安心毛布にくるまって寝たら毎日血だらけの話

私が大事な人と会えない間、何してたか知ってる。
あなたの働いている場所、一緒に働いている人、一緒に生きていく人、生きてきた人のことをインターネットで調べてたわけ。ネットストーカーとして暗躍してたわけ。

「最近Facebook更新してないよね」

人がそこで息をしているという破片をインターネットで拾い集めてやっと安心して眠れるようになる。私あなたのことはよく知らないけど、あなたのよく知らない同じ部署のあいつの趣味のことよく知ってるんだ。犬が好きで年甲斐もなくパーティーに参加してそれで満足してるんだよ。2011年の3月12日に「東北に住んでる従兄弟と連絡が取れません」とツイートをしてからもうずっと更新してない誰だか知らない同じ会社の人のことだって知ってるんだ。知ったところでそれは何の切り札にもならないんだけど、私の安心毛布だからどうか奪わないでほしい。

安心毛布は内側にルブタンのスタッズみたいなとげとげがたくさんついてて、あったかく眠れる一方で目を閉じながらもずっと咳をしているみたいな感じがする。
自傷なのは分かってても、価値があったりなかったりすることは度外視してゴミも全部かき集めて情報に埋もれて落ち着いていたい。

スクロールしても永遠に見終わることのできないツイッターのアカウントがあれば、iPhoneのナイトモードをオンにして暗闇の中ひたすらに親指をすべらせ続けられるのに、そういうのはないからフォロワーを辿って終わりのある作業をしてる。もう更新のなくなったアカウントでさえ何か繋がりがあるんじゃないかと思って非公開リストにいれてコレクションしてる。しょうもない。

 

 

 

 
卒業式でゼミが一緒だった友達と写真を撮った。そのあとLINEで写真の交換をして終わった。もう二度と会わないかもしれないけど別に泣くほどつらいわけじゃなかった。学校で会ったときは楽しくおしゃべりをしたけど何が好きでどんな人と付き合ってるのかなんて知らなかったし学校の外で会うこともほとんどなかった。


バイトの最終出勤日に、その日出勤じゃない人がわざわざお店に来てくれてさよならを言いに来てくれたこと。その人たちはこれからもあのお店で変わらず働き続けるんだろうし、私が出向けばきっと嫌な顔をせず受け入れてくれると思う。頑張れば会えないわけじゃないということそのものが私を安心させてくれる。


バレエのスタジオから一人の女の子が辞めるらしい。お姉ちゃんがもともと通っていたスタジオに移動するから妹であるその女の子はあっさりと今の場所からいなくなってしまうらしい。

私の母とバレエの先生が些細なことで大きな喧嘩をしたときに、母は「もうバレエ辞めなさい、あの先生のところではやらせません」と私に言った。客観的に見て明らかに母が人に迷惑をかけたことが発端である喧嘩だったため、高校生だった私はバレエの先生や他の保護者に頭を下げてまわった。「うちの母が迷惑をかけてごめんなさい」と頭を下げた。母は更年期障害の出始めだったんだと思う、それを受け入れられないでいたし、私も母の変化がつらくて責め立てたこともあった。だから、だからというわけじゃないけど色々仕方がなかった。
先生に、「もうバレエ続けられないかもしれないんです、どうしよう」という話をしたときに、先生は泣いた。初めて先生の泣き顔を見た。これまでどういう家庭で育ってきたのか、お父さんはどんな人でお母さんはこんな人だったという話をしてくれた。独立して教室を始めてから、たった5歳の私に出会ったこと。スタジオが移転してもずっとついてきてくれたことが嬉しかったと話してくれたこと。今まで色んな人が先生のもとを去ったけど、そのたびにたくさん泣いて眠れない夜がたくさんあったこと。私が辞めるかもしれないという話を聞いて、今日も全然眠れなかったんだと話してくれたこと。

人が、どこかからいなくなることで悲しむのはわりと残された人のほうで、いまどき誰もが携帯を持っていて、頑張れば連絡が取れること、連絡先を知っているという事実がどれだけ自分を安心させてくれているか分からない。

頑張れば連絡が取れるのに、その少し踏み出す力が出なくて、それとか私がこれから働き始めたときに土日はちゃんと休みたいから人と会うよりも家で過ごすことを選択してしまうようになったり、色々あって今まで関わってきた人たちがもう交わらない人たちになってしまったりする。



坂本真綾は「この星が平らなら二人出逢えてなかった/お互いを遠ざけるように走っていた/スピードを緩めずに/今はどんなに離れても/廻る季節の途中に/また向かい合うのだろう」と歌い、

鈴村健一は「みえないリングにとらわれてる世界のなかで/君と僕が同じ道たどってる軌跡」とか「鞄の中ちゃんと整理して/持っていけない荷物別れ告げて/さあ踏み出そう 寂しいけど」とか歌ってた。

彼ら夫婦の、生きてきた道が本当に羨ましくて、人はそれぞれの道を歩んで、交差したり離れたりして別れも確かにあってどんどん荷物は増えていくけど大きい荷物は自分で持って、持っていけないものにはお別れをして、そういう生き方を私もしていきたいと思う。

昔の人に会いにいくときに、今まできた道を戻るんじゃなくて、これからの道を進んだ先で会いたいと思う。

私は人の気持ちが変わっていくのを見るのが好きで、人が変わっていくのを見るのが好きだから、それに良いも悪いもないし、人の生きてきた道を知るような、そういう変遷はすてきじゃないですか。

「一ヶ月前に会ったAと今会ってるAは 確かに過去は内包してるけど確実にぴったり重なるわけないのよ なぜなら時間が経ってるから その間会ってない期間があるから、だからそのときに 変化したことに関して変化を押しもどすような退行させるような発言ってあんまよくないと思うわけ」という話をした。

人との別れに慣れることはできないけど、別れのつらさに耐える練習をしないと、そのうちおかしくなってしまう。誰かがどこかで生きてる破片を収集しても、何にもならないんだってこと、ちゃんと分かってるのにな。