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努力の方向性を変えられるよう親は子どもに対してアクションを起こさなければいけないんじゃないかという話

 

週一で通っているバレエのスタジオには中学一年生の女の子がいる。

その子が「来週と再来週休みます」と先生に伝えていたので理由を聞いたところ、「今度テストがあってその勉強をしなくちゃならないので」と言う。

「学校の成績悪いと親にバレエをやめさせられちゃうんです」と言うほど親は子どもの勉強的教育に熱心で、その一方で「親は私の大事な習い事であるバレエを遊びだと思ってる」とも言う。習い事も教育の一種だと私は思うんだけど、どうしても良い高校に入って、良い大学に入って、良い会社に入ってほしいという親の願いが強く、中学一年生の今から塾に週に何回か通っているとのこと。ここで言う"良い学校"は偏差値が高いこと、"良い会社"というのは大企業で年収がそれなりであることを指す。

これは別に誰が悪者であるとかそういう話じゃない。

彼女は家にいるときも勉強をしていると言っていた。
学校や塾の宿題だけでなくいつも予習や復習としていると。
私が中学生のころは教科書なんか学校に置きべんしてたし、家に教科書を持って帰っていないんだから予習も復習も全然やるわけがなかった。だからといって勉強ができなかったわけではないと思うし、高校も県内では中の上か上の下くらいの公立に行くことができた。運がよかったんだと思う。

「家で勉強している間、親は何してるの?」
「寝てる」

「勉強することは好き?」
「好きじゃない」

「でも、バレエは好きだから、今度の発表会で遊びじゃないってことを言うために練習頑張ってるんです」

涙ぐみながら言っていた。

私はそう力強く宣言する彼女の横顔を見ながら、本当に頑張ってほしいと思った。


この前までTBSで『下克上受験』というドラマが放送されていて、子どもなんか全然好きそうじゃない深キョンがいつもの演技でお母さん役をやっているというところが個人的にはわりと好きだったんだけど、あの作品の内容は子どもの受験に向けて、塾に通わせるのではなく父親が仕事をやめて付きっきりで勉強を教えて、受験合格を目指すという話だった。

仕事をやめて参考書を大量購入して付きっきりで子どもに勉強を教えるくらいの覚悟が、受験には必要なんじゃないかなと思う。何もかもかなぐり捨てて親がしてあげられること、それくらいの熱意とかエネルギーとか。別に塾に通うことの良し悪しとかの話じゃなくて、子どもが勉強しているときに親が寝ていること、まあ別に子どものノートを見て丸付けをしろとか添削をしろとかいう話でもないんだけど、なんか、そういう彼女が勉強を強いられているという境遇にいることそれ自体が私はなんとなく悲しかった。


子どもに不足のない人生、"良い人生"を歩んでほしいと思って、親は、「よかれと思って」子どもを塾に通わせる。「よかれと思って」やっていることだからなおさら、タチが悪くて、一概に親を悪者にできないところが家族に関する話のつらいことだと思う。


三浦しをんの『まほろ駅前多田便利軒』で出てきた由良(ゆら)という小学四年生の男の子も彼女と同じように受験のために塾に通わされている子で、その送り迎えは「他の親に対する見栄」、つまり塾に通わせるお金があってかつ毎回送り迎えもできる余裕があるというプライドの誇示、ただ実際問題として送り迎えができないから多田便利軒が借り出されるわけなんだけど、決してあの小説に出てくる親は子どもを心配して防犯上何かあったら大変だから送り迎えをしてほしいと頼んできたわけではなく、周りの親に対して体裁を整えるための依頼だったと記憶している。それを子どもも自覚して了承済みだった。だからこそ親のいない自宅で何度も『フランダースの犬』を見て「この話の良いところはネロに親がいないところ」と断言する。


私も小学生くらいのころからバレエとか習い事のたびに送迎をしてもらっていた。親の「よかれと思って」に甘えていた。でも、ときには叱られていつもは車で送ってもらっている道をいつもの3倍くらいの時間で泣きながら歩いて必死に習い事に行ったりもした。それくらい私は習い事が好きで、どうしても家にいたくないときがあったからこそ必死に歩いて目的地まで歩いた。

いつも車で通っている道を自分の脚で歩いてみて初めて、いつもは目に入らなかったパチンコ屋さんの看板とかマンションの名前とかそこらへんの植木とか家の外で飼われている犬とかに気がついた。いつもの道が全然景色を変えて自分の目に入ってきた。
そういう経験が大事なんじゃないかなと思ってるわけ、私は。

ちょっと不審者っぽい人に遭遇して怖かったとか、自分の脚で時間をかけて歩いたからこそいつもの送迎のありがたみが分かるとか、そういう、逆説的に物事の大事さを実感していくみたいな、ことであってほしいわけ。


怖い思いをしてみないと親の愛情なんか全然気づかないわけ、どんなに「あなたのためを思って」と言われても、その背景を頭では分かっていたとしても、体験していないからイメージがわかない。そういうのじゃ良くないと思うのね、籠の中に入れられた鳥みたいに外の世界を知らないまんまで大人になったときに、いつか大人がいなくなってしまったときに自衛する方法を知っているのといないのとじゃ全然違うと思うわけ。

全然違うと思うんだよ本当に。

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つらくなってきたので、いらすとやの犬の画像でも見て元気になりたい(唐突)。



で、その子は家にいる間は勉強してるからテレビはほとんど見てないとも言っていて。
今がどうかは知らないけど、私が小学生とか中学生のときは、クラスメイトとの共通の話題はテレビが一番主なものとして眼前にあって、テレビの話題についていけないと会話の中に混じれないみたいなことがあったような気がする。別にテレビだけが一番じゃないけど、狭い世界ではどうしても昨日見た『学校へ行こう!』でやってたゲームを早速友達とやってみて大ウケするみたいな、今でいうとブルゾンちえみとかサンシャイン池崎とかの話で盛り上ったりするんじゃないのかな。

そうなってくると、勉強の話だけでなく、クラスになじめるなじめないという話も出てくるわけで、なんか、親が子どもの将来を案じて前々から勉強の習慣づけをさせるというのは良いことである一方で、それよりも、将来の子どもの姿ではなくて、たった今目の前にいる子どもを見てあげてほしいというのが私の気持ち。


22歳になってよく思うのは、過干渉で親切で「よかれと思って」色んなことをしてくれる親だけど、本当に助けてほしいときには助けてくれなかったなと思う。
私が「クラスのあの子が馬になって○○ちゃんに乗られてた!」とか今日あった楽しい出来事を話してるだけなのに、担任にチクられて学級会が開かれるなんてことがしばしばあった。
友達が「めがね貸して」と言ってきたので貸してあげたという話を親にしただけなのに、翌日には「めがねをかけている人にとってはめがねは身体の一部だからむやみに借りるのはやめましょう」という学級会が開かれたりする。地獄か。
でも、親はよかれと思ってやってるんだから仕方ない。「めがねを取られているあなたがかわいそうでかわいそうで仕方なかったのよ」と言っていた。私が私の意思に基づいて友達に貸しただけのそれを奪われたとかいうふうにストーリーを歪曲して受け取ってしまうことそれ自体も悲しくて、私が楽しいと感じている出来事、楽しいと感じることさえダメなことなのか当時は本当によくわからなかった。




私の家は幸いなことに親に「宿題やりなさい!」とか「明日の準備しなさい!」とかは言われたけど、「良い大学に入らなきゃだめよ」とか「大企業に就職しなさい」とかは全く言われたことがなくて、家庭環境が悪いと自負しているわりにそこだけは救いだったなと思う。


今日の彼女の様子を母親にしていたところ、母親が、「親だって子どものためを思って色々言っているんだけども、それがどうしても嫌な場合は、何度も親を説得し続けなきゃいけないと思うんだよね。外の人には言えて親に言えないなら、ある程度仕方がないんじゃないかと思う」と言っていて、なんかそれ聞いて私は泣いた。

言い出しづらい環境を作り出しているのが親だとしても自分だとしても互いによるものだとしても、擦り合わせをしろと、親に自分の意思を見せ続けなければいけないということを話していて、それはめちゃくちゃ難しいことだけど、正しいことだと思った。


周りの人は「偏差値の高い○○高校を受験するんです、そのために勉強をしているんです」と言うと「えらいねえ」って絶対言う。
その言葉の中には「そこまで勉強して何か得るものがあるのかな」と懐疑的であったり「うちの子はそこまで勉強させられないな」という劣等感であったり心の底から「そんなに頑張ってえらいなあ」とか、色んな意味が含まれているんだと思うけど、子どもはそうやって「えらいねえ」と周りに連発されることで、「親が敷いたレールが良い道なんだ」と学んでいく。

別に人生の選択に良い悪いとかないし、本来なら自分の生きたいように生きることができたらそれが一番なんだけど、小学生とか中学生とかまだアルバイトができずに親に手綱を握られている状態で、「成績悪いならあなたの好きな習い事をやめさせるから」と言われてしまえばそりゃあ勉強するしかなくなるわけで。

そういうのって卑怯なんだよね、本当におかしいと思う、本人の意思なんか聞かないでこの道を進んでいってくださいと示していくのは。
そして、子どもだからなおさら「頑張って勉強すれば努力が実って志望校に合格するはず!」と思いがちなのも良くないと思っていて。

私の好きな言葉でビートたけしの「努力すれば夢が叶うなんて事はない。 努力とは宝くじを買うようなもので 当たり券を買うことではない。」という言葉があって、なんていうか私が言いたいのはこれだけ!
今だからこそ思うことだけど、別に努力したからって何か見返りがくるわけでも褒められるわけでもなんでもなくて、成功するのは一握りだから、努力に期待しちゃいけないんだよって私は思う。努力しないで成功した人を憎んだり嫉妬したりするのもおかしいんだよって思う。どれだけ勉強に時間を割いたからといって成果が出るわけではなくて、メリハリバランスを取ることがそこには必要で、ただ「勉強している時間」が何かの免罪符になるわけでもなんでもない。


ただ、親として子どもに何かできるとしたら、子どもが何かしらの壁にぶち当たっている、何度も失敗をしているときに、その方向性を変えるよう声かけをすることくらいなんじゃないかなと思う。
大人は「何度も同じ間違いをするときは、やり方そのものが間違っているんだ、それならやり方を変えてみよう」という発想ができるんだけど、子どもだとそういうことができないかもしれない。「今回はこれでうまくいかなかったけど、じゃあ別にこんな方法があってそれをやってみたらどう?」と提案すること、そういうサポートの仕方が大事なんじゃないかなと思う。

あとは何か間違いを起こしたときとかに頭ごなしに叱りつけるんじゃなくて「どうしてこういうことをやったの?」と聞くとか。「どうして?」と子どもに尋ねるのは教育上良いって何かで読んだ。実際は知らないけど、「どうして」を深堀りして考える習慣をつけるのは大事なことのような気がする。その「どうして」を自分の口で説明できるようになることも大事だと思う。

まあ、子どものいない私が言うのもなんだけど。