人に何かを教えるということ

バイト先に新しい子が入ってきた。

新人で後輩ではあるけど年上で、でも大学の学年は下の女の子。はっきりいって経歴が謎である。

 

いつもバイト先に新人が来ると、何から教えていいのやら分からなくなった挙句人見知りを発動してコミュニケーション不全に陥ったりするんだけど、さっき閉店間際にパートさんに、「私いつも新しい子が入ってくるとどうやって接したらいいのか分かんないんですよね〜、◯◯さんどうやってます?」って尋ねたら、「よなかさんはいつも新人の指導に当たってるよね」って言われて、そうか、私は毎回毎回新人にいろはのいを教えるところ、前提の前提を教えるところに遭遇してるなと思ったのでした。

 

バイトでも勉強でも大概は初歩的なやり方や解き方の基礎が分かってきたらもうそのあとは作業なり公式なりを覚えていけば応用ができるようになるものだけど、その「何も分からない状態」から「少し分かる状態」、0から1の階段にのぼるまでが結構しんどい。1から2に行くまで、2から3に行くまではこなしていけるのに、0から1に行くのが本当につらくて挫折したりもする。私の場合はアコースティックギターのFが抑えられなくてやや挫けて最近はもう何も弾けなくなりました。ツライ。

 

塾講師をやってたときに、初めて九九を勉強するという小学生、まずそもそもかけ算の必要性があまり感じられない(なぜなら時間をかければ足し算で答えが得られるから)という子に、これは「勉強だからやらなきゃいけないんだよ」って言うよりかは、「いちいち足し算やって時間かけてるのは超ダサいし、かけ算ができたほうがテストも早く終わるしかっこいいよ」みたいな言い方をして、あとはお風呂の中でもママに自慢するでもいいから呪文のように唱えてたら勝手に覚えるからずっと歌ってたらいいんじゃない?ってな感じで、その翌週には「七の段言えるようになった!」とドヤ顔でやってくる生徒が本当に可愛いものだった。かけ算くらいでドヤるな、logの計算ができるようになってからドヤってください。

 

で、まあバイトの都合上覚えなければならないこと、学習の都合上やらなきゃいけないこと、を新人や生徒が何かを習うにあたって、また教える側の人間がどうやってフォローを入れたらその子がうまく成長してくれるか、みたいなのを偉そうに考えるのが大好きなんですよ、私は。

 

バイト先でパートさんに「半年前に入ってきたあの子、一時期よなかさんそっくりの接客するからよなかさんがいるのかと思っちゃったのよ〜!あなたがちゃんと教えてるからそうなったのね」と言われて嬉しいやら恥ずかしいやらこそばゆい感じになった。

一時期私そっくりの接客をしていたけれども、今はちゃんと自分のやり方で接客をしているよ、という文脈が読み取れたのでそれもまた半年前に入ってきた彼女の成長が感じられて、それは私が教えた教えてないに関わらず、人の変化を見るのは良いことだなあと思うのでした。

 

子ども(特に幼稚園〜小学校低学年)に何かを教えるのはもう一種の洗脳で、理論で説明してもダメなところがあるんだけど、バイト先で出会う高校生以上の人たちには、「何でこの作業が必要なのか」とその人たちが納得できるように教えたほうが身につくような気がしてる。「このお店ではこういうルールだからこうやってね!」よりは「こっちのほうが効率的で、締め作業の短縮にもなるしあわよくば早く帰れるから、この作業はやったほうがいい」って伝えたほうが命令っぽくなくて、「早く帰りたいよね」っていう共感を持ってして仕事を覚えてくれる感じがあって良いような気がしてる。でも、それが全然うまくいってなくて、本当は陰で何か悪口とか言われてたらめっちゃつらい。

 

視野が狭くて当然だし仕事ができなくて当然だし色々指導されて当然なんだけど、それでも「(人の手を借りていたとしても)自分でやった!」っていう達成感と成功体験的なものでモチベーションをこれ以上下げさせないような、せめて「あの先輩にグチグチ言われるのがストレスだから出勤がつらい」、みたいなことにならないように、「仕事ダルいけどお金のためだし仕方ない」みたいなくらいでいいからお店に来てほしいなって思う。

 

先日ツイッターリツイートで回ってきた、「なぜ子どもはゲームにはまるのか」というツイートには、「ゲームは親と違って、昨日怒られなかったことが今日は怒られた、というのがない。頑張ってプレイしたらクリアできるという正当性にはまる」みたいな話になるほど〜と思ったし、ある種 勉強も会社で働くというのもゲーム感覚でこなしていったほうが楽な部分はあると思う。

 

「昨日できなかったことが今日はできるようになってる、その変化に気づいたらたくさん褒めましょう」って塾講師をやってるときには言われた。

 

叱るときは「厳しく・短く・後を引かず」って教えられた。

 

私の家庭では母も父も「なんでこんなことするんだ!この前だってあんなことして…」と今回の件とは別件の過去のことまで持ち出されてグチグチ言うタイプだったんだけど、「それは子どもに悪影響しかありません、怒られないように生きる癖がついて失敗を恐れるようになります、人目を憚って生きていくようになります」みたいなことを言われて、やっと、塾講師のバイトをやって、私の親は子どもの育て方が下手だったのかもしれない、と思ったのでした。

 

「怒ること」と「叱ること」は私としてはかなり違うもので、怒る人は怒りたいから怒ってるのであって「こんなことやっちゃいけない!」って理由も説明せずルールを強いるような、その人を自分のいいように動かしたいだけの発言に思えるしこれにはあまり指導や学習の意味合いはこめられてないような気がする。

 

一方で叱るというのは、「これはいけないことだからやってはいけない なぜなら」ってその理由まで教える印象がある。

 

この前読んだアンガーマネジメントの本には、「怒っている人がどんなに正論を言っていたとしても、他人は共感できない」と書いてあって、ああ確かに、それには覚えがあるなと思った。どんなに正しいことを言ってても、めっちゃ怒ってる人だと、お前に怒られる言われはねえし、正論だったとしてもムリなもんはムリ!!ってだいぶ拒絶反応が出るような気がする。

 

話は変わるけど、私は接客してて、「肉まん」とだけ言ってくる客、「肉まんがどうした!?なんなの!?くださいってもう4文字言えないわけ!?!?!?」ってなるし、イヤホンをつけたままレジにくる客に「口パクで何も言わないでお会計してやろうか!!私がAIなら何も思わなかったのかもしれないが普通に失礼なのでは!?!?!?」ってなるし、横入りして並ぶ客に「お前は人生でずっと横入りしてるようだからそんな不幸せそうなツラしてんだよ!!!!!!横入りしてることにさえ気づけない哀れな知能!!!!!!」って思うし、すぐキレちゃうから、何かスイッチが入った瞬間に、自分に不利に物事が動いた瞬間にワアアアッて怒るようなことはなくしたい。それを綴るためのブログ、そのためのツイッター

 

私はひたすらに父親が母親を怒って、体調が悪くとも心配するような一言かけず仕事に行って、「誰のおかげで飯が食えてると思ってんだ」と100万年くらい前の台詞を恥ずかしげもなく言い放ち、母が車をぶつけたときにはどこか怪我してないか気にすることもなく「お前は不注意がすぎる」と3時間くらい説教してたし、なんかそういう悲惨な状況を見てきたからこそ、親を踏襲しないで生きようと思うし、怒る人は普通に損だと思うし、人に何かを教えるにつけもっとうまくやれることはたくさんあるよな、と思ったので今日はブログを書きました。おわり。

 

 

 

 

「なんでもいい」問題について

関係をつなぎとめておくためにあえて他人にかける負荷みたいなものについて考えていました。

自分とは明らかに違う性質を持った人と遭遇すると、どうやって対応したらいいのか分からなくなるときがある。
まくしたてるように喋るとか、意味不明な知識をひけらかすような人々はコミュニケーションとして成立していなくとも、こちらが適当に相槌を打ってればなんとかなる。なぜならその人は話を聞いてもらいたいのではなくて単に自分が話したいだけなのだから。

私がどうしても困ってしまうのは何も意見を言わない人で、「ご飯何がいい?」と尋ねると「なんでもいい」と返事をするような人で、まあ私も昔付き合ってた人に「ご飯何食べたい?」って聞かれると嫌がらせのために「なんでもいい」と答えていたんだけど、「ご飯何食べたい?」って聞かれると そもそもご飯を食べるかどうかの選択肢が立ち上がってきて食欲失せるしいっそ「駄菓子と寿司どっちがいい?」と聞いてほしいと思っていたりもして、私が困っている「なんでもいい」という返事に関してわりかし私自身が相手への質問の投げ方が悪いというのもある。

おそらくは「なんでもいい」と返事をしがちな人に対しては具体的な選択肢で選ばせる方法を取ったほうが相手の負担が少なく選びやすいような気がしている。「なんでもいい」って人はそもそもの前提として選択肢が見えてないから選べないってことだと思うから、具体例をあげたほうがイメージしやすいんだと思う。

ネットの記事で「カレーとラーメンどっちが食べたい?」と質問された時点ですでに「食事をするかどうか」「食事をしない」という考えはなくなってしまう、みたいなのを読んだことがあって、そう思うと「ご飯何食べたい?」と質問をされると店探しの相談が面倒くさすぎて「なんでもいいし寧ろ食べたくない」という思考になってしまう自分の気持ちもなんとなく分かるような気がする。

 
自分は本当に色んなことに怒っていてすごく怖いんですけど、まあこの2015年のツイートにもまあ共感できるはできるんですよね。なんか、分からないことに遭遇したときにもちろん自分で考える作業は必要なんだけど、それで延々と悩み考えてたら人生が終わってしまうから、具体的に、例えば何時までに自分一人で考えてみてそれでも分からなかったらどこがどのように分からないのか詳細に示して人に頼りに行こう、みたいな時間を自分で設定しておくのってきっと、ダラダラ夏休みの課題を先延ばしにしておくみたいなことよりはずっと楽だと思う。



去年小学校のときからの友達3人とディズニーシーに行ったときに、「次どのアトラクション乗る?」「ご飯はどこで食べる?」みたいな話にほとんど「なんでもいい」と答える子がいて、せっかくお金払って時間かけて来てるのになんでそんなに全部がなんでもいいんだよ!と内心イライラして、ディズニーに詳しくないのならガイドを見るとかスマホで調べるとか友達に聞くとかすりゃいいのにそれもしないで「なんでもいい」って平然と答えやがって、結局他の子たちで相談して決めたようにアトラクションとか回っていたんだけ、そうすると変に罪悪感がわいてきて「なんでもいいとは言っていたけど、内心不満に思われてたらいやだな」という感じになり、すごく苦しかった。

で、「世の中にマジで自分の意見がない人がいて、全部の質問を「なんでもいい」って答えるんだけど、それってなんなの なんでそれで生きていけるのかな なんでもいいっていって生きてくほうがつらそう」ってツイートをしたときに、「辛くはない。むしろ楽。」「必要な時、必要な相手にだけ言います」ってリプライをもらって、「なんでもいい」っていう人は決して自分の意見がないわけじゃなくてあえて言ってないんだという気づきがあった。

「好きでもない人にdisられるのが我慢ならない。」とも言われて、別にあなたの意見が却下されたからってあなたのことをdisってるわけじゃなくて、何かを決めるときに相談して決めたい、お互いの意見を知った上で選択したいっていうのが私にはあるから、なんていうか、そういう人もいるんだな、傷つけられている気持ちになる人もいるんだなと思った。お互いの意見を擦り合わせた結果よりよい選択ができるのかもしれないなら、そりゃ意見交換したいと思うじゃない!?!?!?!?!



あと別の話だけど、最近知り合いに映画に誘われて、「今やってるあの映画このあと観にいきませんか?」って聞かれたときに、なんとなく答えづらくなったのはイエスかノーで答えなくちゃいけないからで、選択肢の幅が曖昧で広すぎることと選択肢が狭すぎることで相手に負担をかけてしまうことって往々にしてあるなあと思うのでした。

コミュニケーションに関してもそうだけど、何かしら失敗したときって多分やり慣れてないかそのやり方自体が間違ってるかのどっちかだから、なんで間違えたかちゃんと考えないでたまたまこうなってしまったって偶然を装うのが私はすごくいやで、なんでこうなったのが原因をちゃんと考えないまま人と別れてまた新しい人と同じように失敗デートを繰り返すみたいなことはしたくないんですよね。

だからそういった意味も含めてツイッターで自分で文章をツイートしながらあのときはああだったのかもしれないとか、もしかしたら相手はこういう気持ちで言ってくれていたのかもしれないと自分の感情なり何なりをフラットにしていく作業ってきっと必要で、面と向かってだと人は他人に厳しいことを言えない、それは別に利害関係のある人たちではないから、ただ善意で、なんとなく気が合うから、一緒にいて楽しいから友達をやってくれているだけであって、親切にあなたのこういうところがよくないと思うなんて教えてくれる人は友達でさえ案外少ない。自分で気づいていかなくちゃいけない。

 

 この前知人が開いてくれた飲み会に参加して、当初は10人以上来るはずだった人が当日になって5人しか集まらなかったときに感じたことなんだけど、やっぱり多くの人に参加ほしいならそれなりの負荷ないしは付加価値をつけたほうが良いと思っていて、それは「欠席したら自分に不利に物事が動く」とか「もうお店でコース料理予約しちゃってて欠席したら他の人が自分の分のお金を払ってくれることになってて申し訳ない」とかそういう人に迷惑をかけるかもしれないから行っておこうとか参加することで被る被害を少なくしなくちゃみたいな人の心理を手綱にかけておく作業っていうのは意外と必要なんだなと思っている。

 
私は日本人的な飲み会の風潮なんか大嫌いなんですけど、人に「新卒は数字を出せてないんだから飲み会に行って可愛げを見せなきゃダメなんだよ」って言われたことがすごく刺さっていて、そういう、参加すれば何かしら自分をアピールできるっていうのはメリットだしだからこそ参加しておこうってなる心理がすごく分かるし、だからこそ居酒屋のゴミみたいな味のする料理を食べながら人とコミュニケーションする時間ってのがあるんだと思う。

もちろん「参加すれば得られる知識や人脈」とか「無料で食べられる美味しいご飯」とかをエサに、それをメリットとして参加を誘導することはできるけど、付加価値つけることができないなら負荷かけたほうが良いと思いました。

参加した人にだけ知らされること、不参加の人には知らされなかったこと、って差別化しておかないと、参加不参加問わずみんな平等に情報を共有するってなるとそりゃ参加する意味なんかなくなっちゃうと思う。



「あなたの好きにしていいよ」「なんでもいいよ」って言われると、ポンと与えられた自由がはたして私に対しての優しさなのか、そう言ってる相手がただ単に何かを決めることを面倒くさがっているのか興味がないのかなんなのか分からなくなってきて、それって全然優しさじゃなくない!?!?!?!って思うわけですよ。優しさという名の怠慢なわけでしょ、なんでもしていいよって選択肢をゆだねてるつもりでも全くそうじゃなくて選択する負担をこっちに丸投げしてるだけでしょ、それを優しさだとかいって誤魔化すのはやめてください!!!!!!!!!っていうのが今日の言いたいことでした。



「父親との関係に悩んでいる」について、ラジオ『ジェーン・スー 生活は踊る』書き起こし

今日は、『ジェーン・スー 生活は踊る』というラジオ番組の相談コーナーの書き起こしをします。TBSラジオpodcast配信を終了した代わりにTBSラジオクラウドをスタートして(ストリーミング配信のためWi-fi環境のない出先で聞くのが難しい)、最近またラジオクラウドという新しいサービスを始めてまたオフラインでもラジオが聞ける!と飛び跳ねていたところで、聞いた2016年8月25日の『ジェーン・スー 生活は踊る』の中の、「お悩み解消コーナー 相談は踊る」のお悩みです。
中学2年生の男性から「父親との関係に悩んでいる」という相談についてジェーン・スーさんと蓮見考之アナウンサーが回答していました。

radiocloud.jp

 *

蓮見考之:それでは通算663件目のお悩み、今日は匿名希望、中学二年生の男子からです。「こんにちは。『相談は踊る』のときから毎週拝聴しています。『生活は踊る』のほうはラジオクラウドですが、毎日楽しみにしています。今、僕は中学二年生で父と二人暮らしです。母は僕を産んだときになくなり、32歳と30歳の兄が二人おりますが、二人とも実家を離れて結婚し家庭を築いています。相談したいことは、父との関係についてです。小さい頃から父と二人で暮らしてきて感じるのは、兄たちよりも愛情を注がれていないということです。というより、正直に言うと嫌われているような気がするのです。なぜ、そう思うようになったかというと、ずっと母は僕が幼いときに亡くなったと聞かされていたのですが、小学四年生の時にたまたま戸籍謄本を見てしまい、母の命日が僕の産まれた日と同じだと知りました。母は高齢出産で僕を産んだせいで亡くなったんだと思います。兄たちからは、父が母をすごく大切に思っていたと聞いていたので、自分が母を殺したと知ったときはすごくショックでした。そのあとで、父が今まで参観日や運動会に全く来てくれなかったのも、仕事が忙しかったから、という理由ではなく、僕のことが嫌いだからなのではないかと思うようになりました。ちなみに、父も兄も家にいないときに見たので、僕が母の命日を知っていることは知らないと思います。母の話は父があまり話したがらなくてタブーのようになっています。今は父の仕事が中学生になってから、さらに忙しくなったので、あまり顔を合わせることはありません。おそらくこのままの関係だと良くないと思いますが、何をどうしたらいいのか分かりません。もう中学生なのに親に好かれたいと悩むのはおかしいかもしれませんが、真剣に悩んでいます。スーさんはお父様と昔あまり仲が良くなかったという話をラジオでされてて、ずっと相談したいと思っていました。周りに相談できる人もいなくて困っています。よろしくお願いします」と。

ジェーン・スー:んー、中学二年生の男の子、つらいね。色々一人で思い悩んじゃって、メールありがとうございました。これねえ、…結構歳が離れていらっしゃるんですねお兄さんたちと。32歳と30歳のお兄さん。中学二年生って多分14歳?だから、お兄さんが16歳と18歳のときに生まれた。ねえだから親子ほどとは言いませんけど、かなり歳の離れたお兄さんで、ということはお父さんも多分同世代の学校のお友達よりはちょっと年上なのかな。

蓮見考之:可能性はありますね、ええ。

ジェーン・スー:そうですよね。仕事はお忙しいということで。これねえあのお母さんが、自分を産んだせいで亡くなったかどうかって、聞いてないから分かんないっていうのもまず一つ冷静にはあるのと、たとえ、じゃあそれがきっかけだったとしても、お母さんの多分意思もあったはずだから、そこには。

蓮見考之:うん

ジェーン・スー:産む方の意思として、この子を産む、自分の命にリスクがあったとしても、っていう決断をしたのか、もしかしたらそんなこと全く分かんないで、出産をしたあとに何かしら体調を崩されて突然、命が終わってしまったのかもしれないし、とにかく、自分が殺したって言い方はやめよう。

蓮見考之:それはね。

ジェーン・スー:ないから。

蓮見考之:それは、絶対言っちゃダメ。

ジェーン・スー:そうそう。

蓮見考之:言っちゃダメだし、殺してないよね。

ジェーン・スー:殺してないから。そうそうそう。で、多分このね、匿名希望の男の子の頭の中には、「どうしますか、あなたの命が危険ですよ、この子を産みますかどうしますか」とか色々ストーリーができちゃってるのかもしれないんですけど、

蓮見考之:はい。

ジェーン・スー:聞いてみないと分からないので、これはただどのタイミングで聞くかですよね。

蓮見考之:そうですよね。まあご本人の感覚ではおそらくお父様もお兄様も自分がそのことを知ったという事実は知らないと思うと。うーん。

ジェーン・スー:うん。参観日や運動会に来てくれなかったのは嫌いだから、いや嫌いだからもない。嫌いだからも多分ない。よっぽどあなたがお父さんに嫌がらせとかをしてない限り、嫌いだからも多分ない。

蓮見考之:はい。

ジェーン・スー:なぜならやっぱり一緒に住んでて、忙しいのはね、多分学校のこととか色々あるからお父さんもまだちょっと稼がなきゃいけないとこもあるんだと思うし、あとまあ男の子と二人でどうやって、こうなんていうんだろう、対応していいのか分からないみたいのもあるのかもしれないねえ。

蓮見考之:そうですよねえ。ただでさえ夫婦二人揃っていてもですよ、男の子三人をまず育てるということ自体が難しいし、仮にお母様が、この相談者の中学二年生の男の子が産まれた際に亡くなって、奥様がいらっしゃらない状態だとしたらもう16年ぶり18年ぶりの子育てですよ。

ジェーン・スー:そうだ。

蓮見考之:それをお父さんが、一手に引き受けているんですよね。ですから本当に、それどころじゃなく無我夢中でやってこられたっていうお父さんのご苦労がきっとあるということは、それはどうか察して、

ジェーン・スー:いや、うんと、どうだろうな、あの、それ察する必要は子どもはないと思うのよ。あの、そこを察してくんになっちゃうと、アレなんで、もうちょっと構ってくれよっていうのを思ってて、その、「中学生なのに親に好かれたいと悩むのはおかしいかもしれませんが」、そんなことないですよ。

蓮見考之:そんなことはないですよね。

ジェーン・スー:40なって50なったってみんな親に好かれたいっていう気持ちはあるし、てか誰かに嫌われたいなんて思ってる人はいないから、察しすぎるのもさ、またちょっとお兄ちゃんとかに一回話してみるのはいいと思うよ、うん。

蓮見考之:そうですね。

ジェーン・スー:実家を離れて、多分結婚してご家庭を築いていらっしゃるので、ちょっと実家のことを弟さんのことは、あの疎遠とは言わないけど、なんだろ少し距離を感じてるかもしれないけど、お父さんにはお父さんの事情があったんだっていうことで、察して自分が我慢する必要はないと思うんですけど、ただ、嫌われてるわけではないということを知るのはね。

蓮見考之:そうですね。

ジェーン・スー:早いほうがいいですよね。お父さんにね、手紙を書くとちょっとね重くなると思うんで、あの顔合わせる時間もあまりないということですから、交換日記みたなのやってみたら?少しずつ今日学校でこんなことありましたとか、暑くなってきたけどお父さん体に気をつけてねとか、一言書いてお父さんの帰ってきたときに読むテーブルの上に置いておくとか。で、お父さんも何かよかったら何か一言書いてくださいって顔を合わせるコミュニケーションじゃなくてもう、一言書いてもらうのはいいんじゃないかなあ。私は親とそんなことやってないけど、あの、うちは母親死んじゃったので、あとから、で、そこからゼロからだったので。あれっ親だと思ってたけど母親っていうショックアブソーバーがなくなったらこの人のこと何にもしらないっていうところから始まったので、ちょっとこの方とは状況が違うところではあるんですが、ただ、親は親でどうしたらいいのか分からないっていうところあるっぽいですね。あとね残念ながらもうすごい、多分中学二年ぐらいのときに私も気づいたことだと思うんですけど、残念ながら親って完璧じゃないんですよ、ジャスト人間なんですよねえ。だから辻褄が合わなかったりとか、もう無茶苦茶言ったりとかこうまあしゃあない、こういう風にしか私のことを愛せないんだこの人はっていう風に思ってからは大分楽になったので、でもそれを分かるためにはやっぱりどうしてもコミュニケーションが必要だったなと思うんで、一言交換日記をちょっと私はオススメしたいかな。

蓮見考之:この、愛情の注がれ方っていうのはこの方はどういうものを求めているんですかね。

ジェーン・スー:多分自分のほう向いてほしいんでしょう。まず普通に顔を見て話すとか、「お前どうしてる?」とか「学校どうなんだ?」みたいなことだったり、あと授業参観に来るとか運動会に来るとかいわゆる言い方悪いですけど、あの母親が生きてたら母親が担当すると思ってたこと、そう、お兄ちゃん二人のときは多分お母さんがそれやってくれてたのよ。

蓮見考之:はい。

ジェーン・スー:だからお父さんは、そこの部分まで自分がやらなきゃいけないっていう自覚が、あんまないのかもしれない。だけどそういうのがなくて寂しいですっていうのは恥ずかしいかもしれないけど、かけんのはむしろ中学生のうちっていう気もしなくもない。高校行ったらまたこじらして、これねうまく早くしたほうがいいんだよね、なんでかっていうと、両方大人になっていくと、もう、歩み寄れなくなってくるじゃないですか。難しくなるでしょう。

蓮見考之:うん。

ジェーン・スー:中学二年生で親に好かれたいのは普通。で、嫌われてるんじゃなくてお兄ちゃん二人のときはお母さんと二人で育ててたから、多分その、中学二年生の匿名希望さんが欲しがってるところが多分お母さんが与えてたんだと思うな。うん。そこはあったかも私は、母親が死んで父親と。なんでこれこういうことしてくれないんだろうって、あっそれは母親がすると父親がずっと思ってたことなんだなあって。

蓮見考之:へえ。

ジェーン・スー:どうですか蓮見さん今、お子さんと二人と蓮見さんだけになったとしたら。

蓮見考之:まあ(愛を)注ぎたくても注げないぐらいテンパるでしょうね。一人じゃ私何もできませんから、多分。

ジェーン・スー:そんなことない。

蓮見考之
:いや、でもほんとでも、少なくとも、二人で今生活してますよ、本当に嫌いだったら、

ジェーン・スー:嫌いはまずない。

蓮見考之:ね。

ジェーン・スー:絶対ない。

蓮見考之:うん。

ジェーン・スー:嫌いはないですね。それは全然考えなくていいです。多分お父さんテンパってる。

蓮見考之:うん。

ジェーン・スー:なぜなら、お父さんも人だから。

蓮見考之:そうですよねえ。

ジェーン・スー:完璧じゃないんですよ。今の気持ちこれ私たちにメールしてくれてすごくありがたいんですが、ちょっとずつでいいからお父さんとかお兄さんとかに出してあげてください。「そうかあの子には母親の愛情っていうのが注がれないからその分俺たちがなんとかしなきゃいけなかったのか」っていうことを、お兄さんお父さんが気づいてくれるためにはその第一歩を、匿名希望さんが踏み出す必要があるかなと思ったりもします。

蓮見考之:そうですね。まあお墓参りとかも、ご家族揃って、行ってみるとかね。

ジェーン・スー:それいいですね。いかがでしょうか。メールありがとうございました。嫌われてないよ、殺してないよ。

(書き起こし終わり)

 *

これ、バイト終わって帰ってる途中で聞いてたんですが、バカかって思うくらい涙が出た。
普段から家庭環境で自分自身が悩んでいることもあって、こういう他人の家庭がどうなっているのかって知る機会が少ないからこそ余計に、垣間見れた瞬間に無茶苦茶抉られたりして、その中でもこれは聞いてほしいと思ったので書き起こししてみました。

あとこれは宣伝ですが、以前書き起こした、ミッツ・マングローブオールナイトニッポンGOLDの、渋谷区の条例について、セクマイについてのミッツさんの見解が興味深かったのでよかったら読んでください。

ミッツ・マングローブオールナイトニッポンGOLD 2015年4月1日

http://tmblr.co/Z0lU3t1hdwDir

2016年のよかった15の本と映画とドラマの話

年の瀬ですね。
今回は今年読んでよかった本と観てよかった映画・ドラマの話をします。
本は漫画や小説や自己啓発本すべてあわせて91冊。
映画は映画館以外で観たものも含めて31本。
ドラマは過去作含めて10本。
アニメは『響け!ユーフォニアム1』『響け!ユーフォニアム2』『ユーリ!!! on ICE』くらいしか観なかった。ユーフォニアムはいいぞ。
演劇は劇団aunしか観なかった、コンサートは嵐のみ。

オタクは何かにつけて自分ランキングや自分リストをつけたがる生き物なので、私も一年のまとめということでやります。
ちなみに2015年のまとめはこれです。

2016年1月9日 2015年を振り返ってみよう


ちなみに今年の途中まではtumblrで日記書いてましたね、はてなブログに移行した2016年でした。

 

書籍編

君たちに明日はない垣根涼介

就職活動時期前後に読んでいたシリーズ作品で全部で4作品あります。
これから毎日働かなければならない、それ以前に自分の行きたい会社から内定を勝ち取らなければならない、大学を出て新卒で会社に入るなんてそんなレールに敷かれた人生でいいのか、どこの業界に行きたいのか、そういうプレッシャーや迷いの中で壊れそうになりながらも読んでいた記憶があります。

主人公は、どこかの会社がリストラをしなければいけないという状況に借り出されます。リストラ対象者を面接し、「いま退職をすればこれだけお金がもらえますし、あなたのキャリアを考えればほかでも十分やっていけるのだから転職をおすすめしますよ」みたいなことを説明する、そして対象者が退職するのか、そのまま会社に残って働くのか、人生の岐路に立たされた人たちを描いた作品です。

 

今の世の中、リスクはどこにでも転がっている。いい学校を出て新卒で入った企業でも、一生勤められる保証なんてどこにもない。今の仕事をしていると、なおさらそう思う。不安なのは分かる。でも、ぜんぶが全部安全なチョイスなんてありえない。だったらある程度リスクは承知で、より納得のいく環境を選ぶしかない

 

 

面接室の前まできて、きっかり一時になるまでノックをためらっていた女性。いい女だ、と思う。その律儀さが、とてもいい。だから仕事も出来る。結局仕事とは、人間性なのだ。

 

 

あなたがもしリストラ対象者として面接を受けなければならないとき、どうするでしょうか。さっさと今の会社に見切りをつけて転職するか、すでに結婚している共働き状態の人は専業主婦(主夫)になるか、起業するか、それともこれから給与が下がってボーナスも雀の涙ほどしか出ないときでも情熱を持って仕事に打ち込めますか。

世の中には色んな働き方をしている人がいて、色んな考えを持つ、色んな世代の人たちがいるから諍いが起きるし、昔は売れていた商品がもう全然売れなくてどうしようもないという状況が往々にしてある。働く人たちに読んでもらって感想を聞きたい本です。

 

 

 『なぜ、この人と話をすると楽になるのか』吉田尚記

私は喋るのが上手ではありません。なので人との会話も得意ではありません。
身の回りに話すのが上手な人、いつも面白い話をして笑わせてくれる人がいて、その人たちと一緒にいるととても楽しい気持ちになれる一方で自分のコンプレックスを爪楊枝で刺されているような、そんな気持ちにもなりました。

会話は個人戦ではなく団体戦だから、共にゴールに向かったほうがいい、相手が下手なパスを打ってきたとしても修正可能なら自分で受け止めてあげたほうがいい。

自分のことに興味を持って、いろいろと訊いてくれる人。驚いたり笑ったり、話が転がってタイクツしない人。そういう人とコミュニケーションをとっていると人は確実に楽になれるんですね。

 

話が上手な人は相手を主人公に話を展開する、下手な人は自分を主人公に話をする、というようなことを聞いたことがあるけれども、体感的にもその通りで、この人に話を聞いてもらいたい!相談したい!ってことが続くと人の縁は途切れないような気がします。私は人と会うと回復するタイプの人間です。誰かを楽にする手伝いをすることで人と会うことができるのなら相手に興味を持って、それと、会話は別に頑張らなきゃいけないことじゃないんだなと思えた一冊でした。去年から今年にかけて私と接してくれた、私を楽にしてくれた人のことを思い出してなぜか大号泣しながら読んだ記憶があります。

 

 

 『陸王池井戸潤

住む街の図書館、隣町の図書館など色々調べたけどどこも予約300件待ちとかでどんだけ池井戸潤は読まれている作家なんだ…と驚いた本。なんとか大学の図書館で借りて、2週間後の返却日までにこの分厚い600ページ近い本を読まなければと結構頑張ったら1週間くらいで読めてしまった話。それだけ読者を引き込む作品だったし、やっぱ予約300件なだけあるな!さすが池井戸潤だな!という感じの作品でした。

去年の冬~今年の頭あたりに『下町ロケット』がドラマで放送されており、そこで初めて池井戸潤作品に触れ、原作2冊と『空飛ぶタイヤ』と『民王』を読み、そして今回の『陸王』でした。

あらすじは足袋の老舗がスポーツシューズを作る話。シューズを作るにも金がかかるし銀行がお金を貸してくれるのか問題が出てきたり(池井戸潤作品はいつも銀行がお金を貸してくれない)、利益しか考えないで選手を無碍に扱う人が出てきたり、そこらへんはいつもの池井戸潤作品だけれども、なんだか読後感がいつもと違ったような気がする。

三浦しをんの『風が強く吹いている』やあさのあつこの『ランナー』シリーズが好きなので、走りのシーンは本当に感動した。孤独のなかひたむきに走る人間の様子は涙なしには見られない。会社とか成績とかお金とかそういうのを全部かなぐり捨てて、結局人と人とを繋ぐのは「あなたに喜んでもらいたいから、あなたのために全力を尽くします」という気持ちなんだと思います。そういう気持ちに触れて大事なのはやっぱりお金じゃなかったなと、そういうことを私たちは何度も忘れてしまうから、何度も何度も同じような話をおとぎ話のように繰り返してもらわないと私は困る。

 

 

 

 『ふがいない僕は空を見た窪美澄

最近ハマってる作家、窪美澄
『よるのふくらみ』や『晴天の迷いクジラ』なども読んでますが、これはその中でも人に勧めたい作品でした。
窪美澄の小説は、兄弟で同じ女の子を好きになっちゃって名実ともに穴兄弟になってしまってその噂を商店街中にばらまかれ苦悩する話とか、パチスロ依存で離婚したシングルマザーの話とか、ブスがストーカーと結婚したらセックスレスになって男子高校生ひっかけてコスプレ台本付きセックスをしたりするんですけど、話にリアリティがありすぎてちょっともうびっくりする。

今読んでる『水やりはいつも深夜だけど』は結婚と出産をすると家族のメインが子どもになってしまうこともあってセックスレスになる、「ときめきがなくなる」と書いてあって、浮気に走ろうとする男の人とかも出てくるんですけど、そういうありそうな大人の小説は窪美澄を読んでおけば間違いないです。家庭環境で悩んでいる人、悩んでいた人とかに勧めたい一冊。

 

 

 『ガール』奥田英朗

「そうですよ。育児を一切理由にしない平井さんは、立派なんですよ」
孝子は曖昧に笑って返したものの、同性としてちゃんとわかっていた。女は、育児を持ち出せば周囲がひれ伏すことを知っている。独身時代、そういういやな女をたくさん見てきた。だから自分はそういう真似をしたくない。


奥田英朗は女性を描くのがとても上手だと思う。既婚者・子持ちで働いている女の人と、自分にしか時間もお金もかける相手がいない独身女性では考え方が違うこと、よく分かっている。結婚して子どももいるけど独身女性の肌つやのほうが良い、なぜならあの子はエステに行ってネイルもしてもらっている、化粧だってブランド品だろうな。でもこちとら家に帰ればかわいい子どもがいるんじゃ!という。

短編集なので読みやすいし、ライトに働くことってなんだっけ、を教えてくれる作品。文体にクセがないのも良いと思う。30代のキャリアウーマンのお話。

 

 

映画編

今年は『シン・ゴジラ』や『君の名は。』など映画のヒット作が多かったですね。
個人的にはアクションムービーをよく観ました。『ボーン』シリーズとか、『アウトロー』シリーズとか。完全に人に勧められて新作を映画館で楽しむための予習として頑張って観てたんですけど、結構楽しかった。映画館で観る機会も多かった気がします。4DXデビューもしました。

ズートピア』リッチ・ムーアほか

 これはもう随分とドハマりしたからか今更語ることがないといっちゃあなんだけども、やっぱりディズニーは隙のない作品を作るなと思いました。
肉食動物と草食動物、強いものと弱いものという分け方や差別をせず多様性を認めていこうというポリコレに配慮された作品。

劇中で、ハエがたかってるキャラクターに対して、ちゃんと接してるというか、「あなたその髪早く洗ったほうがいいですよ」とは言わないところ、ナマケモノに対して「早くしてよ」という言い方じゃなくて「私たちすごく急いでるの」っていうその相手を否定しない感じが良かった。

あとニックが超超かっこいい。最高ニック。早く日本のディズニーランドにも来てほしい。

 

 

『ローグ・ワン』ギャレス・エドワーズ

 今までスター・ウォーズシリーズを観たことがなく、付け焼刃的にエピソード4561を観て、SWファンと公開初日に観にいきました。
スター・ウォーズ エピソード4とエピソード3の間に時間軸があるということで、ディズニーランドのスターツアーズと全く時間軸が同じだし早くアトラクションリニューアルいないかなと思っている次第です。

このタイミングでキャリー・フィッシャーが亡くなってしまったことはとても悲しくて、色々言いたいことはあるんだけど、うまくまとまらなりませんでした。

それで、教科書には載ってない行間を読むような物語が『ローグ・ワン』だったわけで、「そういう話があったんだよ実はさ」という知られざる過去を観客に託してくれる作品でした。

フォースという万物を操るエネルギー体を、当然のことながら観客は使えないわけだけれども、『ローグ・ワン』はその解釈をすごく拡大解釈していた。フォースを使えなくてもフォースを信じていい、宗教や道しるべとして自分の精神的な支えとしてフォースと共に在れと口にしていいんだということを提示してくれた作品でした。

たくさん死者を出した戦いの中でもその死には確かに意味があったこと、顔も見たことがない、よく知りもしない人が果たした功績のおかげで救われた人がいること、エピソード3とエピソード4を繋ぐ橋渡し的存在がいることを今作で知ることができるからこそ、他のスター・ウォーズもより楽しめるようになるんだと思います。

アクションはもう超CGでこれこそ4DXで観たら2時間ずっとスターツアーズに乗ってる気分になれて最高なんじゃないかなと思うので時間があったら行きたい。

 

 

 

 『ジャック・リーチャー』エドワード・ズウィック

 なんかもう疲れてきた。この記事読む人ってどれくらいいるのか知りませんけど今午前4時なのでだいぶダレてきました。

アウトロー』を大して楽しめなかった人間なので心配していたけれども、今作は大丈夫だった。同じ釜の飯を食って行動を共にする男と女と少女がいれば擬似家族ができてしまう、そういう話に俺は弱い。

シリアスな話ながらも笑うポイントが結構あるのも観やすくて良い。
真面目な顔してとぼけたことを言ってる人がたくさんいた(ような気がする)

ジャック・リーチャーと行動を共にする女の人が「私が女だから子守をしろっていうの?」と言い放つシーンがある一方で、「殺された部下にも人生があった、家庭があった、まだ小さい子どもがいる部下も、妊娠中の妻を持つ部下も、殺されたのよ」と人間の良心に訴えてくるシーン、非常に女性的な仕事だと思ったし、彼女は女として扱われることを嫌いながらも女としての武器をちゃんと利用してるのが個人的にグッとくるポイントでした。

 

 

 

 『007 スペクター』サム・メンデス

ダニエル・クレイグが超かっこいい!ボンドかっこいい!ボンドガールいやらしい!スーツが超かっこいい!ドレスがめっちゃきれい!街並みもすごいきれい!と、『ボーン』シリーズを観て勢いづいてついに007を観るようになりました。圧倒的成長。

お金のかかったものがバンバン壊れたり汚れていく様を観るのがすごい楽しい。
ボンドガールのレア・セドゥが最高。あとサブで出てくるQことベン・ウィショーが良い。

ダニエル・クレイグ版の007は毎回「このオープニングは何なんだろうか…?」と思ってしまう。あの音楽とあの映像を観てどうすればいいのか分からなくて手持ち無沙汰になる。

あと007シリーズ全部観たい!ってツイートしたら「苦行ですよ」とリプライが来て笑ってしまったことを思い出す。

 

 

 『ベイマックス』ドン・ホール

このまえテレビで放送されていたので観た。
放映当時すごい流行ってたけど、流行ものを避ける傾向があるので映画館では観なかった作品で、今回テレビで観てまあまあ後悔した。

頭の良い主人公が金儲けのためだけに自分の頭脳を使ってたのが最終的には誰かを助ける方向にシフトするところからしてまず良い。

ベイマックス、CMで見る限りその正体が何なのか全く分からなかったんですけどケアロボットでした。身体的にも精神的にも人をケアするロボット。SFですね。ベイマックス、お前みたいな存在がいてほしい。私はベイマックスがそばにいないから毎日布団から抜け出せないんだと思います。

SFではありがちな(ように思える)、高度な技術やロボットを人間が作ってしまうと、いつか人間が手につけられないくらい暴走をしてしまうというのがツキモノですが、マスターのケアのためなら人でも殺す、手段を選ばない形で ときには他の誰かを犠牲にしながらでも大切な人をケアするというのは正義なのかどうなのかという話もあり、話としてはシンプルなことを2時間かけてやっていたと思います。

 

 

ドラマ編

ランチの女王大森美香ほか

竹内結子は超最高というのが分かるドラマ。
人が食べ物をおいしそうに食べているというだけで観ている人たちが幸せになる。
音楽も脚本もキャストも全部最高。

 

 

『偽装の夫婦』遊川和彦

家庭環境に問題がある人間なので、家庭環境をテーマにしたドラマを見ると死ぬほど泣いてしまうんだけれども、『偽装の夫婦』は『逃げ恥』とはまた別の切り口で家族とは何かを問い直してくれる作品だった。この作品も多様性を描いていて、ゲイ、レズ、シングルマザー、近親相姦、そして契約結婚と、色々出てくる。

 

家族は選べないけど、友達は選べるのよ

 

私たちには違いよりも共通点がいっぱいあるの。些細な違いにこだわって相手を責めるようなこと、もうやめたら?


わりとストレートな台詞で観ている側に偏見で人を殴るのをやめたらどうなんだよ、他人同士で幸せ比べをしたって何の意味もないんだよ、と訴えてくれる作品。

 

 

 

重版出来!野木亜紀子

出版業界で頑張る人たちのお話。
ドラマというよりは演劇のようで、だからこそ毎回毎回生の大声を聞くごとに号泣してしまうのでした。

日々良いことを積み重ねていけばいつか自分が望むものが得られる。
全体的に運とか奇跡が舞い込んできて成功する話じゃなくて、ほんの些細な日ごろの行いがめぐりめぐって結果として奇跡を生んだっていう話なので、日ごろの行いがよくない人はいつか失敗して挫折を味わうし、挫折を経験してもなお行動し続ける地道な作業の末に成功が待っているという、登場人物の行動と結果に因果関係が視聴者にも理解できる形で提示されてるの分かりやすくてよかったです。

出版業界、漫画でデビューできる人がほんの人握りであること、漫画家としてやっていきたいと願って何年も何十年も時間を費やしている人がいること、どんなにたくさんの時間を費やしてもその努力が必ずしも実るわけではないこと、凡人は天才にはなれないこと、そういうことを目の当たりにするドラマでした。

 

 

逃げるは恥だが役に立つ野木亜紀子

もれなく私もハマっていたクチ。無限に星野源の『恋』を聞いたクールでした。

 このドラマの何が良かったって、人間の生き方の多様性を差別なく描いていたところですね。男が外で働き、女が家で家事をすることの在り方について、それを当然とせず見直していくところに感動しました。
メインの2人だけでなく、年の差カップル、同性愛、シングルマザーなど色々な立場の人が出てくることで、どの人にも感情移入できるがゆえに、つらくなる部分も多くありました。

以前、大学のゼミで「家事に賃金を支払うべきか否か」という議論をしたことがありますが、そういうこともドラマで映像にしてもらうとメリットとデメリットが分かって良いなという新しい体験がありました。

 

 

『家売るオンナ』大石静

 人の生き方の多様性を認めた上で、既存の策ではない、新しい策で仕事をする、誰かの生きるお手伝いをする、そのための部屋探しをするという働く女の人の話。

 
以上のように、ニートは外に出て働かなければならない!という風潮というか

プレッシャーを切り捨てて、ニートニートのままで生きていく方法はないのかと模索していく回で私は心を打たれてしまいました。

ビジネスと人の心を天秤にかけるのではなくて どちらも尊重しながら丁寧に 働くとはどういうことか 自分の仕事は何かを考え直す話であり、自分の狭い価値観のせいで人を振り回すな、加えて仕事でも成果を出すためにはどうしたらいいのかという話。

 

 

 

 終わりに

 今年は多様性がテーマの作品を目にする機会が多かったように思います。
単なるラブストーリーやお仕事頑張る系ではなく、会社で働いて家では家事をする、友達とご飯をしたり好きな人とデートをする、そういった日々の生活の中でどうやって折り合いをつけて生きていくのか、世の中には意外と生きることに関して大変な人がいるんだけれども、そういうときあなただったらどうアクションを起こしますかという問題提起の、だけどそれが強烈ではない感じのものが多かった気がする。私が好んで見聞きしてるだけかもしれないけれど。

読書メーターはこちら。

http://bookmeter.com/u/82971

 

ブクログはこちら。

http://booklog.jp/users/aknynk

 
なのでよかったら見てください。
長文読んでいただきありがとうございました。

 

 

 

 

束の間

例えば今私がストーカー被害に遭っているということを示唆的に話したとして、具体的な救済や精神的なフォローをしてくれる人がほとんどいないのはおそらく私の人望のなさとかよりも、私が他者に期待しすぎているということでもなく、社会や周りの人々がそこまで一人の人に踏み込まないで人生を生きていて、それが結局巡り巡って「やさしい」みたいな言葉で片付けられてしまうこと、自分の手で丸くこねてステンレスのバットのすみに置いておくことが最善だと思っている節があるという、そういうことに起因しているんだと思う。

 

はてな匿名ダイアリーで「3週間の休みをもらった夫が、専業主婦である我が妻の働かなさに愕然とした」みたいなエントリーを読んでいて、「亭主元気で留守がいい」ってあのフレーズを思い出してその通りだと頷いていた大学1年生の頃を思い出した。

 

先日人と会ったときに「やっぱり同期同士が仲が良いとその代の成績良いよ。仲悪い人たち同士だと数字あがらない」というような話を聞いて、そりゃ仲が良ければコミュニケーション取るし、より先手先手に気を遣って行動するから前に進むスピードもあがるよなと思ったのでした。

 

一昨日バイト先の後輩に告白された。

それまで仲良く話していたし仕事も気がきく良い子なのでわりかし構っていたのだけれども、根本として仕事場で恋愛をするようなタイプではない私はその告白をYESと言ってもNOと言ってもおそらくは今後働きづらくなるだろうなということは頭で理解していたつもりだった。

けど今日実際に飲食店のあの狭いフロアで一緒に働いて、こんなに連携が取れなくなるものなんだとは思わなかった。「夏休みの課題は7月中に終わらせてあとは遊びたい」「仕事を終わらせてなるべく早く帰りたい」系の私にしてみれば、とにもかくにも告白されたことに動揺せず、感情を持ち込まずさっさと仕事をこなしたいのに、相手も、私もなんとなく気まずさがあって今までより遅い退勤になった。

 

先の人が言っていたのは、同期同士で悪口を言い合うようなやつらは仕事も思うようにできないことが多い、みたいな文脈で話をしていたような気がするけど、今回の件でその人の言葉に個人的解釈として良くも悪くも幅が出てしまったことになる。

 

仕事場に恋愛を持ち込みたくないし、例えば飲食店のアルバイトとかじゃなくて、会社の部署Aと部署Bの人間が付き合うとかならまだ距離感があるし理解も追いつくんだけど、同じクラスで付き合うなみたいな、あまりに距離感が近すぎるとちょっと自分の中で受け入れられないものがあってかなり引いてしまった。どっちに転んでも気まずくなるんだからそもそもやらなければいいだろみたいな考えはないのだろうかと思ってしまった。

 

彼が告白する時点で余程の自信があったのかは知らないけど、フラれたときの可能性やリスクヘッジはどれくらい行っていたのかなと思うとやや懐疑的になるというか、20歳超えてさすがにそういう恋愛の仕方は子どもっぽすぎるでしょうと呆れる部分もあった。

 

好意が見え隠れすると、他人の感情の機微にあまり敏感でない人間でも「ああこの人は私のことが好きだな」と分かるものだし、その「分かり」でさえも負担になるということを知らない人が多いのかもしれない。

「フラれたけど片想いはしてもいいですか?」とズルイ質問を投げかけて、許可をされたいだけ。自分で決めればいいだけのことを相手に承認してもらって保つみたいな方法、他人からの承認を得たというだけで付加価値をつけてしまうみたいな行いは醜いからやめてほしい。そのあとも既読スルーしてるのに延々とLINEを送りつけてきて、そういう行為が相手の言う「片想い」だったんだと気付いたときすでに遅しで、なんとかもう二度と会いたくもないのに今日も頑張ってバイトしてきた。人に言葉を送ることそのものが負担になるケースもあるんだと気付いてくれる日がいつか来たらいい。ブロックしたけど。

 

話は戻って機能不全の夫婦の話。

本当はもっと簡単に解決できるようなことでも、コミュニケーション不足でダメになってしまうケースが多すぎる。「察してもらえる」だとか「分かってもらえる」だとかは相手に期待をかけすぎているからやめたほうがいいと思うという一方で、人間たまには褒めてもらえないと生きがいがなくなってしまうというか、褒めてもらえないこの行為に意味なんてあるのだろうか的思考に陥って、作業がおざなりになってくる。

 

いつか父親に「あなたはあまりに自分の妻のことを叱りつけすぎる。褒めもしなければ敬いもしない。家事をやっているのが当たり前だと言って、誰が稼いでやってお前たちを食わしてやってるんだと図に乗りすぎている」という旨意見したときがあって、その翌日からなぜか父親はここ数百年はやってこなかったというような手つきで皿洗いをしていた。

 

父親の態度から滲み出ている「皿洗いをしてあげている」感に腹が立ち、母親も「なんで洗ったものをあそこに置いたままなんだろう」と今更皿洗いをやられても逆に迷惑というか、そこは私のテリトリーだからやらなくていいよという顔をしていたのを思い出す。

圧倒的コミュニケーション不足を感じる光景だった。

 

「いつもご飯作ってくれてありがとう」とかは言えないにしても、「今日のご飯おいしいね」くらいテレビに目を向けながらでもさらっと言ってくれたら勝手に喜べる仕様に女(主語が大きい)は設定されているし、「今日のご飯味薄いな」と言いながらタバスコだの七味だの醤油だのをバカスカかけたゲテモノを食べたその口をぼんやり開きながら皿洗いをされても困るというか、その姿勢は誠実ではないと私は思うのです。

 

具体的な行動で示すよりも、3秒くらいで終わる発話のほうが効果的な場合があって、会話を発端に行動が明示されていけばそれはそれでいいのかもしれないんだけど、先回りして、人間が物理的に楽になる方法といえばコレ!家事!からの皿洗いだったのだろうなと思うと諸々が悲哀に満ち溢れてくる。

 

今期は『逃げるは恥だが役に立つ』をもれなく楽しく見ていたけれども、あのドラマで描かれていない沈黙の部分ってきっとたくさんあるはずなんですよね。ドラマという便宜上みくりと津崎の間にはまあまあ絶え間なく会話があったし会話がないときには非言語のコミュニケーションをしていた。ハグをしたりキスをしたり手を握ったり、その一挙手一投足に視聴者は発狂するわけですが、本音としてはどこか気持ち悪さを拭えないまま最終回を迎えてしまったわけです。

 

津崎が「(我々の関係性やあなた自身の突飛な行動は)最初から普通じゃありませんでしたよ」みたいなことを言うシーンが最終回にあったはずなんですけど、あの「普通じゃない」発言の一方で、視聴者はあのドラマを見ながら共感する部分も結構あったはずで。

 

確かに主婦の行う「家事」というのは仕事なんだから給料を支払ったほうがいいのかもしれない、という気づきを与えてくれただけでなく、必ずしも恋愛の延長線上に結婚があるわけではないというメッセージも示していたように私の目にはうつった(多分)。

 

パートナーが塞ぎ込んでいるときにいかにその檻を外してやれるか、もしくはパートナーを檻から助け出してやれるか、石田ゆり子演じる百合ちゃんが「自分に呪いをかけないで」と言っていたのは、あの女を武器に生きている感じのガールだけでなく、百合ちゃん自身にも、みくりにも津崎にも風見にも、そして視聴者にも向けられていることで、過去に他者から言われた言葉をフラッシュバックするごとに自分で自分の首を絞めるような真似はしないで、自分の価値を勝手に決めつけて生きるようなことはしないで、視野を狭めたまま生きるよりももっと楽ではないかもしれないけどつらくない生き方はあるんだという、あえて「同じ土俵に立たない」ことで無駄に自分を消費しない術を持った生き方もありだし、そうじゃない生き方もありだし、年齢とか立場とか諸々の呪詛に縛られすぎないほうが良い、という、お話。

 

25日空いてるので誰かご飯誘ってください。

 

 

道幅の広い道路


つまるところ、私が文章を書くことの意味というのは、メンタルが過剰に落ちて誰かにぶつけるわけでもない感情を文章化して、自分の落ち着かない精神を見てみぬふりしてどうにか宥めすかして日々を過ごすための手段なわけです。

だから、過剰に精神が安定して幸せ状態に陥ってしまうと、途端に書くことがなくなってしまう。文章を書くのは好きだけど、書くためのエネルギーとして、一言であらわすのであれば「不幸」が私には必要なわけです。

小説家になりたかったり作詞家になりたかったり、文筆業を生業としたい時期が少なからずあったけど、自分の不幸を糧に生計を立てるのは、到底無理なことだと思った。ましてや自分が書きたくないこと、感情の赴くまま書けない仕事、ルールがたくさんあって、それにがんじがらめになってしまうくらいなら、いっそ仕事になんかしたくないと思った。

他人がつまらないことを愚痴ってたり文句言ってたりするのを目にすると、不快になる人もいれば、他人の不幸は蜜の味と口角をあげる人もいるんだろうと思う。
けど、愚痴や文句や悩みや悲しみを文章に書くことで他人を悲しませようとかイライラさせようなんて意図で何かを書いてる人なんて、少なくとも私の周りにはいない。
書くことでのストレス発散というか、吐き出すことでどうにか現実と折り合いをつけている、ある種の儀式のような気がしている。

 *

別に取り立てて悲しいことがあったわけじゃないのに、いろんなことが積み重なって、それがもう限界に来て思わず駅前の本屋で泣いてしまった。バイト終わり、やっと解放されたという気持ちで銀行を巡って記帳をし、来年の手帳はハイタイドがペイジェムかやっぱり高橋がいいのかなんて考えながらロフトを何周もして、地元の駅前の本屋でも手帳を見てたら、iPodから入野自由の『それが大事』のカバー(J.C.STAFFオオカミさんと七人の仲間たち』の何らかの企画だったように記憶している)が流れてきて涙がドバドバ出てきた。

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アニメ自体は見てなかったけど、重度の声オタだった2007年~2013年あたりの中高生だった私は、この曲を聞いて、本当に愕然とした。

昭和歌謡や平成でも昔の曲を好む傾向があったものの、アニソンで声優がカバー曲を歌うというのは、『そらのおとしもの』や『デュラララ!!』、『夏のあらし』の企画で、ちょうど2010年くらいに結構盛んになっていたんじゃないかなあ。
そういう企画が生まれてくる理由は、製作者の年齢がそういう曲を聞いてきた世代、CD世代になってきた証拠なんだと思う。

それで話を戻すと、『それが大事』の何に愕然としたかというと、歌詞が最初から最後まで素晴らしいなということでした。
今日本屋で号泣した私はこの歌詞を聞くことでやっと、自分は少し疲れちゃって今これ以上忙しく動くことは無理なんだなと自覚したのでした。


 負けないこと 投げ出さないこと 逃げ出さないこと 信じ抜くこと
ダメになりそうなとき それが一番大事

負けないこと 投げ出さないこと 逃げ出さないこと 信じ抜くこと
涙見せてもいいよ それを忘れなければ Oh Oh Oh…

高価な墓石を立てるより安くても生きてる方が素晴らしい
ここにいるだけで 傷ついてる人はいるけど
さんざんわがまま言ったあと あなたへの想いは変わらないけど
見えてる優しさに時折負けそうになる*1

 


前回のエントリ(古い女 - 未明にかけて)は要約すると「友達からのLINEの返信が来なくてつらい」という話だったんだけど、今回もその延長線上で、既読になったまま返信をしない時間をゆっくりゆっくり延ばして、返信のスパンを開けることで距離をとって優しいお別れをしようとしてくる人たちの、見え隠れする配慮に私はどうしても耐えられなくて、今みたいに頻繁に会える仲じゃなくても一年に一回くらいは一緒にご飯を食べる関係でいてよ、みたいなそういう駄々っ子みたいなワガママなわけですね。


高価なニットをあげるより 下手でも手で編んだ方が美しい
ここにないものを信じれるかどうかにある
今は遠くに離れてる それでも生きていればいつかは逢える
でも傷つかぬように嘘は繰り返される

ここにあなたがいないのが切ないのじゃなくて
ここにあなたがいないと思うことが切ない*2

 
つまりこれって愛情の話じゃないですか。
段々と距離を置かれてなかなか会えなくなってしまう関係性でもいつかまた会えばいつも通りに話せたらそれがベストだけど、でも中には本当はその裏にぎこちなさがあるのに、薄情なまでの優しさをもってして接してくれる人もいて。
お情けで会ってくれてることなんて分かりきっているのに、次また同じように会える保証なんて全然ないのに、こうやって人と会ってる時間は私は好きだなと痛感しながら時間を消費してる。
それが死ぬほど好きな人だった場合、なんとか繋ぎとめることができた関係性を喜ぶと同時に、どうしても自分からじゃ埋められない溝があって、そういうことを考えるとめちゃくちゃに泣けてきちゃうのでした。

 

 

 
小学生のときからケータイを持っている前略プロフィールmixi世代としては、いかにアドレス帳に友達のアドレスが登録されているか、マイミクがどれだけ多いかっていう目に見えやすい「数」でもって友達の多さや交友関係の広さを見せつけていたわけだけど、結局その中で大事な人なんてものは片手で数えるくらいしかいない。

この前『闇金ウシジマくん』の映画を見て、「俺の強みはケータイ3台に登録された3000件のアドレス、人脈、ネットワーク!」みたいなことを言ってる小川純くんという男の子がいたけど、純くんが借金を返済できなくなって殺されかけてるときでも、お金を貸してくれる人なんて誰一人としていなかった。

昔からマイミクが多い人とかアドレス帳に何百件も登録してあるんだと~とマウンティングしてくる人のことを馬鹿にしてた。どうせそのうちの8割はほとんど連絡を取らない相手なだけだろう、スタンプラリー形式で集めただけの他人のアドレスなんか持ってるだけで連絡を取り合わなきゃ意味なんてないだろと思ってた。

でも、今の私が考えていることは、本当に人に縋るようなことであって、「疎遠になった人とでも、いつでも連絡を取れる状態を保つ」ことで、自分が安心したいだけなんだと思う。
自分からLINEのアカウントやメールアドレスを削除しなければ、ツイッターFacebookでブロックしたりされたりしなければ、簡単に保つことができる。返信が来なくても相手に届くことに意味がある。
今じゃ連絡先が分からなくてもインターネット上で検索をかければ芋づる式で相手を見つけることができるから、大して苦労もしないで数年間会ってない人が知らない誰かと結婚したなんていう情報を得ることができる。

その便利さに甘えて、LINEで繋がってるから、ツイッターで繋がってるから、これまでの関係をなかったことにはされてない、って安心することができる。繋がってる気になって勝手に安心することができる。
その小さなあたたかみだけはどうか奪わないでほしい。

別に人は人の過去を消すことはできないわけだし、なかったことにするのもされるのも個々人の勝手だけど、確かにあなたと私は一回おしゃべりしたことあるんだよね、っていう確認を自分自身でしたいがための繋ぎ止めであることも分かってる。

そんな安易なもので、繋がった気になってるくらい、許してほしいと思ってしまう。


 *

人とお別れするのがさびしい。
私の不用意な一言でもう二度と会えなくなってしまうことが本当につらい。
そんなこと全部忘れたみたいな顔で無理して会ってほしいわけじゃないけど、まだうまく水に流すことはできないけど、たまには一緒にお茶しようよ、っていうくらいでいいから、私から離れていかないでほしい。

もしツイッターがサービスを終了して、次のSNSに移行したときに、今のフォロワーとどれくらい仲良くできてるだろうか。ただでさえ嫌われることが多いから知らない人にブロックされてることもあるのに、そう思うとひどくさみしくなってしまう。

友達に「あなたは、先のことを考えすぎて目の前の小石に気づかないで転ぶタイプ」と言われたことがあるけど、その通りで、今からそんな未来の心配をしたって、ほとんどのことは杞憂に終わるんだと思う。

「5年後、10年後も同じことで悩んでると思う?思わないでしょ」と大事な人に言われたことも思い出す。悩みや心配事がどんどん変化していくから、そんなに気にせずともなるようになる、なるようにしかならない。

このまえ会社の同期が「(この先のことは)なるようにしかならない、かも?」と言っていたことも、なんかすごくハッとさせられた。すごく良いなと思った。なるようにしかならないけど、ときどき予想外の出来事にもエンカウントするという感じの文脈で言っていたけど、やたらにポジティブで印象的だった。

人間関係もなるようにしかならないのかもしれない。
それでも自分の行動でどうにか修復することもある程度はできるんだと思う。
鬱陶しがられても「あなたに会いたい」と伝えることに意味があって、会いに行くために時間をかけることに意味があって、人と会うためのおしゃれや武装もちゃんと意味があって、それでも終わってしまったものなら仕方ない。いつかその終わりが意味を帯びるときがきっと来るんだと思う。生きていればいつかは逢える。

 *

先の入野自由の『それが大事』を聞きながら国道を自転車で走った。お客のいない花屋を見てまた泣いた。花を買って部屋に飾ればこの悲しみも少しは楽になるんじゃないかなと思ったけど買わなかった。泣きながら花を選んでる自分を想像したらすごく馬鹿げていた。
駐輪場のおっちゃんにも「どうしたどうした」という目で見られたし、もうそれだけで十分だった。
泣いても泣いても涙が止まらないので、ひたすらに自転車を漕いだ。
私は道幅の広い道路が好きだ。包まれてるみたいですごく安心する。
広くて大きいところ、品川~大崎あたりの車道とか、北海道の車道とかも好き。(北海道の広い道幅は、雪を一時的にも堆積させるためのスペースだって知恵袋に書いてあって感心した。)
夜の住宅街を号泣しながら走っても、ただ涼しい風が頬を撫でるだけなのに心が落ち着く。
背中に背負った重荷をどんどん捨ててもいつかは溶けて許されるような気がする。
涙で湿って重くなった心も風にあたることで乾いて少しだけ軽くなる。
だから道幅の広い道路を走ると、誰かに抱きしめてもらってるみたいで安心する。

今は遠くに離れてる それでも生きていればいつかは逢える。

*1:大事MANブラザーズオーケストラ それが大事 ~完全版~ 歌詞

 http://j-lyric.net/artist/a051dff/l01b1b1.html

*2:大事MANブラザーズオーケストラ それが大事 ~完全版~ 歌詞
http://j-lyric.net/artist/a051dff/l01b1b1.html

古い女

言い訳を探してる。誰かの言葉で、誰かの責任にできるように、先回りして予測して、もしこんなことを言われたら、どんなふうに答えれば逃げられるかを考えながら生きてる。
自分の言葉を探しもせずに原因も結果も全て周囲に求めてる。
「必然的にこうなってしまったんです、だから私は悪くないんです」と言って許されたいだけ。面と向かって許してもらえれば、面と向かって教育してくれなかったことを、私は許せますよと、交換条件を示してる。

どんなに失敗しても笑顔で踊ってるだけで「まあいいか」と許される人を心底うらやましいと思ってる。笑ってるだけで隣にいる誰かに手を握られて「大丈夫だよ」と言われているような気がする。本人もそれでいいと思ってるように見える。なめやがって。

努力してもしてもしてもしても誰かに見てもらえなければ、それは、何か、成果として、評価としてなかったことにされてしまう。
評価してもらえるよう誰かに見てもらえるための努力が、メインの努力とは別のところで生まれている。もとから、何の努力もせず人を寄せ付ける、友達ができやすいような人は、そんな苦労もしないのだろうなと僻んでしまうときもある。

高校生のときはあんなに人目を気にして、些細なことで傷ついていた。
スクールカースト上位層にいるような、朝から化粧をしてコテで前髪を巻いてケープでかためて体育のときもAKBばりに可愛い顔してドジをやってるやつのことが死ぬほど大嫌いだった。お前はアイドルではないし、女を振りかざして、若くして自分を消費して、どうせ30歳かそこらで枯れて終わるくせに。私はこれから自分の消費をはじめるから、お前よりも長く、魅力を保ってられると、なぜか張り合っていた。意味がない。

高校を卒業して、大学にもほぼ行っていない今、人と繋がる手段がLINEしかないような気がしている。アルバイトの人としょうもない話をする時間がこれほど楽しい時間だなんて思う日が来るなんて思ってなかった。

友人・知人からの返信が来ないだけで、ひどく不安になる。
もう潮時なのか、もしかして傷つけることを言ってしまったか、他の人のほうが仲良く上手くやれるのか、自分からもう一度何か発言してみようか、脈絡もなく食事に誘ってみようか、今度返信が来たら大胆なことを言ってやってせめてもう少しだけ興味を引くような発言をしてなんとか繋ぎとめられないか。

どうせ後にも先にも縁が切れる関係性にしても、もう少し明確な、喧嘩をしたとか新しい恋人ができたとか、引越しをするとか結婚をするとか就職をして忙しいとか、そういう明確な理由があれば、諦めがつくような気がしていた。

でも実際、縁が切れることの理由っていうものは、言葉にできない、はたから見ればつまらなくて、どうでもいい曖昧で些細なことなんだろうと思う。

原因も結果も、誰に説明するわけでもないのに、確かに言葉にできないと不安になってしまう自分がいる。
「テストの結果が芳しくないのは、風邪をひいていたからなんです」という台詞みたいに、「この人と縁が切れてしまったのは、最近仲良くできていないのは、喧嘩をしてしまったからなんです」と言えないと、言えないと不安になるのはただの自分だけなのに。

自分を納得させるためにごまかしの言葉を必要としている。

自分自身を宥めすかすこともできないくせに、偉そうにツイッターで誰かのことを罵っているのがばかげていて、弱くて脆くてどうしようもないくらい退屈な人間が必死に取り繕っている様が滑稽で仕方がない。

私は何も悪くない。私は何も悪くない。私は

今まで必死に頑張ってきた。小学生のときから、少なくとも高校生くらいのときは「お前なんか死んでしまえばいいのに」という言葉をこらえて人間のふりをして生きてきたよ。

おとなしくて真面目で、本が好きでバレエをずっと続けててテストのときは可もなく不可もなく点数が取れて、仲の良い友達だっていないわけじゃない、ときどいきは休みの日に外食に行ったりする。声優の聞き分けが得意だししラジオが好きだけど最近の話題についていけないわけでもない。自分の好き嫌いにかかわらず目に入ってくる流行のものは概要以上に中身を知ってる。話題に困らないように。ときに「名前は知ってるけど詳しくは知らないんだよ」と相手が喜ぶような話の運びに持っていったりもする。

私の何を知ってるんだ。何も知らないくせに好き勝手なことを言うな。うるさい。

久しぶりにこういうわがままな気持ちになって、なんて子どもみたいなんだと思いながらも自分の感情に全くといっていいほどブレーキがかからない。何クソ、何クソ、とハンドルを叩いても現状は何も変わらなかった。

誰かに自分の努力を気づいてほしいと思いながら、誰かに許されたいと祈っては、お前なんか死んでしまえと心の中で罵って、何も知らないくせに適当なこと言うんじゃないと怒る。

思い通りにいかなければ喚き散らして、しかもいつも自分のことしか考えてない。

私はこういうふうな人間なんですとオープンになれるのはインターネットだけ。自分のことをちゃんと話せる友人なんて手で数えるくらいしかいない。その数人いるだけで幸せだっていうことは分かってる。見てくれている人は見てくれている、その程度で私はちょうどいいんだと思ってる。周りのみんなが注目する中、プレッシャーに耐えられるほど私の精神は強くないから。

乗る電車を間違えたとか、隣に座った人がめちゃくちゃ迷惑だったとか、バレエのレッスンが散々だったとか、目に映るいろんな景色のほとんどがイライラに変わってしまう今の精神状態を本当にどうにかしたい。

何でも「この経験は何かの糧になるよ」「きっとなんとかなるよ」と根拠もなくポジティブな人間をめった刺しにして、逆手に持ったナイフでぐちゃぐちゃにしてしまったものを掃除しなくてはならない気がする。

人と会って回復したい。