私は自分の名前を呼ぶ

 

母は生まれる前の私に『瑠璃』という名前をつけたがっていたらしい。私の祖母も母には同じ名前をつけたがっていたらしいが、結局その名前をつけられることはなかった。

 

その理由の詳細は忘れてしまったが、漢字が難しいことや画数が原因だったように思う。

 

彩りの多い人生を送ってほしいという意味を込めてつけられた今の名前。姓名判断の結果が良かったこと、父親がKiroro金城綾乃を好きだったこと、自分たちの子どもにこんな風に育ってほしいという願いも親は納得済み。

 

なんだかよく分からないけど諸々の理由でつけられた今の名前に導かれるように、本当に我ながら彩りの多い人生を歩んで来たと思う。良いことばかりではなく、もちろん悲しいことも、自ら道を外したこともあった。

 

 

どうして私が一周回って2018年にKiroroを聞いてとてもつらくなっているのか、今まで彼女たちの曲は「仕事に忙殺された結果、愛する人との時間を疎かにして別れてしまった人の失恋ソング」だと思って聞いていた。

 

父親が丁寧に便箋に書き起こした、女みたいな丸文字で書かれた『長い間』の歌詞は、子どもながらに仕事を頑張る父親が家を疎かにしてる自覚をしているんだろうと思って、別に父親のことなど大した好きではなかったけど、直接母親を労わるような人でもないけど、それでも心の中では母親に申し訳ないと思っているんだ、そういう曲なんだと思っていた。

 

でも改めて聞いてみると「長い間待たせてごめん また急に仕事が入った いつも一緒にいられなくて 淋しい思いをさせたね」という歌詞なんて、似たようなことを言われた経験が私にはあるし、そんなことを口にする人は決して私のことを愛している人ではない、ただ私がその人のことを好きで仕方がなくて、仕事のせいで会えない日もいつかきっと会える日が来て我慢も報われるのだろうと思っていた。

 

本人からは何も言われないけど、今やインターネットには情報が溢れている、間違っていると頭では分かっているのに好きで仕方がないから都合のいい関係でもいくらでも続けれる。

 

罪悪感がないわけではないけど、私だけが悪いわけではないし、相手も悪いところはある、そもそもこれを悪だと決めつける社会そのものが何十年後かの世界では正しいことになってることかもしれない、そうやって自分をなだめすかしている時点でダメだった。

 

「愛してるまさかねそんなこと言えない」、言ったら関係性が終わるから、気持ちは持つけど表明はしない、それでなんとか繋ぎ止めていたもの、会わなくなっても連絡先だけは繋がるようにしておいてほしい、どこかでブログやツイッターをやっていてほしい、ただ生きていることを私に確認させてほしい、立ち去ろうとしている人の足につかまってズルズル引きずられてるうちにボロボロになってしまうんだろうなと思う。

 

小学校のときからの友達、高校時代の友達、インターネットの人、会社の先輩、色んな人と遊んだりご飯に行くけど、好きな人といるときの自分の万能感はもう感じられなくなった。

 

すごく賢いわりにバカなところもあって、そこまでディープなインターネットのことは知らなくて、Mステで流れるような音楽ばかり聞いていた、策略的に人生を送っていた人の、一部の歯車にしか過ぎない私はもう終わったのだ、私は私が主役の人生を生きるのだと今は強く思っている。

 

親にLINEもショートメールもブロックされて妹に「やばありえな」って言われても、別にそんなことが人生において大きな影響を及ぼすわけでもないし、

 

友達と会うための時間や体力だってまだあるから大丈夫、そういう時間を作ろうと思うことはまだ億劫ではない、会社と家の往復になって休みの日は休みたいと思うようになったら終わり。

 

仕事を始めてもバレエはずっと続ける、セクハラは偉い人に訴える、先輩からの「せっかくの休みなんだから旅行いかないの?」という旅行ハラスメントもどうでもいい、今の時点で学生に「今のうちにこういうことしておいたほうがいいよ」と言えるほどの人間でもない。

 

ただ好きなものや好きな人がいて、それを誰かに話すしかできないけど、人に言わない部分では自分だってそれなりにハードな経験だってあったけど、それを見せびらかしてイキるんじゃなくて、一つ一つ自分の糧にしていくしないんじゃないのかなと思う。

 

別にそういう自分のハードな人生を人に話したところで他人にはコンテンツにしかならないとこれまででよく分かった。経験を話すことで人が何か変わるってそうそうないんじゃないのかな。

 

被爆者が戦争の体験を話しても、つらいなとは思うけど具体的にアクションを起こせる人ってそんなにたくさんいるものなんだろうか。

 

人の話をインプットとしてアウトプットを目に見える形で提出することは本当に少なくて、なんか心のどこかに星の砂みたいなものが堆積して、そのうち何かの拍子に思い出すのがせいぜいなんじゃないのかなと思う。

 

人に変わってほしいと思ったときはまず自分が変わるしかないから、自分が変わるための選択肢を多く持てるように星の砂を貯めておくしかないんだろうなと思う。