SONGSに出てたaikoを見た。
aikoがときどき見せる鬼気迫る歌い方は、私がやりたいポーズの一つで、「本当はもっと言いたいことがある、分かってもらいたいことが死ぬほどある、怒りたいことも泣きたいことも悔しがりたいことも、数え切れないほどにあるんだよ、なあ、おい分かってんのか、おい」と自分の感情がグチャグチャになってるときの私は頭の中でああいう感じで脚を開いて前傾姿勢でマイクに叫ぶみたいなポーズをしている。本当は大声で言いたいことがたくさんある。
あなたを愛していた もうそんな事も忘れた
冗談まじりに運命を信じていた
今は元気にしてるの?ねぇ本当にあの時抱きしめてくれたのはあなただったの?
受け止められない程 身も心もこの愛も
遠くに離れていってしまったのね
いつしか熟して腐ってく良いことや悪いことを
泣いて抱きしめる力が欲しいんだよ *1
かつて私が依存していた人間は、教えてもいない私のツイッターアカウントを知っていたが(半分私が教えたようなものではあるけど)、それを詰めた際に「きみが心配なんだよ」というようなことを言っていた。
本当に心配をかけていたと思う。彼から見ればあまりに不安定で、またいつ自分の体を文字通り簡単に他人に差し出すか、最低ラインを定められていない大学生だった自分のことが。
セフレが「愛のないセックスはいらない」って言うの虚しさ通り越して泣きそうになるけど、セックスは良くも悪くも相手との距離を近づけてしまうし、一度セフレ認定した人間を恋人に上げるような他人なんていないし、お前は誰の思考も思想も変えることはできない、思い上がるのもいい加減にしろ
— 赤埜よなか (@_ynk) 2018年6月14日
こんなことを言えるようになるくらいには、身も心もこの愛も遠くに離れた。でもときどき連絡したいという気持ちはまだまだある。歳の離れた友人・知人として食事にでも行けないかなと今でも思う。会えなくなったとしても確実に私の人生において、あのときにいてくれなかったら今頃ダメになってたと本気で思う。会えてよかった、会い方が間違っていたとは思えない、よりよい会い方はあったかもしれなあと思うけど、20歳だか21歳だかの大学生のときに出会えて本当によかった。ありがとう。
近況。
世の中のことも仕事のことも趣味のことも昨日放送してたテレビのことも恋愛のことも一人暮らしの夜ごはんのことも死ぬほどどうでもいいと地団駄を踏みながら、「おまえが興味あるのは男とセックスとジャニーズと自分のことだけ」と依存先の人間に言われたときのダメージを反芻して自傷を繰り返している。
好きな人、私が勧めた映画とか観ない人で、一方の私は律儀に勧められた物は見聞きしてるんだけど、そういうところで何かを測ろうとするのはやめようやめようって思うのに、「なんで見てくれないんだろう」って疑問に対して「男だから」っていう理由をつけそうになる自分が恥ずかしくて返信に体力を使う
— 赤埜よなか (@_ynk) 2018年6月16日
好きな人が私のことを好きになってきたので、私は好きな人のことを好きじゃなくなってきた
— 赤埜よなか (@_ynk) 2018年6月14日
最近の自分は恋愛をしている、ように見えるだけで、やっぱり恋人という存在を得て安心をしたいだけなのかもしれない。
かつての依存先の人間がまだときどきにでもツイッターを見てくれているのであれば、それは「きみが心配なんだよ」と言ってくれた相手に対して心配する材料を自ら減らしていることになって、余計に離れていってしまうような気がして寂しいという思いもある。自分は他人を使って安心したがるくせに、他人には安心せず心配をしてほしい、心配してほしいというか目をかけてほしいというか、究極「私の存在を忘れないでほしい」に尽きると思う。どれだけ立派な人間になったつもりなんだろうって感じがする。
ツイッターでは呼び名として「好きな人」って言ってるけど、本当に好きなのか怪しくて、好きな人って言葉にして残すことで好きな人なんだって思い込もうとしてるきらいがある。
2週間に1度食事をする、「来週はこの日空いてますよ」って言っても、「ちなみに再来週は?」って返されて毎週は会えないみたいな、他人との距離をしっかり取ってくるタイプの他人なので、子どもっぽい感情を持ち込まずに冷静に関わっていけたらなと思っている。
人間関係は折り合いが大事なので、期待値あげすぎずにやっていきたい。