど、私は子どものころに大事していた玩具のもとから去った、という意識はほとんどない。
玩具のもとから去ったつもりはないけど、遊ばなくなった、使わなくなったことで、玩具たちに寂しい思いをさせているのかもしれないと思うと、胸が痛む。
でも人間はいつか大人になり玩具で遊ばなくなることを玩具自身も分かっているし、大人になった持ち主に一生愛されたいと必ずしも思っているわけではないように思う。
ただ、自分はアンディと遊んだ、ボニーと遊んだという記憶だけがずっと蓄積されていって、人間はみんな大人になっていき、子ども時代のことを少しずつ忘れていき、自分だけが変わらず玩具としてここにいること、記憶や過去を抱えたまま生きていることが喜びであり、つらいんだと思う。
人間の成長を見守る側でい続けることはつらい。
物語の最後まで人間は玩具が働きかけてくれていることを何一つとして知らないし、知らなくていいのだと思う。これはきっと魔法だと目を見開く瞬間を、ちゃんと玩具は見守っている。
人間は、玩具が頑張ってバレないように動いているから、何か変だなと思うことはあれど、それが玩具の仕業だと思い至りさえしない。
映画を観終わったあとだと、「バレないように動くことってそんなに大事なことなのかな?」とも思う。「そもそも玩具は子どもに遊んでもらうことが一番の幸せなのか?」という問題提起の前に、何のために人間にバレないように動いているんだっけ?と考えると、人間をびっくりさせないために、というのが第一の理由で浮かんでくる。だけど、それだけではなくて、人間をびっくりさせたあと怖がられて遊んでもらえなくなる、ともすれば捨てられたり壊されたりするというリスクを孕んでいるから、バレないように動いている。これまでの楽しかった記憶や過去を、おしまいにさせないための努力をしている。
薄氷を踏む思いをしながらも、あの子のためにと歩みを止めない姿に感動する。
もし、トイ・ストーリー の続編を作るとしたら、玩具が生きていると知った人間との物語であってもいいかもしれないと思った。子どものころの気持ちのまま大人になってずっと玩具を愛している人間、人間のように記憶や過去が薄れていく玩具、「玩具のきみは忘れてしまうだろうけど、僕はずっと覚えている」というようなそんな話。
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ボー・ピープのこと。
ウッディと再会したばかりのボー・ピープは暗闇から目を背けていた。9年前にモリー やウッディたちと別れてから、羊たちと一緒に生きてきたがずっと孤独だったように思う。
あのときの痛みはもう二度と味わいたくないと記憶を心の奥深くに隠して鍵を閉めて、一瞬つらそうな顔を浮かべたあとにウッディに調子を合わせ「レックスは元気?みんな一緒なの?」と聞く。「みんな一緒だよ」と答えることでウッディはボーを無自覚に傷つけている。細い針で身体をチクチク刺されるような痛み、そんなことばかり。子どもに手に取ってもらえたかと思えばすぐ捨てられる、そんなことばかり。
暗がりが怖くて眠れなかったモリー のために夜通し部屋を明るく照らし続けたボーの足元には真っ暗な闇が広がっている。羊が一匹、羊が二匹と数えながら眠りに落ちるモリー を見ていた、あのときのボーは見守る側の玩具だった。
でも、あれから一人で生きていくようになった。愛しい羊たちはいるけれど、それ以外は誰もいない。
ボーはきっと、シャンデリアを見ている最中にウッディが自分のことを見ていたことに気づいている。気づいていて、あえて気づかないふりをしている。
腕が折れることも、別れることも怖くないと言い聞かせながら生きてきた。それなのに、ウッディと再会することで脆く崩れそうになってしまう。見れない、見たら心が溶けてしまう。自分の足で強く立っていないと陶器はいとも簡単に壊れてしまう。壊れても捨てられても行動しないと始まらないという信念は、誰からも助けてもらえなかった経験があるから、自分で自分を助けるためにできることをやるだけ、自分に残された道はそれしかないと信じている。
ウッディと再会したときは驚きと嬉しさと恥ずかしさですぐには抱きつけなかった。あの、帽子を直し、頬を撫でるおまじないもできなかった。そうすることで過去に引き戻されることが何より怖かった。
アンティー クショップから命からがら脱出したときに、「あいつおかしいよ」とみんなが口々に言う中、ギグルもウッディのことを悪く言っていて、そこまでして持ち主に愛されたいと願い、フォーキーを助けるために必死になるウッディを私だっておかしいと思う、けど、私の愛するウッディを私以外の人が悪く言うのは許せない!みたいな顔をするときのボーがすごく、すごくすごく涙腺にクるポイントであって、「そこが愛すべきところよ」と、決意を込めて言うボーの格好よさに痺れてしまう。自分の道は自分で選ぶ、そんな強くて弱いボーの精神が本当に大好き。
また、最後だけはピンクの水玉のスカートを巻いてウッディに抱きついているのがとても印象的だった。ブルーのマントで身を覆うことで、隠していた自分自身、武装 としてのマント。
過去と向き合って、受け入れることでこそ今の自分を生きることができる。なぜならば、過去の自分と今の自分は地続きだから。過去の自分を否定している限り、今の自分を受け入れることはできない。
キャラク ターの改変と評されていることも承知の上で、私は『トイ・ストーリー 4』のボーのことが好き。「世界はこんなにも広い」と感じ取れる心の豊かさを失わずに生きていてくれてありがとう。
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その他まとまりのない雑感。
「ハーモニーは完璧な子だから」とギャビーは言う。その認識が最初から間違っている。ウッディを公園に連れて行き、ブランコで遊ばせたあといつのまにかいなくなっていたとしても、ボニーのように泣いて探し回ったりしない、「フォーキーはフォーキーじゃないとだめなの」と泣くボニーとは対照的に、ハーモニーは色んなものに手をつけてはすぐ飽きる。でもハーモニーが悪い子とかそんなことではなくて、そういう子どもがいたって何も不思議なことはなく、当然のことで、むしろアンディやボニーが玩具に愛情を注ぐ時間がレアケースだとも思った。「ウッディは恵まれた玩具だ」と評している人がいたけれど、まさにその通りだと思う。
ボニーが幼稚園に登園した際に、「見てあの子」とクスクス笑う幼稚園児のシーンや、スクールバスが公園に到着して弾けるようにバスから飛び出して公園を駆け回る子どもたちのシーン。あれは玩具の視点から見ると、大きくて騒がしくて乱暴な人間に襲われる、というふうに映るのだろうけれど、あれが人間から見ると普通なのだろう。
ボニーのことを一目見ただけでクスクス笑う子どもたちの気持ちはあまり分からない。笑われることが分かっていたかのように幼稚園に行きたくないと泣くボニーのことも分からない。
でも、これまでのシリーズに出てきたサニーサイド保育園だって、子どもは喧しかった。アンディやボニーがウッディたちにとって特別だとしても、他の子どもたちにあるような暴力性がないわけではない。
ボニーは左利きだった。左手でペンを持ち、フォーキーの足に名前を書いていた。そんなボニーがフォーキーないしはウッディを右腕に抱えてベッドに入る、そのときの腕の強さを思うと泣き出しそうになる。まだまだ子どものボニーが眠りに落ち、腕の力が弱まればいつだって逃げ出せる。ウッディは、幼稚園から帰ってきた夜のこと、ボニーがフォーキーではなく自分を抱えて眠ったことに喜びを隠しきれていなかった。とても幸せそうな顔をしていた。いつでも逃げ出せたし、フォーキーがゴミ箱に投身してることも分かっていたけれど、今ここにある幸福を噛み締めてボニーの寝息を聞いていた。久しぶりに自分が選ばれたらそりゃ嬉しいよね。泣く。
玩具は過去を携えて生きている。ウッディはギャビーを抱えて、ボーは羊を抱えてジャンプする。カブーンは自分に打ち勝つためにポーズを決め祈りながらジャンプをしている。誰も見捨てはしない、全部抱えて生きていく。そういう姿が何よりも眩しい。
カブーンはCMみたいなことはできやしないと思っているけど、実際はとても素晴らしいジャンプをしていた。
誰かから励まされることで、力が湧いてくること、「あなたならできる」と肯定されることが何よりの力になるんだと分かるシーン。ハンドルを握り、目を瞑り、俺ならできると祈り、飛ぶ。
カブーンをつくった製作者だって、本当は飛べないけど飛べるんだと嘘をつきたくてついていたわけではなくて、飛ぶことができるかもしれないという夢を込めてカブーンを作っていたのだと思う。カブーンが子どもたちに愛されたらいいな、たくさん遊んでもらえたらいいなという思いでつくっている。だから、カブーンは製作者の夢を叶えている。自分自身の力で。強い。
ボイスボックスを手に入れたギャビーは、ハーモニーに声をかける。「私、ギャビー・ギャビー。おともだちになりましょう」
ギャビーが入っていた箱にも「おともだちになりましょう」と書いてあった。
フォーキーが目を輝かせながら「見て!」というあの瞬間は、まさに魔法の一瞬であって、それが最終的に地獄に突き落とされるものだとしても、その前段階の胸の高鳴り、ワクワク感、これでやっとギャビーは幸せになれる、今までの苦しみが報われる、ああこれでやっと…!と胸が掴まれる。
冒頭でボニーがテーブルに目線をやって目を見開くあの瞬間と同じ。ウッディがボニーのために動き、ボニーはフォーキーを生み出し、フォーキーはギャビーを見て目を見開く。そうやって知らぬ間に伝染していく感情がとても美しい。
人間の成長を見守る側でい続けることはつらい。
でも、見守ってくれる誰かがいるということが、どれだけ自分を助けるか、私は知っている。
また、見守る対象の人間が変わっていく様子を見るのはとても楽しい。こういうことを言われると笑うんだとか、悲しいんだとか、今幸せなんだなと分かる、その瞬間がたまらなく好き。
好きだった人が私を愛してくれなかったように、また私のことを好きでいてくれる人がこの世の中にいるように、誰かに見られていると同時に誰かを見ている、そういう繋がらなさもまた、メリーゴーラウンドを思い出させる。