あんまり死にたくなくなった。
今までなら満員電車で私の臓器を潰さんばかりに「どうせお前その鞄は会社の床に置いてんだろ」というような鞄で押してくるサラリーマンとか、ヨロヨロ歩くせいで追い抜かせてくれない人間とか、ハイヒールの音がうるさい歩き方の汚い女とかをすれ違いざまにナイフで斬って歩いているような気持ちで毎日を生きていた。
いつも「どうして自分に被害が及ぶことでもないのにそんなに怒れるのか」「それは自分のルールに周りが従ってくれないのが許せないコントロールフリークだ」と言われ続けてきたけど、別に私はマジに怒っちゃいるけど、改札の駅前でイチャついてる微妙なカップルを見て「今すぐやめてくれ、その人間性を変えてくれ」と思っているのではなくて、ただ「死ね」と思いながら舌打ちをして横を通り過ぎるだけなので、まあなんというか怒るのが趣味なんだと思う。
だいたいの人間は怒りたくて怒ってるのであって、相手に変わってもらえると期待値がある人間に対しては怒らないんですよ、期待値がないような人間と認められない置物みたいなものに対して怒る、何の意味もないのに、何の意味もないけどその怒ってる相手が本当はただの置物ではなくて、実の妻だった、実の恋人だった、それに気づいたときに置物としてどうせ変わらないだろうと思っていたものがいつの間にか粉々になっている、そういうことが世の中にはたくさんある。あなたに変わってほしいとは思ってはいたけれど、壊れるとか砕けるとかそういう変化は求めてなかった、とか言うんじゃねえ壊したのは間違いなくお前だよ。
最近は仕事場で信頼を集める遊びをしている。
新人だから私を信頼してないのか、本当に私を信頼してないのか分からないけど、私に仕事を完全には任せてくれない先輩の行動とか言動、それは親切とか面倒見がいいとは言わないような気がしている、だけど見て見ぬ振りをしている、自分で背負いこんで残業たくさんしてるけど
— 赤埜よなか (@_ynk) 2018年1月12日
他人を信頼するということは、他人を信頼すると判断した自分を信頼するということなので、その、本人の性格とか気持ち的な面で、私は先輩を安心させてあげられる部分とそうでない部分がある
— 赤埜よなか (@_ynk) 2018年1月12日
言われずとも気を利かせてドキュメント作って先回りして行動しているつもりでも、それでも何かダメなところがあるのかもしれないし、私の見た目が頼りないとかそういうことも加味されるんだろう
— 赤埜よなか (@_ynk) 2018年1月12日
会社の偉い人に言われたのは、「仕事の依頼者は相手がどんな行動をしたら安心してくれるか」ということで、答えは一つじゃないにしても、段階を踏んで成果物を見せること、今日はここまでできました、残りはこれくらいです、をちゃんと相手に伝えること、実際に作業をしているしてないに関わらず、自分の進捗をいかに可視化するのが新人のうちは大事だよと教えられた。人は不安だとそのことばかり考えてしまう、安心していると意識は少しは軽くなる、他人の工数とか時間とかお金のコストもあるけれど、精神的なコストの消費を減らせるんだと思う、他人を安心させるということは。
ということはつまり仕事の自由度があがるということだし、逐一自分の行動を監視されて「この手順違うよ」とすかさず言われて「ウザいな~この先輩は~なんでこうもウザく育っちゃうかな~は~あ帰ってアイス食べたい」と思わないでいられる、「もしかしたらこっちの手順のほうが楽にミスなくできるんじゃね?」みたいな自分で実験できる場を自分で作れるのは良いことだと思う。
人に物を教えるときは「聞かれるまで待つこと」、とどこかに書いてあったけど、指導してくれている先輩もそんな感じで、基本的なことは教えてくれるけどそれ以外は聞くまで教えてくれない。間違えたときに初めて教えてもらって、「これってこういうやり方もあったんだ」と背中の後ろに隠していた手のひらを見せてくれるような、そういうところが、すごく巧いなと思う。人の扱いが上手だと思う。
私は塾講師とかバレエの先生とかやっていて思ったけど多分誰かに何かを教えるというのがすごく下手なので、そういう勉強も今後はしていかなければならないと思う。手取り足取り全部教えようとしてしまうきらいがあって、それは自分が安心したいからなんだけど、教えられた側にとってはボリュームが多すぎて耐えられなくてパニックになる。もう来年度新人入ってきても仲良くできる自信ないよ~~(泣)
まあそんな感じで、すごくすごく生気に満ち溢れているわけではないけど、別に仕事辞めても死なないしな、このメールの誤送信で人生終わるわけじゃないしな、いざとなったらどこかの飲食店でバイトをやればいいし、最悪無職になっても大丈夫だよな、という気持ちでいる。
別に会社の誰かがインフルだから自分は休んではいけない、なんていうのはないし、誰かのせいで自分の行動が制限されることは思いのほか少ない。だいたいはそう思い込んでいるだけで、世の中は自由度が結構高い。
高校のころ、「私もライブ行きたかったけど時間なくて行けなかった~」って言ってる同級生の友達を見て、「は?それは自分が時間を作らなかったというだけの話で時間がないわけではないでしょ」と思っていたけど、学生でも社会人でも時間とお金がないことは本当に何の言い訳にもならない。あるひとつの方法で無理なら他の方法を考えてくれ。
毎日が死にたいと思えるほど暇じゃなくなったのもそうだけど、自分の気持ちを俯瞰してインターネットで言語化することが好きだし、自宅と会社の往復になるのがイヤだなあと思ってたけど別にそんなことはなく帰りに同期とご飯に行くこともあれば一人でお店開拓もする、自炊もする、このまえはカレーを作った!(初)、今週のお菓子を買い出しに行ったりもするし、筋トレしてプロテインも飲む、一人暮らしを始めてから自分で自分を生かせている感覚が強い。
自分は自分によって生かされている、もちろん他人の協力もあるけれど、どの他人からの協力を得たいかくらいは自分で選んで生きたいと思う。同じ仕事をやっている人たちにしてもあいつは使える、あいつは使えないの判断を自分の目でしていたい。
あんまり死にたくなくなった、生きるにしてもどういう手段で生きたいか、結局自分はどういう人間になりたいんだっけ、どういう人間にはなりたくないんだっけ、を考えるようになった。何のためにこれをやってるんだっけ、と後づけでもいいから考えるようになって、自分の動かす手が少しは惰性的ではなくなった気がする、私のアウトプットが次の誰のインプットになるのか、分かるときと分からないときがあるけど、それでも前よりはただ「お金のために働いてるだけ」っていう感覚はなくなった。
あんまり話していない会社の人に話しかけなければならないときはいつも緊張するけど、エイヤッで終わらせてしまえば大したことはなく、むしろ親切にしてくれる場合が多いので、だいたいのことは自分でなんとかしていくしかないんだと思う。