距離の取り方(春)

 

入社前の私はキメ顔でこう言った(CV.斧乃木余接)。しかし会社関係の人間とカラオケなど一度も行かなかった。オリジナルのセットリストを組んでCD-Rに焼いてた時代と自分は何も変わってない。

 

スーツを着て入社式に出席したのがちょうど一年前の話。

 

2017年度(2018/03/31)と新年度(2018/04/01)との境界線については、初めて会ったインターネットの人の初めて行った家で曖昧になりつつある人間と世界をスクリーン越しにボンヤリ眺めていたらそのまま白線を踏み超えていた。

 

別に年度が変わったからといって何が変わるわけでもなく、会社の異動通知とかを見てふ〜んとなった3分後には勤怠登録を普段通り行うみたいな、そういう確実に何か昨日とは違う部分があるけど根本的に何も変わってない部分も残っているという混沌の中にたまたま年度明けがあるだけなんだろうと思う。

 

別に年度が変わったくらいで人は何も変わらずに酩酊している。

 

 

 

「自分ダメなやつなんですよ」とか「上司が最悪だ」とか口に出してるだけで何も変わらない人。言う暇あるんだったら、何か自分で行動起こせばいいし、変わること変わらないこと変えられないこと色々あるだろうけど、それでも表明していけばいいんじゃないの?となる。ただどうしても組織に属する以上は限界があるのはわかっているし、以前は自己主張してたけど消耗するのに疲れて諦める人とかもいるんだろうとは思う。変えたい歯車が必須のものなら周りの変えてもいい歯車変えれば?というだけの話。結局組み合わせ次第みたいなことが往々にしてある。

 

 

「これは、私に向けられた言葉ではない」と偉い人からの指摘メールを見て思った。

 

たしかに私宛てのメールではあるけど、この人は私のことなど見向きもせずどこか先の方を見据えて、自分の損得を丁寧に勘定した結果私にメールを送っているんだと思った。

 

社会的に自分の価値を上げるために行う他人への善意。

 

それが透けて見えた途端にふっと冷静になって、言葉では頷いているようなリアクションをしていても実はそうではない、自分で選び取ったものを淡々と遂行していくような冷たさはいつでも必要だと思った。

 

 

冷たさの話。

 

何か問題や課題やリスクのある事象があったときに、誰もがそれについて認識はしているのに誰もが動かない状況というのがままある。重要度や緊急性の切り分けもせずにただ、問題が在るだけ。

 

そういう状況が私はとても苦手で早くどうにかしたい、現段階の暫定的な対策でいいから方向性を決めたいと思う。けど、一年会社で働いてみて思ったのは、やりとりとして対策を立てたという事実がなくともなんとなく話さなくても「これはまあ後でいいよね」の共通認識ができていればそれが正となるんだということだった。人との距離の取り方と同じように、事象との距離の取り方もある。

 

距離の取り方を見誤って失敗した例。

 

 

「普通は問題課題があったら業務はできないでしょう」と上司に言われた。普通ってなんだよ。

 

人事考課の目標だか業績だかのレビューで言われた。

 

普通はそうだとしても例外がないわけではないんだよ、みたいな、たしかに「問題課題を◯割解決する」みたいな甘えた目標立ててる自分が悪いんだけど、じゃあ今存在してるうちのチームのプロジェクトって何の問題課題もなくてやってるんですか?みたいな、その暫定対策っていつ解決するんですか?暫定対策の上に漬物石を置いて長期的に放置しておけば恒久策ってできあがるんですか?みたいなことになった。

 

上司はきっと私が「問題課題を全て解決する」と目標を立てた上で達成できなかったとしても、提案をしたとかそういうアクションを評価してくれようとしているんだと頭ではわかっているんだけど、普通ってなんだよみたいな、そこでグッと足が地面にめり込んでしまって、膝をついて泣き出しそうになるのでした。

 

もう新社会人の枠から卒業した。

とりあえず週5で働くことができた。

一人暮らしを始めて自炊もしてる。

働き始めても自分が会いたいと思う人には会うことができてる。

18年以上バレエも休まず続けてポジションもキープしてる。

大して何が変わったかは分からないけど、一年間社会で生き延びただけでも上々なんじゃないかなと思う。

 

電車が走り始めてすぐの 朝6時代の電車の中で松たか子の『明日、春が来たら』を聴きながら書いた。

 

明日の白線を踏み越えた今日、先日の強風によって桜の花びらはだいぶ散り始めているけど、新年度は春を迎えている。