私は自分の名前を呼ぶ

 

母は生まれる前の私に『瑠璃』という名前をつけたがっていたらしい。私の祖母も母には同じ名前をつけたがっていたらしいが、結局その名前をつけられることはなかった。

 

その理由の詳細は忘れてしまったが、漢字が難しいことや画数が原因だったように思う。

 

彩りの多い人生を送ってほしいという意味を込めてつけられた今の名前。姓名判断の結果が良かったこと、父親がKiroro金城綾乃を好きだったこと、自分たちの子どもにこんな風に育ってほしいという願いも親は納得済み。

 

なんだかよく分からないけど諸々の理由でつけられた今の名前に導かれるように、本当に我ながら彩りの多い人生を歩んで来たと思う。良いことばかりではなく、もちろん悲しいことも、自ら道を外したこともあった。

 

 

どうして私が一周回って2018年にKiroroを聞いてとてもつらくなっているのか、今まで彼女たちの曲は「仕事に忙殺された結果、愛する人との時間を疎かにして別れてしまった人の失恋ソング」だと思って聞いていた。

 

父親が丁寧に便箋に書き起こした、女みたいな丸文字で書かれた『長い間』の歌詞は、子どもながらに仕事を頑張る父親が家を疎かにしてる自覚をしているんだろうと思って、別に父親のことなど大した好きではなかったけど、直接母親を労わるような人でもないけど、それでも心の中では母親に申し訳ないと思っているんだ、そういう曲なんだと思っていた。

 

でも改めて聞いてみると「長い間待たせてごめん また急に仕事が入った いつも一緒にいられなくて 淋しい思いをさせたね」という歌詞なんて、似たようなことを言われた経験が私にはあるし、そんなことを口にする人は決して私のことを愛している人ではない、ただ私がその人のことを好きで仕方がなくて、仕事のせいで会えない日もいつかきっと会える日が来て我慢も報われるのだろうと思っていた。

 

本人からは何も言われないけど、今やインターネットには情報が溢れている、間違っていると頭では分かっているのに好きで仕方がないから都合のいい関係でもいくらでも続けれる。

 

罪悪感がないわけではないけど、私だけが悪いわけではないし、相手も悪いところはある、そもそもこれを悪だと決めつける社会そのものが何十年後かの世界では正しいことになってることかもしれない、そうやって自分をなだめすかしている時点でダメだった。

 

「愛してるまさかねそんなこと言えない」、言ったら関係性が終わるから、気持ちは持つけど表明はしない、それでなんとか繋ぎ止めていたもの、会わなくなっても連絡先だけは繋がるようにしておいてほしい、どこかでブログやツイッターをやっていてほしい、ただ生きていることを私に確認させてほしい、立ち去ろうとしている人の足につかまってズルズル引きずられてるうちにボロボロになってしまうんだろうなと思う。

 

小学校のときからの友達、高校時代の友達、インターネットの人、会社の先輩、色んな人と遊んだりご飯に行くけど、好きな人といるときの自分の万能感はもう感じられなくなった。

 

すごく賢いわりにバカなところもあって、そこまでディープなインターネットのことは知らなくて、Mステで流れるような音楽ばかり聞いていた、策略的に人生を送っていた人の、一部の歯車にしか過ぎない私はもう終わったのだ、私は私が主役の人生を生きるのだと今は強く思っている。

 

親にLINEもショートメールもブロックされて妹に「やばありえな」って言われても、別にそんなことが人生において大きな影響を及ぼすわけでもないし、

 

友達と会うための時間や体力だってまだあるから大丈夫、そういう時間を作ろうと思うことはまだ億劫ではない、会社と家の往復になって休みの日は休みたいと思うようになったら終わり。

 

仕事を始めてもバレエはずっと続ける、セクハラは偉い人に訴える、先輩からの「せっかくの休みなんだから旅行いかないの?」という旅行ハラスメントもどうでもいい、今の時点で学生に「今のうちにこういうことしておいたほうがいいよ」と言えるほどの人間でもない。

 

ただ好きなものや好きな人がいて、それを誰かに話すしかできないけど、人に言わない部分では自分だってそれなりにハードな経験だってあったけど、それを見せびらかしてイキるんじゃなくて、一つ一つ自分の糧にしていくしないんじゃないのかなと思う。

 

別にそういう自分のハードな人生を人に話したところで他人にはコンテンツにしかならないとこれまででよく分かった。経験を話すことで人が何か変わるってそうそうないんじゃないのかな。

 

被爆者が戦争の体験を話しても、つらいなとは思うけど具体的にアクションを起こせる人ってそんなにたくさんいるものなんだろうか。

 

人の話をインプットとしてアウトプットを目に見える形で提出することは本当に少なくて、なんか心のどこかに星の砂みたいなものが堆積して、そのうち何かの拍子に思い出すのがせいぜいなんじゃないのかなと思う。

 

人に変わってほしいと思ったときはまず自分が変わるしかないから、自分が変わるための選択肢を多く持てるように星の砂を貯めておくしかないんだろうなと思う。

あんまり死にたくなくなった

 

あんまり死にたくなくなった。

 

今までなら満員電車で私の臓器を潰さんばかりに「どうせお前その鞄は会社の床に置いてんだろ」というような鞄で押してくるサラリーマンとか、ヨロヨロ歩くせいで追い抜かせてくれない人間とか、ハイヒールの音がうるさい歩き方の汚い女とかをすれ違いざまにナイフで斬って歩いているような気持ちで毎日を生きていた。

 

いつも「どうして自分に被害が及ぶことでもないのにそんなに怒れるのか」「それは自分のルールに周りが従ってくれないのが許せないコントロールフリークだ」と言われ続けてきたけど、別に私はマジに怒っちゃいるけど、改札の駅前でイチャついてる微妙なカップルを見て「今すぐやめてくれ、その人間性を変えてくれ」と思っているのではなくて、ただ「死ね」と思いながら舌打ちをして横を通り過ぎるだけなので、まあなんというか怒るのが趣味なんだと思う。

 

だいたいの人間は怒りたくて怒ってるのであって、相手に変わってもらえると期待値がある人間に対しては怒らないんですよ、期待値がないような人間と認められない置物みたいなものに対して怒る、何の意味もないのに、何の意味もないけどその怒ってる相手が本当はただの置物ではなくて、実の妻だった、実の恋人だった、それに気づいたときに置物としてどうせ変わらないだろうと思っていたものがいつの間にか粉々になっている、そういうことが世の中にはたくさんある。あなたに変わってほしいとは思ってはいたけれど、壊れるとか砕けるとかそういう変化は求めてなかった、とか言うんじゃねえ壊したのは間違いなくお前だよ。

 

 

最近は仕事場で信頼を集める遊びをしている。

 

 

会社の偉い人に言われたのは、「仕事の依頼者は相手がどんな行動をしたら安心してくれるか」ということで、答えは一つじゃないにしても、段階を踏んで成果物を見せること、今日はここまでできました、残りはこれくらいです、をちゃんと相手に伝えること、実際に作業をしているしてないに関わらず、自分の進捗をいかに可視化するのが新人のうちは大事だよと教えられた。人は不安だとそのことばかり考えてしまう、安心していると意識は少しは軽くなる、他人の工数とか時間とかお金のコストもあるけれど、精神的なコストの消費を減らせるんだと思う、他人を安心させるということは。

 

ということはつまり仕事の自由度があがるということだし、逐一自分の行動を監視されて「この手順違うよ」とすかさず言われて「ウザいな~この先輩は~なんでこうもウザく育っちゃうかな~は~あ帰ってアイス食べたい」と思わないでいられる、「もしかしたらこっちの手順のほうが楽にミスなくできるんじゃね?」みたいな自分で実験できる場を自分で作れるのは良いことだと思う。

 

人に物を教えるときは「聞かれるまで待つこと」、とどこかに書いてあったけど、指導してくれている先輩もそんな感じで、基本的なことは教えてくれるけどそれ以外は聞くまで教えてくれない。間違えたときに初めて教えてもらって、「これってこういうやり方もあったんだ」と背中の後ろに隠していた手のひらを見せてくれるような、そういうところが、すごく巧いなと思う。人の扱いが上手だと思う。

 

私は塾講師とかバレエの先生とかやっていて思ったけど多分誰かに何かを教えるというのがすごく下手なので、そういう勉強も今後はしていかなければならないと思う。手取り足取り全部教えようとしてしまうきらいがあって、それは自分が安心したいからなんだけど、教えられた側にとってはボリュームが多すぎて耐えられなくてパニックになる。もう来年度新人入ってきても仲良くできる自信ないよ~~(泣)

 

 

まあそんな感じで、すごくすごく生気に満ち溢れているわけではないけど、別に仕事辞めても死なないしな、このメールの誤送信で人生終わるわけじゃないしな、いざとなったらどこかの飲食店でバイトをやればいいし、最悪無職になっても大丈夫だよな、という気持ちでいる。

 

別に会社の誰かがインフルだから自分は休んではいけない、なんていうのはないし、誰かのせいで自分の行動が制限されることは思いのほか少ない。だいたいはそう思い込んでいるだけで、世の中は自由度が結構高い。

 

高校のころ、「私もライブ行きたかったけど時間なくて行けなかった~」って言ってる同級生の友達を見て、「は?それは自分が時間を作らなかったというだけの話で時間がないわけではないでしょ」と思っていたけど、学生でも社会人でも時間とお金がないことは本当に何の言い訳にもならない。あるひとつの方法で無理なら他の方法を考えてくれ。

 

毎日が死にたいと思えるほど暇じゃなくなったのもそうだけど、自分の気持ちを俯瞰してインターネットで言語化することが好きだし、自宅と会社の往復になるのがイヤだなあと思ってたけど別にそんなことはなく帰りに同期とご飯に行くこともあれば一人でお店開拓もする、自炊もする、このまえはカレーを作った!(初)、今週のお菓子を買い出しに行ったりもするし、筋トレしてプロテインも飲む、一人暮らしを始めてから自分で自分を生かせている感覚が強い。

 

自分は自分によって生かされている、もちろん他人の協力もあるけれど、どの他人からの協力を得たいかくらいは自分で選んで生きたいと思う。同じ仕事をやっている人たちにしてもあいつは使える、あいつは使えないの判断を自分の目でしていたい。

 

あんまり死にたくなくなった、生きるにしてもどういう手段で生きたいか、結局自分はどういう人間になりたいんだっけ、どういう人間にはなりたくないんだっけ、を考えるようになった。何のためにこれをやってるんだっけ、と後づけでもいいから考えるようになって、自分の動かす手が少しは惰性的ではなくなった気がする、私のアウトプットが次の誰のインプットになるのか、分かるときと分からないときがあるけど、それでも前よりはただ「お金のために働いてるだけ」っていう感覚はなくなった。

 

あんまり話していない会社の人に話しかけなければならないときはいつも緊張するけど、エイヤッで終わらせてしまえば大したことはなく、むしろ親切にしてくれる場合が多いので、だいたいのことは自分でなんとかしていくしかないんだと思う。

彼女たちの正義

 

glee』を観てる。

 

受験とか就職活動とか、どんな本を読もうとか、どんな映画を観ようかとか、ご飯は何を食べようかとか、誰もが人生においてこれまで自分で選択してきたものがたくさんあるけど、選択をした時点ではその結果が正解なのか間違いなのか誰にも分からない。

どうしても止められない衝動に駆られて夜中にアイスやお菓子を食べる生活を続けた結果2kg太った。昨日思い立って運動をしまくったら2kg痩せた。行き当たりばったりで生きているので自分で選択回数を増やしがちな人生ではある。

それでも結局は自分で選択したものを、自分で正解にしていくしかないと私は思ってる。


glee』も例外なくそんな人生を生きている人たちがいて、登場人物それぞれに正義があり、そのせいで諍いもまあまあな頻度で起こっている。本音を言ってしまえばストーリーはお粗末なものもあると思う。それでも観てしまうのは、このストーリーの不十分さ、完璧ではないところを補完するようにして視聴者側が考えなければいけないからだと思う。

   *

Seoson 2の冒頭でクインとサンタナが喧嘩をするシーンがある。

「私が豊胸手術したことチクったでしょ!」
「事実じゃない!」
「アンタみたいに妊娠しちゃうよりはマシよ!私は目立ちたいだけなの!」

クインにもサンタナにも自分の正義がある。
自分の選択した人生や、場当たり的にそうなってしまった人生がどうであれ、いま自分で下した決断というものにはちゃんと理由付けをして生きている。

クインにとってはチアリーディング部に入るということは自分で選択したことだろうし、Seoson 1での妊娠のエピソードは自分の選択ではない、ただ妊娠の仕組みを知らなかったというだけの話。

サンタナにとっては豊胸手術は自分で選択をしたことであり、手当たり次第に男とセックスをすることはそうすることで彼女が束の間の救済を獲得することができるから、これも結局自分で選択していること、選択せざるを得ないほど自分では無自覚に、彼女が苦しんでいるように私には見える。

一方で、「喧嘩はやめて(Don't stop violence.)」と喧嘩の仲裁に入るブリトニーは、これまで「gleeでブリトニーの曲をやるのはいやだ、私の名前はブリトニー・S・ピアースだから」と物事の好き嫌いはあるけど、あまり自分の正義とか信念があるようには見えない、S2の今のところは。

そしてそれ以前の問題として常識というものが備わっていない、言われたことを言われたようにやるだけ、だから流されて生きているように見えるけど、その実、他の人であったら常識にとらわれて足がすくむような状況においてもブリトニーは難しい顔ひとつせず簡単にそれをやってのける。だから悪気なく選曲リストを他校に渡すようなことができるし、チア部の顧問であるスーの言いなりになって「ビーストに痴漢された」と平気でウソをつくことができる。

そのあと周りがどうなるかなど全く考えていない、そのあと自分がどういう目に遭うかさえも考えていない。

ここがブリトニーの良いところだと私は思うし、この生き方が今後サンタナを救済するんだと本気で思っている。

 

 

 

 
S1を観てる途中なのに今後ブリトニーとサンタナが活躍するだろうと予期してここまで勝手に妄想できるのはさすが元腐女子、元声優オタクのなせる業という感じがしてさすがに笑っている。S2観はじめてこのツイートがあながち間違いじゃないんだろうことはなんとなくツイッターの人とかを見てても分かるので、ひそかにガッツポーズをしています。


さて、何事においても当事者意識のないブリトニーはgleeのオーディションで目の前にめちゃくちゃ歌のうまい女の子が現れても表情ひとつ変えずただ眺めている、傍観している。彼女はいつも傍観者ではあるけれど、傍観して得られたものを言語化するのがとても下手、自分がインプットしたものをアウトプットして、次の誰かのインプットに繋げることがなかなかできない。

とはいえS1でチアリーディング部が大会で優勝して、スーがテレビにインタビューをされている後ろで、サンタナとぴょんぴょん飛び跳ねてハイタッチしている様子は本当に嬉しく感じているんだろうというのが伝わってくる。
ただ、優勝した事実そのものが嬉しいのか、優勝して嬉しがっている周りを見て嬉しくなっているのか、そこまでは分からない。そこまでは描かれていない。だから冒頭でも書いたように、視聴者側が考えなければならない、想像しなければならない。
「このときのブリトニーは何が嬉しくてあんな笑顔を浮かべていたのだろうか」と。

S1の最終回、大会で負けてメンバー全員が落ち込む中、全員でウィルに向かって歌うシーン、あのときサンタナは本当に悲しくて泣いているように見えるけど、ブリトニーはそんな様子のサンタナを見て悲しい顔をしているように見える。

ブリトニーにとって事実かどうかは大して重要なことではなく、目の前の大切な人がどう感じているかだけが重要で、最優先事項で、それで生きているような女の子だと思う。

 *

「一人でデュエットなんてオナニーみたい」

サンタナがS2 4話でカートに言い放つシーン。
「他人という器を使ってオナニーしてんのはお前も同じだろ」という気持ちで見ていました。

誰かとするセックスが一人のオナニーよりも優れてるなんて、そんなことは決して言えないし、誰かとのセックスが一人でするときより虚しいときだってあるだろうに、きっとすごく怖いんだと思う、一人になることが、誰かにウソでもいいから、愛情なんてなくていいからキスをされることで、抱きしめられることでやっと自分の足で立っているような状況で、恐怖を抱えながらも堂々と一人で歌うカートの姿を見るのがすごくつらいんだろうな、サンタナ


何話か忘れたけど、カートのお父さんが入院して、みんなで神様を信じるか信じないかみたいな話をしている回があって、誰もが救済を求めている中、その救済を誰に求めているか、神様に求めるのか、実在する彼女に求めるのか、結局それだけの違いなんだろうと思う。みんな残らず救済されて次の試練に立ち向かってほしい。


「神様は信じないでいいけど、でも扉は閉ざさないで、すばらしい世界があるかも
 (I know you're not really spiritual or whatever…,
 but, I feel like you're closing yourself to a world of experiences that might surprise you.)」

メルセデスがカートにそう話しかけるこの台詞をまんまサンタナに言いたくて泣きそうになったのが本日のハイライトでした。

 *

ここでツイッターで話すとgleeファン以外のフォロワーがうるせえよって言ってくるかもしれなくて怖くて言えなかったS2のgood pointを供養します。

<1話>
・ウィルとスーがビースト相手にピザを何十枚と注文する悪巧みをしたときの二人の表情が超最高にイイ

・自然の摂理に反してでも目立ちたいという理由で豊胸手術をするサンタナが可愛い

・ビースト痴漢冤罪案件。ブリトニーの「むしろ私が触りたい」発言

・リアルに『ドリームガールズ』のオーディションを受けたアンバー・ライリーがいる目の前でオーディションの曲として『ドリームガールズ』の曲を選曲するセンス

・オーディション時、静かに人の歌を聞くブリトニー
 サンタナはわりとS1のときからニコニコしながら人の曲を聞いているけど、ブリトニーはずっと真顔で言語化できない感情をゆっくり整理しているように見える。曲が終わったあと腕をぐるぐる回して「よかったよ~!」って伝えているのが可愛い

<2話>(ブリタナお当番回につき神回)
・ブリトニー「むかし拉致された宇宙船によく似てる」

・ブリトニー「歯を抜かないで。子どものお尻みたいな顔になる」

・ブリトニー「歯ブラシは青がいい」

<4話>
・ブリトニー「優しいキスがすき」
 サンタナ「私はヤりたいの」
 ブリトニー「私はただ…」
 サンタナ「ぬくもりを感じたいだけ」

・食事券もらえると知ってめちゃくちゃやる気を出すサンタナ
 ご飯食べるのが好きなんだなと感じるシーンで個人的にめちゃくちゃ好き。
 食事とセックスが好きな女の子超健全児童かよ。

・ブリトニー「あなたのことロボットだと思ってたの」←可愛い

・自分がメルセデスとデュエット組むのはいいけどブリトニーが他の子とデュエット組もうとするのは許せないサンタナ可愛い

・ブリトニー「でもあなたと行きたい。『わんわん物語』みたいな長いパスタを注文する」可愛すぎて頭を殴打されて軽く意識飛びかけた。


いつにも増して気持ちの悪いブログですね、おわり。

平日

 

人との会話に飢えている気がする。
一人暮らしを始めて数ヶ月。ずっと前から住んでいたみたいな顔をしてスーパーで20%引きのベーコンを買ってスクランブルエッグと一緒に食べている(夜ご飯)。

ネットで頼んだはずの再配達が来なかったり、近所ではハーゲンダッツは199円で売っているのにコンビニでは270円くらいしている、社内でセクハラ被害に遭っているから「どうかアイツ宛ての電話ではありませんように」と祈りながら電話対応をしている。

 

問題は加害者だけではなく、問題を問題として扱ってこなかった周りの人間にもある。
人は仕事をしているふりをしているだけで、その実なにもうみだしていないということが往々にしてある。
人が死に、妊娠している。

 

昨日はラジオを聞きながら爆笑していたのに、今日はベッドでボンヤリしているだけで22時を過ぎた。今週は金曜日が祝日だから頑張れるだろうと思うのに、何がつらいというわけでもないのに疲れていて、それをラジオや音楽やインターネットで一時的に癒しているにすぎない、AVを見ながら変なタイミングで達したわりに翌朝はけだるさが残っている、ずっと食べたいと思っていたジャンクフードを食べたはずなのに満たされている感覚は薄い。

布団の上の髪の毛、床に散乱したペットボトル、テーブルに置かれている再配達の紙。

人生をどう生きていきたいとか、自分はこうやって幸福になりたいという目標はないけど、自分の時間を自分の思うように使いたい、自分で決めた忙しいスケジュールを漏れなく遂行できるような元気がほしい、元気がないけど深夜にアイスを3本も食べたりする。

海に行きたい。

私に価値を見出す人間、それは若さであったり女という性別であったり、趣味、話し方、容姿、性格、別になんでもいいし相手にとって私という人間が何かしらの利用価値があるのならそれでいいんだけど、そういう他人と海に行って何をするでもなく生きていたい。生きていたいなあという気持ちが強くて泣いている。

私はきれいな写真は撮れないし、ハイブランドの化粧品を買うお金もないし、良い喫茶店や良い洋服や良い場所も知らないけど、自宅近くの商店街や、いつも使う電車の読書率が高いことや、スーパーの店員さんの愛想がすごく朗らかであることはよく知っていると思う。

言語化できるイベントが発生したことによる、感情のゆらぎ、たとえば冠婚葬祭、そういうことは何もない。

ひたすらにプロ野球を見ながらずっとつらい、胃袋に鉛を落とされたみたいになって、人間はこうやって生きているんだなと、親、学校、練習、食事、好きな人、好きなこと、睡眠、仕事、運、天気、季節、電車、みたいなことを思っている。
1塁と3塁にチームメイトがいる、試合はノーボール・2ストライク・2アウト、これで自分が打たなかったら、打てなかったらチームに点が入らないままその回は終わる。

 

これまでの誰かの努力、これまでの誰かの声援、これまでの自分の練習、これからの自分の人生、これから、

誰か一緒にご飯でも行きましょう。

生活をしなければならない感と譲れないもの

いま自分が何を悩んでいるかというと、特に何も悩んではいないのだけれども、一人暮らしを始めたことによる生活をしなければならない感、(たとえば洗濯、たとえばお弁当箱や水筒を洗わなければいけないこと、三食きちんとたべなければいけないことなどを生活をしなければならない感と指す)、が労働を人質に取られているから強制的に義務になっている状態がなんとなく心身ともに疲弊する原因になっているように思う。

 

本当なら労働などしたくないし、生活をしなければならない感など幻であって、先輩のようにフケがついたまま出社するかとも可能だし、食事をしなくとも洗濯をしなくともお弁当を作らなくても全く何も問題はない。

 

何も問題はないし、自分に強制してるわけでもなく、同期が手作りごはんをインスタグラムにあげて自意識を保っているように私もインスタグラムに花の写真をあげたりもした、誰にも強制はされていない。「素敵な生活をしてるのね」、と少しは思われたい、「機能不全家庭に育ったあなたは社会人一年目にして頑張って一人暮らししてるのね」と思われたいのはもうすごくすごくある。

 

ただ実際は、退勤後に最寄りのスーパーに寄ってピーナッツチョコを一袋買ってそれを一夜にして空にしてしまうような、チョコボールを箱買いして一週間で食べきってしまうような、ベビーフットをしたがために自分の足の皮がべろべろにめくれてそれが部屋に散乱してしまうため1日に5回は掃除機をかけているような、お風呂に入らないまま眠りについて昨日の前髪ケープをシャンプーで落としてまたコテで前髪を巻いてケープをかけている、疲れているとアダルトビデオを探す能力も低くなって、質の悪い性欲処理に明け暮れて翌日ぐったりしながら会社に行ったりするようなそんな生活が本当のこと。

 

コスメデコルテのクレンジングやシャネルのパウダーとか、お金をかければ手に入るものは楽に快楽を得られるから便利、時間もお金もないけど簡易性な快楽は疲れないから、「最近の女の子は強烈にイクということを知らないよね」と誰かが言っていて確かにその通りのような気がしたけど、そんな感じで便利に世の中を生きている。

 

✳︎

 

会社の人事は本当に良くも悪くも人柄の良い人を探すのが上手だと思う。悪くも人柄が良いというのは、残業代がもらえなくともお客様のために仕事をするとか、相手を蹴落としてまでのし上がろうという気持ちがないことであったり、メリハリがなくダラダラと働き善意だけで成り立っている生産性のないザ・日本的企業に染まっているということ。良い面は、私の所属する事業部は、OJTコーチと新人の相性がすごく良いこと。コーチにとっても教育しやすく、新人にとっても価値観が合わない人間だから仕方がないわみたいな諦めがあまり発生しない。

 

先日他事業部の偉い人にプレゼンのレビューをしてもらったときに、「プレゼンの内容は良いんだけど、それでじゃああなたは何がしたいの?何をしていきたいのか、自分の意思を表明して」と言われて困ってしまった。

 

私が新人だからか、そもそもの人間性が問題なのか分からないけど、4月から社会人になって「こうしていくぞ!」とか「こうなっていきたい」みたいなビジョンが本当に全くない。お金のために取得したい資格や、できるのであれば年収をあげてそれなりの生活をしたいとか、そういうのはあるけど、自分がこの会社でどういう評価をされたいのかという感情がない。

 

秀島史香さんの本で、「誰にどんなふうに見られたいのか決まればそれに反する行動はしなくなる」と書いてあった。「常に上機嫌な人に見られたいのであれば些細なことで怒りはしないだろう」と。「私が目指している人間はこんなことできっと怒らない」、そんな考え方できる日がいつか来るのかな。

 

みなさんはどんなふうに見られたいとか、そういうのって持っていますか。

 

人の目を気にしているわりに、人からどう見られたいか戦略がない。

 

本当の私は早食いで早歩きだけど、誰かといると緊張して遅食いで遅歩きになる。そんなこと自分が分かってればいいだけの話で、「マイペースだよね」と言われても、「あなたには私がマイペースに見えるんだふーん」で終わらせられたらいい。

 

書いてて気づいたけど、「こういうふうに見られたい」はないけど、「こういうふうに見られたくない」というのはある、一人暮らしの部屋を決めるときもそうだった。「希望はないけど、この条件に合致しないの嫌だ」と消去法で生きてきている。

 

いつでも検索結果3000件を全部眺めて良さそうなのをお気に入りに入れて決選投票をするような人生。

希望や願望が言語化できる形として、ない。

 

 

仕事だってみんながみんなこれをやりたいと思って働いているわけではないだろうし、嫌なことがたくさん、やりたくないことがたくさんある中で折り合いをつけて生きていると思う。

折り合いをつけることばかりうまくなって、これだけは譲れないというのが一つあれば上々だと思う。「全部やりたくないけど仕方ないからやるか」から「これをやらせてもらえるんだったら、仕方ない他の嫌な作業もやりますか」レベルに引き上げを図りたい。

 

たとえば人に愛されたいとか、わかんないけど。

 

これがやりたいみたいな意思がないから、生活をしなければならない感に追われてダラダラしてるんだろうな。なんとかしたいです。

 

私の行ける街

私の行ける街が減った。

 

平日は会社と家の往復で、土日はバレエばかりしているし、特に仲の良い友達と遊ぶところはいつも大抵場所が決まっていて、でもそういうことじゃない。

 

今の私の行動範囲を、過去の私が狭めている。

 

例えば、付き合っていた人と泊まった旅館や、手を繋いで歩いた水族館とか、好きな人と泊まったホテルや、たまたま時間が空いたからといって訪れたショッピングモールや映画館、いつも会うときに使っていた駅、連れていってくれたラーメン屋、そういった場所たちが、会社と家の往復の間にあって、ときどき友達と遊びに行く際に通り過ぎる駅だったりして、胸が変な風に締め付けられる。

 

今、ひとりでそういった場所に降り立つとして、私は自分の足でちゃんと立っていられるのだろうか、という気持ちになる。

 

思い出ばかりが反芻されて現実を直視できない。

 

いつも駅ビルの前でスマホをいじりながら誰かを待っていて、もうすぐ来るだろうなという気配を感じながらも顔をあげないでいたこと。きっと見つけてくれるだろうという気持ちが私の中にはあって、そういう過去の行いが今の自分を苦しめている。

 

待ち合わせのときに自分から相手を探そうという意思のない、きっと見つけてくれるだろうという待ってるだけの人が大嫌いだけど、それでも好きな人を待っている間は自分もそういうことをしてしまう。

 

これからバレエで使うシューズを買いに行く。

そのお店は、好きな人と過ごしたホテルの近くにある。どうしても躊躇ってしまうし、泣き喚いて今すぐ連絡しようと思うけど、過去に縋ってるみたいだし、自分の過去は、自分の思い出は、自分で背負っていかなければならないとも思う。

 

いつか時が解決してくれることなのかもしれない、他に付き合う人ができたとしても、他に好きな人ができたとしても、過去に苦しんでいた私を楽にしてくれた人、楽にしてくれた場所のことを忘れることはきっとできないんだと思う。

 

どこかの駅に降り立つたびに、「ここであの人を待っていたな」とか「信号を待つことさえも惜しくて、車の停まっている場所まで早足で行ったな」とか「『もうすぐつく』って連絡にすごく喜んでいたんだな」とか思う。

 

一人暮らしをするための部屋探し、住む場所探しをしているんだけど、そういう思い出の場所が私にはたくさんあって、好きな人と過ごした好きな駅の名前が無機質な音声として電車内に流れるだけでつらくなるから、あわよくば今行けば会えたりするんじゃないかとか、せめてすれ違ってあの人が元気に過ごしていることを確認だけできたらいいなとか、欲望ばっかりになって狂いそうになるから、誰かと生活をしたり、生活じゃないことをしたり、そのことはそのときだけのものじゃないんだなと思った。

 

好きな人がどこかで元気に暮らしていることを願っています。私もなるべく元気に暮らしていきたい、できれば自立という形で。

 

努力の方向性を変えられるよう親は子どもに対してアクションを起こさなければいけないんじゃないかという話

 

週一で通っているバレエのスタジオには中学一年生の女の子がいる。

その子が「来週と再来週休みます」と先生に伝えていたので理由を聞いたところ、「今度テストがあってその勉強をしなくちゃならないので」と言う。

「学校の成績悪いと親にバレエをやめさせられちゃうんです」と言うほど親は子どもの勉強的教育に熱心で、その一方で「親は私の大事な習い事であるバレエを遊びだと思ってる」とも言う。習い事も教育の一種だと私は思うんだけど、どうしても良い高校に入って、良い大学に入って、良い会社に入ってほしいという親の願いが強く、中学一年生の今から塾に週に何回か通っているとのこと。ここで言う"良い学校"は偏差値が高いこと、"良い会社"というのは大企業で年収がそれなりであることを指す。

これは別に誰が悪者であるとかそういう話じゃない。

彼女は家にいるときも勉強をしていると言っていた。
学校や塾の宿題だけでなくいつも予習や復習としていると。
私が中学生のころは教科書なんか学校に置きべんしてたし、家に教科書を持って帰っていないんだから予習も復習も全然やるわけがなかった。だからといって勉強ができなかったわけではないと思うし、高校も県内では中の上か上の下くらいの公立に行くことができた。運がよかったんだと思う。

「家で勉強している間、親は何してるの?」
「寝てる」

「勉強することは好き?」
「好きじゃない」

「でも、バレエは好きだから、今度の発表会で遊びじゃないってことを言うために練習頑張ってるんです」

涙ぐみながら言っていた。

私はそう力強く宣言する彼女の横顔を見ながら、本当に頑張ってほしいと思った。


この前までTBSで『下克上受験』というドラマが放送されていて、子どもなんか全然好きそうじゃない深キョンがいつもの演技でお母さん役をやっているというところが個人的にはわりと好きだったんだけど、あの作品の内容は子どもの受験に向けて、塾に通わせるのではなく父親が仕事をやめて付きっきりで勉強を教えて、受験合格を目指すという話だった。

仕事をやめて参考書を大量購入して付きっきりで子どもに勉強を教えるくらいの覚悟が、受験には必要なんじゃないかなと思う。何もかもかなぐり捨てて親がしてあげられること、それくらいの熱意とかエネルギーとか。別に塾に通うことの良し悪しとかの話じゃなくて、子どもが勉強しているときに親が寝ていること、まあ別に子どものノートを見て丸付けをしろとか添削をしろとかいう話でもないんだけど、なんか、そういう彼女が勉強を強いられているという境遇にいることそれ自体が私はなんとなく悲しかった。


子どもに不足のない人生、"良い人生"を歩んでほしいと思って、親は、「よかれと思って」子どもを塾に通わせる。「よかれと思って」やっていることだからなおさら、タチが悪くて、一概に親を悪者にできないところが家族に関する話のつらいことだと思う。


三浦しをんの『まほろ駅前多田便利軒』で出てきた由良(ゆら)という小学四年生の男の子も彼女と同じように受験のために塾に通わされている子で、その送り迎えは「他の親に対する見栄」、つまり塾に通わせるお金があってかつ毎回送り迎えもできる余裕があるというプライドの誇示、ただ実際問題として送り迎えができないから多田便利軒が借り出されるわけなんだけど、決してあの小説に出てくる親は子どもを心配して防犯上何かあったら大変だから送り迎えをしてほしいと頼んできたわけではなく、周りの親に対して体裁を整えるための依頼だったと記憶している。それを子どもも自覚して了承済みだった。だからこそ親のいない自宅で何度も『フランダースの犬』を見て「この話の良いところはネロに親がいないところ」と断言する。


私も小学生くらいのころからバレエとか習い事のたびに送迎をしてもらっていた。親の「よかれと思って」に甘えていた。でも、ときには叱られていつもは車で送ってもらっている道をいつもの3倍くらいの時間で泣きながら歩いて必死に習い事に行ったりもした。それくらい私は習い事が好きで、どうしても家にいたくないときがあったからこそ必死に歩いて目的地まで歩いた。

いつも車で通っている道を自分の脚で歩いてみて初めて、いつもは目に入らなかったパチンコ屋さんの看板とかマンションの名前とかそこらへんの植木とか家の外で飼われている犬とかに気がついた。いつもの道が全然景色を変えて自分の目に入ってきた。
そういう経験が大事なんじゃないかなと思ってるわけ、私は。

ちょっと不審者っぽい人に遭遇して怖かったとか、自分の脚で時間をかけて歩いたからこそいつもの送迎のありがたみが分かるとか、そういう、逆説的に物事の大事さを実感していくみたいな、ことであってほしいわけ。


怖い思いをしてみないと親の愛情なんか全然気づかないわけ、どんなに「あなたのためを思って」と言われても、その背景を頭では分かっていたとしても、体験していないからイメージがわかない。そういうのじゃ良くないと思うのね、籠の中に入れられた鳥みたいに外の世界を知らないまんまで大人になったときに、いつか大人がいなくなってしまったときに自衛する方法を知っているのといないのとじゃ全然違うと思うわけ。

全然違うと思うんだよ本当に。

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つらくなってきたので、いらすとやの犬の画像でも見て元気になりたい(唐突)。



で、その子は家にいる間は勉強してるからテレビはほとんど見てないとも言っていて。
今がどうかは知らないけど、私が小学生とか中学生のときは、クラスメイトとの共通の話題はテレビが一番主なものとして眼前にあって、テレビの話題についていけないと会話の中に混じれないみたいなことがあったような気がする。別にテレビだけが一番じゃないけど、狭い世界ではどうしても昨日見た『学校へ行こう!』でやってたゲームを早速友達とやってみて大ウケするみたいな、今でいうとブルゾンちえみとかサンシャイン池崎とかの話で盛り上ったりするんじゃないのかな。

そうなってくると、勉強の話だけでなく、クラスになじめるなじめないという話も出てくるわけで、なんか、親が子どもの将来を案じて前々から勉強の習慣づけをさせるというのは良いことである一方で、それよりも、将来の子どもの姿ではなくて、たった今目の前にいる子どもを見てあげてほしいというのが私の気持ち。


22歳になってよく思うのは、過干渉で親切で「よかれと思って」色んなことをしてくれる親だけど、本当に助けてほしいときには助けてくれなかったなと思う。
私が「クラスのあの子が馬になって○○ちゃんに乗られてた!」とか今日あった楽しい出来事を話してるだけなのに、担任にチクられて学級会が開かれるなんてことがしばしばあった。
友達が「めがね貸して」と言ってきたので貸してあげたという話を親にしただけなのに、翌日には「めがねをかけている人にとってはめがねは身体の一部だからむやみに借りるのはやめましょう」という学級会が開かれたりする。地獄か。
でも、親はよかれと思ってやってるんだから仕方ない。「めがねを取られているあなたがかわいそうでかわいそうで仕方なかったのよ」と言っていた。私が私の意思に基づいて友達に貸しただけのそれを奪われたとかいうふうにストーリーを歪曲して受け取ってしまうことそれ自体も悲しくて、私が楽しいと感じている出来事、楽しいと感じることさえダメなことなのか当時は本当によくわからなかった。




私の家は幸いなことに親に「宿題やりなさい!」とか「明日の準備しなさい!」とかは言われたけど、「良い大学に入らなきゃだめよ」とか「大企業に就職しなさい」とかは全く言われたことがなくて、家庭環境が悪いと自負しているわりにそこだけは救いだったなと思う。


今日の彼女の様子を母親にしていたところ、母親が、「親だって子どものためを思って色々言っているんだけども、それがどうしても嫌な場合は、何度も親を説得し続けなきゃいけないと思うんだよね。外の人には言えて親に言えないなら、ある程度仕方がないんじゃないかと思う」と言っていて、なんかそれ聞いて私は泣いた。

言い出しづらい環境を作り出しているのが親だとしても自分だとしても互いによるものだとしても、擦り合わせをしろと、親に自分の意思を見せ続けなければいけないということを話していて、それはめちゃくちゃ難しいことだけど、正しいことだと思った。


周りの人は「偏差値の高い○○高校を受験するんです、そのために勉強をしているんです」と言うと「えらいねえ」って絶対言う。
その言葉の中には「そこまで勉強して何か得るものがあるのかな」と懐疑的であったり「うちの子はそこまで勉強させられないな」という劣等感であったり心の底から「そんなに頑張ってえらいなあ」とか、色んな意味が含まれているんだと思うけど、子どもはそうやって「えらいねえ」と周りに連発されることで、「親が敷いたレールが良い道なんだ」と学んでいく。

別に人生の選択に良い悪いとかないし、本来なら自分の生きたいように生きることができたらそれが一番なんだけど、小学生とか中学生とかまだアルバイトができずに親に手綱を握られている状態で、「成績悪いならあなたの好きな習い事をやめさせるから」と言われてしまえばそりゃあ勉強するしかなくなるわけで。

そういうのって卑怯なんだよね、本当におかしいと思う、本人の意思なんか聞かないでこの道を進んでいってくださいと示していくのは。
そして、子どもだからなおさら「頑張って勉強すれば努力が実って志望校に合格するはず!」と思いがちなのも良くないと思っていて。

私の好きな言葉でビートたけしの「努力すれば夢が叶うなんて事はない。 努力とは宝くじを買うようなもので 当たり券を買うことではない。」という言葉があって、なんていうか私が言いたいのはこれだけ!
今だからこそ思うことだけど、別に努力したからって何か見返りがくるわけでも褒められるわけでもなんでもなくて、成功するのは一握りだから、努力に期待しちゃいけないんだよって私は思う。努力しないで成功した人を憎んだり嫉妬したりするのもおかしいんだよって思う。どれだけ勉強に時間を割いたからといって成果が出るわけではなくて、メリハリバランスを取ることがそこには必要で、ただ「勉強している時間」が何かの免罪符になるわけでもなんでもない。


ただ、親として子どもに何かできるとしたら、子どもが何かしらの壁にぶち当たっている、何度も失敗をしているときに、その方向性を変えるよう声かけをすることくらいなんじゃないかなと思う。
大人は「何度も同じ間違いをするときは、やり方そのものが間違っているんだ、それならやり方を変えてみよう」という発想ができるんだけど、子どもだとそういうことができないかもしれない。「今回はこれでうまくいかなかったけど、じゃあ別にこんな方法があってそれをやってみたらどう?」と提案すること、そういうサポートの仕方が大事なんじゃないかなと思う。

あとは何か間違いを起こしたときとかに頭ごなしに叱りつけるんじゃなくて「どうしてこういうことをやったの?」と聞くとか。「どうして?」と子どもに尋ねるのは教育上良いって何かで読んだ。実際は知らないけど、「どうして」を深堀りして考える習慣をつけるのは大事なことのような気がする。その「どうして」を自分の口で説明できるようになることも大事だと思う。

まあ、子どものいない私が言うのもなんだけど。