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束の間

例えば今私がストーカー被害に遭っているということを示唆的に話したとして、具体的な救済や精神的なフォローをしてくれる人がほとんどいないのはおそらく私の人望のなさとかよりも、私が他者に期待しすぎているということでもなく、社会や周りの人々がそこまで一人の人に踏み込まないで人生を生きていて、それが結局巡り巡って「やさしい」みたいな言葉で片付けられてしまうこと、自分の手で丸くこねてステンレスのバットのすみに置いておくことが最善だと思っている節があるという、そういうことに起因しているんだと思う。

 

はてな匿名ダイアリーで「3週間の休みをもらった夫が、専業主婦である我が妻の働かなさに愕然とした」みたいなエントリーを読んでいて、「亭主元気で留守がいい」ってあのフレーズを思い出してその通りだと頷いていた大学1年生の頃を思い出した。

 

先日人と会ったときに「やっぱり同期同士が仲が良いとその代の成績良いよ。仲悪い人たち同士だと数字あがらない」というような話を聞いて、そりゃ仲が良ければコミュニケーション取るし、より先手先手に気を遣って行動するから前に進むスピードもあがるよなと思ったのでした。

 

一昨日バイト先の後輩に告白された。

それまで仲良く話していたし仕事も気がきく良い子なのでわりかし構っていたのだけれども、根本として仕事場で恋愛をするようなタイプではない私はその告白をYESと言ってもNOと言ってもおそらくは今後働きづらくなるだろうなということは頭で理解していたつもりだった。

けど今日実際に飲食店のあの狭いフロアで一緒に働いて、こんなに連携が取れなくなるものなんだとは思わなかった。「夏休みの課題は7月中に終わらせてあとは遊びたい」「仕事を終わらせてなるべく早く帰りたい」系の私にしてみれば、とにもかくにも告白されたことに動揺せず、感情を持ち込まずさっさと仕事をこなしたいのに、相手も、私もなんとなく気まずさがあって今までより遅い退勤になった。

 

先の人が言っていたのは、同期同士で悪口を言い合うようなやつらは仕事も思うようにできないことが多い、みたいな文脈で話をしていたような気がするけど、今回の件でその人の言葉に個人的解釈として良くも悪くも幅が出てしまったことになる。

 

仕事場に恋愛を持ち込みたくないし、例えば飲食店のアルバイトとかじゃなくて、会社の部署Aと部署Bの人間が付き合うとかならまだ距離感があるし理解も追いつくんだけど、同じクラスで付き合うなみたいな、あまりに距離感が近すぎるとちょっと自分の中で受け入れられないものがあってかなり引いてしまった。どっちに転んでも気まずくなるんだからそもそもやらなければいいだろみたいな考えはないのだろうかと思ってしまった。

 

彼が告白する時点で余程の自信があったのかは知らないけど、フラれたときの可能性やリスクヘッジはどれくらい行っていたのかなと思うとやや懐疑的になるというか、20歳超えてさすがにそういう恋愛の仕方は子どもっぽすぎるでしょうと呆れる部分もあった。

 

好意が見え隠れすると、他人の感情の機微にあまり敏感でない人間でも「ああこの人は私のことが好きだな」と分かるものだし、その「分かり」でさえも負担になるということを知らない人が多いのかもしれない。

「フラれたけど片想いはしてもいいですか?」とズルイ質問を投げかけて、許可をされたいだけ。自分で決めればいいだけのことを相手に承認してもらって保つみたいな方法、他人からの承認を得たというだけで付加価値をつけてしまうみたいな行いは醜いからやめてほしい。そのあとも既読スルーしてるのに延々とLINEを送りつけてきて、そういう行為が相手の言う「片想い」だったんだと気付いたときすでに遅しで、なんとかもう二度と会いたくもないのに今日も頑張ってバイトしてきた。人に言葉を送ることそのものが負担になるケースもあるんだと気付いてくれる日がいつか来たらいい。ブロックしたけど。

 

話は戻って機能不全の夫婦の話。

本当はもっと簡単に解決できるようなことでも、コミュニケーション不足でダメになってしまうケースが多すぎる。「察してもらえる」だとか「分かってもらえる」だとかは相手に期待をかけすぎているからやめたほうがいいと思うという一方で、人間たまには褒めてもらえないと生きがいがなくなってしまうというか、褒めてもらえないこの行為に意味なんてあるのだろうか的思考に陥って、作業がおざなりになってくる。

 

いつか父親に「あなたはあまりに自分の妻のことを叱りつけすぎる。褒めもしなければ敬いもしない。家事をやっているのが当たり前だと言って、誰が稼いでやってお前たちを食わしてやってるんだと図に乗りすぎている」という旨意見したときがあって、その翌日からなぜか父親はここ数百年はやってこなかったというような手つきで皿洗いをしていた。

 

父親の態度から滲み出ている「皿洗いをしてあげている」感に腹が立ち、母親も「なんで洗ったものをあそこに置いたままなんだろう」と今更皿洗いをやられても逆に迷惑というか、そこは私のテリトリーだからやらなくていいよという顔をしていたのを思い出す。

圧倒的コミュニケーション不足を感じる光景だった。

 

「いつもご飯作ってくれてありがとう」とかは言えないにしても、「今日のご飯おいしいね」くらいテレビに目を向けながらでもさらっと言ってくれたら勝手に喜べる仕様に女(主語が大きい)は設定されているし、「今日のご飯味薄いな」と言いながらタバスコだの七味だの醤油だのをバカスカかけたゲテモノを食べたその口をぼんやり開きながら皿洗いをされても困るというか、その姿勢は誠実ではないと私は思うのです。

 

具体的な行動で示すよりも、3秒くらいで終わる発話のほうが効果的な場合があって、会話を発端に行動が明示されていけばそれはそれでいいのかもしれないんだけど、先回りして、人間が物理的に楽になる方法といえばコレ!家事!からの皿洗いだったのだろうなと思うと諸々が悲哀に満ち溢れてくる。

 

今期は『逃げるは恥だが役に立つ』をもれなく楽しく見ていたけれども、あのドラマで描かれていない沈黙の部分ってきっとたくさんあるはずなんですよね。ドラマという便宜上みくりと津崎の間にはまあまあ絶え間なく会話があったし会話がないときには非言語のコミュニケーションをしていた。ハグをしたりキスをしたり手を握ったり、その一挙手一投足に視聴者は発狂するわけですが、本音としてはどこか気持ち悪さを拭えないまま最終回を迎えてしまったわけです。

 

津崎が「(我々の関係性やあなた自身の突飛な行動は)最初から普通じゃありませんでしたよ」みたいなことを言うシーンが最終回にあったはずなんですけど、あの「普通じゃない」発言の一方で、視聴者はあのドラマを見ながら共感する部分も結構あったはずで。

 

確かに主婦の行う「家事」というのは仕事なんだから給料を支払ったほうがいいのかもしれない、という気づきを与えてくれただけでなく、必ずしも恋愛の延長線上に結婚があるわけではないというメッセージも示していたように私の目にはうつった(多分)。

 

パートナーが塞ぎ込んでいるときにいかにその檻を外してやれるか、もしくはパートナーを檻から助け出してやれるか、石田ゆり子演じる百合ちゃんが「自分に呪いをかけないで」と言っていたのは、あの女を武器に生きている感じのガールだけでなく、百合ちゃん自身にも、みくりにも津崎にも風見にも、そして視聴者にも向けられていることで、過去に他者から言われた言葉をフラッシュバックするごとに自分で自分の首を絞めるような真似はしないで、自分の価値を勝手に決めつけて生きるようなことはしないで、視野を狭めたまま生きるよりももっと楽ではないかもしれないけどつらくない生き方はあるんだという、あえて「同じ土俵に立たない」ことで無駄に自分を消費しない術を持った生き方もありだし、そうじゃない生き方もありだし、年齢とか立場とか諸々の呪詛に縛られすぎないほうが良い、という、お話。

 

25日空いてるので誰かご飯誘ってください。